home > 通信 >『アセンション館通信』第788号:在ることはマインドの状態ではない



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/5/26(第788号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
 苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
 れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
 (『ダイレクトパス』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在812名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.在ることはマインドの状態ではない

2.編集後記
──────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.在ることはマインドの状態ではない
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今日は雲ひとつない晴天で、

外に出ましたがとても暑いですね。

外作業は早々に諦めました。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

夢の中の登場人物としては

しなければならないことがたくさんあります。

特に何をする必要もないときですら、

なんとなく落ち着かない。

何かをしなければならないような

気分があります。

でも実際は、

しなければならないことは

何もないわけです。

だって、

もし夢の中で何かができたとしても、

それはすべて存在していないのですから。(^_-)

でも夢の中では

通常こんな理屈はとおりません。

いろいろしなければならないことが

たくさんあって、

いずれにせよそれをしなくてはならない。

ただ、それを自分がやっていると思うのが

つらいところですが。

やることといっても、たいてい

マハラジが語るこんな程度のことです。

──────────────────
 あなたが抱えているすべての問題は、
 あなたの身体の問題――食事、衣服、
 家、友人、名前、名声、安全、生存
 だということがわからないだろうか? 
 これらの問題すべては、
 あなたが単なる身体ではないと悟った瞬間に
 消え去るのだ。
 
 『私は在る』(p23)
──────────────────

まったくですよね。

このマハラジの言葉からもわかるように、

しなければならない様々なことというのは、

差し迫った肉体の生存に関わる事柄以外は、

すべてそれに関連して想像された

見かけ上の様々な現象範囲を焦点とした

抽象概念の維持・保護に関わる心配です。

でもそういう心配、懸念、問題は、

すべて夢の中にしかありません。

少なくとも

赤ん坊として夢の世界に入ってきた当初は

いっさい存在していなかった。

すべて肉体の誕生後に聞かされた話で、

ずいぶん信じ込んでしまったものです。

わたしたちは現象と体験の中で

すっかり溺れてしまったのです。

──────────────────
 あなたはまったく
 想像に夢中にさせられてしまったため、
 どれほど実在から
 遠く離れてさまよい歩いたのかさえ
 わからなくなってしまったのだ。
 
 『私は在る』(p306-307)
──────────────────

では実在とはどういうものなのか?

それはわたしたちの体験、

この現象世界での私たちの体験と

何かの関係があるのでしょうか?

──────────────────
 実在は体験の根底そのものなのだ。
 実在は体験の本質のなかにではなく、
 体験の事実のなかにある。
 体験は、
 つまりマインドの状態なのだ。
 一方、
 在ることは明らかにマインドの状態ではない。
 
 『私は在る』(p124)
──────────────────

> 実在は体験の根底そのものなのだ。
> 実在は体験の本質のなかにではなく、
> 体験の事実のなかにある。

つまり、

実在とは

私たちが体験できるということのなかに

明示されていると言うのです。

私たちが実在を体験できる

というのではないわけです。

> 体験は、
> つまりマインドの状態なのだ。

体験とは、

体験される表現媒体(=物質)の状態だと。

> 一方、
> 在ることは明らかにマインドの状態ではない。

しかし「在る」ということは

それが体験を可能にしていても、

それ自体は表現媒体(=物質)の状態ではない。

非常に明確ですね。

しかし、

このマハラジの言葉を引き出した質問者は

この言葉でかえって混乱したようです。

その混乱がまた明確な言葉を引き出します。

──────────────────
 質問者 またもや私は混乱しています! 
     在ることは知ることから分離しているの
     でしょうか?
 
