home > 通信 >『アセンション館通信』第805号:偽りへの欲望と真実への恐れ



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/9/22(第805号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
 苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
 れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
 (『ダイレクトパス』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在820名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.偽りへの欲望と真実への恐れ

2.編集後記
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■ 1.偽りへの欲望と真実への恐れ
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秋の彼岸になりました。

やっぱり涼しくなってきましたね。

夢の中の登場人物としては

今年の彼岸の墓参りも済ませました。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

グレッグ・グッドの

『気づきの視点に立ってみたら……』を

読み返しています。

そして「ダイレクトパス(直接的な道)」

という言葉の意味をあらためて感じています。

これは修行も何も要せずに、

たったいまこの時点で

「自分」というのはすでに

「気づいているということ」それ自体なのだと

まことに否定しようのないことを伝えています。

これ、否定できる人いますか?

あなたは存在して(つまり生きて)いて、

いろいろ経験していますよね。

そのなかであなたは喜んだり、悲しんだり、

何か問題を感じたりしているのだと思います。

そうやってあなたが経験していることはすべて、

あなたが「気づいていること」によって

現象することができています。

これを否定できる人はいません。

体験した内容やその解釈の真実性については

疑うことができます。

しかし体験したそのこと自体は否定できない。

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 質問者 体験は不完全であり、誤りに導きます。
 
 マハラジ
 そのとおりだ。
 だが、体験の事実がではない。
 体験が何であれ、
 真実であろうと偽りであろうと、
 体験が起こったという事実は否定できない。
 それはそれ自体の証明なのだ。
 
 『私は在る』(p455)
──────────────────

登場人物としての人間に即して言うなら、

わたしは今こんなことを書いており、

あなたはそれを読んでくださっています。

それは否定できないひとつの事実です。

それが夢の中であろうとなかろうと。

つまり、

われわれは人間としてははじめて

自分の基盤に接触しはじめたのであり、

夢を観る者としてははじめて

本来の自分の気配に気づきはじめたわけです。

ちなみに、

上記の問答の直前にあるのが

次のような応答です。

──────────────────
 ついにあなたは直接、
 観照者が必要とされる地点に来たのだ。
 観照は、
 もし個人的で実際的でないなら、
 少なくとも可能であり実行できるもので
 なければならない。
 直接体験が最終的な証明だ。
 
 『私は在る』(p455)
──────────────────

マハラジのこの言葉をはじめて写経したのは、

『アセ通』vol.268(2009/5/24)でした。

今からちょうど十年前のことです。

十年経ってやっと

こういう言葉が指し示すリアリティが

浸透してきました。

わたしはあなたがいると思うから

こんなことを継続できたのです。

これが本当に自分の夢だと知っていたら、

そんなことができるはずがない。(*^_^*)

以前、pariという夢のなかに

『21世紀への指導原理 OSHO』という本が現れました。

この本のなかに「海辺の家」という一節があります。

そこにはこんなことが書かれています。

──────────────────
 例えば今、
 こんな場面を想像してみることにしよう。
 海辺にある一軒の家があって、
 そこである人たちが美しい生活を営んでいた。
 そしていつかその家の住人たちは死に絶え、
 その家は無住の家になってしまった。
 何十年もが過ぎた。
 その家の壁は落ち、柱は傾いた。
 そして何百年も経った。
 その家は完全に風化し、崩壊し、
 土となって海岸の砂の中に埋没してしまった、と。
 さて、このようなことは
 けっして不思議なことでもなければ、
 ありえないことでもない。
 容易に想像できることだ。
 ところで、
 その時代の変遷を凝縮した映像にして、
 短い映画に仕立てあげることもできるだろう。
 その映画の中では、
 ある豊かな生活空間であった美しい建物が、
 少しずつ古び、崩落し、
 砂の中に崩壊して行く映像が流れるだろう。

