home > 通信 >『アセンション館通信』第783号:意識はいわゆる誕生だ



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/04/21(第783号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あなたがしなければならないことは、
 真我でない他のものごとに注意をはらうのをやめることだけだ。
 もしそれらに気づくのをやめれば、純粋な覚醒だけが残る。
 それが真我である。(『あるがままに』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在816名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.意識はいわゆる誕生だ

2.いただいたお手紙から:Icollectionさん

3.編集後記
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■ 1.意識はいわゆる誕生だ
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庭の前方左側に見えている桜は今が満開です。

正面のピンクの花桃はしばらく盛りだし、

正面のミヤマツヅジが開花しはじめ、

庭の下の方の白い桃の花も咲き残っているので、

眼前の庭は今がいちばん賑やかです。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

感動がエネルギー現象であるように、

意味や無意味、

あるいは幸福や不幸と言ったものも

エネルギー現象なのでしょう。

エネルギーが溢れれば発現し、

エネルギーが退潮すれば自然に消えていく。

ことさら意味を求めたり、

その裏返しとして無意味を嘆いたり、

あるいは幸福になったり不幸になったりする

余剰エネルギーが消失してしまえば、

意識表面の波立ちは穏やかになるのかもしれません。

思えばこれまでの生涯、

ずいぶん思考を大切にしてきました。

思考も意識のフォーカスを占領しつくし、

思いつくかぎりの大見得を切りまくったはずです。

やりたい放題の草刈場だったでしょうから、

やりたいことは充分にやらせてもらって、

積んでいたエネルギーはだいたい放出したのかもしれません。

このところあまり新しいネタを造るだけの

エネルギーを補充してもらえていないのか、

何がどうということもないですが、

気楽なようなゼンマイが緩んだような感じはあります。

単なる肉体年齢の問題かもしれませんが。

とはいえ、

いつも充分に思考に注目はしているので、

なにか面白い発見でもあれば

いつ言ってくれてもいいのですが、

どうもそれだけの芸熱心が残っていそうもない。

思考が思考を見かぎりはじめたような

そんなことが起こっているのかもしれません。

なんだか、

いちばんいいものは

思考が捏造できるもののなかにはないこと、

思考のパフォーマンスの範囲内にはないことが

いつの間にか自明になっているのかもしれません。

思考はそんなことを知りたくもないでしょうが、

まるで盛りを過ぎた芸人が、

どんなに思いつくかぎりの芸を振り絞っても、

本当はもう客にウケていないことが

わかってしまうようなものかもしれません。

舞台に出ている思考自体にもう迫力がない。

芸人の“芸”の範囲が

当の芸人に明らかになるにつれて、

それが自然に観客にも伝わってしまうように、

思考の“芸”の範囲が

思考自体に明らかになるにつれて、

それが自然に劇の中にも滲み出しているのでしょう。

思考中毒の歴も長いので、

思考が見せてくれるものへの

期待がないわけではないのだけれど、

でも同時に、

思考が提供してくれそうな情報に

もう本当に期待するようなことは起こりません。

他者というものが本当に存在するわけではなく、

それは単に顕現宇宙の別の自分の演技にすぎないことが

自明になりつつあるのでしょうか。

思考が展開する論理のすべては

「私は在る」(=存在感)を物種として……、

(1)現象内の肉体に“自分”を想定し、再確認する

(2)“自分”の存在から“他者”の存在を演繹する

(3)物理的実体イメージを想像して現実化する

(4)捏造された実体間の関連性を拡大展開しまた捨象する

(5)それらの実体間で好き放題に責任転嫁する

こんな一連の操作を反復・強化しているにすぎません。

この一連の思考プロセスの堂々巡りは、

現象内の「個人」存在が信じられているかぎり

破綻することはありません。

しかし、

無生命の物理過程(【見かけ】)から

それを見ている者が誕生することはありえない。

(わたしは以前そのことを、

 【意識は誕生できない】という言葉で

 表現していました。)