 マハラジ
 分離は見かけだけだ。
 夢が夢見る人から離れてはいないように、
 知ることも在ることから離れてはいない。
 夢は夢見る人であり、知識は知る人なのだ。
 区別は単に言葉の上にあるだけだ。
 
 質問者 
 私には今、サット(存在)とチット(意識)がひとつ
 だとわかります。しかし、アーナンダ(至福)はどう
 でしょうか? 存在と意識はつねに一緒です。
 しかし、至福はごくまれに、瞬間ひらめくだけです。
 
 マハラジ
 存在の静かな状態が至福なのだ。
 乱された状態が世界として現れる。
 非二元性のなかには至福がある。
 二元性のなかには体験がある。
 来ては去っていくのは苦痛と快楽の二元性の体験だ。
 至福とは知られるものではない。
 人はつねに至福なのだ。
 しかし、けっして至福に満ちているのではない。
 至福とはひとつの属性ではないのだ。
 
 『私は在る』(p124)
──────────────────

> 質問者 またもや私は混乱しています! 
>     在ることは知ることから分離しているの
>     でしょうか?

「在る」と「知る」は別のことなのか、と。

> マハラジ
> 分離は見かけだけだ。

言語表現の見かけが異なるだけだ。

> 夢が夢見る人から離れてはいないように、
> 知ることも在ることから離れてはいない。

夢見る人から分離した夢がありえないように、

「存在」から分離した「知ること」もありえない。

> 夢は夢見る人であり、知識は知る人なのだ。
> 区別は単に言葉の上にあるだけだ。

「夢」と「夢見る人」は同じものであり。

「知識」と「知る人」も同じものだ。

> 質問者 
> 私には今、サット(存在)とチット(意識)がひとつ
> だとわかります。しかし、アーナンダ(至福)はどう
> でしょうか? 存在と意識はつねに一緒です。
> しかし、至福はごくまれに、瞬間ひらめくだけです。

「在る」と「知る」がひとつだとわかりました。

しかし私の場合、

「在る」と「知る」は常にあるのに、

至福が常にあるとは言えないのです。

マハラジの口から語られた言葉は素晴らしい。

> マハラジ
> 存在の静かな状態が至福なのだ。
> 乱された状態が世界として現れる。

「在る」が静かにある状態が至福だ。

「在る」が乱されてある状態が世界だ。

なんと明確な。

そして次の言葉もまた明確。

> 非二元性のなかには至福がある。
> 二元性のなかには体験がある。

二元性という分離がない状態が至福だ。

二元性という分離がある状態が体験だ。

> 来ては去っていくのは苦痛と快楽の二元性の体験だ。

現象として体験されるものはすべて

苦痛と快楽の二元性の体験だ。

> 至福とは知られるものではない。

至福とは「在る」が静かにある状態であって、

体験される対象ではない。

> 人はつねに至福なのだ。
> しかし、けっして至福に満ちているのではない。
> 至福とはひとつの属性ではないのだ。

あなたである「在る」はつねに至福だ。

それはけっして

至福という対象物で満たされているのではない。

至福とは体験される対象物の属性ではないからだ。

すでに明確になっていたはずのことが、

いやが上にも明確になってきます。

しばらくぶりに、

運命である恩寵の指図のもとに、

マハラジ最晩年の言葉を写経させていただきます。

今回は

「一九八一年一月二七日」の対話から

写経いたします。

この時期、

pariパターンはボンベイにいたかも。

タイの僧院にいた方が

pariに代わって質問してくれました。

──────────────────
 一九八一年一月二七日
 
 マハラジ
 あなたはどこから来て、
 誰がここへ導いたのかね?
 
 質問者 
 私はタイの僧院で勉強していて、そこの僧院長が
 マハラジの教えの本を読むように提案してくれました。
 私がインドに行こうと決心したとき、マハラジに会った
 ことがある友人たちがここを教えてくれました。
 
 マハラジ
 あなたは何か質問があるかね?
 
 質問者 マハラジが推薦する修行方法とは何かを
     説明していただけないでしょうか?
 
 マハラジ
 従うべきどんな修行も規律もない。
 ただ私の言うことを聞いて、
 確固たる信念を持って受け入れなさい。
 
 質問者 瞑想の重要性についてはどうでしょうか ?
 