 では、先ほどのジャン・コクトーに倣って、
 この映画を時間を逆にして
 回してみたらどうだろうか。
 そこでは、波打ち際の砂浜の中から
 ゆっくりと凹凸が浮かび上がり、
 流木が岸辺に打ち上げられ、
 砂の中に古びた土台が築かれ、
 流木が古びた柱となって立ち上がり、
 風の中から埃が壁となって吸着し、
 古びた二階が立ち上がり、
 壊れかけた屋根瓦が一枚二枚と屋根の上に現れ、
 海辺に一軒の古びた家が立ち現れ、
 やがていつか、
 美しい生活空間がそこに出現しているだろう。
 私たちは、その映像を観て、
 それが時間を逆回転させた
 現実には起こりえない
 架空の現象であると知るはずだ。
 永遠の時空の中で、
 ある海辺の砂の上に日が照り、
 波が打ち寄せ、風が吹き、嵐になり、
 そして竜巻が吹き寄せたとして、
 そんなことが何億何千万年も続いたとしても、
 非常に微少な確率の世界の中で、
 いかに不可能と思われるほどの
 偶然に偶然が重なったとしても、
 先ほどの海辺の砂浜の上に一軒の家が
 竜巻の中から現れるとことがありえないのを、
 私たちは知っているからだ。
 
 『OSHO―21世紀への指導原理』(p150-152)
──────────────────

この「海辺の家」の情景描写は、

論理の流れとしては

つづく4つの節を措いた5つ目の節

「物質過程は表現手段にすぎない」の

次の部分につながっています。

──────────────────
 単なるフィルムの逆回しではなく、
 現に海辺の一軒の家が立ち現れたのが、
 私たちのこの生命世界が現象しているのが
 現実だとすれば、
 その背後には必ずその家をイメージし、
 ビジョンし、
 そして作り上げた<意識>を前提せざるをえない。

 これは数学的に確実なことだ。

 同様に、
 地球上に内省的な<意識>が“発生”した
 というのが現実だとしても、
 その内省的な<意識>が何百何千億という
 偶発的な物質的動きを根拠として、
 その偶然の中の非常に小さな確率の道を辿って
 実現したなどという
 たわごとを信じることはできない。
 これは信仰の問題ではなく、
 単に健全な常識の問題にすぎない。
 いかに膨大な時間で化粧しようとも、
 物質過程からの<意識>の“発生”など
 「竜巻がジェット機を吹き寄せる」
 可能性よりもありえない。
 
 ……
 
 コンピュータの発展を、
 シリコンチップの自律的な発展と
 考えることができないのと同じように、
 人間の自省的<意識>に到るまでの
 地球上の生命の展開を、
 DNA二重螺旋のような、いわばある種の部品の
 自律的発展と考えることはできない。
 自省的<意識>に到るまでの生命の発展を、
 物質次元での無意識的な、
 偶然の自律運動に還元することなどできないということだ。
 自省的<意識>に到るまでの全生命の“発展”の背後には、
 どうしても最初から
 <意識>の存在が前提されなければならない。
 <意識>は、誕生できないのだ。
 
 『OSHO―21世紀への指導原理』(p163-166)
──────────────────

なぜこんな文章が連想されたかというと、

今日2019年9月21日付け「朝日新聞」be面(p6-7)の

「みちものがたり」という見開きコーナーが、

【「むかわ竜」発掘への道(北海道)】

というタイトルの記事だったからです。

そこには奇跡的な挿話を交え、

いやが上にもリアルな物証に言及しながら、

「7200万年の時を超えて
 
 現代によみがえったむかわ竜。
 
 全長800メートルを超える骨格の8割以上が
 
 素晴らしい保存状態で発見された。」

と記述されていたわけです。

物理的現象世界からの生命発展の歴史が

一目瞭然の物証を添えて明証されていたわけです。

物質世界の客観的存在を信じていれば

それを裏づける物証はいや増しに積み重ねられます。

この現象世界に生きていると信じているかぎり

その体験は避けられません。

pariという夢のなかの登場人物は

「海辺の家」というイメージの通路となり、

【<意識>は、誕生できないのだ。】

という大層な“発見”に立ち会いながら、

しかもそれが何を意味するのかにまでは

思い至りませんでした。

もし、

物理次元からの<意識>の誕生がありえないのなら、

そこから演繹される論理的結論はただひとつ、

【現象世界とは<意識>が見ている夢だ】

ということしかないはずです。

でもそのような夢の展開には

なっていなかったわけです。(*^_^*)