論理的にありうる可能性は、

【見かけ】とは<意識>が見ている夢だ

ということでしょう。

ところが今回写経する部分でマハラジは

さらなる深層に言及しているようです。

マハラジは

【意識はいわゆる誕生だ】

と言います。

いわゆる誕生とはじつは「意識」の誕生のことだと。

不思議な運命と恩寵の指図のもとに、

この目覚めの夢の中にまで聞こえてきた

マハラジ最晩年の言葉を

写経させていただきます。

今回は

「一九八〇年九月二一日」の対話から

写経いたします。

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 一九八〇年九月二一日

 マハラジ
 人がするすべてのことは意識の継続のためだ。
 しかし、
 私にとっては継続したいことはまったく何もない。
 
 あなたは個人として、
 私から何かが得られると期待してここに来ているが、
 そこに間違いがある。
 個人はまったく存在していない。
 だから、
 どうして存在していない個人に
 私が何かをしてあげることができるだろうか?
 あなたと私の本質にまったく違いはない。
 この出来事は、
 来てはまた去っていく単なる出来事にすぎない。
 
 もし人が排尿したいと思えば、
 その人はただ排尿しなければならない。
 それは一人ひとりに違いない。
 それは誰にでも起こる過程だ。
 しかし。
 あなたはあらゆることを
 個人としての自分に起こる何かだと考えている。
 
 『意識に先立って』(p119-120)
──────────────────

> マハラジ
> 人がするすべてのことは意識の継続のためだ。

自分を人間だと思っている存在の全努力は

意識を継続させるための努力だ。

(つまり、

 意識を継続させるためには努力が必要なのだと
 
 暗示しているのでしょうか?)

> しかし、
> 私にとっては継続したいことはまったく何もない。

しかし、

「私は在る」の誕生を見届けた私は

私自身が絶対であることを知っている。

その私にとって継続したいことなど何もない。

> あなたは個人として、
> 私から何かが得られると期待してここに来ているが、
> そこに間違いがある。

あなたは自分を個人だと勘違いし、

その個人が私から何かを得られると期待して

ここに来ているが、

その前提は間違っている。

> 個人はまったく存在していない。

現象世界のなかに

個人などという実体はまったく存在していない。

> だから、
> どうして存在していない個人に
> 私が何かをしてあげることができるだろうか?

だから、

現象世界の中では

何かをしてあげられる存在も

何かをしてもらえる存在もいない。

> あなたと私の本質にまったく違いはない。

現象を見ているあなたと

現象を見ている私の本質にまったく違いはない。

それはまったく同じものだ。

> この出来事は、
> 来てはまた去っていく単なる出来事にすぎない。

この現象という見かけの出来事は

来ては去っていく単なる見かけの変化にすぎない。

> もし人が排尿したいと思えば、
> その人はただ排尿しなければならない。
> それは一人ひとりに違いない。
> それは誰にでも起こる過程だ。

見かけの中の誰かが排尿したいと思えば、

その見かけは排尿しなければならず、

それは見かけの中の誰彼の間で違いはなく、

誰にでも起こる過程だ。

> しかし。
> あなたはあらゆることを
> 個人としての自分に起こる何かだと考えている。

にもかかわらず、

あなたは見かけの中で起こる出来事を

個人である自分に起こると誤解しているのだ。
 
──────────────────
 質問者 どうしたら私はマハラジの言うことを
     理解することができますか?
 
 マハラジ
 私の言うことを理解するためには
 識別力が非常に必要だ。
 意識が到着して初めて、
 私たちは自分自身を理解しようとする。
 意識はいわゆる誕生だ。
 誕生は三つの面を意味している。
 目覚めた状態、
 熟睡、
 そして「私は在る」という知識。
 いったん私がこの誕生とは何かを理解したら、
 そのとき謎全体が解消されるのだ。
 この誕生の原理を完全に知れば、
 いわゆる死という出来事も
 非常によくわかるだろうし、
 生命−呼吸、
 言語、
 そして「私は在るという性質」が
 離れていくことも観察することだろう。
 だから、
 死の問題は何もない。
 
