home > 通信 >『アセンション館通信』第804号:現れは自力では動けない



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/9/15(第804号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
 苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
 れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
 (『ダイレクトパス』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在819名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.現れは自力では動けない

2.いただいたお手紙から:ヤムイモさん

3.編集後記
──────────────────

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実際に読んでくださっている方は

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■ 1.現れは自力では動けない
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何となくの曇天が続いていますが、

おかげで涼しくいられてありがたいです。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

グレッグ・グッドの

『気づきの視点に立ってみたら……』を

読み返しています。

形あるすべての現れはもちろん、

その形あるすべての現れに対する

すべての概念や思い入れもまた現れです。

それらすべての現れは見られる側であって、

それを見ている側ではない。

自分はその見られている側なのか、

それとも見ている側なのかと言えば、

それは自明でしょう。

目の前のモニター画面は自分ではなく、

そのモニター画面を見ているのが自分です。

ということは

見えている現れ、

聞こえている現れ、

感じられ、構想されている現れは

すべて自分ではないわけです。

そういうことを、

文字面だけかもしれないけれど、

この二十年来ずっと言ってきた感じもある。(^^;)

とはいえ、

言ってきた当人がいるわけではありません。

そういう画面が現れていただけです。

現れる想念に

ものごとを理解する能力があるとも思えません。

そのような想念が現れたというだけです。

現れる想念が

幸せな想念でなければならない、

などということももちろんありません。

では何が問題なのか? (?_?)

問題など何もありません。

ただ、

自分はもっと幸せであるべきだ、

という想念が現れているだけです。(*^_^*)

そしてそんな現れは

もちろん、知覚される対象であって、

知覚している自分ではありません。

ふふふ……。

ただ、それだけのことなのだけれど、

それでは何か不満のような。(^_-)

今回は『気づきの視点に立ってみたら……』

のなかから、

「現れは自力では動けない」という、

もっとも呑み込み難い一節を

写経したいと思います。

(「呑み込みがたい」と曖昧に言って、
 
 「理解しがたい」という言葉を避けたのに
 
 気づきましたか?
 
 現れである想念に
 
 理解する力などもともと無いことを
 
 少し意識したというわけです。(^_-))

グレッグ・グッドは

特別に了解しがたい内容を語るときには

「高次の理性」という言葉を登場させます。

そこが胸突き八丁ということかもしれません。

──────────────────
 現れは自力では動けない
 
 生じたり消えたりするのを除けば、
 現れはじつは何もしない。
 現れにはものごとを引き起こす力がない。
 高次の理性によって、
 現れは物質的な対象でも
 精神的な対象でもない
 ということが突き止められた。
 それは、
 物質的なものにも精神的なものにも、
 それ自体には観照する気づきの中の現れ
 という以上の実体がないからだ。
 現れは自力では動けない形で
 現れたり消えたりするもので、
 自然発生的で、
 お互いに切り離されている。
 現れには何かをする力がまったくない。
 現れがお互いを閉じ込めたり
 含んだりすることはない。
 現れが現れを引き起こすこともない。
 現れがお互いを見ることもない。
 現れがお互いを参照することもない。
 現れがお互いに触れることもない。
 そのようなことが起こるのが
 経験されることは決してない。
 そういうことが起こると
 信じられているだけなのだ。
 そして、
 そう信じるということそれ自体も
 ひとつの思考にすぎず、
 それをまた現れにすぎない。
 そもそも、
 含む、引き起こす、見る、参照する
 といった相互関係は、
 それ自体が現れにほかならないのだ。
 そしてそうしたものすべてが。
 観照する気づきの中に現れ、
 消えていく。
 
 気づきの中の現れを、
 心の中の思考と似たようなものとして
 考えずにはいられない気がするかもしれない。
 つまり、
 特定の表れだけが頻繁に生じたり、
 それが別の現れが生じるきっかけに
 なったりするように思える。
 だが、
 現れそれ自体には何の力もない。
 力というのはひとつの概念であり、
 それもまた気づきの中の現れだ。
 つまり現れには、
 舞台の袖に引っ込んで計画を立てて
 何かを行うような能力はない。
 現れはどこかに隠れて
 また戻ってきたりはしない。
 現れが存在していないとき、
 それがどこか別の場所にあるということはない。
 複数の現れについて、
 そのうちのあるものが
 別の現れが生じるきっかけになっている
 ように見えるとき、
 実際に起こっているのは次のようなことだ。
 
 1,表れAが生じる。
 2,現れBが生じる。
 3,現れCが生じる。
 5.現れDが生じて、
   「Aがきっかけだった。
    なぜならAが生じ、
    それによってBとCが生じたからだ」 
   と主張する。

 ここで、
 Dの主張そのものが
 現れのひとつだと気づくだろうか。
 だがDが生じたときには、
 すでにA、B、Cは見当たらない。
 AやBやCが本当に生じたのかどうかを
 示す証拠はもうないのだ。
 
 『気づきの視点に立ってみたら……』(p50-52)
──────────────────

どうですか?

