home > 通信 >『アセンション館通信』第802号:気づきとは「私」のことなのだ



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/9/01(第802号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
 苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
 れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
 (『ダイレクトパス』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在818名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.気づきとは「私」のことなのだ

2.編集後記
──────────────────

      <<【連絡事項】>>

配信スタンド「メルマ」で読んでいただいている方、

「メルマ」のサービスは今年いっぱいで終わります。

実際に読んでくださっている方は

配信スタンド「まぐまぐ」のほうにご登録ください。

mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.気づきとは「私」のことなのだ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

またちょっと暑さが戻ってきましたね。

とはいえ、暑さも彼岸までかな。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

相変わらず

グレッグ・グッドの『ダイレクトパス』

を読んでいます。

というかこのごろは赤本の

『気づきの視点に立ってみたら……』のほうを

読み返すことが多くなっています。

これがメチャクチャすばらしい。

教えというのはありがたいですね、

教えが滴のように

夢の中に浸透してくるというのは

こういうことなのでしょうか。

(-||-)

何度も読んでいるはずなのに、

今まで何を読んでいたのだろうと思う。

こんなに単純なことなのに……。

どうしてこれまで

このリアリティに浸っていなかったのかと

不思議に思う。

まあ、それもいまの現れです。

理解をこのような言葉に落とし込んでくださった

グレッグ・グッドに感謝。(-||-)

そしてこのような見事な日本語に

翻訳してくださったヒロさんに感謝です。(-||-)

じつはわたし、以前

『STANDING AS AWARENESS』

を買ったことがあるんです。

どれくらい読んだのか……。

文字面の意味は辿れるのだけれど、

こんなことが書いてあるのだとは

とんと気がつきませんでした。(*^_^*)

「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」

という言葉がありますが、

これは何度も撃てばいいという話じゃない。

本の理解に関しては

最初に一回外したらそれでアウトです。

あの本はハズレだったとは言わないけれど、

よくわからなかったということにはなる。

まずもう一度その本を手に取ることはないでしょう。

それからヒロさん訳の

『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?』

が出たときにそれを買って読みました。

この本は「2014年5月19日 初版発行」ですが、

すぐに手に入れたんでしょうね。

『アセンション館通信』2014/06/08(第531号)
/mm/vol531.html#1

で紹介までしています。

そのとき書いたことや引用した文章を

いま眺めてみました。

そしたら、なんと!?

私が今回引用しようと思った部分でした。(@_@)

しかもとても感銘を受けた様子さえ見えます。

うーむ、不思議だ。(-_-;)

ところが今回はまるで

この文章がはじめて浸透してきたようにさえ

感じていたのです。

気づきの対象として浮上してくる色んな現れがあって、

その解釈もまた現れとして生じています。

気づきはそのどの現れでもありえないのです。

『気づきの視点に立ってみたら……』の

本文テキストの最初の部分を

ご紹介したいと思います。

──────────────────
 気づきの視点に立つには
 
 
 そもそも気づきとは何だろうか
 
 気づきの視点に立つということについて話す前に、
 まずは気づきそのものについての話をしよう。
 気づきは生じるものを見る。
 何が生じるとしても、
 それは気づきに対して現れる。
 形、思考、感情、感覚、
 時間、空間、単一性、多様性といったものが
 気づきに現れるためには、
 気づきそのものがそうした要素に制限されたり
 限定されたりすることはありえない。
 気づきはすべての対象に対する唯一の主体なのだ。
 気づきには形がないが、あらゆる形を見る。
 気づきは見られることがないが、見ている。
 
 気づきは「意識」と呼ばれることもある。
 気づきと意識というふたつの言葉は、
 ここで扱う教えては同じ意味を持つ。
 気づきは「存在」と呼ばれることもある。
 これは気づきが非実在でも
 空虚でもないということを表している。
 気づきが
 「知識」という言葉で呼ばれることもあるが、
 それは気づきによって
 無知が消えることを伝えている。
 また、
 気づきは「愛」と呼ばれることもある。
 これは気づきが開かれていて、
 魅惑的で寛容で親密で、
 そこには制限も苦しみもない
 という側面に注目した表現だ。