 マハラジ
 すべての人がもっている唯一のものは
 自分が存在しているという信念、
 つまり意識的な存在だけだ。
 瞑想はただその存在の感覚に対してであり、
 他にはない。
 
 『意識に先立って』(p230)
──────────────────

改めてヒットした言葉だけを引用します。

> 従うべきどんな修行も規律もない。
> ただ私の言うことを聞いて、
> 確固たる信念を持って受け入れなさい。

このマハラジの流儀は

改めてありがたいですね。

> 質問者 瞑想の重要性についてはどうでしょうか ?
> 
> マハラジ
> すべての人がもっている唯一のものは
> 自分が存在しているという信念、
> つまり意識的な存在だけだ。
> 瞑想はただその存在の感覚に対してであり、
> 他にはない。

万人が持っている唯一の財産は

【自分が存在しているという信念】だけ、

その意識的な存在だけだ。

──────────────────
 質問者 瞑想の間、人はただ座って
     自分の存在について考えます。
 
 マハラジ
 個人的にではなく、
 言葉にできない存在感で座るのだ。
 あなたがここに座っていることを
 知っているものについて瞑想しなさい。
 自分の肉体がここにあるという感覚は
 肉体との一体化だが、
 この肉体が
 ここに座っていることを知っているものは
 絶対の表現なのだ。 
 
 質問者 
 このことはマインドを通じて知られるのでしょうか?
 
 マハラジ
 マインドは物質の特性だ。
 あなたは物質ではなく、
 物質を理解するものなのだ。
 この存在感が、
 理解する必要があるどんなことでも
 説明してくれることだろう。
 あなたの努力はそれを説明してくれないが、
 あなたがこの存在感と一つになるなら、
 それが説明してくれることだろう。
 
 『意識に先立って』(p231)
──────────────────

> 個人的にではなく、
> 言葉にできない存在感で座るのだ。

自分が瞑想しているというつもりで座るのではなく、

存在感として座りなさい。

> あなたがここに座っていることを
> 知っているものについて瞑想しなさい。

自分がここに座っていることを知っているもの、

そのものに注意を向けるといい。

> 自分の肉体がここにあるという感覚は
> 肉体との一体化だが、
> この肉体が
> ここに座っていることを知っているものは
> 絶対の表現なのだ。 

自分という肉体がここにあるという感覚は

肉体に同一化することだが、

この肉体がここに座っているのを知っているのは、

絶対の表現だ。

> 質問者 
> このことはマインドを通じて知られるのでしょうか?

それはマインドによって知られるのですか?

> マハラジ
> マインドは物質の特性だ。

マインドというのは物質だ。

> あなたは物質ではなく、
> 物質を理解するものなのだ。

あなたは物質ではない。

あなたは物質を理解するものだ。

> この存在感が、
> 理解する必要があるどんなことでも
> 説明してくれることだろう。

この存在感があなただ。

あなたがこの存在感と親しむなら、

この存在感自体が

理解する必要があるどんなことでも

説明してくれることだろう。

> あなたの努力はそれを説明してくれないが、
> あなたがこの存在感と一つになるなら、
> それが説明してくれることだろう。

あなたが現象の側面で努力しても

そこでかき集められた想念は

それを説明してくれないことだろう。

あなたが存在感と一つになれば、

その存在感が説明してくれるのだ。

──────────────────
 質問者 
 私がするすべての活動において、
 私はこの存在感を一日中発展させるべきですか?
 
