━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2019/7/28(第797号)
☆☆ ☆ ☆☆
☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。
あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
(『ダイレクトパス』)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在810名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇
1.グレッグ・グッドの「経験」概念
2.いただいたお手紙から:ぶらっくばにーさん
3.編集後記
──────────────────
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配信スタンド「メルマ」で読んでいただいている方、
「メルマ」のサービスは今年いっぱいで終わります。
実際に読んでくださっている方は
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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■ 1.グレッグ・グッドの「経験」概念
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台風の長期滞在が終わると暑くなりましたね。
昨夜は台風でしっかり雨が降りました。
台風が来ると思っていたので
夕方先延ばししていた草刈りをしました。
今日は大地がしっかり濡れているので、
心なしか風が涼しい。
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、
お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
朝方まだ布団のなかに横たわったまま
半睡半醒の微睡みのなかで
枕元に昨夜置いた本に手を伸ばします。
せっかく微睡んでいるんだから、
そんなことしなくてもいいのに、
って思います?(^_-)
まあそうですよね。
でもこれは
pariという本屋の息子だった登場人物に
起こっている自然現象です。
pariにはどうしようもありません。
ところが
これはこれでなかなかいいのです。
何回も読んだはずの
その本のその行の意味内容が
一段と何の抵抗もない明晰さのなかに
そのままに浮かび上がってくる。
そしてそのまま受け容れられるからです。
そういう朝方の微睡みの中でなら
これまで何度も悟ったものです。(*^_^*)
つまり、
昼間の常識(誤解)で抵抗されなければ
実際は「悟り」しか存在していないのです。
しかしまた、
「悟り」しか存在していない
という言い方もとても紛らわしい。
それは「悟り」という言葉に、
人間が悟ることができる
といった意味合いや、
その延長上に当然生まれる、
悟っている人間と悟っていない人間がいる
という誤解が付着しているからでしょう。
だから、
ネイサン・ギルは
「悟り」という言葉を避けて、
「Clarity(明晰さ)」
という言葉を使ったのでしょうね。
人間がいるという物語を前提にさえしなければ
当然そこにある〈明瞭さ〉とか
〈自明性〉といったニュアンスでしょうか。
言うまでもないほど
当たり前で自明なことなんだけど、
それを人間の言葉を使って
人間の物語の常識に説明しようとすると
とんでもなく異常で難しいことになるわけです。
今朝布団のなかで読んだのは
グレッグ・グッドの赤本
『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?』
でした。
今朝読んだのはその「対話」部分の中の
「あなたの経験」という章です。
この本をヒロさん訳で読めるのは
ほんとうにありがたいですね。
現在わたしのサイトがない状態なので
このメルマガはサイトには掲載されません。
メルマガだけの掲載です。
なので
長すぎる引用はいつものことですが、
今回はさらにその上を行き
「あなたの経験」の全体をご紹介します。(^_-)
とはいえ、
字面だけで言うなら、
特に新しい知見はないかもしれません。
内容はおそらく
あなたが知っていることばかりでしょう。
でもせっかくですから、
けっして自分がすでに知っていること
という目つきでは読まないでください。
まっさらな気持ちで聴いてもらえますか。
このメルマガの読者の方なら、
そしてこれまで
内容にも付き合ってくださった方なら、
情報として新しいものは何もありません。
たぶん“知っている”ことばかりかもしれません。
でもおそらく、
その理解とは別のものとして
日常を過ごしていらっしゃるはずです。
そうでなければ、
いまこのメルマガを読むはずもないので。(*^_^*)
そういう方の場合は(pariと同じように)、
グレッグ・グッドに直接質問している
この対話の登場人物ほど
真剣な耳で彼の言葉を聴くのは難しいはずです。
でも、
初めて聞くつもりで聴いてみてください。
今回はテキストを再掲したり
講釈まがいのことを言ったりもしません。
ただ引用範囲の内容について、
異論があるか、
はっきりしない点があるか、
それとも完全に納得なのかを
ご自分で確認していただきたいので、
その目的のために途中で何回か切りますね。
ダッシュで始まる部分が質問者の質問です。
そうでない部分がグレッグ・グッドの回答です。
では行きます。
──────────────────
あなたの経験
──あなたの経験はどういうものなんですか?
