home > 通信 >『アセンション館通信』第803号:偽りでもごまかしでもない



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/9/08(第803号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
 苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
 れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
 (『ダイレクトパス』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在820名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.偽りでもごまかしでもない

2.編集後記
──────────────────

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■ 1.偽りでもごまかしでもない
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九月に入ったら

やはり秋らしくなります。

一瞬一瞬の現れは

たしかに微妙に違うのだけれど、

それでもやっぱり秋は秋。

記憶の中の昔の秋ではないけれど。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

グレッグ・グッドの

『気づきの視点に立ってみたら……』を
https://amzn.to/2O7s8Un

読み返しています。

気づきの視点に立ってみたら……。

そうですねぇ。

実際に「自分」って

「気づいているということ」

以外のなにものでもないですものね。

とても無理のない自然な立ち位置だと思います。

ただ我々はたいてい

自分というのは

まわりの環境から分離して

人間の身体として存在している、

と深く深く信じこんでいるので、

厄介なだけですよね。

でも実際は現象世界の中では

まわりから分離・独立した実体として

存在できるようなものは

何ひとつないでしょうけど。

思えばいままで

出会いに導かれるままに、

様々な観念に夢中になってきたものです。

でもそれは、

言葉を変えてあからさまに言えば、

その場その場の現れに

あまりにも忠実に反応してきたというか、

言うなればカウチポテト状態ですよね。

しかもその時々の“自分”の反応に

とてもプライドを持っていたりして。(*-_-*)

まあ、映画のなかには

自分も他人もいますからね。

そして

そのすべてが気づきに対しての現れです。

自分はつねにその現れに気づいている。

つまりすべてが自分なのですね。(*^_^*)

『STANDING AS AWARENESS』

ヒロさんの翻訳によるなら

気づきの視点に立ってみる……こと。

これはとても自然な道だと思います。

でも具体的には

どうすればいいのか、

という疑問も湧いてきます。

今回はそのあたりに触れた箇所をまた少し

『気づきの視点に立ってみたら……』

から写経してみます。

いつもながら

常軌を逸して長い無断引用なので

できればこの本の無料宣伝になれば

と思っています。

──────────────────
 どのように気づきの視点に立つか?
 
 
 まずできるのは、
 二十四時間どこをとっても、
 そのほとんどのあいだ
 自分がすでに気づきの視点に立っているのを
 認めるということだ。
 たとえばさきほど挙げたような、
 主体と対象のあいだの隔たりが
 経験されていない時間がそれだ。
 そういう時間が一日の中に占める割合は、
 通常考えられているよりもはるかに大きい。
 熟睡の時間をそこに含めるのであれば、
 なおさらだ。
 
 そうでないとき、
 たとえば物質や思考といった対象の世界を
 経験しているように感じられるときでも、
 少しだけ時間をとり、
 「私」と気づきの類似点に
 目を向けてみてはどうだろうか。
 (a) 経験している主体と、
 (b) 意識との間で、
 似かよっている点だ。
 経験をしている自己が意識をとらえることはないし、
 意識が自己をとらえることもない。
 意識にも自己にも形はなく、
 色もなく、
 どこかに位置しているわけでもない。
 どちらも主体としてじかに経験されるが、
 対象としては経験されていない。
 意識と自己は同じもので、
 どんな対象もそれに対して現れる。
 
 つまり「私」はそのままで気づきなのだ。
 シュリ・アートマナンダは
 自己を「私−原理」と呼んだ。
 この洞察に基づいて
 「そうか。じゃあ、
  気づきに当てはまることは
  自分にも当てはまるんだな」
 という視点に立ってみてはどうだろうか。
 そしてそれが完全に腑に落ちると、
 そこからあなたの経験は一変してしまうだろう。
 
 ・気づきは苦しまない。私も苦しまない。
 ・気づきは現れたり消えたりしない。私もそうだ。
 ・気づきは開かれていて広大だ。私もそうだ。
 ・気づきには限界も端も境界もない。私にもない。
 ・対象があるときもないときも、
  あらゆる対象を超越して気づきはある。
  私もそうだ。
 