これらの言葉が届きましたか?

ここでは、

> 現れは自力では動けない

という

われわれにとって最も理解しがたい

途方もないことが語られています。

> 生じたり消えたりするのを除けば、
> 現れはじつは何もしない。

この言葉から浮かび上がるのは、

現れとは

まさに映画のフィルムに焼きつけられた

一コマ一コマの画像のようなものだ

というイメージでしょうか。

現れとは

一瞬その画像に光があたって現れ

次の瞬間には現れの位置を

次の画像に明け渡して消えていく。

そういうものだということらしい。

> 現れにはものごとを引き起こす力がない。

それならば、

前の画面の現れが

次の画面の現れを引き起こす原因になった

などということはありえないわけです。

> 高次の理性によって、
> 現れは物質的な対象でも
> 精神的な対象でもない
> ということが突き止められた。

これは通常世の中に普及している

あらゆるスピリチュアルな教えの内容を

すべて洗い流してしまうような言明です。

知覚される形体が物質的な対象でもなければ、

知覚される想念が精神的な対象でもない。

これはもう、

何をか言わんやという感じです。

> それは、
> 物質的なものにも精神的なものにも、
> それ自体には観照する気づきの中の現れ
> という以上の実体がないからだ。

というのも、

物質的なものであれ精神的なものであれ、

おしなべて現れそのものには

観照する気づきの中の現れ

という以上の実体がないからだというのです。

なるほど。(-_-;)

> 現れは自力では動けない形で
> 現れたり消えたりするもので、
> 自然発生的で、
> お互いに切り離されている。

これぞまさに

映画フィルムのなかの一コマ一コマの画面です。

次々と現れては消えていくだけで、

現れの順番は自然法則にしたがい、

各画面はまったく切り離されていて、

各画面が相互に関係などもちようがない。

> 現れには何かをする力がまったくない。

ひとつの現われが

別の現れになにかの影響を及ぼすことなど

まったくありえない。

> 現れがお互いを閉じ込めたり
> 含んだりすることはない。

またそれぞれの現れ同士が、

他の現れを閉じ込めたり、

包含したりすることもありえない。

> 現れが現れを引き起こすこともない。

だからある現れの画面が

別の現れ画面の原因になる、

というようなこともありえない。

現れ相互間の因果関係などはありえない。

> 現れがお互いを見ることもない。

ひとつの現れ画面が

別の現れ画面を見るというようなこともない。

> 現れがお互いを参照することもない。

だから、

ひとつの現れ画面が

別の現れ画面を参照するというようなこともない。

> 現れがお互いに触れることもない。

ひとつの現れ画面が

別の現れ画面をに触れるというようなこともない。

> そのようなことが起こるのが
> 経験されることは決してない。

実際の経験のなかで

そのようなことが起こるのが

経験された試しはけっしてない。

> そういうことが起こると
> 信じられているだけなのだ。

そういうことが起こるという

観念が生じたことがあるだけであり、

そのような観念を信じる現れが

生じたことがあるだけなのだ。

> そして、
> そう信じるということそれ自体も
> ひとつの思考にすぎず、
> それをまた現れにすぎない。

そのような観念を信じることも

またひとつの思考であり、

それもまた現れにすぎない。

> そもそも、
> 含む、引き起こす、見る、参照する
> といった相互関係は、
> それ自体が現れにほかならないのだ。

なんと!(@_@) ⌒★?

