home > 通信 >『アセンション館通信』第799号:ダイレクトパスにおける熟睡



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/8/11(第799号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
 苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
 れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
 (『ダイレクトパス』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在813名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.ダイレクトパスにおける熟睡

2.編集後記
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■ 1.ダイレクトパスにおける熟睡
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今日も暑いですね。

暑いと外のことをする気が起こらない。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

毎日少しずつグレッグ・グッドの

『ダイレクトパス』

を読んでいます。

この本は「実験」マニュアルの体裁なので

読み進めるというよりは

本来はテキストの「実験」指示に従って

実際の自分の経験を調べて

確認するという進め方をすべき本です。

でも、書かれている内容に惹かれて

ついつい文章だけ読み進めてしまいます。

わたしの場合は、

至福体験のようなものはないのですが、

自分は身体という物質的側面ではなくて、

それに気づいている「真空」だ、

という結論に自分なりに達した体験があって、

自分が「気づき」のことだということに

最初から違和感がないためかもしれませんが。

もちろん、気になる「実験」については

後でまた本気でやってみるつもりです。

グレッグ・グッドの論理的確認方法は

わかっています。

個々の現れはすべて「気づき」(の内容)で、

それ以上の客観的実体をもたないのを

実際の経験で確認することです。

そしてどんな現れ(「気づき」の内容)も

ほかの現れを参照していないことを確認することです。

なぜなら、

参照しようとする現れが存在しているときは、

参照される現れはすでに存在していないからです。

「ダイレクトパス」ではこうして、

すべての現象世界を脱構築化するのです。

だから後で何かの構造部分が気になったら、

その部分を実際に実験して確認すればいいのです。

だからそのことに何も心配していません。

気になったらその部分の「実験」を

気が済むまでやればいいだけですから。

どうしてこの本を手に入れるのが

こんなに後回しになったのかわかりませんが、

まあ、そういうものなのでしょう。

それで『ダイレクトパス』を読むことで、

何かが明瞭になったのか?

いまはまだ事件の渦中にいるようなもので、

何がわかったと言うことはできませんが、

この本がとても自分向きであることだけは、

はっきりしています。

たぶん、

当分のあいだ他の本を読む気になれないでしょう。

上でも触れましたが、

要するに、この本を読んで起こることは

グレッグ・グッドがいう「脱構築」です。

いろいろな思い込み、

いろいろな観念や構造が、

すべて「気づき」のなかに溶けていく

ということです。

なぜなら、

すべての「構造」は「気づき」のなかの

現れにすぎないからです。

この本を読むと、

その原点への回帰が自動過程になるようです。

子供のころ、

春になると雪解けの地面に

水路を作って遊んだものでした。

冬のあいだ真っ白に覆われていた地面が、

春の日差しを浴びて雪が溶けはじめ、

あちらこちらの雪の下から

微かに溶けた水が流れはじめます。

やがて雪が本格的の溶け始めて

雪と泥がぐちゃぐちゃになるんですが、

そのあたりが一番面白いんです。

そのぐちゃぐちゃのなかに水路を作ってやると、

その水路に沿って水の流れができるからです。

春の陽を浴びたんですから、

放っておいても雪は溶けるんですが、

子供は水路を作って遊ぶことを思いつく。

水路を作れば水はその水路に沿って流れるので

それが面白いんでしょうね。

自分が水に命令しているみたいで。(^^;)

変なことを思い出しました。

『ダイレクトパス』を読むのは、

春の日を浴びるようなものかもしれません。

いろんな思い込みが溶けはじめます。

そういう自然過程が始まってしまうようです。

前回ご紹介した引用のなかで

グレッグ・グッドはこう言っていました。

──────────────────
 この探求のあいだ、
 あなたは悟りを求めていなかったということです。
 
 『気づきの視点に立ってみたら……』(p138)
──────────────────

この「あなた」というのは

物語の登場人物のことを指しているのか、

それとも「気づき」のことなのか?

「気づき」なら

もちろん、何も求めていないでしょうね。

でもおそらく、登場人物のことでしょうね。

ところで『ダイレクトパス』のかなり終わり近くに、

「ダイレクトパスにおける熟睡」

という一節があります。

ちょっと変わっているのでご紹介します。

──────────────────
 ダイレクトパスにおける熟睡
 
 以上のような伝統的
 アドヴァイタ・ヴェーダーンタの教えとは異なり、
 ダイレクトパスでは熟睡は状態としては扱われない。
 熟睡は私たちの本質であるとされる。
 熟睡は基本的には対象のない気づきだ。
 苦しみも、現れも、観照も、心も、身体も、
 世界もない気づきだ。
 一晩熟睡してから目覚めると、
 「ああ、よく寝た!」と言う。
 熟睡から目覚める際には、
 ひとつの状態から
 別の状態に移行しているわけではない。
 そうではなく、
 対象のない意識の期間があり、
 それから対象が現れ始めるのだ。 
 
