home > 通信 >『アセンション館通信』第791号:レオ・ハートンの『夢へと目覚める』



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/6/16(第791号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。


 あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
 苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
 れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
 (『ダイレクトパス』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在814名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.レオ・ハートンの『夢へと目覚める』

2.編集後記
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■ 1.レオ・ハートンの『夢へと目覚める』
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今日は一日雨が降るようです。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

去年の12月、

ヒロさんのブログ「塩人間の海底探検」が
https://resonanz360.com/

更新を終了したことはご存知かと思います。

私たちがとてもお世話になったブログで、

読者にとっては残念とも言えますが、

でも更新終了に至る理由は

これまでヒロさんが更新してくださった

ブログの記事を読んできた者にとっては

なんとなく納得がいきますし、

むしろお祝いすべきことかもしれません。

要するに、申し分なく完璧な形で、

ひろさんの探求が終了したのだと思います。

更新が終わってからは、

以前のように頻繁に訪問することはありませんが、

それでも時々思い出したように訪れて、

まだ読んでいなかった記事や翻訳を

読ませてもらうことがあります。

先日も、久しぶりにヒロさんのブログを訪れて、

これまであまり読んでいなかった

レオ・ハートンという方の記事を読みました。

言葉を超えたもの? レオ・ハートン

無条件の信頼 レオ・ハートン

方法の問題点 レオ・ハートン

読んだ順番は時系列的には逆順でしたが、

レオ・ハートンという人に

とても惹かれました。

彼の最初の著書『夢へと目覚める』を

ヒロさんが翻訳されていて

すでに出版されていたので

早速入手して読みました。

予想に違わずすばらしい本です。

ヒロさんがこれを最後に

非二元本の翻訳はやめるつもりというのが

なんとなくわかる感じがしました。

この本を読んでしまったら

いわゆる探求はもうつづかないと思います。

我々は通常、湧いてくる思考を

自分だと思っています。

でも、湧いてくる思考自体は

その思考に気づけないのですから、

その思考が湧いてきたときに

何かがそれに気づいているわけです。

現象として起こってくるすべてに

気づいている意識の側面を

〈純粋意識〉と呼ぶとすれば、

湧いてくる思考に気づいている我々が

その〈純粋意識〉であることは間違いない。

事柄はそれくらいシンプルです。

わたしがいるから

わたしに関するすべてが起こっていて、

わたしの世界が起こっているわけです。

ただ、

人間の身体に施された催眠作用のために、

我々は湧いてくる思考から

一連の物語を紡ぎ出して、

その物語を一つの参照点に仕上げます。

そしてその参照点を“自分”と呼んで、

その“自分”という観念を

湧いてくる思考すべての前程に挿入します。

あたかもすべての現象が

その“自分”に起こってくるかのように。

すると湧いてくる思考はすべて

その“自分”に湧いてくるように感じられ、

それらの思考がすべて“自分”の思考になり、

やがてそれがすべて“自分”になります。

すると今度は、

新たな思考が湧くたびに

物語で構成された“自分”が

その“自分”を防衛するために

見かけ上いろいろ抵抗したり選択したりする

想像をはじめることになる。

まあ、このあたりの理屈は

これまでこのメルマガに

付き合ってくださった皆さまは

すべてご承知のことばかりです。

ただ、

そういう話は重々承知の上で、

これまではまだ何かが足りなような気がしていた。

自分が〈純粋意識〉だとは

ちょっと言えなかった。(*^_^*)

そして確かに、

“自分”が〈純粋意識〉なのではありません。

もともと、

“自分”などという個人的なものは

実際は存在していなかっただけです。

“自分”とはただの想像された観念で、

どんな実体も存在していない。

悟っていない“自分”が存在しないのだから、

悟った“自分”もいるわけがない。

ただ〈純粋意識〉が演じる

さまざまな役柄と劇があるだけです。

ヒロさんが訳された

レオ・ハートンの『夢へと目覚める』は

その事実を後退させようもなく

暴露してくれたようです。

例によって、

少し長すぎる引用をさせていただきます。

この引用が無断引用ではなく

無料宣伝となるように、

ぜひ『夢へと目覚める』をご入手ください。(^_-)