 マハラジ
 あなたはこれに集中する必要はない。
 それはいつもそこにある。
 あなたがすることは何であれ、
 その本質は肉体−マインドだ。
 肉体−マインドにその仕事をさせなさい。
 しかし、
 その仕事をやっているのは
 あなたではないことを理解しなさい。
 あなたは存在の感覚だ。
 あなたが肉体的な
 あるいは知的などんな努力をしようとも、
 それは本質的に肉体−マインドの努力だ。
 あなたがするべきことは何もない。
 自分は肉体とマインドから完全に離れている
 というあなたの信念があれば、
 何が起こるにしろ、
 それは自然に起こる。
 
 質問者 それは簡単に聞こえますが、
     でもとても難しいに違いありません。
 
 マハラジ
 簡単とか難しいとか考えることなく、
 あなたはその存在の感覚であり、
 肉体−マインドではないという
 この一つの信念にしがみつきなさい。
 あなたであるものは何の形も色もない。
 
 『意識に先立って』(p231-232)
──────────────────

> 質問者 
> 私がするすべての活動において、
> 私はこの存在感を一日中発展させるべきですか?

私はその存在感を発展させるべく

あらゆる活動において努力すべきでしょうか?

> マハラジ
> あなたはこれに集中する必要はない。
> それはいつもそこにある。

いや、

あなたはそれに集中する必要はない。

存在感はいつもそこにあるからだ。

> あなたがすることは何であれ、
> その本質は肉体−マインドだ。

あなたが「する」ことはすべて

本質的に肉体−マインドのものだ。

> 肉体−マインドにその仕事をさせなさい。

あなたの行為に関しては、

すべて肉体−マインドに任せなさい。

> しかし、
> その仕事をやっているのは
> あなたではないことを理解しなさい。

ただ、

それをしているのは

物質である肉体−マインドであって、

自分ではないことを理解していなさい。

> あなたは存在の感覚だ。

あなたとは

それらの体験すべてを可能にしている

存在の感覚だ。

> あなたが肉体的な
> あるいは知的などんな努力をしようとも、
> それは本質的に肉体−マインドの努力だ。

あなたは自分が肉体的あるいは知的な

努力をしていると思っているかもしれない。

だがそのような努力はすべて、

実際は物質である肉体−マインドの努力なのだ。

それらの体験を可能にしている

存在感であるあなたの仕事ではない。

> あなたがするべきことは何もない。

存在感であるあなたがするべきことは何もない。

体験があるところ存在感はつねにある。

> 自分は肉体とマインドから完全に離れている
> というあなたの信念があれば、
> 何が起こるにしろ、
> それは自然に起こる。

自分は肉体とマインドから完全に離れている

といつも知っていなさい。

その信念があれば

何であれ起こるべきことは自然に起こる。

> 質問者 それは簡単に聞こえますが、
>     でもとても難しいに違いありません。

言葉だけ伺えば簡単なようですが、

私にはとても難しいことに聞こえます。

> マハラジ
> 簡単とか難しいとか考えることなく、
> あなたはその存在の感覚であり、
> 肉体−マインドではないという
> この一つの信念にしがみつきなさい。
> あなたであるものは何の形も色もない。

簡単とか難しいとか考える必要はない。

あなたが自分の存在を否定しない以上、

あなたがその存在の感覚であるのは事実なのだから、

その意識的存在だという事実だけを守って、

自分は表現媒体の肉体−マインドではないという

一つの信念にしがみつきなさい。

存在感であるあなたには

もともと何の形も色もないのだ。

──────────────────
 質問者 肉体と思考がなくなったあとでも、
     その存在感は続きますか?
 
 マハラジ
 肉体が去るときその存在感もなくなり、
 意識はもはや
 それ自体を意識しなくなることだろう。
 
 質問者 肉体が去るときには、
     あらゆるものが去るのですか?
 
 マハラジ
 そのとおりだ。
 幸福や不幸の経験も去り、
 一切の経験が無用となる。 
 
  質問者 継続するものは何もないのですか? 何も?
 
