home > 通信 >『アセンション館通信』第790号:いつもしていることしかできない



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/6/9(第790号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。


 あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
 苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
 れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
 (『ダイレクトパス』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在814名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.いつもしていることしかできない

2.編集後記
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■ 1.いつもしていることしかできない
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生きていればいろんなことが起こります。

と、少なくともわれわれは思っている。

眼前に映し出される画面を材料に

いろいろな物語を想像しているからです。

肉体の誕生後もしばらくの間は

何の物語もなかったのですが……。

今ではどっぷり物語に浸かっています。

だからその物語の中で

途方に暮れたりすることもあるわけで。

まあしゃーないわなぁ。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

言葉というものを

昔のようにはかばかしく紡げなく

なっているような気がします。

ある種の言葉を紡ごうとしているのに、

その論理の筋に言葉のエネルギーを

収束させることが難しい。

その論理の筋に関係のない多様な想念が

背後で乱反射している雰囲気があります。

どんな言葉を紡ごうとも、

それが単に都合よく選別された

イメージの寄せ集めにすぎないことが

見え透いてしまっているのです。

もちろん、それでも

長年の癖で言葉を紡ぐことはできます。

でも、なんとなく

その言葉は書き手にも信じられていない。

そして言葉のエネルギーが散乱して

論理は失速してしまうのです。

まあ自ら信じてもいない言葉を

そうそう紡ぎつづけられないのでしょう。

言葉を紡ごうとする片端から、

それらの言葉が崩落していくような感じです。

つまり……、

思い込みを保てないようなのです。

何かを言おうとしても、

最初から何となく嘘っぽい。

pariという身体の生涯は、

意味を求める物語を投影することに捧げられました。

煎じ詰めたところ、

この人生の意味とはいったい何なのかと、

pariという登場人物は問いつづける道具でした。

でもそもそも意味というものは、

意識の調度にすぎなかったのです。

意識内容の在り方のひとつの側面でした。

言ってみればそれは、

エネルギーの流れる方向のようなものでした。

ある生命現象の意味に関して、

あることが言えるとしたら、

それと同じ程度の確実さで、

そうでないとも言えるわけです。

そして新しいことを言うたびに、

意味の次元が変化するようなことも起こります。

意識世界の在り方はそのようなものでした。

Oshoによると、

ジャイナ教の開祖マハーヴィーラは、

「七重の論理」というのを展開したそうです。

pariパターンが感じている雰囲気の

厳密な論理的展開なのかもしれません。

屁理屈ばかりをこねる人間を、

「ああ言えばこう言う」と評することがあります。

ところが言葉のレベル、

観念のレベルでは、

それこそが意識のあり方なのです。

けっきょく、

確実に言えることは、

このような想念が湧いてくる背後には

何かが存在しているということだけです。

なぜなら、今現在、現実に、

このような想念が湧いているからです。

その前提には何かが存在しているわけでしょう。

もしこのような想念が湧いてくる背後に

何も存在していないのだとしたら、

何にもない空無の中から

ポンとこの想念だけが湧いたことになります。

論理的な感覚としてはありえない感じですが、

あえてそのような仮定を承認したとしても、

しかしその場合でも、

ポンと空無の中から湧いてきたその想念に

気づくことは起こっているわけです。

それは否定でません。

事実、いま自分が気づいているのですから。

ということは

そのポンと湧いてきた想念に

気づく基盤が存在していること、

自分が存在していることは否定できないのです。

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 あなたが
 あなたを含むすべての証明なのだということを、
 まず悟るべきだ。
 あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。
 なぜなら、
 他者の存在もあなたによって
 確認されなければならないからだ。
 あなたは完全に、
 あなた自身によって在るのだということを
 覚えておきなさい。
 あなたはどこからも来なかったし、
 どこへも行かない。
 あなたは時間を超えた存在、
 そして気づきなのだ。
 
 『私は在る』(p178)
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(-||-)