 こうした洞察から、
 気づきとしての視点が真実であることが
 経験によって確かめられはじめる。
 自分の立ち位置を明らかにするのは、
 生まれながらの権利を宣言するのと同じだ。
 これは旅行が終わって自宅に帰るようなものだ。
 「私はわが家にいる。
  気づきとして。
  私と気づきは同じものなんだ!」
 と認める。
 これをおこがましいと思う必要はない。
 これについては
 間違うことなどありえないのだから。
 
 『気づきの視点に立ってみたら……』(p20-21)
──────────────────

> まずできるのは、
> 二十四時間どこをとっても、
> そのほとんどのあいだ
> 自分がすでに気づきの視点に立っているのを
> 認めるということだ。

これが事実であることを自覚したら、

気づきの視点に立つこと自体

まったく特別なことではなくなります。

ラメッシ・バルセカールのいう

「考える心」と「機能する心」のうち、

「機能する心」が働いている時間はすべて

気づきの視点に立っていることになりますから。

チコちゃんに叱られそうな

“ボーと生きている”瞬間も、

まったく放心している瞬間も、

すべて気づきの視点に立っている。

心配したり悔やんだり

比較したりといった、

「考える心」が働いている時間だけが

エゴの視点に立っているというわけです、

> たとえばさきほど挙げたような、
> 主体と対象のあいだの隔たりが
> 経験されていない時間がそれだ。

これは夕陽に見入っているとか、

映画に夢中になっているといった、

いわゆるソーンに入っている瞬間のことです。

> そういう時間が一日の中に占める割合は、
> 通常考えられているよりもはるかに大きい。

たしかに、そうなのかも。

> 熟睡の時間をそこに含めるのであれば、
> なおさらだ。

熟睡はダイレクトパスの定義では

自分の本質とされているんでしたね。

これらの時間をすべて合わせるなら

我々は実際は多くの時間

すでに気づきの視点に立っているわけです。

> そうでないとき、
> たとえば物質や思考といった対象の世界を
> 経験しているように感じられるときでも、
> 少しだけ時間をとり、
> 「私」と気づきの類似点に
> 目を向けてみてはどうだろうか。

その他の

現象世界に小突き回されて生きている

と思われる瞬間についても

実際の経験内実を調べてみると……

> (a) 経験している主体と、
> (b) 意識との間で、
> 似かよっている点だ。

エゴとして経験している主体と

気づきはとても似ている。

> 経験をしている自己が意識をとらえることはないし、
> 意識が自己をとらえることもない。
> 意識にも自己にも形はなく、
> 色もなく、
> どこかに位置しているわけでもない。
> どちらも主体としてじかに経験されるが、
> 対象としては経験されていない。

物語のなかの登場人物としての自己は、

その物語を見て(存在させて)いる気づきに

気づいてはいない。

気づきにも物語の登場人物の自己にも

形もなければ、色もない。

どこかに位置しているわけでもない。

(ただし、物語の登場人物の自己は

 登場人物の身体に閉じ込められている

 と想像しているかもしれないけれど。)