「あなたの」とか「私の」という属性はありません。
自分と経験の間に隔たりがあるとは私は感じていません。
経験を「している」ものとしては自分を見ていません。
存在することと経験は、
分けられないんです。
──私が知りたいのはそういうことではなく、
あなたの経験は非二元的で、
幸せで、私の経験より素晴らしいものですか、
ということなんですが。
そういう質問はよく受けます。
そう質問する人たちは
自分よりもっと至福に満ちた経験を
している先生を探すんです。
それから先生にくっついて過ごし、
自分でも同じような経験をしようとするわけです。
そういう人たちは
経験を個人個人のものだと考えていて、
感情的側面や情緒的側面に主に関心を持っています。
教える側がそういう傾向を助長することもあります。
でもそれは先生が傲慢で分離感を抱えていたり、
自分は生徒とは違うとか生徒よりも優れていると
考えていたりするために起こることです。
古くから伝えられてきた自己探求は、
誕生とも感覚とも他人との比較とも関係なく、
自分自身を知ることに関するものです。
自己とは気づきだということが分かると、
他人と比較するための土台が
消え去ってしまいます。
『気づきの視点に立ってみたら……』(p71-72)
──────────────────
ひとまずここで切ります。
ちょっとだけ引用部分を再掲すると、
> 自己とは気づきだということが分かると、
> 他人と比較するための土台が
> 消え去ってしまいます。
この状況が自分に訪れているかどうかだけ
確認していただければいいと思います。
では次に行きます。
──────────────────
── ええ、それは聞いたことがありますが……
ただ、
もしあなたが自分は人間だと思っていて、
もっと心地よい感覚を求めているとしたら、
そのための方法はいろいろありますよ。
身体によい食べ物をとって、
よく眠って、
運動をして、
好ましいことを考え、
人に親切にする。
これは孫がおばあちゃんから教わる類のことです。
いまでも通用する常識です。
瞑想も役立ちます。
ちょっと例をふたつあげてみましょう。
チャンティング瞑想をすると、
感情が高まって自分が拡張したように感じます。
チャンティングの対象となる
象徴や神像に惹かれていれば、
そういう感覚はもっと高まります。
それから、
仏教の慈悲の瞑想では
ハートが開く感覚を体験できます。
慈悲の瞑想では、
まず幸福と健康の祈りを自分に向けて、
それから祈りの対象を他の人たちや
生き物にまで次第に広げていきます。
それにはあらゆる場所のすべての宇宙にいる
意識を持った存在が含まれます。
こういう瞑想をすれば具体的な恩恵が得られますし、
すぐに効果があります。
それに瞑想を続けていると、
自分のために瞑想することが少なくなって、
瞑想の恩恵が長く続くようになりますよ。
でも古代からの英知が教えているのは、
それとは別のことです。
『気づきの視点に立ってみたら……』(p72-73)
──────────────────
自分は人間だという思い込みを掴んだまま
理解を永遠に先送りするために
スピリチュアルマーケットでの
成長物語に参入していくのも
〈意識〉が見ている申し分なく完璧な夢です。
何の問題もないわけですが、
その夢の中の登場人物にとっては
けっして楽な人生とは言い難いです。
その上でグレッグ・グッドは
> でも古代からの英知が教えているのは、
> それとは別のことです。
と言うわけです。
ここまで問題ないですよね。
では次に行きます。
──────────────────
──ええ、
でも私の経験も至福が永久に続く
非二元的なものになればいいと思うんです。
あなたや、
私が話を聞きに行っている
サットサンの先生たちや、
ラマナやニサルガダッタと
同じような経験ができたら、と。
そう感じるのは、
そういう人たちはそれぞれ別の存在だけれども
同じ境地にあるのだろうと
あなたが想像していることも原因になっています。
でも彼らが自身について語っているのは
そういうことではないんです。
というよりも、
それは彼らが語っていることとは
まるで関係がありません。
ラマナやニサルガダッタは、
感情や五感で感じる感覚の状態について
語っていたわけではありませんし、
そもそも経験を
自分という個人のものだとも言っていません。
彼らの教えが示しているのは
個人に関することではないのです。
分離した個人というものが存在しているという
思い込みの本質を見抜くこと、
それが彼らの教えが伝えようとしていることです。
個人という存在は
探求に対して持ちこたえられません。
つまり、
彼らが語っているのは
個人の経験のことではないわけです。
『気づきの視点に立ってみたら……』(p73-74)
──────────────────
この質問者の方の見解については
どう思われました?