そもそも、

含む、引き起こす、見る、参照する

といった相互関係そのものが観念にすぎず、

それ自体が現れにほかならない、と。

形体的なものであれ思念的なものであれ、

それらはすべて現れにほかならない。(-_-;)

> そしてそうしたものすべてが。
> 観照する気づきの中に現れ、
> 消えていく。

そういった知覚対象すべてが

気づきの中に現れては

消えていくだけなのだと。

> 気づきの中の現れを、
> 心(マインド)の中の思考と似たようなものとして
> 考えずにはいられない気がするかもしれない。

そういった気づきのなかの現れに、

マインドとその思考の働きに似たような

一種の包摂関係や因果関係を

想像せずにはいられなくなるかもしれない。

> つまり、
> 特定の現れだけが頻繁に生じたり、
> それが別の現れが生じるきっかけに
> なったりするように思える。

具体的に言うと、

特定の想念だけが頻繁に生じて、

それがその想念につながった別の現われを

呼び出しているように思えるかもしれない。

> だが、
> 現れそれ自体には何の力もない。
> 力というのはひとつの概念であり、
> それもまた気づきの中の現れだ。

だが実際には、

映画の画面のひとコマのように

現れそれ自体は何の力もない。

力というのもひとつの概念であり、

それもまた気づきのなかの現れにすぎない。

> つまり現れには、
> 舞台の袖に引っ込んで計画を立てて
> 何かを行うような能力はない。

要するにこういうことだ。

現れには、

気づきに対して現れているそれとは別に、

どこか舞台の袖のような隠れたところで

計画を立て、その下準備をして、

何かを行うような能力はないのだ。

> 現れはどこかに隠れて
> また戻ってきたりはしない。

現れは一瞬姿を現したのち、

密かにどこかに身を隠して、

視界から消えているあいだに色々画策して、

準備万端でまた戻ってきたりはしないのだ。

> 現れが存在していないとき、
> それがどこか別の場所にあるということはない。

気づきの中に姿を現す現れは、

その一瞬そこに現れた画面だ。

現れていないときに

他のどこか別の場所に隠れているといった

実体を持っているわけではないのだ。

> 複数の現れについて、
> そのうちのあるものが
> 別の現れが生じるきっかけになっている
> ように見えるとき、
> 実際に起こっているのは次のようなことだ。
> 
> 1,表れAが生じる。
> 2,現れBが生じる。
> 3,現れCが生じる。
> 5.現れDが生じて、
>   「Aがきっかけだった。
>    なぜならAが生じ、
>    それによってBとCが生じたからだ」 
>   と主張する。

ここにまさに秘密の核心が暴露されています。

眼前の現れに一喜一憂しているわれわれが、

見ているものこそこの映画の流れです。

われわれには確かに、

先の場面でのある行動が

次の場面のある結果の原因だったように見える、

しかし実際に起っているのは

こういうことだというのです。

【1,表れAが生じる。
 2,現れBが生じる。
 3,現れCが生じる。
 5.現れDが生じて、
   「Aがきっかけだった。
    なぜならAが生じ、
    それによってBとCが生じたからだ」 
   と主張する。】

(*_*) ⌒★?

なんと……。(-_-;)

ここはまさに「高度の理性」に

お出ましいただくしかありません。

映画のなかの登場人物であるわれわれが

知的に理解できることではない。

しかしここで語られているのが、

映画を観ているときの状況と、

寸分違わないことだけはわかります。

それとまったく同じことが起こっている。

ただし、

ここではその映画に自分が登場している。

この論法はあらゆるタイムスパン、

あらゆるパターンでありえるでしょうね。

たとえば、

「躓いて(A)、皿が落ちたから(B)

 皿が割れた(C)んだ」
 
と理解(D)した……とか。 

「あのときああした(A)から、

 ああなって(B)、こうなった(C)んだ」
 
と納得した(D)……とか。

「あのときああすれば(A)よかったんだ、

 そしたらああもならなかった(B)し、
 
 今こうもなっていない(C)はず」

と後悔した(D)……とか。

> ここで、
> Dの主張そのものが
> 現れのひとつだと気づくだろうか。

即座の了解も、

(抽象思考によるかのような)知的納得も、

(仮定に基づくかのような)心理的後悔も、

それ自体が現れのひとつであるのが

わかるだろうか。

> だがDが生じたときには、
> すでにA、B、Cは見当たらない。
> AやBやCが本当に生じたのかどうかを
> 示す証拠はもうないのだ。

だが実際には、

Dの判断が生じたときには、

その判断を生むきっかけとなったはずの

事象A、B、Cはすでに存在しない。

事象A、B、Cが本当に生じたかどうかを

事実をもって示す証拠はすでにない。

いや、

事象A、B、Cが本当にあった、

その記憶(というラベルの付いた想念)が

生じたとしても、

それもまた新たなひとつの現われ、

(別の現れである)解釈Dが参照して

証拠として提示できるわけではない。

うーむ。(-_-;)