 自分の本質が気づきだということは
 簡単に経験できる。
 教えでは、
 気づきとは見られるものすべてを
 見ているものだとされている。
 「見る」ということが自分に生じているとき、
 人は視覚を直接経験する。
 見ることが自分以外の場所で生じるのを
 じかに経験することはない。
 自分が見ているということを
 「見る」こともできない。
 もっとはるかに近いのだ。
 視覚はいつでも
 ここで生じるものとして感じられる。
 いつも「私」が見ていると感じられる。
 
 気づきが見る。
 私が見る。
 どちらも同じだ。
 気づきとは「私」のことなのだ。
 あるいは、
 シユリ・アートマナンダの言葉を借りれば、
 気づきとは「私−原理」だ。
 
 『気づきの視点に立ってみたら……』(p12-13)
──────────────────

> 気づきは生じるものを見る。
> 何が生じるとしても、
> それは気づきに対して現れる。

現れはすべて気づきに対して生じている。

けっして誰にも反駁できない

簡明にして厳格な事実が述べられています。

> 形、思考、感情、感覚、
> 時間、空間、単一性、多様性といったものが
> 気づきに現れるためには、
> 気づきそのものがそうした要素に制限されたり
> 限定されたりすることはありえない。

現象世界を構成するすべての定義は

現れを叙述するための説明であって、

その現れに気づいているものが

それらの要素に制限されることはありえない。

> 気づきはすべての対象に対する唯一の主体なのだ。

形体や意味を含むすべての現れは、

唯一の主体である〈気づき〉に対する

対象物として生じている。

> 気づきには形がないが、あらゆる形を見る。

あらゆる形は対象物であるから、

〈気づき〉には形はない。

> 気づきは見られることがないが、見ている。

〈気づき〉はあらゆる現れを見ているが、

〈気づき〉自体はけっして見られることがない。

> 自分の本質が気づきだということは
> 簡単に経験できる。

しかも自分が〈気づき〉であることは

けっして観念的な哲学ではなく、

簡単に経験できる。

> 教えでは、
> 気づきとは見られるものすべてを
> 見ているものだとされている。

ダイレクトパスの教えでは、

〈気づき〉とは

“見られるものすべてを見ているもの”のことだ。

> 「見る」ということが自分に生じているとき、
> 人は視覚を直接経験する。

「見る」ということがあなたに起こっているとき

あなたはじかに視覚を経験している。

> 見ることが自分以外の場所で生じるのを
> じかに経験することはない。

あなたは自分以外の場所で

見るということが起こっているのを

じかに経験したことがあるだろうか?