彼の言葉を自分の言葉のように聞きますか?
それともそういう思いはわきませんか?
そしてグレッグ・グッドの回答については
どう思われました?
異論はありませんか?
では次に進みます。
──────────────────
──じゃあ、彼らは
どんなことについて話していたんですか?
ラマナもニサルガダッタも
彼ら自身のことを話しているんだと
思っていました。
ニサルガダッタは晩年、
苦しみについて語りました。
これは彼が至福に浸った境地について
話していたわけではないということを
示す手がかりです……
『気づきの視点に立ってみたら……』(p74)
──────────────────
質問者のこの言葉……どう思われました?
そしてグレッグ・グッドの回答。
この示唆に富んだ言葉……。
では次に行きます。
──────────────────
──ええ、そうすると
苦しみの経験については?
それは経験の中で苦しんでる
ということではないのですか?
経験とは広大に広がっていて
境界のない明晰さで、
その中でものごとが生じるようにみえるものです。
経験には観点がありませんし、
ものごとについての思い入れもありません。
おそらく、
経験は「自分のもの」だと
あなたは感じているんだと思います。
でも、
これが自分だと思えるようなものは
どんなものでも実際には経験の中の現れなんです。
『気づきの視点に立ってみたら……』(p75)
──────────────────
この質問者のコメントが引き出した
グレッグ・グッドの回答から、
以前わたしは特別な印象を受けませんでした。
あたかも自分が知っていることでもあるかのように。
でも今朝布団のなかで新たに読むと、
そこにはまったく知らない風景が展開していました。
> おそらく、
> 経験は「自分のもの」だと
> あなたは感じているんだと思います。
そうか……と思いました。
> でも、
> これが自分だと思えるようなものは
> どんなものでも実際には経験の中の現れなんです。
字面だけ読めば、
あたかも知っていることのようでもあります。
でもそれはけっして普段の経験ではない。
普段は自分が経験していると思っているからです。
グレッグ・グッドの「経験」の用法は、
その微妙な間隙を突いてきます。
その直前でグレッグ・グッドは
経験という言葉についての
彼の定義を説明しています。
> 経験とは広大に広がっていて
> 境界のない明晰さで、
> その中でものごとが生じるようにみえるものです。
> 経験には観点がありませんし、
> ものごとについての思い入れもありません。
【経験には観点がありません】
【ものごとについての思い入れもありません】
グレッグ・グッドのこの「経験」概念は
通常の地上の「経験」概念とはかけ離れています。
われわれが浸っている地上の通念では、
「経験」にはもちろん観点があり、
思い入れこそが重要な要素です。
しかし、
グレッグ・グッドが言う「経験」には
観点も思い入れも含まれていないという。
ここではグレッグ・グッドが教える
「ダイレクトパス」の知見が前提されています。
つまり
「ダイレクトパス」の手法で実際に実験してみると、
どんな独立した物質存在も
どんな個人も
実際には経験されないことが確認されるからです。
体験そのものを詳細に吟味してみると
位置とか観点に当たるものは何も体験されていないのです。
以下直接「ダイレクトパス」的な観点が展開されます。
では次に行きます。
──────────────────
──意味が分かりませんが?
自分の手を見てください。
目を閉じて、
手を膝の上に乗せてください。
これは自分の手だと
おそらく感じられるのではないでしょうか。
でも、
このことについて何を言ったとしても
それは全て思考、心象、運動感覚、意見に
基づいたものです。
そういう思考や感覚は
誰のものでもありません。
そうした思考や感覚は
どこかの場所にあるわけではなく、
どこかに中心をもっているわけでもなく、
気づきの中で浮かんでいるんです。
そうした感覚に関するもの、
あるいは気づきの中にあるもので、
それが「自分のもの」だと
示しているものはありません。
どれも個人には結びつけられていません。
個人が経験しているのではなく、
個人は経験されているんです。
『気づきの視点に立ってみたら……』(p75-76)
──────────────────
ここで展開されている言葉は
すべて「ダイレクトパス」の
実験を通じて得られた知見です。
これらがすべて
イデオロギーとしてではなく、
体験を通じて得られていることが
グレッグ・グッドの言葉に違いを生み出しているのです。
> 個人が経験しているのではなく、
> 個人は経験されているんです。
たとえばわたし(pari)は
こういう言葉はフレーズとしては聞き慣れてます。
新しいことを聞いたという気はしない。
だから何度読んでも読みすごされるのです。
そして今朝の微睡みの中で
その違いが明瞭に認識されたのです。
次に行きます。
──────────────────
──どうすればそれがわかるのでしょう?