 マハラジ
 あなたは概念的なレベルで考えている。
 そのレベルで知りたがっているのは誰か?
 その状態を忘れなさい。
 
 質問者 私はそれを理解したいのです。
 
 マハラジ
 理解されたり、
 認識されたりすることは何であれ、
 永遠の真理ではありえない。
 未知なるものが真理だ。
 
 私にはどんな経験も不要だ。
 それゆえ、
 誰ともケンカをする必要もない。
 肉体とマインドが自然に続く間、
 それは好きなことを何でもやり続けることだろう。
 
 『意識に先立って』(p232-233)
──────────────────

> 質問者 肉体と思考がなくなったあとでも、
>     その存在感は続きますか?

この肉体が死んでからも

その存在感は続くのでしょうか?

> マハラジ
> 肉体が去るときその存在感もなくなり、
> 意識はもはや
> それ自体を意識しなくなることだろう。

肉体の崩壊にともなって存在感は消失し、

意識がそれ自体を意識することも消える。

> 質問者 肉体が去るときには、
>     あらゆるものが去るのですか?

ということは、

肉体が去るとすべてが消え去るのでしょうか?

> マハラジ
> そのとおりだ。
> 幸福や不幸の経験も去り、
> 一切の経験が無用となる。 

そうだ。

幸福とか不幸とかの経験も去り、

いっさいの経験が用済みとなる。

>  質問者 継続するものは何もないのですか? 何も?

ということは、

継続するものは何もないのですか? まるで何も?

> マハラジ
> あなたは概念的なレベルで考えている。

あなたにその心配をさせているのは概念だ。

つまり、

その心配をしているのは概念なのだ。

心配とは観念だということだ。

> そのレベルで知りたがっているのは誰か?

誰がそれを知りたがっているのか?

> その状態を忘れなさい。

そういう概念については忘れなさい。

> 質問者 私はそれを理解したいのです。

でも、私はそれを理解したいのです。

> マハラジ
> 理解されたり、
> 認識されたりすることは何であれ、
> 永遠の真理ではありえない。

理解できたり、

認識できたりすることはすべて忘れなさい。

そういうものは意識の既知の中にあり

永遠の真理ではありえない。

> 未知なるものが真理だ。

真理とは未知なるもののことだ。

> 私にはどんな経験も不要だ。
> それゆえ、
> 誰ともケンカをする必要もない。
> 肉体とマインドが自然に続く間、
> それは好きなことを何でもやり続けることだろう。

私はいかなる理解も必要ないため、

どんな経験も不要だ。

それゆえ、

既知なる知識を標榜する誰かと争う必要もない。

そういうことはすべて、

肉体とマインドが続くあいだ展開される

夢の中の風景にすぎない。

──────────────────
 質問者 あることより別のことをやるほうが
     いい場合もありますか? 例えば、この
     マインドと肉体をもって、私はただ座って
     何もしないでいることもできるでしょう。
     あるいは、外を歩き回って人々を助ける
     といった善行をすることもできます。
     どちらをやった方がいいのでしょうか?
 
 マハラジ
 肉体とマインドは何であれ、
 その組み合わせにとって自然なことをやるだろう。
 
 質問者 人は物事をコントロールできます。
     たとえば、食べ過ぎたり、飲み過ぎたり
     することもあります。あるいは、善行をして
     人々を助けることなどできます。
 
 マハラジ
 肉体とマインドに関しては、
 「やるべき」ことと「やるべきでない」ことがあるが、
 あなたはそれらではない。
 あなたは肉体とマインドではないことが前提であり、
 あなたはその前提から始まったのだ。
 肉体がないとき、
 意識はそれ自体を意識していないことを理解しなさい、
 肉体がそこにあるかぎり、
 それはその自然の機能をおこなわなければならない。
 
 質問者 ということは、それが自然なことをする
     ように、私が許すのですか?
 