 『ダイレクトパス』(p351)
──────────────────

> 熟睡は私たちの本質であるとされる。

このダイレクトパスの熟睡の定義は

わたしにはとても腑に落ちました。

神秘的なところが全然なくて、

まるで身も蓋もないような話ですが。

熟睡というのは、

自分が知っている状態

(と言えるのかどうかわかりませんが)

のなかでは最高の状態なので、

それが自分の本質だと言われれば

納得します。

上記の引用部分に続いて

こんな説明があります。

──────────────────
 対象のないこういった経験は、
 二ルヴィカルパ・サマーディのような
 高度な訓練を必要とする
 瞑想状態においても起こることがある。
 それに対して熟睡は
 どちらかと言えばもっと広く行き渡っている。
 どちらのケースも、
 純粋な「私」、
 純粋な実在、
 つまり主体と対象が分裂していない
 気づきの実例だ。
 熟睡が終わるとき、
 対象が現れる状態となる。
 私たちはそれを「目覚めている状態」と呼ぶ。
 
 熟睡を観照するわけではない。
 熟睡が自分なのだ。
 自分とは
 現れがそれに対して現れる気づきであって、
 現れが起こっているときも、
 現れと現れのあいだにも、
 現るの及ばないところでも、
 気づきは存在している。
 
 探求の目標は、
 絶えず熟睡の中にあることではなく、
 今この瞬間も自分はまさに同じもの、
 つまり気づきであると直感的に理解することだ。
 熟睡に関するを教えから私たちが学ぶのは、
 世界や身体や心が
 現れていないときであっても
 自分は静かに純粋に
 ここに存在するということだ。
 
 『ダイレクトパス』(p352)
──────────────────

> 熟睡を観照するわけではない。
> 熟睡が自分なのだ。

熟睡は気づきの対象ではない。

熟睡が対象がないときの気づきであり、

それが私の本質なのだと。

とてもわかりやすい話だと思いました。

> 自分とは
> 現れがそれに対して現れる気づきであって、
> 現れが起こっているときも、
> 現れと現れのあいだにも、
> 現るの及ばないところでも、
> 気づきは存在している。

気づきである私はいつでも存在している。

私こそが常在だと。

> 探求の目標は、
> 絶えず熟睡の中にあることではなく、
> 今この瞬間も自分はまさに同じもの、
> つまり気づきであると直感的に理解することだ。

このメッセージには唸りました。

これまでのわたしは、

「絶えず熟睡の中にあること」、

つまり二度と再び目が覚めないことこそが

願わしいことだと思っていましたから。

でもグレッグ・グッドは

そうではないと言う。

肝心なことは

「今この瞬間も自分はまさに同じもの、

 つまり気づきである」
 
と直感的に理解することだと。

そうか。(-_-;)

この瞬間も私は熟睡として存在している、

とわかっていることが大切なんですね。

> 熟睡に関するを教えから私たちが学ぶのは、
> 世界や身体や心が
> 現れていないときであっても
> 自分は静かに純粋に
> ここに存在するということだ。

熟睡中ですら

自分は静かに純粋にここに存在する。

世界や身体や心が現れているいまも、

自分は静かに熟睡としてここにいる。

(-||-)

以上の部分の後のほうに

次のような説明があります。

──────────────────
 熟睡に関する教えの目標
 
 熟睡について教えが目標としているのは、
 熟睡や没我状態やサマーディの境地に
 永遠にあり続けようとすることではない。
 熟睡とは、 
 たまたまどのような対象も現れていない
 切れ目にすぎぎない。
 
 熟睡から学べるのは、
 自分が自分であるために
 対象は必要ないという発見だ。
 現れが現れていても現れていなくても、
 自分は同じものだ。
 自分のアイデンティティは
 どのような現れにもまったく依存していない。
 この知恵が深く理解されると、
 驚くべきことがいくつか起こる。
 
 ・ある対象が生じる方が
  別の対象が生じるよりも
  好ましいと感じることがなくなる。
  対象についての好みもまた
  対象であることが認識されるからだ。
 
 ・特定の対象が存在しない状態が
  続くように願うことがなくなる。 
  これは対象に何が起こるかについての期待や懸念も
  また対象であることが認識されるからだ。
 
 ・特定の現れが生じることに動揺して、
  それは自分が非二元から「転落」した
  という意味であると判断することがなくなる。
  これは二元にいるとされる状態も
  非二元にいるとされる状態も
  それ自体が対象であることが認識されるからだ。
 