確かに私は
ものごとに思い入れがあると思います。
だって私は求めているわけですから。
あなたの言った、
「境界のない……」
境界のない明晰さですか?
──そう!
そういう言葉を耳にすれば、
それを自分のものにしたくなるのは
当然です。
そうですね、
当然でしょう。
でも自分で手に入れたいと思うのは、
自分とは経験の入れ物のことだと
考えているときだけです。
経験は自分の内側で起こっている
というふうにあなたは感じているでしょうし、
他の人たちも内側で
ひとつの経験をしているんだろうと
思っているでしょうね。
でも、
それはあべこべです。
自分の身体、心(マインド)、
それに自分のものだと感じているもの、
そのすべてが経験され、
観照されているんです。
身体、心(マインド)、思考、価値観、
記憶はどれも対象です。
そういう対象がその中で生じる光、
それが明晰さです。
『気づきの視点に立ってみたら……』(p76-77)
──────────────────
> でも自分で手に入れたいと思うのは、
> 自分とは経験の入れ物のことだと
> 考えているときだけです。
ああ……と思いました。
> でも、
> それはあべこべです。
> 自分の身体、心(マインド)、
> それに自分のものだと感じているもの、
> そのすべてが経験され、
> 観照されているんです。
これも言葉として聞けば何ひとつ新しくはない。
でもその感覚が
日常に浸透しているだろうか?(-_-;)
> 身体、心(マインド)、思考、価値観、
> 記憶はどれも対象です。
言葉として聞けば、
何ひとつ異存はないのに。
> そういう対象がその中で生じる光、
> それが明晰さです。
それなのに朝方の微睡みの中でなら
あ……そうか (@_@) ⌒★?
と驚くのです。
次に行きます。
──────────────────
──へえ!
さかさまのような気がしますね、
でもそれは私にもわかるようなことですか?
今まさにあなたはそれを見ています!
というより、
見るということはすべてそれなんです。
でもそれを自分のものにはできません。
というのは、
それは空間であって、
あなたはその空間の中に現れているからです、
それを自分のものにしようとするのは、
飛行機の乗客が
自分の乗っている飛行機を
持ち上げようとするようなものです。
実際は飛行機が乗客を乗せているのです。
『気づきの視点に立ってみたら……』(p77)
https://amzn.to/2O7s8Un
──────────────────
> 今まさにあなたはそれを見ています!
このグレッグ・グッドの言葉は
あなたを貫きましたか?
> というより、
> 見るということはすべてそれなんです。
> でもそれを自分のものにはできません。
これを日常のわれわれは
通念で勝手に自分のものにしている。
でもその瞬間にも
それを体験しているのは
人間なんかじゃないわけです。
──────────────────
──ああ、
何かがシフトしたのを感じましたよ……。
でも一瞬おいて、
それについてちょっと考えてみると、
本当にそうだとは思えなくなってきます。
理屈で考えないようにしてください。
ちょっとのあいだ距離を置いて、
そして先入観を持たずにいてください。
個人というのは、
あたかもとても近くから
観察しているように感じられる何かです。
あなたは実際には
個人の頭蓋骨でも、心でも、
身体でも、記憶でもありません。
そういうものは対象であって
観察されているものです。
あなたはそういう対象を見ている側で、
この包括的な経験であり開放性であって、
ものごとはその中で
見かけとして現れています。
この開放性があなたです。
そのために、
ものごとが現れるのに気づいているのは
自分だと感じるわけです。
『気づきの視点に立ってみたら……』(p77-78)
────────────────
> あなたは実際には
> 個人の頭蓋骨でも、心でも、
> 身体でも、記憶でもありません。
> そういうものは対象であって
> 観察されているものです。
まったく異論ありませんよね。
> あなたはそういう対象を見ている側で、
> この包括的な経験であり開放性であって、
> ものごとはその中で
> 見かけとして現れています。
完全に同意します。
> この開放性があなたです。
そういうことです。
> そのために、
> ものごとが現れるのに気づいているのは
> 自分だと感じるわけです。
納得です。(-||-)
次に行きます。
────────────────
──でも、私の経験全部が
必ずしもあなたが言うような
親密で直接的なものでないのは
なぜでしょうか?