 マハラジ
 それが起こることを
 あなたが許すという問題ではなく、
 それは起こるのであり、
 あなたはそれに対して何のコントロールもできない。
 
 質問者 でも、私がコントロールできることもあり
     ます。たとえば、ここに来るかどうかを
     コントロールできます。
 
 マハラジ
 それは誤解だ。
 何であれ、
 起こることは自然に起こるのだ。
 このすべては意識のショー、
 あるいは表現であり、
 その特性は変化だ。
 それは意識的な存在のダンスであり、
 意識には
 それ自体を楽しませる非常に多くの
 異なる形態、技量、能力が機能している。
 しかし、
 その機能は単に自分自身を楽しませるためのものだ。
 それは疲れると眠って休み、
 目覚めると活動や行為などの
 何らかの娯楽を必要とする。
 
 それらはみな意識の中の見かけた。
 それぞれは自分自身の寿命に従って続くが、
 基本的には
 正当なことも重要なことも何も起きてはいない。
 目覚め、
 つまり理解が起こるまで、
 あなたは自分を行為者だと考えるが、
 いったんこの理解が起これば、
 働いているどんな実体もないことをあなたは知る。
 
 質問者 私は悪いことをするより、良いことをする方が
     いいだろうと考えているだけなのです。
 
 マハラジ
 あなたが言う
 よいいことと悪いこととはどういう意味だろうか?
 ある状況下ではよいことが、
 別の状況のもとでは悪いことにもなりうる。
 あなたが良いと考えている物事さえ、
 その肉体が続くかぎりにおいてのみ
 良いことでありうるにすぎない。
 まれな人だけが
 何もすることがないと理解することだろう。
 その人はすでにそれだ。
 
 『意識に先立って』(p233-235)
──────────────────

> 質問者 あることより別のことをやるほうが
>     いい場合もありますか? 例えば、この
>     マインドと肉体をもって、私はただ座って
>     何もしないでいることもできるでしょう。
>     あるいは、外を歩き回って人々を助ける
>     といった善行をすることもできます。
>     どちらをやった方がいいのでしょうか?

人間はどのように生きるべきだという

何か基準のようなものはあるでしょうか?

> マハラジ
> 肉体とマインドは何であれ、
> その組み合わせにとって自然なことをやるだろう。

現象世界の中では、

それぞれの肉体やマインドにとって

自然なことが展開されるだろう。

> 質問者 人は物事をコントロールできます。
>     たとえば、食べ過ぎたり、飲み過ぎたり
>     することもあります。あるいは、善行をして
>     人々を助けることなどできます。

でも、人は自分の行為を選択できますよね。

> マハラジ
> 肉体とマインドに関しては、
> 「やるべき」ことと「やるべきでない」ことがあるが、
> あなたはそれらではない。

現象世界で展開されるドラマの中では

個々の登場人物にとって「やるべき」ことや

「やるべきでない」ことがあるだろう。

だが、

それらのドラマの可能根拠である

存在感そのものであるあなた自身は、

それらとは何の関係もない。

> あなたは肉体とマインドではないことが前提であり、
> あなたはその前提から始まったのだ。

あなたは体験の対象物である

肉体やマインドではないというのが前提だ。

> 肉体がないとき、
> 意識はそれ自体を意識していないことを理解しなさい、
> 肉体がそこにあるかぎり、
> それはその自然の機能をおこなわなければならない。

肉体がなければ、

意識は意識の存在に気づいていない。

意識は潜象状態にある。

肉体がそこにあるとき、

意識は現象状態となりその自然の機能を行うことになる。

> 質問者 ということは、それが自然なことをする
>     ように、私が許すのですか?

それは、

その自然現象が起こることを

私が許すという意味でしょうか?