 もし私が今ここで、
 私の生命−呼吸が去っていくことを理解したら、
 私はそれを止めることはないし、
 「もう少し待ってくれ」とも言わないことだろう。
 なぜなら私は、
 この生命−呼吸と生命力を引き止めるのは
 無駄だということをよく知っているからだ。
 
 無数の消滅がやって来ては去って行ったが、
 本当の永遠の状態においては、
 私はそれらの影響を受けていない。
 この経験的な状態の前は
 あらゆる面で完全だったが、
 存在性の到着とともに不完全さが始まり、
 私はそれに飽き飽きしている。
 もしあなたが永遠の平和を本当に望むなら、
 他の誰のこともかまわす、
 自分自身の自己に注意を払い、
 それだけを調査しなさい。
 
 誰があなたに永遠の平和を与えるのだろうか?
 それは、
 「私は在る」というあの太陽だけだ。
 もしあの自ら輝く太陽を抱きしめるなら、
 他のあらゆるものがなくなっても、
 あなたは永遠に存続することだろう。
 
 徹底的に調査しなさい。
 どんな権威をもってあなたは
 自分自身を支えることができるのか?
 どの程度あなたは
 自分の人生を延ばすことができるのか?
 存在性は独立したものではなく、
 それは何かに依存していることを
 理解しなければならない。
 調査したとき、
 絶対であるあなたは
 その存在に依存していないという結論に
 到達することだろう。
 
 『意識に先立って』(p120-121)
──────────────────

> 質問者 どうしたら私はマハラジの言うことを
>     理解することができますか?

そのような途方もないお話を聞かされても

私にはとうてい理解できません。

どうすれば私は

あなたのお話を理解できるようになるのでしょうか?

> マハラジ
> 私の言うことを理解するためには
> 識別力が非常に必要だ。

私の言葉を理解するためには

いまこの瞬間に起こっていることを

識別するための識別力が必要だ。

> 意識が到着して初めて、
> 私たちは自分自身を理解しようとする。

私たちが自分自身を理解しようとするのは

意識が到着した後なのだ。

> 意識はいわゆる誕生だ。
> 誕生は三つの面を意味している。
> 目覚めた状態、
> 熟睡、
> そして「私は在る」という知識。

一般に誕生と言われているのは

じつは意識の誕生のことだ。

この意識の誕生には三種類ある。

ひとつは、

目覚めた状態への遷移、

二つ目は、

熟睡状態への遷移、

そして三つ目は、

「私は在る」という知識への遷移だ。

> いったん私がこの誕生とは何かを理解したら、
> そのとき謎全体が解消されるのだ。

ひとたび私がこの誕生が何かを理解したら、

そのとき生命の謎のすべてが解消される。

> この誕生の原理を完全に知れば、
> いわゆる死という出来事も
> 非常によくわかるだろうし、
> 生命−呼吸、
> 言語、
> そして「私は在るという性質」が
> 離れていくことも観察することだろう。
> だから、
> 死の問題は何もない。