近くで起こっているように感じられる
この直接的な経験は、
いま何があるか、
ずっとどうなっていたかを指し示してくれます。
経験はすべて必ず直接的です。
経験には仕切りも媒介物もなく、
覆いもなく、
主体と対象の分離もありません。
──ええ、
でもずっとそうだったというのは、
どういうことですか?
そもそも、
主体と客体の分離というものは
一度もあったことがありません。
「分離」は物語の一部であるわけですが、
それが習慣になってしまっているんです。
でも分離という概念や、
対象から切り離されて
自分が存在しているという感覚が
消えるということも実際に起こります。
そうすると、
元々の包括的で完全な美しさは
経験に取り戻されます。
『気づきの視点に立ってみたら……』(p78-79)
────────────────
> 経験はすべて必ず直接的です。
> 経験には仕切りも媒介物もなく、
> 覆いもなく、
> 主体と対象の分離もありません。
これは「ダイレクトパス」の教えが採用している
実験の態度そのものでもあります。
> そもそも、
> 主体と客体の分離というものは
> 一度もあったことがありません。
たしかに、そんなものを
実際に経験することはできません。
すべて聞かされた話でした。
> 「分離」は物語の一部であるわけですが、
> それが習慣になってしまっているんです。
そうなのです。
次に行きます。
────────────────
──どうやったら分離の感覚を
自分から消せますか?
夕陽や映画に完全に没頭する
という経験をしたことはありませんか?
自分や他人という感覚がなく、
その瞬間に何が起こってるか
という感覚すらないような。
それはきわめて非二元的だと思います。
「ゾーンにいる」と表現されたりもしますね。
『気づきの視点に立ってみたら……』(p79)
────────────────
> 夕陽や映画に完全に没頭する
> という経験をしたことはありませんか?
夕陽の体験……。
思い出します。
次に行きます。
────────────────
──なるほど。
この夕陽の経験について詳しく探ってみて、
あらゆる経験が
この夕陽の経験とどのくらい似ているか
ということを見てください。
自分が他から切り離されているように
感じる経験であってもまったく同じです。
どの瞬間も同じです。
この経験は違うと考えること自体も、
夕陽の経験とまったく同じなんです。
どんなときでもあなたはそのままで
気づきとしての自分と一体になっています。
後になって初めて、
自分はこれをしていたとか、
あれをしていたというふうに
感じられるだけです。
でもその場合にも、
後になって
「そう感じられる」というその最中に、
あなたは完璧に
気づきとしてそこにいるわけです。
──ああ、
わかりました!
たったいま、
この瞬間は確かに
全体的で完全であるように感じます、
そう、
すべてそうなんです──
──どうもありがとう!
『気づきの視点に立ってみたら……』(p80)
https://amzn.to/2O7s8Un
────────────────
> 自分が他から切り離されているように
> 感じる経験であってもまったく同じです。
この言葉がヒットしました。
その瞬間にもそれを経験していたのは
頭蓋骨でもマインドでもなかったのです。
> どの瞬間も同じです。
> この経験は違うと考えること自体も、
> 夕陽の経験とまったく同じなんです。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html
ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
………○…………○…………○………
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.いただいたお手紙から:ぶらっくばにーさん
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
「私は在る」に関するご意見や単なるメールなど、
ご自由にお書きください。
………○…………○…………○………
今回も、ぶらっくばにーさんからご投稿をいただきました。
さっそく、ご紹介します。
【件名】:今更ながら「生まれかわり)の村」について
──────────────────
Pariさんこんにちは、お久しぶりです。
さて、Pariさんは森田健さんの「生まれかわりの村」に関する本
はお読みになられておりますか?