いや、それはありえない。

あなたはけっして

そんなことは経験していない。

あなたは自分が見ている

という経験しかしたことがない。

「見るということ」は、

あなたにしか起こったことはないのだ。

> 自分が見ているということを
> 「見る」こともできない。

しかもあなたは、

自分が見ているということを
 
「見る」こともできない。

そのような観念が対象化されたイメージを

見ることはあるかもしれない。

だがそのイメージもまた

あなたが見ているひとつの対象物だ。

> もっとはるかに近いのだ。

あなたは〈気づき〉も、

〈気づき〉が見ているということも、

じかに見ることはできない。

なぜなら

その〈気づき〉はあなた自身であるために、

〈気づき〉の対象物にするには

あなたに近すぎるからだ。

> 視覚はいつでも
> ここで生じるものとして感じられる。

視覚はいつでも

自分に起こっているものとして感じられる。

> いつも「私」が見ていると感じられる。

いつも自分が見ている、

「私」が見ていると感じられる。

> 気づきが見る。
> 私が見る。
> どちらも同じだ。
> 気づきとは「私」のことなのだ。

〈気づき〉が見る。

「私」が見る。

これはどちらも同じことだ。

〈気づき〉とは「私」のことなのだ。

> あるいは、
> シユリ・アートマナンダの言葉を借りれば、
> 気づきとは「私−原理」だ。

このことを

シユリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノンは

〈気づき〉とは「私−原理」であると表現した。

じつに単純明快、

この説明で了解不能なことは何もありません。

グレッグ・グッドは続いて

次のように説明を展開します。

──────────────────
 気づきは対象ではない
 
 以上のことは、ある認識につながる。
 それはこの時点では
 たいした認識ではないように思えても、
 いずれ大きな変容をもたらすことになるだろう。
 その認識とは、
 気づきあるいは「私−原理」は
 見ている側であるため
 (気づきは視覚の主体だから)、
 気づき自体を見ることはできないというものだ。

 気づきは対象ではなく、主体だ。
 気づきは見られるものではなく、
 見ている側なのだ。
 
 この認識が
 いずれ変容をもたらすだろうと言ったのは、
 これがわかると
 探求のなかで気づきを対象化したり
 特別視したりしようとする傾向が
 なくなっていくからだ。
 気づきとは自分の本質だと聞けば、
 気づきを自分の手元に引き寄せて
 自分のものにしたくなるのは
 きわめて当然のことだろう。
 そして
 気づきを心の眼の前で拡大して見てみたいとか、
 気づきが皿の上に盛られているかのように
 目の前でじっくり観察してみたい
 と思うのではないだろうか。
 だが気づきは
 対象として存在しているわけではない。
 たしかに、
 気づきについての概念なら考えられる。
 気づきを表現するような言葉なら口に出せるし、
 気づきが芸術的に描写されたものなら
 見ることができる。
 でも、わかるだろうか。
 このいずれの場合も、
 じかに経験されているのは、
 概念、言葉、描写だ。
 気づきそのものがとらえられたわけではない。
 考えてみれば非二元の教えでなくても、
 通常の理屈からしても
 それはあたりまえのことだ。
 つまり、
 どんなものであれ対象が存在するためには、
 その対象を見る主体がなければならない。
 主体そのものが
 対象でもあるということなど、
 ありえるだろうか?
 
 『気づきの視点に立ってみたら……』(p13-15)
──────────────────

> 気づきは対象ではない

これ↑はこの一節のタイトルですが、

このことを理解するだけで

いろいろなスピリチュアル寄り道から

解放されるとグレッグ・グッドはいいます。

> 以上のことは、ある認識につながる。
> それはこの時点では
> たいした認識ではないように思えても、
> いずれ大きな変容をもたらすことになるだろう。

いろんな霊的気取りを

まるで問題にする必要がなくなりますよね。

実際のところ、

気づき以外には誰もいないわけですから。

にもかかわらず、

相変わらず登場人物としては

良い夢を見ようなどと欲をかいたり。(^_-)

> その認識とは、
> 気づきあるいは「私−原理」は
> 見ている側であるため
> (気づきは視覚の主体だから)、
> 気づき自体を見ることはできないというものだ。

このことが腑に落ちるだけで、

自分がゴールにいるんだということがわかります。

> 気づきは対象ではなく、主体だ。

そしてあなたもわたしも、

われわれ全員がその主体であることは

否定しようのない事実です。

「私は在る」とは、

「自分は気づいている」ということです。

これをあなたは否定できますか?

つまり言い換えると、

「自分とは気づきである」ということです。

> 気づきは見られるものではなく、
> 見ている側なのだ。

あなたもわたしも見ている側です。

すでに誰もがゴールに立っている。

夢の中身が違うだけなのです。(^_-)

自分はもっといい夢が見たい、というのなら、

それなら好きにやってくれ、という話ですよね。(*^_^*)

だってそれは夢の中身だの話なのだから。

> この認識が
> いずれ変容をもたらすだろうと言ったのは、
> これがわかると
> 探求のなかで気づきを対象化したり
> 特別視したりしようとする傾向が
> なくなっていくからだ。

霊的探求における神秘主義は雲散霧消してしまいます。

マハラジならこう言ったかもしれません。

「そこに探求すべき第二の、
 あるいは高次の自己というものはない。
 あなたが最高位の自己なのだ」(p536)