現れに気づいていることと

現象世界(物語)のなかの登場人物の自己は

両方とも主体としてじかに経験されているが、

対象物として経験されることはない。

現れに気づいていることも、

物語の登場人物の自己も、

経験の主体であって

経験の対象物ではない。

しかも自分は

現れに気づいている気づきだ

という自覚があるときは

物語の登場人物の自覚は存在せず、

物語の登場人物の自覚があるときは

現れに気づいている

気づきの自覚は存在しない。

> 意識と自己は同じもので、
> どんな対象もそれに対して現れる。

現れに気づいている気づきと

登場人物が自覚している

自分(の本質)は同じものだ。

経験の対象物はすべて

それに対して現れている。

> つまり「私」はそのままで気づきなのだ。

つまり登場人物が自分と思っている

「私」とはそのままで気づきなのだ。

> シュリ・アートマナンダは
> 自己を「私−原理」と呼んだ。

そのためダイレクトパスの導師

シュリ・アートマナンダは、

この気づきの主体性のことを

「私−原理」と表現したのだ。

> この洞察に基づいて
> 「そうか。じゃあ、
>  気づきに当てはまることは
>  自分にも当てはまるんだな」
> という視点に立ってみてはどうだろうか。

このシュリ・アートマナンダの

洞察にそのままあやかって、

じゃあ、この自分そのままで

気づきの視点に立ってもいいわけだ、

と自分に許可してみてはどうだろうか。

> そしてそれが完全に腑に落ちると、
> そこからあなたの経験は一変してしまうだろう。

これが僭称でも詐称でもないことが

完全に腑に落ちると、

そこからあなたの経験は一変するだろう。

なぜならこれまで

物語の登場人物の経験だったものが、

そのままで現れに気づいている

気づきの経験に変容しはじめるからだ。

> ・気づきは苦しまない。私も苦しまない。

苦しむのは物語の登場人物だ。

現れに気づいている気づきは苦しまない。

気づきの立ち位置にある私は苦しまない。

> ・気づきは現れたり消えたりしない。私もそうだ。

現れたり消えたりするのは物語の登場人物だ。

その物語に気づいている

気づきは現れたり消えたりしない。

気づきの立ち位置にある私もそうだ。

> ・気づきは開かれていて広大だ。私もそうだ。

物語の登場人物はちっぽけな存在だが、

その物語に気づいている

気づきは開かれていて広大だ。

気づきの立ち位置にある私もそうだ。

> ・気づきには限界も端も境界もない。私にもない。

物語の登場人物には限界も端も境界もあるが、

その物語がそこに現れている

気づきには限界も端も境界もない。

気づきの立ち位置にある私にもない。

> ・対象があるときもないときも、
>  あらゆる対象を超越して気づきはある。
>  私もそうだ。

物語の登場人物は物語の推移に応じて

現れたり消え去ったりする。

だがその物語の出現に気づく気づきは

あらゆる対象物の有無に関係なく

つねに存在している。

気づきの立ち位置にある私もそうだ。

> こうした洞察から、
> 気づきとしての視点が真実であることが
> 経験によって確かめられはじめる。

こうした洞察が

実際に気づきの視点に立ってみることで、

経験的に真実であると確かめられはじめる。

> 自分の立ち位置を明らかにするのは、
> 生まれながらの権利を宣言するのと同じだ。

このように自分の立ち位置を明らかにするのは、

実際は気づいてもいない者が

気づいているかのように僭称するのとは違う。

現れに気づいているあなたは実際に気づきだ。

だからあなたは

生まれながらの権利を宣言しているだけなのだ。

> これは旅行が終わって自宅に帰るようなものだ。
> 「私はわが家にいる。
>  気づきとして。
>  私と気づきは同じものなんだ!」
> と認める。
> これをおこがましいと思う必要はない。
> これについては
> 間違うことなどありえないのだから。