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 真の瞑想においては
 思考が自由に生じるのただ見るだけであり、
 思考に騙されて困っている
 と言い張る想像上の自我によって
 コントロールされなければならない
 問題含みの障害物として見ることはない。
 ここでの鍵は、
 この自我そのものが
 コントロールしたがっている
 思考の流れの一部であること、
 そして自我には
 思考から独立した実体がないことだ。
 明らかに、
 この幽霊じみた操舵手である自我に
 精神を操舵させて
 一点集中状態へ導いてもらう必要などない。
 すべては自由に生じて歓迎されていて、
 マントラも自我の幻も思考も感情も
 そこに含まれる。
 こうした活動に、
 〈純粋意識〉の静寂な空間に
 影響を与えられるものはなく、
 自我はその活動の中で好きにふるまい、
 そして
 ──何の痕跡も残さず──
 消えていく。
 
 『夢へと目覚める』(p118)
──────────────────

> ここでの鍵は、
> この自我そのものが
> コントロールしたがっている
> 思考の流れの一部であること、
> そして自我には
> 思考から独立した実体がないことだ。

自我が思考でしかないことを

これ以上説明してもらう必要があるでしょうか?

> 明らかに、
> この幽霊じみた操舵手である自我に
> 精神を操舵させて
> 一点集中状態へ導いてもらう必要などない。

思考が湧くか湧かないかに

何かを期待する必要はないわけです。

> すべては自由に生じて歓迎されていて、
> マントラも自我の幻も思考も感情も
> そこに含まれる。

まったく。

> こうした活動に、
> 〈純粋意識〉の静寂な空間に
> 影響を与えられるものはなく、
> 自我はその活動の中で好きにふるまい、
> そして
> ──何の痕跡も残さず──
> 消えていく。

湧いてくる思考が

〈純粋意識〉という静寂な空間に

影響を与える可能性はゼロです。

思考はただその静寂な空間に

湧いてきては消えていくだけです。

──────────────────
 以前起こった神秘体験が
 悟りでなかったことは明白だ。
 「私」がこの体験をするという観念が、
 「私」が非二元的体験をするという
 ややこしい逆説を生み出した。
 今では、
 言われる神秘体験は
 ワインを飲んだり
 愛を交わしたり
 買い物をしたり
 雨の中を歩いたりするのと同じで、
 ひとつの経験であることがはっきりわかる。
 そうしたすべては
 自分として起こっているだけであって、
 自分に対して、
 あるいは自分によって
 起こっているのではない。
 経験がその中に現れては消えていく
 静寂の背景を、
 「悟った」と思っていた「自分」は
 見落としていたのだ。
 
 誤解しないで欲しい。
 以前はよくわかっていなかったが
 今の私はわかっているという意味ではない。
 今はっきりしているのは、
 わかることのできる「私」が
 いないということだ。
 誰かが悟るという概念全体が
 妥当性を失ったのだ。
 悟りが到達可能な目標であるように見えるのは、
 個別の存在や自我があるという
 幻想が続いているあいだだけだ。
 禅でこれは「門無き門」と呼ばれてきた。
 その前に立つと門はあるように見える。
 門を通ってから振り返ると、
 そこに一度も門がなかったこと、
 そこを通れるような
 誰もいなかったことがわかる。

 『夢へと目覚める』(p148)
──────────────────

> 以前起こった神秘体験が
> 悟りでなかったことは明白だ。

ネイサン・ギルと同じく、

申し分のない神秘体験をした

レオ・ハートンがこう言っています。

> 「私」がこの体験をするという観念が、
> 「私」が非二元的体験をするという
> ややこしい逆説を生み出した。

「私」が非二元的体験をすることはありえない。

「私」がいないとき、

非二元的体験が起こりうるのだから。

> 今では、
> 言われる神秘体験は
> ワインを飲んだり
> 愛を交わしたり
> 買い物をしたり
> 雨の中を歩いたりするのと同じで、
> ひとつの経験であることがはっきりわかる。

