home > 通信 >『アセンション館通信』第795号:すべてを映し出せるもの



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/7/14(第795号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
 苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
 れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
 (『ダイレクトパス』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在813名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.すべてを映し出せるもの

2.編集後記
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■ 1.すべてを映し出せるもの
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霧雨のような細かい雨が降っています。

今年の梅雨は真面目すぎかも。

まあ涼しいのは楽でいいですが、

農作物はどうなるのか。

一瞬一瞬が完璧な夢。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

要するに、

現象に対する興味のほうが大きいかどうか

それだけなんですね。

現象に対する興味が大きいのに

その興味を無視して

現象だけが勝手に消える……、

なんてことはありえないわけです。

わたしが〈意識〉なのだから。

〈意識〉、

つまりわたしには物質的側面もあって

その側面が顕現を担っています。

エネルギーとしてのわたし、

つまり〈意識エネルギー〉です。

永遠の活火山とでもいうのか……。

その〈意識エネルギー〉の源を

“ゼロフィールド”というのでしょうか。

“ゼロフィールド”は自らの存在を

知っているのかもしれないし、

知らないのかもしれません。

単に用語の定義の問題かもしれません。

要するに、

その顕現を担っている物理的側面に対して

何かがその顕現に気づいている。

物理的側面の顕現に気づいている何かが

あるいは何もなさが存在する。

でも顕現に気づいているその何か、

あるいは何もなさは

物理現象ではありません。

気づいている者に物理属性はありません。

物理現象ではないので

顕現することもありません。

顕現に気づいている何か自体は

顕現しないのです。

顕現に気づくことが役割なので、

その顕現に気づいている者自体は

気づきの対象物にはなりえない。

現象に気づいている者自体が

現象として顕現することはありえない。

だからこそ

現象のその側面を表すために、

古来「非顕現」という概念が使われたのです。

つまり、現象には最初から

「顕現」と「非顕現」という二つの側面が

不可避的に内包されているわけです。

このあたりのニュアンスを表現するために、

トニー・パーソンズはその著書に

『オープン・シークレット』(公然の秘密)
https://goo.gl/phzoum

というタイトルを付けたのでしょう。

あまりにも自明であるために、

近すぎて意識されないものだから。

でも意識されようとされまいと、

顕現に気づいている非顕現があるから、

現象世界が現象できるのも確かです。

現象に気づいている者がいないのに、

現象だけが顕現することはありえない。

そしてそこまでだけなら

普段あまり意識はしないとしても

まあ言われば納得します。

「気づいている者がいないのに

 現象だけでは顕現できないでしょ」
 
と言われれば、

特に反対する理由もなさそうです。

ところが、

「この気づいている者は、

 その果たしている役割の関係上

 現象世界には出てこられない」

と言われると、

ちょっと抵抗が起こります。

というのも、

普段の日常生活の感覚として、

自分は現象に気づきながら、

こうしてちゃんと現象世界のなかにいる、

という思いがあるからです。

もちろん、これは

この自分(つまり身体)が現象に気づいている、

と誤解しているからです。

そう誤解するのも無理ありません。

なにしろ肉体として誕生して以来、

ひたすら提供された教育が

「この身体があなたよ」と教わることだった。

そしてこの身体としてのサバイバルゲームでの

生き残り方を学ぶことだった。

いわば

“身体への自己同化ヨガ”を学ぶ学校に

入学したようなものだったからです。

だから

今ではすっかり人間になっています。

この身体への自己同化を完了して、

この身体を自分として生きている。

人生ゲームの真っ只中にいるわけです。

でも

この“この身体が自分”というのは、

この人生ゲームの教則本の

一行目であるにすぎない。

もともとゲームのルールというのは

あくまでもゲームへの参加規則です。

決めごとです。

その規則自体が真実である必要はないし、

現に真実ではありません。

とはいえ、

今となっては我々はすっかり

人間になりきって人生を生きています。

この現象世界のなかで

見かけの上で分離して見える

この身体を自分だと思って生きています。

なので、

「気づいている者自体は、

 その果たしている役割の関係上

 現象世界のなかには出現しない」

と言われても、

「はあ、そうですか」と

素直には納得するわけにはいかない。

このあたりの事情を

丁寧に説明してくださっているのが、

ダグラス・ハーディングだと思います。

『心眼を得る』とか
https://amzn.to/2XIWEDn

『顔があるもの顔がないもの
 ―自分の本質を再発見する』
https://amzn.to/2YTpcvg

といった著述で詳細に展開しています。

現象世界に顕れている顔がある身体と、

現象世界を見ている顔がないものは

同じものではないと。

そしてこの“顔がないもの”は、

けっして知覚の対象物にはなりえない。

それ自体が知覚されることはありえない。

だからどんな微細な想念も、

どれほど明瞭な自己喪失の神秘体験も、

それは知覚の対象物であって

自己ではありえないわけです。

レオ・ハートンは言います。

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 以前起こった神秘体験が
 悟りでなかったことは明白だ。
 「私」がこの体験をするという観念が、
 「私」が非二元的体験をするという
 ややこしい逆説を生み出した。
 今では、
 言われる神秘体験は
 ワインを飲んだり
 愛を交わしたり
 買い物をしたり
 雨の中を歩いたりするのと同じで、
 ひとつの経験であることがはっきりわかる。
 そうしたすべては
 自分として起こっているだけであって、
 自分に対して、
 あるいは自分によって
 起こっているのではない。
 経験がその中に現れては消えていく
 静寂の背景を、
 「悟った」と思っていた「自分」は
 見落としていたのだ。

