home > 通信 >『アセンション館通信』第792号:近すぎて近づくことはできない



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/6/23(第792号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。


 あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
 苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
 れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
 (『ダイレクトパス』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在815名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.近すぎて近づくことはできない

2.編集後記
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■ 1.近すぎて近づくことはできない
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今日は朝から雨が降っています。

ときどき強くなったりまた小止みになったり。

今日は一日中降るのかもしれませんね。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

先週は

レオ・ハートンのこんな言葉に触れたのでした。

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 どんな思考が生じても、
 どんな感情が現れても、
 そしてそれに
 良いと悪いのどちらのラベルが貼られても、
 起こっていることすべてに
 静かに気づいている不動の何かがある。
 それはただあって、
 わずかな努力もしていない。
 指を鳴らしてみよう。
 音が聞こえただろうか。
 どれほどの努力が必要だっただろうか。
 ゼロだ!
 今、まさにこの瞬間、
 〈純粋意識〉は
 ここに並んだ言葉を読んでいるあなたの
 静かな背景だ。
 それがそこにあるために
 あなたがすべきことは何もない。
 それは常にあるが、
 あまりに近すぎて近づくことはできない。
 目が目自体を見るには近すぎるのと同じだ。

 『夢へと目覚める』(p171-172)
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> 今、まさにこの瞬間、
> 〈純粋意識〉は
> ここに並んだ言葉を読んでいるあなたの
> 静かな背景だ。

これはもちろんひとつの概念です。

しかしその概念が、

ある種の【事実】を指していることも確かです。

> それがそこにあるために
> あなたがすべきことは何もない。

この〈純粋意識〉を存在させるために

わたしがすべきことは何もありません。

> それは常にあるが、
> あまりに近すぎて近づくことはできない。
> 目が目自体を見るには近すぎるのと同じだ。

〈純粋意識〉という背景は常にある。

でもふだん思考が湧いてくるときに

その思考内容が自分と見なされるために、

そのその思考内容を映し出している

背景としての〈純粋意識〉は自分とは見なされません。

しかし、実際は

この〈純粋意識〉という背景がなくては、

物理現象が作る形体の【見かけ】も

その【意味づけ】としての思考も

顕現することができないのは間違いない。

この〈純粋意識〉という背景がなくては、

「形」も「名前」も現象できないのです。

この背景にある〈純粋意識〉は、

あまりに近すぎるため近づくことはできません。

間違いなく自分の根底をなしているわけですが、

自分と言うにはやっぱり“近すぎる”でしょうか?

「自分」が〈純粋意識〉だとは認めがたいでしょうか?