> マハラジ
> それが起こることを
> あなたが許すという問題ではなく、
> それは起こるのであり、
> あなたはそれに対して何のコントロールもできない。

いや、あなたが許すという問題ではなく、

自然現象として起こることが起こるという意味だ。

あなたはそれを

いかなる意味でもコントロールできない。

> 質問者 でも、私がコントロールできることもあり
>     ます。たとえば、ここに来るかどうかを
>     コントロールできます。

いえ、でも私がコントロールできることもあります。

> マハラジ
> それは誤解だ。
> 何であれ、
> 起こることは自然に起こるのだ。

いや、それは誤解だ。

すべて起こることは自然に起こるのだ。

> このすべては意識のショー、
> あるいは表現であり、
> その特性は変化だ。

この絶えざる変化という現象世界全体は

単なる意識のショーにすぎない。

> それは意識的な存在のダンスであり、
> 意識には
> それ自体を楽しませる非常に多くの
> 異なる形態、技量、能力が機能している。
> しかし、
> その機能は単に自分自身を楽しませるためのものだ。
> それは疲れると眠って休み、
> 目覚めると活動や行為などの
> 何らかの娯楽を必要とする。

そのショーでは非常に多くの

異なる形態、技量、能力が機能しているが、

その機能は意識自体を楽しませるためのものだ。

意識は疲れては眠って休み、

目覚めると何らかの娯楽を必要とするからだ。

> それらはみな意識の中の見かけた。
> それぞれは自分自身の寿命に従って続くが、
> 基本的には
> 正当なことも重要なことも何も起きてはいない。

すべては意識の中の見かけにすぎない。

すべて自然法則に沿って展開するが、

基本的には正当なことも重要なことも起きてはいない。

> 目覚め、
> つまり理解が起こるまで、
> あなたは自分を行為者だと考えるが、
> いったんこの理解が起これば、
> 働いているどんな実体もないことをあなたは知る。

その意識が展開する夢の中では

登場人物としてのあなたは自分を行為者だと考える。

だが、

娯楽の中で登場人物に同一化していたその夢から覚めれば、

その夢の中に

どんな個別の実体も存在していないことを知るだろう。

> 質問者 私は悪いことをするより、良いことをする方が
>     いいだろうと考えているだけなのです。

私は悪いことをするより、

良いことをするほうがいいと思っただけなのですが。

> マハラジ
> あなたが言う
> よいいことと悪いこととはどういう意味だろうか?
> ある状況下ではよいことが、
> 別の状況のもとでは悪いことにもなりうる。
> あなたが良いと考えている物事さえ、
> その肉体が続くかぎりにおいてのみ
> 良いことでありうるにすぎない。
> まれな人だけが
> 何もすることがないと理解することだろう。
> その人はすでにそれだ。

その良いとか悪いとはどういう意味だろう?

状況によってその行為の意味は変わるかもしれないし、

あなたが良いと考えたその基準さえも、

肉体がなくなればその意味を失うことだろう。

夢から覚めた人は

何もすることはないと理解することだろう。

もともと存在感であるあなたは、

その完璧な現状を得ることも失うこともできないからだ。

──────────────────
 質問者 マハラジは私たちを助けてくださって
     いますが、それは意図的な状態ですか?
 
 マハラジ
 それは全機能の一部だ。
 起こっていることはある種の夢の状態であり、
 何が起こっても夢の一部だ。
 私から霊的な、
 あるいは世俗的な何が起こっても、
 それらはマインドによる修正で増殖することはない。
 なぜなら、
 どんな行為も宇宙的で霊的だからだ。
 霊性は未知なるものに安定しているゆえに、
 完璧だ。
 
 しばしば肉体的苦痛を観照することが私に起こる。
 なぜなら。
 快楽と苦痛を登録する肉体と意識という道具が
 まだそこにあるからだ。
 私の健康状態ゆえに苦痛の登録は増える。
 少し少し前、
 私はその苦痛を観照していたが、
 あなた方がここに来たらなくなってしまった。
 人は意識の中に安定すると、
 ただ喜びだけでいっぱいになる。
 私はその意識に安定して喜びでいっぱいだったのだが、
 突然病気が現れたために苦痛がやってきたのだ。
 あなたが意識の中に安定して、
 どんな肉体的不調もないかぎり、
 どんな苦痛も経験しないことだろう。
 それが意識それ自体の特質だ。
 
 あなたは意識以前に存在している。
 その状態ではどんな快楽も苦痛もない。
 
 肉体や意識と付き合うことは、
 ちょうど次のようなものだ。
 あなたは独身で自由で幸福な人生を送っている。
 それから妻というものと関わると、
 その結果として快楽と苦痛が生じる。
 ちょうどそんなようなものだ。
 
 質問者 どうしたら私はその状態を獲得できますか?
 