たしかに、

普通の理性で

知的に理解できることではありません。

しかし

このメルマガで

これまで信頼してきた方々に

共通する見解ではあります。

映画のなかの登場人物が

悟ることなどありえないわけで、

映画を観ているあなた自身は、

もともと100%気づきなのですから。

まったくひどい話です。(>_<)

たとえば、

ネイサン・ギルは

思考と感覚についての問いにこう答えます。

──────────────────
 Q.思考の結果として感覚が生まれるんだと
   思っていました。
 
 A.
 違います。 
 他のことの結果として起こるようなことは
 何もありません。
 こういうイメージはどれも
 すべて今この瞬間に現れて、
 気づかれています。
 一つのものが別のもののきっかけに
 なったりはしていません。
 そう見えるのは催眠状態にあるからです。
 別々のイメージが生じているだけですが、
 お互いを作り出したり、
 相互に絡んでいたりするように
 見えたりするわけです。
  
 『すでに目覚めている』(p184-185)
──────────────────

まあ、完全に夢を見ている状態ですよね。

だったら、

生きることに何の意味があるのか?

──────────────────
 Q.では、生きることには何の意味が
   あるんでしょうか?
 
 A.
 意味は何もありません。
 生というこの映画は壮大な娯楽です。
 その質問は、
 「自分」という観点から、
 映画の中で同一化している
 登場人物の観点から生じているんです。
 登場人物との同一化が起こっていると、
 絶えず理由を探そうとしたり、
 意味を見出そうとしたりすることになります。
 それで、
 一般的に「目覚め」と呼ばれているものを
 手にすることこそが生きることの
 「究極の意味」なんだと感じられるんです。
 目覚めて、
 ふたたび一体性に戻るのが目的なんだと。
 
 『すでに目覚めている』(p81)
──────────────────

> 意味は何もありません。
> 生というこの映画は壮大な娯楽です。

まったく身も蓋もない話ではありますが、

娯楽はむしろ穏やかですよね。

とはいえ、

この夢をもう一度観たくはありませんが。

マハラジの弟子の

ラメッシ・バルセカールは

ヒットラーを創造した意識の夢に

立腹した質問者にこう答えます。

──────────────────
 質問者 それは巨大な信用詐欺です!
 
 実にそれは借用詐欺です。
 それが信用詐欺であり、
 そのバカバカしさをあなたが理解するとき、
 それが悟りです。
 この理解が完全に実現するとき、
 それが悟りです。
 
 『意識は語る』(p67-69) 
──────────────────

うーむ。

そしてニサルガダッタは

その詐欺には犯人はいないと言う。

──────────────────
 私は意識とその意識の中に起こることは何であれ、
 巨大な詐欺にすぎないという結論に至った。
 この詐欺を犯している人は誰もいない。
 それは自然発生的な出来事だ。
 この詐欺の犯人は誰もいない。
 
 『意識に先立って』(p228) 
──────────────────

まあ、

なんと申しましょうか。(-_-;)

(*^_^*)

温厚なラマナ・マハルシは

穏やかな言い方をしますけどね。

──────────────────
 質問者 この覚醒とは何でしょうか?
     どのようにしてそれを得、
     培うことができるのでしょうか?
 
 マハルシ
 あなたが覚醒なのだ。
 覚醒とはあなたのもうひとつの名前だ。
 あなたが覚醒なのだから、
 それを得たり、
 培ったりする必要はない。
 あなたがしなければならないことは、
 真我でない他のものごとに
 注意をはらうのをやめることだけだ。
 もしそれらに気づくのをやめれば、
 純粋な覚醒だけが残る。
 それが真我である。
 
 『あるがままに』(p21)
──────────────────

> あなたがしなければならないことは、
> 真我でない他のものごとに
> 注意をはらうのをやめることだけだ。

まあたしかに、

詐欺に注意を払う必要はないわけです。

もしそれが起こるなら。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/index.html

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


   ………○…………○…………○………


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.いただいたお手紙から:ヤムイモさん
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