この意識の誕生の原理が完全に理解されたら、

いわゆる死という出来事も、

呼吸している生命が何かということも、

言語の秘密も理解されるだろうし、

最後にあなたは、

「私は在るという性質」が脱落していくのを

観察することになるだろう。

そのとき

そこに死という問題が存在しないことが

自明になるだろう。

> もし私が今ここで、
> 私の生命−呼吸が去っていくことを理解したら、
> 私はそれを止めることはないし、
> 「もう少し待ってくれ」とも言わないことだろう。

もし今ここで

私の生命−呼吸が去っていくことがわかったら、

私はそれを引き止めようとも、

引き延ばそうともしないだろう。

> なぜなら私は、
> この生命−呼吸と生命力を引き止めるのは
> 無駄だということをよく知っているからだ。

なぜなら私は、

生命−呼吸をしているのが意識全体であり

それを引き止めたりできる者が

もともと誰も存在しないことをよく知っているからだ。

> 無数の消滅がやって来ては去って行ったが、
> 本当の永遠の状態においては、
> 私はそれらの影響を受けていない。

現象の中では無量無数の消滅が交替したが、

永遠不動の状態としての私には何も起こっていない。

> この経験的な状態の前は
> あらゆる面で完全だったが、
> 存在性の到着とともに不完全さが始まり、
> 私はそれに飽き飽きしている。

この意識の現象側面を経験する以前は

私はあらゆる面で完全だったが、

存在感覚の発現とともに意識が誕生し、

その経験的状態の中で不完全さが始まった。

私はそれに飽き飽きしている。

> もしあなたが永遠の平和を本当に望むなら、
> 他の誰のこともかまわす、
> 自分自身の自己に注意を払い、
> それだけを調査しなさい。

だからもしあなたが

本当に永遠の平和を望んでいるのなら、

この世の誰のこともかまわずに、

自分自身の自己にすべての注意を向けて、

それだけを調査しなさい。

> 誰があなたに永遠の平和を与えるのだろうか?
> それは、
> 「私は在る」というあの太陽だけだ。

あなたに永遠の平和を与えるのは誰だろうか?

それは、

「私は在る」というあの太陽だけだ。

> もしあの自ら輝く太陽を抱きしめるなら、
> 他のあらゆるものがなくなっても、
> あなたは永遠に存続することだろう。

その自ら輝く太陽さえ抱きしめているなら、

他のすべてがなくなっても、

あなたは永遠に存続しているのだ。

> 徹底的に調査しなさい。
> どんな権威をもってあなたは
> 自分自身を支えることができるのか?
> どの程度あなたは
> 自分の人生を延ばすことができるのか?
> 存在性は独立したものではなく、
> それは何かに依存していることを
> 理解しなければならない。

自分がいかなる権威によって

自分自身を支えることができるのか、

どの程度自分の人生を延ばすことができるのか、

徹底的に調査しなさい。

存在の感覚というものが

それ自体独立したものではなく、

その感覚の発現以前から在る何かに依存していることを

あなたは理解することになるだろう。

> 調査したとき、
> 絶対であるあなたは
> その存在に依存していないという結論に
> 到達することだろう。

もしあなたが徹底的に調査したら、

そのときあなたは

自分が意識に先立つ絶対あり、

意識存在に依存していないという結論に

到達することだろう。

──────────────────
 質問者 もしアートマンがサット・チット・アーナンダ
     (存在・意識・至福)だとすれば、
     パラマートマンとは何ですか?
 
 マハラジ
 サット・チット・アーナンダは
 いずれパラマートマンになるのだ。
 サット・チット・アーナンダは
 「私は在るという性質」であり、
 それ自身が至福の状態、
 愛の状態であるが、
 しかし、それは
 意識がそこにあるときだけの経験的な状態だ。
 そして、
 肉体があるかぎり意識はそこにある。
 それは時間に縛られている状態だ。
 あなたはサット・チット・アーナンダの状態を
 超越しなければならない。
 
 質問者 私は存在性の中に安定するべきでしょうか?
     それとも思考といっしょに流れるべきでしょうか?
 
 マハラジ
 もしあなたが存在性の中で動かないでいれば、
 思考はますます少なくなることだろう。
 もしあなたが思考と交われば、
 思考は増えることだろう。
 存在性の中だけになさい。
 
 『意識に先立って』(p121-122)
──────────────────

> 質問者 もしアートマンがサット・チット・アーナンダ
>     (存在・意識・至福)だとすれば、
>     パラマートマンとは何ですか?

古来言い伝えられてきているように

もしアートマン(真我)の本質が

サット・チット・アーナンダ

(存在・意識・至福)であるとするなら、

あなたがおっしゃる

パラマートマン(至高の真我)とは何なのでしょうか?