これは旅行を終えた旅人が帰宅するのと同じだ。

物語の登場人物として

あなたは長い旅をしていた。

「私はいま登場人物としての旅を終えた。

 この長い旅のあいだもずっと
 
 私はこの物語を見ている気づきだった。
 
 いま私は気づきとしてわが家にいる。
 
 登場人物の自分と
 
 物語を見ている気づきは同じものだった!」

とあなたは認める。

これを分不相応なおこがましい態度と思う必要はない。

自分を物語の登場人物と思い込むのは

たしかに誤解かもしれないが、

現に現れに気づいているあなたが

自分を気づきそのものだと自認することは、

誤解ではまったくないからだ。

つづいてグレッグ・グッドは、

実際に〈気づきとして存在してみる実験〉

について紹介しています。

──────────────────
 〈気づきとして存在してみる実験〉
 
 気づきであるというのは
 どういうことかを味わうために、
 昼夜を問わずいつでもできる実験を紹介しよう。
 少し時間を取って、
 ただあってみよう。
 先入観を持たず、
 気づきについても何も考えずに、
 身体であっても、
 心(マインド)であってもいけない。
 自分が何かだとはまったく考えないように。
 そしてイメージや見かけが、
 形態や観点さえもが、
 現れては消えていく様子に
 ただそのまま注意を向けよう。
 確認してみてほしい。
 「自分」が現れたり消えたりする経験を
 しているだろうか。
 それともあなたは観照する気づきとして
 穏やかに完璧にいまにあって、
 静止していて、
 一点の曇りもなく、
 開かれているだろうか?
 
 『気づきの視点に立ってみたら……』(p22)
──────────────────
 
> 気づきであるというのは
> どういうことかを味わうために、
> 昼夜を問わずいつでもできる実験を紹介しよう。

いつでもできる実験。

そういうのがあるのなら……。(^^;)

> 少し時間を取って、
> ただあってみよう。

なんと!(@_@)

> 先入観を持たず、
> 気づきについても何も考えずに、
> 身体であっても、
> 心(マインド)であってもいけない。

これはもう

 ──────────────────
 いつもマインドをせわしなくさせていてはいけない。
 それをやめ、ただ在りなさい。
 
 『私は在る』(p330)
 ──────────────────

というマハラジの教えそのものですね。

> 自分が何かだとはまったく考えないように。

 ──────────────────
 「私はあれやこれだ」
 というのが私たちの通常の態度だ。
 忍耐強く堅固に、
 「あれ」や「これ」から
 「私は在る」を分離しなさい。
 そして「あれ」や「これ」として在るのではなく、
 ただ在るということがどういった意味をもつのか
 感じ取ってみなさい。
 
 『私は在る』((p79)
 ──────────────────

(-||-)

> そしてイメージや見かけが、
> 形態や観点さえもが、
> 現れては消えていく様子に
> ただそのまま注意を向けよう。

pariさんとやらも、

こうした言葉をただ書き写すのではなく、

そろそろ自分で実際にはじめなさい。

(*-_-*)

> 確認してみてほしい。
> 「自分」が現れたり消えたりする経験を
> しているだろうか。

いえ、そういう経験はしていません。

自分は現れたり消えたりしません。

> それともあなたは観照する気づきとして
> 穏やかに完璧にいまにあって、
> 静止していて、
> 一点の曇りもなく、
> 開かれているだろうか?

はい、いま起こっている形や想念に

ただ気づいているだけです。

(-||-)
 
──────────────────
 確認
 
 気づきの視点に立つというのは
 偽りでもごまかしでもない。
 スピリチュアルな抜け道でもなければ、
 得てもいないのに
 得たと言い張ることでもない。
 むしろこれは
 自宅の居間に入るようなものだ。
 そして、
 気づきの視点に立つのは
 まったく自然なことだと
 教えてくれるものはたくさんある。
 もし気づきと恋に落ちることになったら、
 さらに多くの裏づけが見つかるだろう。
 
 思いがけないことに、
 裏づけのひとつは言語を通して見つかる。
 思いがけないと言ったのは、
 たいていの場合、
 言語は真実を経験するのを
 妨げたり阻んだりするものとして
 扱われているからだ。
 だが気づきの視点に立つと、
 言語は気づきという視点が正しいことを
 確認してくれるものへと姿を変える。
 
 たとえば、
 あらゆる言葉は気づきを指し示している
 ということに気づくだろう。
 というのは、
 (a) 気づきはあらゆるものの本質であり、
 (b) 言葉によって言及されたり、
   指し示されたり
   参照されたりすることができるものは
   気づきだけだからだ。
 気づき以外に、
 言葉によって参照されるものは何もない、
 指し示されるものは
 気づき以外には
 まったく見つけることができない、
 動詞についても、
 「私が〜する」ということによって
 気づきを表していると言っていい。
 代名詞をまた気づきをじかに指している。
 「あなた」「私」「彼女」「彼」
 「私たち」「彼ら」といった代名詞は、
 名詞が気づきを参照しているのと同じように、
 気づきを直接指し示している。
 