他のすべての体験と同じ一場の夢。

> そうしたすべては
> 自分として起こっているだけであって、
> 自分に対して、
> あるいは自分によって
> 起こっているのではない。

神秘体験とは、

〈純粋意識〉が分離幻想の中に

自分の体験としてふるまったご馳走のようなもの。

> 経験がその中に現れては消えていく
> 静寂の背景を、
> 「悟った」と思っていた「自分」は
> 見落としていたのだ。

その神秘体験の中では

体験が実際に起こっていたのが

静寂の背景に対してであることが見落とされていた。

> 誤解しないで欲しい。
> 以前はよくわかっていなかったが
> 今の私はわかっているという意味ではない。

以前も今も同様に

私という個人など存在していない。

> 今はっきりしているのは、
> わかることのできる「私」が
> いないということだ。

すべては〈純粋意識〉によって演じられ

〈純粋意識〉が映し出す映画。

そのなかに分離独立した

個人としての私が存在する余地はない。

> 誰かが悟るという概念全体が
> 妥当性を失ったのだ。

存在しない個人としての誰かが

悟る可能性はありえない。

> 悟りが到達可能な目標であるように見えるのは、
> 個別の存在や自我があるという
> 幻想が続いているあいだだけだ。

(レオ・ハートンの比喩のように)

地球の端から落ちる恐怖は、

水平線が地球の断崖絶壁と

信じられている間しかありえない。

> 禅でこれは「門無き門」と呼ばれてきた。
> その前に立つと門はあるように見える。
> 門を通ってから振り返ると、
> そこに一度も門がなかったこと、
> そこを通れるような
> 誰もいなかったことがわかる。

以前は確かに

“悟り”は在ると思われたのに、

“悟り”が何を意味するかがわかると

悟ることができる個人は存在していない。

──────────────────
 基本に戻る
 
 探求のすべて、
 霊性修行のすべて、
 理解への努力のすべては、
 今あるままのこれの
 明白で単純な真実を覆い隠す。
 どんな思考が生じても、
 どんな感情が現れても、
 そしてそれに
 良いと悪いのどちらのラベルが貼られても、
 起こっていることすべてに
 静かに気づいている不動の何かがある。
 それはただあって、
 わずかな努力もしていない。
 指を鳴らしてみよう。
 音が聞こえただろうか。
 どれほどの努力が必要だっただろうか。
 ゼロだ!
 今、
 まさにこの瞬間、
 〈純粋意識〉は
 ここに並んだ言葉を読んでいるあなたの
 静かな背景だ。
 それがそこにあるために
 あなたがすべきことは何もない。
 それは常にあるが、
 あまりに近すぎて近づくことはできない。
 目が目自体を見るには近すぎるのと同じだ。
 
 『夢へと目覚める』(p172)
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> 探求のすべて、
> 霊性修行のすべて、
> 理解への努力のすべては、
> 今あるままのこれの
> 明白で単純な真実を覆い隠す。

“自分”が存在しないことを納得するのに、

仮想の個人の生涯が費やされました。

〈純粋意識〉が映し出す映画の中に

そういう映画がありました。

> どんな思考が生じても、
> どんな感情が現れても、
> そしてそれに
> 良いと悪いのどちらのラベルが貼られても、
> 起こっていることすべてに
> 静かに気づいている不動の何かがある。

その間に起こったすべての思考と感情に

わたしは気づいていた。

ただ劇の催眠状態の中で

それらの思考や感情を劇の登場人物である

個人の思考や感情だと誤解していた。

> それはただあって、
> わずかな努力もしていない。

実際はわたしは何の努力もなく

それらの思考や感情に気づいている。

> 指を鳴らしてみよう。
> 音が聞こえただろうか。
> どれほどの努力が必要だっただろうか。
> ゼロだ!

まったく何の努力もなく、

わたしはこの世界に気づいている。

> 今、
> まさにこの瞬間、
> 〈純粋意識〉は
> ここに並んだ言葉を読んでいるあなたの
> 静かな背景だ。

この言葉を読んでいるあなたの静かな背景です。

> それがそこにあるために
> あなたがすべきことは何もない。
> それは常にあるが、
> あまりに近すぎて近づくことはできない。
> 目が目自体を見るには近すぎるのと同じだ。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
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http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

「私は在る」に関するご意見や単なるメールなど、

ご自由にお書きください。


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■ 2.編集後記:
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使い慣れた言葉遣いから言えば、

悟っていな自分は確かにいるように見えます。

しかしレオ・ハートンが

これほど懇切丁寧に誘ってくれているのに、

これ以上駄々をこねるエネルギーもありません。

現象の中に個人は現れるけれど、

それが存在しない幻想であることも確かです。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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