と同時に、

どこからかポンと何かが湧いてこないうちは

その何かに気づくこともなかったわけで、

何かが湧いてくることと

湧いてくる何かに気づくことは

同時に発生しているわけでしょう。

それなら、

その湧いてくる何かとそれに気づくことは

何かが顕われるというひとつの事象の

二つの側面と見なせるわけです。

上に述べた同じ議論を

何かが顕われるというひとつの事象に

当てはめてみます。

つまり、

「何にもない空無の中から

 ポンと何かが顕われるという可能性は

 在りうるだろうか?」

という問いです。

この疑問が問題にしているのは、

朝、目が醒めて、この世界が顕われることと

とても似た状況です。

「目が醒めてこの世界に気づいた自分は

 眠っていてこの世界に気づいていなかったときには、

 果たして存在していたのか、

 それとも存在していなかったのか?」

という問いです。

もし

「目が醒めて今この世界に気づいている自分は、

 眠っていてこの世界に気づいていなかったときには

 存在していなかった」

という表現に違和感のない方がいれば、

その方は、

何にもない空無の中からポンと何かが湧いてくる、

ということにも違和感のない方でしょう。

「いやー、

 今目が醒めてこの世界に気づいた自分は、

 眠っていてこの世界に気づいていなかったときも

 やっぱり存在してますよ」

というご意見の方は、

このような想念が湧いてくる背後には

何かが存在している、

という論理感覚の方でしょう。

しかし、

論理的推測方式の問題ではなく、

実際に自分で“体験”したという

ラマナやニサルガダッタのような覚者たちは、

体験ということが起こる前提には

「私」「自己」「神」「永遠の今」「真我」「実在」

といったラベルはともかく、

何かが存在しているという事実を

知っているのだと思います。

要するに、

こうして現象世界の体験が起こりうるためには

“何かが存在している”わけです。

その感覚を、人間の言葉で、

「私は在る」と言うわけでしょう。

この顕現に気づいているものを「私」と呼ぶなら、

「私」が“存在する”ことは否定できない。

しかし、

その意味の「私」とは

何が現れてもそれに気づく基盤としての

“何でもないもの”である「私」です。

その「私」は“何かである”ことはできません。

“何かであるもの”は

その“何か”に気づくことはできませんから。

その意味では、

“何か”に気づく可能性をもつものとしての「私」が

“何かである”というのはとても疑わしいわけです。

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 知られるもの、
 知ること、
 知る者という三位のなかでは、
 知ることだけが事実だ。
 「私」と「これ」は疑わしいものだ。
 誰が知ろう?
 何が知られるというのだろう?
 知ることがあるということを除いては、
 そこには何の確実性もないのだ。
 
 『私は在る』(p422)
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ここでマハラジは

「知る者」と「知られるもの」を

「知る」という事実の両端と見なしています。

そしてこの両端は推定されたものであって

事実ではないと。

> 知ることがあるということを除いては、
> そこには何の確実性もないのだ。

「知る」という事実の存在は否定できないが、

“誰”が“何”を知るかについては

何の確実性もないと。

そして別のところでマハラジは、

「在る」ということと「知る」ということは

じつは同じことだとも言っています。

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 あなたがあなたで在るものを知るとき、
 あなたはまたあなたが知る者でも在る。
 知ることと在ることの間にへだたりはないのだ。
 
 『私は在る』(p539)
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何らかの顕現を知るとき、

われわれは自分であるものの顕現を見ている。

そして自分であるものを知るとき、

われわれはそのものとして在るのだと。

そして、

確実で、否定できないのは、

「在る」(あるいは「知る」)ことだけだ。

それ以外はすべてただ起こるだけだと。

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 それは在る。
 それを否定することはできない。
 それは深遠な、神秘を超えた神秘なのだ。
 だが、それは在る。
 それ以外のすべてはただ起こるだけだ。
 
 『私は在る』(p58)
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以上に述べたことは

これまでわたしが何度も確認し、

論理的に理解し、納得したつもりのことです。

さて、そこで問題になるのが、

それは本当に理解しているのか、

それとも理解していないのかです。

セイラー・ボブさんはこんなふうに言います。

「あなたは2+2が4であることを

 理論的に理解しているのか、
 
 それとも知っているのか?
 
 地球が太陽の周りを回っているのであって、
 
 太陽が地球の周りを回っているのではないことを、
 
 あなたは理論的に理解しているのか、
 
 それとも知っているのか?」と。

(-_-;)

わたしは、

この身体が現象に気づいているのではなく、

わたしという気づきの光の中に

この身体が知覚対象として

現れているのだということを、

理論的には理解しているのだろうか?

それとも単純な事実として知っているのか?

(-_-;)

そこで思うのが……

結局、夢の中では

いつもやっていることしかできない、

ということです。

いつもやっていることは

習慣なので自然にそれが起こります。

夢の登場人物としていつもやっている仕事は

自分でもできることがわかっています。

その自信があるから結局できます。

自分が存在するということは、

自信があるかないかは関係ないし、

自分が存在するために

特に何かをしなければならないわけでもない。

確信が必要なわけでもない。

間違いなくわたしは存在しているし、

わたしはそれを知っている。

そしてわたしの身体は

寿命が来たら消えることも間違いない。

つまり、

この現象に気づいているのはこの身体ではなかった

ということでしょう。

しかし、そうわかっていても、

それでも普段現象世界の中で

登場人物としての役割反応しかしていなければ、

自然に起こることはそのことだけです。

そのときはじめて、

四六時中気づきの矢印が

「私とは何か?」に向かっているという意味が

立ち上がってくるように思われたのです。

普段、いつでも、四六時中、

気づきの矢印が「私とは何か?」に向かっている。

それが起こるまでは、

努力も必要なわけです。

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 マハルシ
 私は想念を拒絶し続けなければならない
 とは言っていない。
 あなた自身、
 つまり「私」という想念を固守しなさい。
 あなたの関心がそのひとつの想念に絞られたとき、
 他の想念は自動的に拒絶され、
 消え去るだろう。
 
 質問者
 では、想念の拒絶は必要ないのですね?
 
 マハルシ
 いいや。
 しばらくの間は必要となるかもしれない。
 想念が起こるたびに拒絶していくことには
 きりがないとあなたは想像している。
 それは本当ではない。
 終わりは来る。
 もし油断なく、
 想念が起こるたびに拒絶するよう
 断固とした努力をつづければ、
 すぐにも内なる自己のなかへ深く、
 より深く入っていくのがわかるだろう。
 この段階に至れば、
 想念を拒絶する努力は必要なくなる。
 
 質問者 そのときには、努力なしにただ在る
     ことも可能なのですね?
 
 マハルシ
 それどころか、
 ある限度を超えれば
 努力をすることが不可能になるのである。
 
 『あるがままに』(p103-104)
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(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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夢中の劇の登場人物としては

それなりの変化も経験しています。

それでいいんじゃないでしょうか。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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