と。

> 気づきとは自分の本質だと聞けば、
> 気づきを自分の手元に引き寄せて
> 自分のものにしたくなるのは
> きわめて当然のことだろう。

こうして霊的探求における神秘主義が始まります。

> そして
> 気づきを心の眼の前で拡大して見てみたいとか、
> 気づきが皿の上に盛られているかのように
> 目の前でじっくり観察してみたい
> と思うのではないだろうか。

ハートの姿を視覚化したり……。

> だが気づきは
> 対象として存在しているわけではない。

気づきは対象を見ている側だから。

> たしかに、
> 気づきについての概念なら考えられる。
> 気づきを表現するような言葉なら口に出せるし、
> 気づきが芸術的に描写されたものなら
> 見ることができる。

レベルをつけるためのたくさんの

思いつきがありますよね。

> でも、わかるだろうか。
> このいずれの場合も、
> じかに経験されているのは、
> 概念、言葉、描写だ。

創造的作品群です。

> 気づきそのものがとらえられたわけではない。

気づきはそれに気づいている自分だから。

> 考えてみれば非二元の教えでなくても、
> 通常の理屈からしても
> それはあたりまえのことだ。

まったくです。

ごくごく当然のことでした。

> つまり、
> どんなものであれ対象が存在するためには、
> その対象を見る主体がなければならない。

はい、絶対にその主体だけは欠かせない。

現れが生じるためには、

その対象に気づいている主体が

存在しないということはありえない。

> 主体そのものが
> 対象でもあるということなど、
> ありえるだろうか?

ラマナ・マハルシなら

こう言ったかもしれません。

「もし映画のなかで、
 観客もまたドラマの一部として
 スクリーン上に見られたとしたら、
 見る者と見られるものが
 ともにスクリーン上にあることになる」(p50)

プ!(>_<)

でも、このことを笑うことはできません。

わたしは一生かけてやってきたから。(^_-)

いや、今も映画の中の登場人物として

もっとやりようがあるんじゃないかと

欲をかいたりしているから。(*^_^*)

マハルシは言います。

「実在のなかに在りながら、
 われわれは実在を獲得しょうと探究している。
 これ以上の不思議はないだろう。
 われわれは実在を隠している何かがそこに在り、
 実在が獲得される前に
 それが破壊されなければならないと思っている。
 それはばかげている。
 あなた自身があなたの過去の努力を
 笑う日がやってくるだろう。
 あなたが笑うだろうその日もまた、
 今、この瞬間なのである」
 『あるがままに』(p97-98)

〈気づき〉のもうひとつの名前は〈実在〉です。

私は存在します。

そして私は気づいています。

私は〈気づき〉であり

〈実在〉以外の何者でもないのです。

私はこれ以上はない

永遠の不動であり実在なのです。

グレッグ・グッドは続けます。

──────────────────
 より突っ込んで考えてみれば、
 もっと納得できるはずだ。
 頭脳や視覚を使って何かを調べるというのは、
 対象についてすることだ。
 対象を見ている主体を調べることはできない。
 見ているというこの視覚自体を
 とらえることはできないのだ。
 これが不可能だということはいつでも確認できる。
 気づき自体を見ることができるかどうか、
 試してみてほしい。
 それでだめなら
 ダグラス・ハーディングの実験はどうだろうか。
 何度やってもみごとに失敗するはずだ。
 対象と気づきのあいだの
 この違いが腑に落ちるほど、
 気づきを確認するために
 何か特別なものを探そうとはしなくなる。
 気づきを自分に引き寄せようとか、
 これこそ気づきだと信じて
 特定の対象にしがみつこうとすることもなくなる。
 そうなれば、
 素晴らしい自由がもたらされるだろう。
 
 気づきは、
 はじめからずっと存在している。
 気づきはどんな概念より、
 言葉より、イメージより、はるかに親密だ。
 気づきはあらゆる対象がその中で生じる
 開かれた明晰さだ。
 そこにすべてが存在しているのが気づきであり、
 そこにすべて消え去っていくのが気づきだ。
 何もないときでも気づきはある。
 気づきとは、
 開かれていて愛に溢れたあなたという広大さなのだ。
 