> マハラジ
> サット・チット・アーナンダは
> いずれパラマートマンになるのだ。

存在・意識・至福が

最終的には至高の真我になるのだ。

> サット・チット・アーナンダは
> 「私は在るという性質」であり、
> それ自身が至福の状態、
> 愛の状態であるが、
> しかし、それは
> 意識がそこにあるときだけの経験的な状態だ。
> そして、
> 肉体があるかぎり意識はそこにある。
> それは時間に縛られている状態だ。
> あなたはサット・チット・アーナンダの状態を
> 超越しなければならない。

存在・意識・至福とは

存在性の本質であり、

それ自体が至福の状態、

愛の状態だが、

それは意識の位相であり経験的な状態だ。

意識とは肉体の存在に依存しており、

時間に拘束されている状態なのだ。

絶対存在としてのあなたは

その意識状態としての

サット・チット・アーナンダの状態を

超越しなければならない。

> 質問者 私は存在性の中に安定するべきでしょうか?
>     それとも思考といっしょに流れるべきでしょうか?

私にはとても

あなたの話を理解できる気がしません。

こんな私でも

存在性の中に安定するべきなのでしょうか?

それとも私などは

思考といっしょに流れるべきなのでしょうか?

> マハラジ
> もしあなたが存在性の中で動かないでいれば、
> 思考はますます少なくなることだろう。
> もしあなたが思考と交われば、
> 思考は増えることだろう。
> 存在性の中だけにいなさい。

もしあなたが存在性の中で

動かないでいるなら、

思考はますます少なくなっていくことだろう。

その反対に、

もしあなたが思考と交われば、

間違いなく思考は増えていくことだろう。

それを思えば比較考量するまでもない。

存在性の中だけにいなさい。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/

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■ 2.いただいたお手紙から:Icollectionさん
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▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

「私は在る」に関するご意見や単なるメールなど、

ご自由にお書きください。


   ………○…………○…………○………

今回、Icollectionさんとおっしゃる方から

はじめてのご投稿をいただきました。

さっそく、ご紹介します。

【件名】:サイトに関して
──────────────────
 いつも楽しく苦しく拝見させて頂いております。
 本当に感謝してます。
 さて、  
 https://www.ascensionkan.com/
 こちら今まで閲覧できてましたが、
 最近このサイトにアクセスできませんが、
 私のパソコンの問題でしょうか?
──────────────────

Icollectionさん、はじめまして。

ご投稿、ありがとうございます。

> いつも楽しく苦しく拝見させて頂いております。

【いつも楽しく苦しく】、

なにやら同病相哀れむといった感じで。(*^_^*)

> 本当に感謝してます。

お役に立っているのなら嬉しいです。

> さて、  
> https://www.ascensionkan.com/
> こちら今まで閲覧できてましたが、
> 最近このサイトにアクセスできませんが、

あ、お気づきでしたか。

> 私のパソコンの問題でしょうか?

いいえ、パソコンのせいではありません。

わたしも先週から気づいていて、

ちょっと関係者に問い合わせたのですが、

このサイトどうやら最近

更新している者が他にいなくなったのか、

利用されなくなったということで

サーバーの利用を停止したそうです。

ここ二十数年来使わせてもらいながら、

わたし自身はサーバー代を払ったことがありません。

ずっと無料で使わせていただいていました。

その時期が来たのでしょう。

これは仕方がないですね。

ちょうど時期が重なりますが、

まぐまぐも無料メルマガのバックナンバーの

掲載停止を連絡してきました。

ひとつの時代が終わったということでしょうね。

情報の何らかの提供形態を

新たに考えたいと思っています。


   ………○…………○…………○………


▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


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■ 3.編集後記:
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こうしてマハラジの写経に戻ってみれば、

とてもかけ離れた世界のようにも思われます。

でも実際は、

たった今この瞬間における

ベクトルの相違にすぎないことも確かです。

誰にも何の免許証も要らないわけです。

事実は、

こうして書いているわたしの本質は真我です。

ならば、

いまこの瞬間に存在性の中に安らぐベクトルを

維持する以外の方針はありえないでしょうね。

今日は明るいうちに終えました。

それではまた。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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