 ・非二元の目的は
  熟睡を永遠に続けることだとは考えなくなる。
  それは対象が生じているか
  生じていないかにかかわらず、
  気づきとしての自分が存在する上で
  対象は必要ないことが認識されるからだ。
  いずれにしても自分とは気づきだ。
  文字通りの対象の不在から
  対象を作ることがなくなる。
  対象は生じてもいいし
  しなくてもいいという自由は、
  ある種の開かれたあり方であり、
  対象に対する無条件の愛だ。
  これは対象の減少に、
  そして最終的には対象の消滅につながる。
 
 ・熟睡、没我状態、洞察の瞬間、
   「ゾーン」にいる状態を、
  そうでない状態よりも
  非二元的だと感じることがなくなる。
 
 ・そもそも対象が生じるという考え方そのものが、
  次第に意味をなさなくなってくる。
 
 『ダイレクトパス』(p356)
──────────────────

> 熟睡から学べるのは、
> 自分が自分であるために
> 対象は必要ないという発見だ。

現れがあろうがなかろうが関係なく

「気づき」である自分は存在する。

> 現れが現れていても現れていなくても、
> 自分は同じものだ。

自分はいかなる意図ももたない

熟睡として存在する。

> 自分のアイデンティティは
> どのような現れにもまったく依存していない。

熟睡である自分のアイデンティティは、

いかなる現れにも依存していない。

そしてグレッグ・グッドは

> この知恵が深く理解されると、
> 驚くべきことがいくつか起こる。

と言います。

> ・ある対象が生じる方が
>  別の対象が生じるよりも
>  好ましいと感じることがなくなる。

これはすごいことじゃないでしょうか。

そしてなぜそうなるのかというと……、

>  対象についての好みもまた
>  対象であることが認識されるからだ。

(@_@) ⌒★?

好き嫌いの好み(観念)もまた、

単なるひとつの現れにすぎないと。

これには唸りました。

その次のメッセージも同じ展開です。

> ・特定の対象が存在しない状態が
>  続くように願うことがなくなる。

これこそ我々が願っていることですよね。

その必要がなくなるというのです。

なぜそうなるのかというと……、
 
>  これは対象に何が起こるかについての期待や懸念も
>  また対象であることが認識されるからだ。

期待や懸念(という観念)もまた

単なるひとつの現れにすぎない。

期待や懸念が劇の一部であることは自明ですが、

あらゆる構造を支える劇の部品はすべて

単なるひとつの現れにすぎない。

> ・特定の現れが生じることに動揺して、
>  それは自分が非二元から「転落」した
>  という意味であると判断することがなくなる。

ふふ。

「悟り」の脱構築ですね。

「悟り」とやらを求めなくてもよくなる。

>  これは二元にいるとされる状態も
>  非二元にいるとされる状態も
>  それ自体が対象であることが認識されるからだ。

悟った夢も夢、迷った夢も夢。

それ自体ひとつの現れにすぎないことが自明だから。

> ・非二元の目的は
>  熟睡を永遠に続けることだとは考えなくなる。

熟睡を永遠に続けること

それこそが私がはまっていた物語でした。

でもそんなことを願わなくてもよくなる。

なぜなら、

>  それは対象が生じているか
>  生じていないかにかかわらず、
>  気づきとしての自分が存在する上で
>  対象は必要ないことが認識されるからだ。

熟睡中にも存在している自分は、

気づきとして存在するために

対象の有無にまったく依存していないから。

この確信がないかぎり、

永遠の熟睡を求め続けることになりそうです。

これが確信されているなら、

現れの存在を願う必要もなければ、

現れの存在を嫌悪する必要もない。

>  いずれにしても自分とは気づきだ。

いずれにせよ自分は

どんな意図ももたない熟睡として存在している。

>  文字通りの対象の不在から
>  対象を作ることがなくなる。

現れが生じていない状態から、

無理に現れを生じさせる必要がなくなる。

>  対象は生じてもいいし
>  しなくてもいいという自由は、
>  ある種の開かれたあり方であり、
>  対象に対する無条件の愛だ。

対象は生じてもいいし、

対象は生じなくてもいい。

この現れの有無に依存しない自由が、

開かれたあり方となり、

対象に対する無条件の愛となる。

>  これは対象の減少に、
>  そして最終的には対象の消滅につながる。

この自由な開かれた態度は、

現れを生じさせることを減少させ、

やがては現れを生じさせることをやめる。

> ・熟睡、没我状態、洞察の瞬間、
>   「ゾーン」にいる状態を、
>  そうでない状態よりも
>  非二元的だと感じることがなくなる。
> 
> ・そもそも対象が生じるという考え方そのものが、
>  次第に意味をなさなくなってくる。
 
このあたりは雲の彼方。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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この『ダイレクトパス』の内容が

自分の事実であることを

確認していくだけだと思います。

今日は何をするともなく日を過ごして、

すっかり晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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