 マハラジ
 それは常に行き渡っているが、
 知ることを超えている。
 その状態は説明することができないもので。
 「それはある」という言葉でさえその状態にはほど遠く、
 単なる示唆に過ぎない。
 
 『意識に先立って』(p235-237)
──────────────────

> 質問者 マハラジは私たちを助けてくださって
>     いますが、それは意図的な状態ですか?

ところで、

あなたはこうして私たちを助けてくださっていますが、

それは意図的な状態なのでしょうか?

> マハラジ
> それは全機能の一部だ。
> 起こっていることはある種の夢の状態であり、
> 何が起こっても夢の一部だ。

いや、

これは現象構造体の全機能の一部としての機能だ。

現象として起こることは

すべてある種の夢の状態であり、

何が起こったとしても、それは夢の一部だ。

> 私から霊的な、
> あるいは世俗的な何が起こっても、
> それらはマインドによる修正で増殖することはない。
> なぜなら、
> どんな行為も宇宙的で霊的だからだ。
> 霊性は未知なるものに安定しているゆえに、
> 完璧だ。

私を行為者とする霊的または世俗的な

行為が起こるように見えるかもしれない。

しかしそれらはマインドによる修正で

増えたり減ったりすることはない。

もともとすべての行為は宇宙的で霊的であり、

霊性は未知なるものに安定しているゆえに、

完璧だからだ。

> しばしば肉体的苦痛を観照することが私に起こる。
> なぜなら、
> 快楽と苦痛を登録する肉体と意識という道具が
> まだそこにあるからだ。
> 私の健康状態ゆえに苦痛の登録は増える。
> 少し前、
> 私はその苦痛を観照していたが、
> あなた方がここに来たらなくなってしまった。

肉体と意識という道具がまだあるため、

肉体的苦痛を観照することも私に起こる。

特に私の健康状態ゆえに苦痛の登録は増える。

少し前も、その苦痛を観照していたのだが、

あなた方がここに来たらなくなってしまった。

> 人は意識の中に安定すると、
> ただ喜びだけでいっぱいになる。
> 私はその意識に安定して喜びでいっぱいだったのだが、
> 突然病気が現れたために苦痛がやってきたのだ。
> あなたが意識の中に安定して、
> どんな肉体的不調もないかぎり、
> どんな苦痛も経験しないことだろう。
> それが意識それ自体の特質だ。
> 
> あなたは意識以前に存在している。
> その状態ではどんな快楽も苦痛もない。

あなたはもともと意識に先立って存在している。

その状態ではどんな快楽も苦痛もない。

> 肉体や意識と付き合うことは、
> ちょうど次のようなものだ。
> あなたは独身で自由で幸福な人生を送っている。
> それから妻というものと関わると、
> その結果として快楽と苦痛が生じる。
> ちょうどそんなようなものだ。

肉体や意識と付き合うというのは、

自由で幸福な人生を送っている独身男性が

結婚して妻と関わり、その結果、

快楽と苦痛が生じるというようなものだ。

> 質問者 どうしたら私はその状態を獲得できますか?

どうやったら、

私はあなたのそのような状態を獲得できるのでしょう?

> マハラジ
> それは常に行き渡っているが、
> 知ることを超えている。
> その状態は説明することができないもので。
> 「それはある」という言葉でさえその状態にはほど遠く、
> 単なる示唆に過ぎない。

この状態というのはつねに行き渡っている。

ただそれは知ることを超えている。

その状態は説明できない。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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今日はとても晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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