 『夢へと目覚める』(p148)
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> 「私」がこの体験をするという観念が、
> 「私」が非二元的体験をするという
> ややこしい逆説を生み出した。

悟ることができる自分がいるという観念、

別の言い方をするなら、

「私」が非二元的体験を支えるという観念が、

バカバカしいわけです。

> 言われる神秘体験は
> ワインを飲んだり
> 愛を交わしたり
> 買い物をしたり
> 雨の中を歩いたりするのと同じで、
> ひとつの経験であることがはっきりわかる。

我々が憧れる自我喪失の神秘体験とは、

それ自体が経験として分類される

知覚可能なつかの間の場面にすぎなかった。

他のあらゆる体験と同じ

知覚の対象物にすぎなかったのです。

> そうしたすべては
> 自分として起こっているだけであって、
> 自分に対して、
> あるいは自分によって
> 起こっているのではない。

そういう自我喪失の神秘体験は、

映画の中の登場人物の物語の一部として

起こっていただけだった。

その体験を見ている者を

指し示してはいなかった。

> 経験がその中に現れては消えていく
> 静寂の背景を、
> 「悟った」と思っていた「自分」は
> 見落としていたのだ。

すべての経験は

それを映し出すもののなかで、

それを映し出すものに起こっています。

つまり、

起こっている経験そのものに

いかなる意味でも同一化しないものに、

そしてその経験を理解しているものに。

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 〈純粋意識〉というこの静寂な空間は、
 我々が注意と呼んでいるものとは違う。
 注意はあちこちさまよう。
 ほんの数秒の間に、
 注意はこのページ上の文字から腕のかゆみへ、
 そして昨夜の性交の記憶、
 さらに請求書の支払いを済ませなければ
 という思考に飛び、
 それからページに戻る。
 飛び回る注意の動きは
 〈純粋意識〉の中で起こる。
 注意は動くが、
 〈純粋意識〉は不動のままだ。
 あなたがどんな状態にいようと
 ──熟睡していても、
 夢を見ていても、
 目が覚めている時のあらゆる活動においても──
 〈純粋意識〉はある。
 あなたの身体。
 あなたの車、
 犬はすべて〈純粋意識〉の中で起こる
 〈純粋意識〉の現象だ。
 どのような姿で現れていても、
 〈純粋意識〉は〈ひとつ〉であり続ける。
 
 『夢へと目覚める』(p172)
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この〈純粋意識〉という何もなさ、

その静寂の空間こそが

すべてに気づいている者。

これゆえにすべての顕現が可能になる。

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 〈純粋意識〉には判断がない。
 善か悪か、
 正しいか間違っているか、
 安らいでいるか動揺しているかは問題ない。
 〈純粋意識〉は
 こうしたすべてが生じることを可能にし、
 そしてすべてがまた消えていくのを見る。
 時間切れになって現象宇宙が消滅するときも、
 〈純粋意識〉はそのままある。
 
 『夢へと目覚める』(p172)
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判断がないからこそ

すべての顕現が生じることを可能にする。

この何もなさ、

静寂の空間こそが存在のハート。

永遠の生命。

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 手を離して〈純粋意識〉に
 (または〈純粋意識〉として)
 くつろぐのは世界中でもっとも自然なことだ。
 努力も試練も探求も必要ない。
 だがもし努力したいのなら、
 あるいはもう少し探求したいのなら、
 それもまったく差し支えない。
 それで神経がすり減って疲れても、
 非常に穏やかになっても、
 〈純粋意識〉はわずかな努力も判断もせず、
 そのすべてを映す。 

 『夢へと目覚める』(p172)
 https://amzn.to/2KkUkAu
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わたしはいまこの瞬間も

この静寂の空間。

ただ頑張って人生ゲームを続けたいのなら、

この静寂の空間がそれを邪魔することはない。

あるのは理解だけ。

夢は一瞬一瞬、

想念として立ち上がる。

その想念に興味を持てば、

想念はたちまち一大伽藍を展開できる。

すべてはただの作り話。

その中でどんな疑問が起こっても、

夢はその回答を展開できる。

それが神秘の創造力です。

しかしそこで展開される夢のなかに

どんな実体が存在するわけでもない。

夢はどこまでもただの夢。

興味を失えば消えるだけ。

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
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■ 2.編集後記:
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pariパターンとして誕生した肉体に

どれだけのエネルギーが

込められていたのはか知りません。

経験されたどの瞬間も完璧だったでしょう。

それ以外はありえなかったのですから。

すべては自然現象です。

今日は墓参りをしてきました。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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