 『気づきの視点に立ってみたら……』(p15-16)
──────────────────

> 頭脳や視覚を使って何かを調べるというのは、
> 対象についてすることだ。

何かを調べるというのは、

気づきに対して現れる対象物についてすることだ。

> 対象を見ている主体を調べることはできない。

見ているあなた自体を調べることはできない。

> 見ているというこの視覚自体を
> とらえることはできないのだ。

視覚自体を見ることはできないのだ。

> これが不可能だということはいつでも確認できる。

これが不可能だということを

あなたはいつでも確認できる。

> 気づき自体を見ることができるかどうか、
> 試してみてほしい。

あなたである〈気づき〉自体を

〈気づき〉の対象物にできるだろうか?

> それでだめなら
> ダグラス・ハーディングの実験*はどうだろうか。

ダグラス・ハーディングの実験*はどうだろうか。

訳本にはヒロさんが

次のような訳注を入れてくださっています。

 --------------------
 *訳注 ダグラス・ハーディングの実験。
 英国の哲学者ダグラス・ハーディング
 (1909年-2007年)が考案した、自分の本質を
 確かめるための一連の実験。
 ここでは、気づきの主体と対象の
 根本的な違いが体験できる「指差し実験」
 のことをお特に指していると思われる。
 この実験の詳細については、
 ウェブサイト「頭がない方法」
 http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/
 あるいは彼の著書
 『今ここに、死と不死を見る』(マホロバアート)
 を参照されたい。
 --------------------

> 何度やってもみごとに失敗するはずだ。

見ている自分を対象物にはできない

ということでしょうね。

> 対象と気づきのあいだの
> この違いが腑に落ちるほど、
> 気づきを確認するために
> 何か特別なものを探そうとはしなくなる。

〈気づき〉を手に入れようとか、

〈気づき〉に近づこうとはしなくなる。

> 気づきを自分に引き寄せようとか、
> これこそ気づきだと信じて
> 特定の対象にしがみつこうとすることもなくなる。

どうあがいても、

あなたは永遠不動の〈気づき〉、

あらゆる対象物に気づいている〈気づき〉そのもの。

あなたはゴールに立っている。

> そうなれば、
> 素晴らしい自由がもたらされるだろう。

すべて現れは

あなたという〈気づき〉のなかで生じている。

> 気づきは、
> はじめからずっと存在している。

はじめから

すべての現れの背景としてずっと存在している。

> 気づきはどんな概念より、
> 言葉より、イメージより、はるかに親密だ。

あなたがこれ以上

〈気づき〉に近づくことは永遠に不可能です。

あなたが〈気づき〉なのだから。

> 気づきはあらゆる対象がその中で生じる
> 開かれた明晰さだ。

すべての現れは

あなたという〈気づき〉の中で生じている。

> そこにすべてが存在しているのが気づきであり、
> そこにすべて消え去っていくのが気づきだ。

すべての現れはあなたという〈気づき〉の中で生じ、

あなたという〈気づき〉の中に消えていく。

> 何もないときでも気づきはある。

現れがないときにも〈気づき〉はある。

> 気づきとは、
> 開かれていて愛に溢れたあなたという広大さなのだ。

〈気づき〉とは、

生じるすべての現れを受け容れ、

生じるすべての現れを愛している

あなたという広大さなのだ。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


   ………○…………○…………○………


▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

「私は在る」に関するご意見や単なるメールなど、

ご自由にお書きください。


   ………○…………○…………○………


▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


   ………○…………○…………○………


━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今日はアキアカネがたくさん飛んでいました。

秋らしい夕暮れになってきましたね。

今日は明るいうちに終えました。

ではまた。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2019 paritosho
──────────────────

home】 【挨拶】 【本棚】 【映画】 【N辞書】 【R辞書】 【随想】 【仕事】 【通信】 【連絡