 人が「私」という場合、
 その言葉気づきから現れ、
 そしてまた気づきに戻っていくが、
 これがほんとうの意味での参照だ。
 「私」という思考そのものも、
 さまざまな思考と同じように、
 気づきの中へと消え去ることによって
 気づきを参照している。
 ここで言う「私」は個人ではない。
 あなたの私でも、
 グレッグの私でもない。
 個別の私として存在できる人はいない。
 と言うのも、
 気づきはどうやっても分割できないからだ。
 
 誰かに比べて
 自分は「私」とのつながりが弱い、 
 などということはありえないと
 
 分かるようになる。
 それどころか、
 あなたも、
 ほかの人も、
 あらゆるものも、
 そのすべてがこの「私−原理」であり、
 それは気づきそのものなのだ。
 あるものと別のものとを切り離している
 ように見える身体や境界や仕切りは、
 そのどれもが
 このまったく同じで気づきであって、
 「私」にほかならない。
 つまさきをぶつけるとか、
 歯科で治療を受けるといった
 一見痛みをともなう出来事でさえ
 純粋な経験、気づき、
 「私−原理」にほかならない。
 こうしたできごとには
 気づき以外のものとしての実体は
 いっさいないのだ。
 
 これこそが直接的な経験の本質だ。
 経験は自由で、
 境界がなく、
 切り離されておらず、
 穏やかだ。
 すべてがまった同じようにそうなのだ。
 
 『気づきの視点に立ってみたら……』(p22-24)
──────────────────

> 確認

グレッグ・グッドは親切にも

ここで確認事項をまとめています。

> 気づきの視点に立つというのは
> 偽りでもごまかしでもない。

気づきの視点に立つというのは

偽りでもなければ

何かを誤魔化すことでもない。

> スピリチュアルな抜け道でもなければ、
> 得てもいないのに
> 得たと言い張ることでもない。

霊的マーケットに売り出される

インチキな抜け道でもなければ、

実際に起こってもいない悟りを

いたずらに主張するようなことでもない。

> むしろこれは
> 自宅の居間に入るようなものだ。

そうではなくこれは

自分の実際の居場所に戻るだけのことだ。

> そして、
> 気づきの視点に立つのは
> まったく自然なことだと
> 教えてくれるものはたくさんある。

そして実際に気づきの視点に立ってみれば、

それがまったく自然なことだと

思い出させてくれるものはたくさんある。

> もし気づきと恋に落ちることになったら、
> さらに多くの裏づけが見つかるだろう。

もし気づきに惹かれる幸運に恵まれたら、

さらに多くの裏づけが得られることだろう。

> 思いがけないことに、
> 裏づけのひとつは言語を通して見つかる。
> 思いがけないと言ったのは、
> たいていの場合、
> 言語は真実を経験するのを
> 妨げたり阻んだりするものとして
> 扱われているからだ。
> だが気づきの視点に立つと、
> 言語は気づきという視点が正しいことを
> 確認してくれるものへと姿を変える。

意外なことに、

いったん気づきの視点に立つことがはじまったら、

あらゆる言語が指し示しているものが

すべて気づきだったことが明らかになるだろう。

> 気づき以外に、
> 言葉によって参照されるものは何もない。

言葉が指しているものは

すべて気づきであることがわかってくる。

> 指し示されるものは
> 気づき以外には
> まったく見つけることができない。
> 動詞についても、
> 「私が〜する」ということによって
> 気づきを表していると言っていい。
> 代名詞をまた気づきをじかに指している。
> 「あなた」「私」「彼女」「彼」
> 「私たち」「彼ら」といった代名詞は、
> 名詞が気づきを参照しているのと同じように、
> 気づきを直接指し示している。