自分を人間と思い込んでいる我々は

自分が「何か」であるという拘束衣の着用に

あまりにも長く馴染んできたため、

自分がじつは「何者でもない」という自由には

とても惹かれにくくなっているのかもしれません。

しかし、

何であれ体験が起こるためには、

その体験に気づいているものの存在は必須です。

気づかれなければ

その対象事象は起こりえないわけですから。

気づかれているからそれは起こりえたのです。

その気づいている当体を自分と呼ぶ……。

それにもそんなに違和感はないと思います。

ここまでは日常感覚で

まったく問題なく対応できるのですが。

ところがここに少し厄介なことがあって、

この気づいている自分はじつは、

けっして気づかれる事象には成れないわけです。

気づかれている事象自体は

その事象を表顕する道具(つまり表現媒体)であって、

その事象に気づくことはできませんから。

言い方を換えると、

現象世界をその内部に包含する<意識>には、

顕現部分を担当している物理現象という変化的側面と、

その顕現部分に気づいている非顕現の側面

〈純粋意識〉という永遠不動の側面があって、

その両側面が現象世界の顕現を支えているわけです。

我々が何の努力もなく一瞬一瞬

起こってくる現象に気づいているのは事実です。

その意味で、

我々が〈純粋意識〉であるのは事実です。

しかしその事実は、

自らそれを自認しないかぎり現実にはならない。

そのため、

気づかれている事象が自分と認知されると

その途端に、

本籍地〈純粋意識〉の自己認識はキャンセルされ、

そこから降りざるをえない。

そして永遠の変化である物理現象のなかに

“自分”の現在地を構築する労働に導かれるわけです。

自分が〈純粋意識〉であるという

絶対の安らぎからは転落することになります。

これは誰から強制されているわけでもない。

自由を強制してくれる誰かなど存在しませんから。

本籍地をキャンセルした我々、

つまり思考を自分だと自認する思考は、

その自分の支えをさらなる思考に求めるしかありません。

その我々が助けを求める思考、

つまり観念を構築する言葉について、

レオ・ハートンは次のようなことを指摘しています。

──────────────────
 言語が抱える決定的で克服不可能な問題は、
 コンパスと同じで、
 そこから指すことならできても、
 指すということがなされているその元の中心は
 絶対に指せないという点だ。
 コンパスが指している先、
 そして指すことが起こっている元の
 両方を見る人にとっては、
 自分の真の性質の認識は
 直接手の届くところにある。
 そのことを知るとき、
 知るものと知られるものは
 不可分のものとして認識され、
 分離のない空間である〈純粋意識〉に溶け去る。
 
 『夢へと目覚める』(p36)
──────────────────

> 言語が抱える決定的で克服不可能な問題は、
> コンパスと同じで、
> そこから指すことならできても、
> 指すということがなされているその元の中心は
> 絶対に指せないという点だ。

助けを求める観点から呼び出された思考、

つまり観念の内容自体が求められている思考で、

この特質が気づかれることは考えられません。

> コンパスが指している先、
> そして指すことが起こっている元の
> 両方を見る人にとっては、
> 自分の真の性質の認識は
> 直接手の届くところにある。

しかしレオ・ハートンのような

探究的関心が終了した意識体に湧く思考では、

こういうことが気づかれるのでしょうね。

> そのことを知るとき、
> 知るものと知られるものは
> 不可分のものとして認識され、
> 分離のない空間である〈純粋意識〉に溶け去る。

思考が湧いてきたときに、

その観念内容が求められていない場合、

湧いてきた思考とそれ待ち受けている者が

同じものであることが自明になるのでしょうか。

知るものと知られるものが

不可分であることが認識されるのかもしれません。

知るものと知られるものが

ひとつのエネルギーの現れとして認識され、

分離のない空間〈純粋意識〉に溶けていくのでしょう。

このメルマガの書かされている人間は、

物理現象から<意識>が誕生することなどありえない、

とその不可能性に関心を向けさせられた道具でした。

もし物理現象から<意識>が生まれたのでないなら、

逆に物理的現象のほうが

<意識>が見ている夢だということになります。

つまり、

現象には実体というものは存在しない

ということでしょう。

現象世界とは幻影でしかないのです。

でも、ただ論理的にそのような結論に達しても、

なんということもありませんでした。

その結論にたどり着いた者の存在という

分離幻想自体はまったくの無傷で残っていましたから。

たぶんそのときは分離幻想の解体が

実際は望まれてはいなかったのでしょう。

──────────────────
 マインド自体が創造者だ。
 これさえもまた完全な真実ではない。
 なぜなら
 創造されたものと創造者はひとつだからだ。
 マインドと世界はひとつだ。
 あなたが世界として考えているものは、
 あなた自身のマインドなのだということを
 理解しなさい。

 『私は在る』(p521)
──────────────────

> あなたが世界として考えているものは、
> あなた自身のマインドなのだということを
> 理解しなさい。

わたしはわたしの執着を

現象化して見ているのでしょうか。

執着も熟しきったら自然に落ちるのでしょうか。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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ゆっくりゆっくり

石橋を叩いて渡っているのか……。

いや、

すべては自然現象なのかもしれません。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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