「私は在る」に関するご意見や単なるメールなど、

ご自由にお書きください。


   ………○…………○…………○………

今回、ヤムイモさんとおっしゃる方から

はじめてのご投稿をいただきました。

さっそく、ご紹介します。

【件名】:字のミスタイプについて
──────────────────
 こんにちは。
 もう10年近くメールを読ませてもらっているものです。
 今日はずっと気になっていて、
 それでもあまりに些細なことに思えて聞けなかったことを
 ついに単刀直入にお聞きします。
 批判や感想ではなく、ただの純粋な興味からの質問です。
 
 pariさんの投稿はそれなりの長文なので、
 しばしばタイプミスが発生することは当然だと思いますが、
 キーボードによるタイプでは発生し得ないような字の違いが
 しばしば散見されます。
 以下、私の創作も混じってますが一例まで:
 
 ソーン(シーンorゾーン)、木質(本質)、自田(自由)etc...
 
 思うに、pariさんは写経とおっしゃっているので
 タブレットに手書き入力されているとか、
 或いは本を直接スキャンして文字認識するようなデバイスを
 使ってらっしゃるのか、
 しかしこの場合写経という
 なにか神聖めいた雰囲気とはそぐわないし。
 はたまた事実は小説より奇、
 考えもつかないわけでこのような書き間違いが発生しているのか。
 
 ぜひこの長年の疑問、
 まぐまぐの配信が終わるまでに教えていただけたら。
 それではご自愛の上、
 秋天の空気をお楽しみください。
 (どこの山景色を見ながらパソコンに向かっているんだろう、
  ともいつも思っています)
──────────────────

> こんにちは。

ヤムイモさん、はじめまして。

> もう10年近くメールを読ませてもらっているものです。

それはありがたいですね。

> 今日はずっと気になっていて、
> それでもあまりに些細なことに思えて聞けなかったことを
> ついに単刀直入にお聞きします。

ぜひ伺いたいです。(^人^)

> 批判や感想ではなく、ただの純粋な興味からの質問です。

わかりました。

> pariさんの投稿はそれなりの長文なので、
> しばしばタイプミスが発生することは当然だと思いますが、
> キーボードによるタイプでは発生し得ないような字の違いが
> しばしば散見されます。

わかります。

> 以下、私の創作も混じってますが一例まで:
> 
> ソーン(シーンorゾーン)、木質(本質)、自田(自由)etc...

なるほど。(*^_^*)

> 思うに、pariさんは写経とおっしゃっているので
> タブレットに手書き入力されているとか、
> 或いは本を直接スキャンして文字認識するようなデバイスを
> 使ってらっしゃるのか、
> しかしこの場合写経という
> なにか神聖めいた雰囲気とはそぐわないし。
> はたまた事実は小説より奇、
> 考えもつかないわけでこのような書き間違いが発生しているのか。
> 
> ぜひこの長年の疑問、
> まぐまぐの配信が終わるまでに教えていただけたら。

とてもおもしろいご質問をありがとうございます。

たしかに、木質(本質)、自田(自由)

こういうのは普通のミスタイプにはないですよね。

おっしゃるようにひところは

本を直接プリンタに置いてスキャンして

PDFファイルに落としていたこともありました。

最初、写経と言って

『私は在る』を引用しはじめたころは、

たいてい口述して連れ合いのシャーラに

打ってもらっていました。

(わたしは一応ブラインドタッチなのですが、

 もともとたいして速くもないし、

 今は右手は小指だけで打っているので。)

それから一時期PDFファイルに落としました。

木質(本質)、自田(自由)などはそのときのものですね。

このごろは掲載する分だけ

Googleの音声入力で文字にしています。

Googleのツールは日進月歩で賢いですよね。

> それではご自愛の上、
> 秋天の空気をお楽しみください。
> (どこの山景色を見ながらパソコンに向かっているんだろう、
>  ともいつも思っています)

メルマガを開始した翌年の2005年ころ

カルキヴァガバン関連で

「丹沢合宿」というのをしたことがあって、

メルマガでも書いたことがありますが、

ここは丹沢山系の麓で国定公園の中になります。

霧がかかると前方一面

何も見えなくなるときがあります。

ヤムイモさん、またご投稿くださいね。

ありがとうございました。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


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■ 3.編集後記:
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やっぱりだいぶゼンマイがゆるんできましたね。

毎回何を書くやらと思っていましたが、

自分ができることでもないし、

この夢を見続けるしか仕方ありません。

明日は朝から地域の草刈りです。

すっかり暗くなりました。

ではおやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2019 paritosho
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