名詞も動詞も代名詞も

それらが指し示しているものはすべて

直接気づきを参照している。

> 人が「私」という場合、
> その言葉気づきから現れ、
> そしてまた気づきに戻っていくが、
> これがほんとうの意味での参照だ。

「私」という言葉が気づきから現れ、

気づきに戻っていくことがわかるだろう。

気づき以外のどこから現れ、

気づき以外のどこに消えていけると言うのだろう。

すべて言語表現が気づきを参照しているのだ。

> 「私」という思考そのものも、
> さまざまな思考と同じように、
> 気づきの中へと消え去ることによって
> 気づきを参照している。

「私」という思考も、

気づきの中から現れ、気づきの中へと消え去る。

そうして気づきを参照している。

> ここで言う「私」は個人ではない。
> あなたの私でも、
> グレッグの私でもない。
> 個別の私として存在できる人はいない。
> と言うのも、
> 気づきはどうやっても分割できないからだ。

ここで「私」と言っているのは

個人のことではない。

個人というものは存在できない。

それは気づきを分割することなどできないからだ。

> 誰かに比べて
> 自分は「私」とのつながりが弱い、 
> などということはありえないと分かるようになる。

誰それより自分のほうが

気づきの分前が大きいとか、

気づきにより依怙贔屓してもらっているとか。

フフ。(*^_^*)

> それどころか、
> あなたも、
> ほかの人も、
> あらゆるものも、
> そのすべてがこの「私−原理」であり、
> それは気づきそのものなのだ。

そうではなく、

あなたが自分と言っているものと、

他の誰かが自分と言っているものは、

まったく同じものを参照している。

言葉を換えるなら、

あなたも他の誰かも

まったく同じたったひとつの気づきに対して

現れている現れにすぎないのだから。

> あるものと別のものとを切り離している
> ように見える身体や境界や仕切りは、
> そのどれもが
> このまったく同じで気づきであって、
> 「私」にほかならない。

現れの何かと何かを切り離しているように見える

身体や境界や仕切りそのものも

同じ気づきのなかの現れにほかならず、

それらもまたまったく同じ気づき、

つまりは「私」にほかならないのだから。

> つまさきをぶつけるとか、
> 歯科で治療を受けるといった
> 一見痛みをともなう出来事でさえ
> 純粋な経験、気づき、
> 「私−原理」にほかならない。

客観的な物質の存在を示すように見える

きわめて二元的なあらゆる経験さえも、

すべてが気づきを指し示しており、

純粋な経験、気づき、「私−原理」として

純粋な気づきの中に消えていく。

> こうしたできごとには
> 気づき以外のものとしての実体は
> いっさいないのだ。

すべての現れをつうじて

気づき以外のいかなる客観的存在も

ありえない。

> これこそが直接的な経験の本質だ。

実際に経験を綿密に調べてみれば、

いかなる経験のなかでも

気づき以外の、気づきを離れて存在するような

いななる客観的実体の存在も確認できない。

すべての現れは気づきのなかから現れ

気づきのなかへと消えていく。

> 経験は自由で、
> 境界がなく、
> 切り離されておらず、
> 穏やかだ。
> すべてがまった同じようにそうなのだ。

存在するのは唯一つの気づきのみ。

唯一つの気づきとして起きる経験は、

自由で、境界がなく、分離もなく、穏やかだ。

すべての経験がそのとおりなのだ。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


   ………○…………○…………○………


▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

「私は在る」に関するご意見や単なるメールなど、

ご自由にお書きください。


   ………○…………○…………○………


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http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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運命は恩寵だと聞いています。

このように起こらなければならないのなら、

これが運命であり恩寵なのでしょう。

なぜか今日は虫の声が聞こえない。

耳鳴りしか聞こえないのかな。(*^_^*)

今日はすっかり暗くなりました。

ではおやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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