私は最近アドヴァイタについての情報を離れ死後の世界を日常的
な視点から書かれた本ばかりを音声図書館から借りて読んでおり
ます。
死後の探求は霊界通信によるもの、体外離脱によるもの、退行催
眠によるものと様々ですが、今回紹介したい「生まれかわりの村」
は(ご存知かもしれませんが)前世を忘れるスープを飲まなかった
人々の証言を元に死後の世界を解き明かそうとしているものです。
本の内容は理系的思考をお持ちの森田さんが2001年の頃から村を
尋ね、前世の記憶する人々の証言と著者の雑感がまとめられたも
のです。
「不思議研究所」を運営する著者はIT科学者なので質問や疑問は
「あの世にお金がある?」とか「あの世に空気はある?」等、唯
物論的な疑問が多いようですが、導き出された仮設はアドヴァイ
タの師が言っていることにほぼ近いものになっていることが大変
興味深いと思いました。
例えばこんな風です。
前世と今世では体やそれに付随する性も性格も考え方も違うのに
「私」という感覚だけが切れ目なく存在すること。
取材を続ける中で著者は価値判断や目的意識が無意味であること
を結論づけていること。
生は個人が選べるようなものではなく受動的であると、ほぼ全て
の人が証言していること。
村は中国の山岳地帯にあり崖から落ちたり貧困から病気になって
も病院がなく平均寿命が短かったりするのですが、前世記憶を持
つ人々はこのままで十分幸せだと言っていること。
これらの証言や著者のまとめを聞いていると、解脱するしないも
輪廻するしないも全ては運命のなせる技で、全てはあるがままに
存在するんだろうな、と思ったりしました。
最後ではありますが、いつも私の知らない本を抜粋していただき
ありがとうございます。
──────────────────
ぶらっくばにーさん、
ご投稿ありがとうございました。
> さて、Pariさんは森田健さんの「生まれかわりの村」に関する本
> はお読みになられておりますか?
森田健さんの本は
以前はかなり熱心に読んだことがありますが、
「生まれかわりの村」に関する本は読んでいません。
> 私は最近アドヴァイタについての情報を離れ死後の世界を日常的
> な視点から書かれた本ばかりを音声図書館から借りて読んでおり
> ます。
そうでしたか。
> 死後の探求は霊界通信によるもの、体外離脱によるもの、退行催
> 眠によるものと様々ですが、今回紹介したい「生まれかわりの村」
> は(ご存知かもしれませんが)前世を忘れるスープを飲まなかった
> 人々の証言を元に死後の世界を解き明かそうとしているものです。
なるほど。
> 本の内容は理系的思考をお持ちの森田さんが2001年の頃から村を
> 尋ね、前世の記憶する人々の証言と著者の雑感がまとめられたも
> のです。
> 「不思議研究所」を運営する著者はIT科学者なので質問や疑問は
> 「あの世にお金がある?」とか「あの世に空気はある?」等、唯
> 物論的な疑問が多いようですが、導き出された仮設はアドヴァイ
> タの師が言っていることにほぼ近いものになっていることが大変
> 興味深いと思いました。
「アドヴァイタの師」はあまりそういう話題で
話すことはないようですが……?
ぶらっくばにーさんの想像では、という意味ですか?
> 例えばこんな風です。
> 前世と今世では体やそれに付随する性も性格も考え方も違うのに
> 「私」という感覚だけが切れ目なく存在すること。
なるほど。
> 取材を続ける中で著者は価値判断や目的意識が無意味であること
> を結論づけていること。
> 生は個人が選べるようなものではなく受動的であると、ほぼ全て
> の人が証言していること。
個人が存在するという前提なんですね。
> 村は中国の山岳地帯にあり崖から落ちたり貧困から病気になって
> も病院がなく平均寿命が短かったりするのですが、前世記憶を持
> つ人々はこのままで十分幸せだと言っていること。
ある意味では地上人ととても近かそうですね。
> これらの証言や著者のまとめを聞いていると、解脱するしないも
> 輪廻するしないも全ては運命のなせる技で、全てはあるがままに
> 存在するんだろうな、と思ったりしました。
たしかに、すべてはあるがままに存在するんでしょうが。
ただ「あるがまま」はいろいろに解釈されるのでしょうね。
> 最後ではありますが、いつも私の知らない本を抜粋していただき
> ありがとうございます。
ご投稿、ありがとうございました。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518
………○…………○…………○………
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 3.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
いまのこの瞬間にもこれを経験しているのは
頭蓋骨でもマインドでもないのですね。(^_-)
これを経験しているのはpariではない。
pariは経験されているほうです。
物語はすべて経験されているほうです。
【これが自分だと思えるようなものは
どんなものでも実際には経験の中の現れなんです。】
(-||-)
今日は暗くなりました。
おやすみなさい。
<(_ _)>
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2019 paritosho
──────────────────
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