言うなれば、

夢の中の現象世界での論理は

物証を重ねる帰納法が猛威を奮う世界です。

現れに目を向けているかぎり、

自分が現れの世界の多くの定義で絡め取られた

世界内存在になるのは避けられません。

だからこそ、

自分が何であるかの定義を

徹底的に拒絶しなければならなかったのです。

──────────────────
 あなたが何なのかを知るためには、
 まず、あなたが何ではないかを
 調べなければならない。
 そしてあなたが何ではないかを知るためには、
 「私は在る」という基本的な事実に
 そぐわないものをすべて拒絶し、
 あなた自身を注意深く観察しなければならない。
 私はある時、ある場所で、
 両親のもとに生まれ、今私は某で、
 どこそこに住み、誰それと結婚し、
 誰それの父親で、どこそこに雇われ等々……
 といった概念は、
 「私は在る」という感覚のなかに本来ないものだ。
 「私はあれやこれだ」というのが
 私たちの通常の態度だ。
 忍耐強く堅固に、
 「あれ」や「これ」から
 「私は在る」を分離しなさい。
 そして「あれ」や「これ」として在るのではなく、
 ただ在るということがどういった意味をもつのか
 感じ取ってみなさい。
 
 『私は在る』(p79)
──────────────────

マハラジの言葉がリアリティをもつまでに

pariという夢の中では十年が経過していました。

見かけの物証を積み重ねる帰納法の世界で、

「私は在る」に始源する演繹法だけを頼りに

この幻想世界に風穴を開けるのがいかに困難なことか。

──────────────────
 私たちの習慣のすべてがそれに逆らう。
 それらと闘うことはときには長く、
 困難な仕事だ。
 
 『私は在る』(p79)
──────────────────

だからこそ

ただちにそこに向かえないpariという夢は、

まずはゆっくりゆっくり物証の世界の中で

より多くの非二元論に触れるという

いわば「非二元論」に向かうための帰納法で

足慣らしして(油を売って)きたのでしょう。(^_-)

そして何人かの非二元論の賢者たちの

言葉に触れることで、

そこでの共通事項を拾い集めるという

迂回路を辿らざるをえなかった。(-_-;)

そしてやっと最初に触れた

マハラジの言葉の真実性が

明け染めてきたのだと思います。

──────────────────
 だが、明確な理解は大きな助けとなる。
 マインドのレベルでは、
 あなたは否定的な言語でしか
 言い表わすことができないということを
 より明確に理解するほど、
 探求はより早く終焉を迎える。
 
 『私は在る』(p79)
──────────────────

では自分が人間ではなく

「気づいているということ」それ自体だと

了解されているかどうか、

探求が終焉を迎えているかどうかは

何によって判断できるのか?

その判定基準が「欲望からの自由」なのでしょう。

──────────────────
 欲望からの自由とは、
 それを満たさなければという強迫観念が
 不在だということだ。
 
 『私は在る』(p87)
──────────────────

しかし、だからといって、

欲望からの自由を望むことは役に立たない。

なぜなら……。

──────────────────
 何もあなたを自由にすることはできない。
 なぜなら、あなたはすでに自由だからだ。
 欲望のない明晰性であなた自身を見なさい。
 それだけだ。
 
 『私は在る』(p88)
──────────────────

しかし人間は生きる必要があり、

そのためにこそ欲望もあるのではないか?(-_-;)

──────────────────
 必要というものはない。
 欲望だけだ。 
 
 生きようと望むことは基本的な欲望だ。
 他のすべてはそれに依存している。
 
 『私は在る』(p149)
──────────────────

そんな。(>_<)

では必要もない欲望がなぜ湧いてくるのか?

──────────────────
 なぜなら、あなたは生まれてきて、
 もしあなたが身体の面倒を見なければ
 死んでしまうだろうと想像するからだ。
 身体をもつ存在の欲望が心配の根本原因だ。
 
 『私は在る』(p87)
──────────────────

む。(-_-;)

しかし、

誰だって死にたくないのは当然では?

──────────────────
 個人とは単なる誤解の結果だ。
 ……
 実際には、個人というものは存在しない。
 ただ見守る者が「私」と「私のもの」に
 自己同一化するだけだ。
 師は見守る者に言う。
 「あなたはこれではない。
  このなかには、
  見守る者と彼の夢を橋渡しする
  『私は在る』という小さな点以外、
  あなたのものは何ひとつないのだ」
 と。
 「私はこれだ、私はあれだ」は夢なのだ。
 一方、純粋な「私は在る」には実在の特質がある。
 あなたは今まで本当にたくさんのことを味わってきた
 ――だが、すべては無に帰したのだ。
 ただ、
 「私は在る」だけが変わることなく存続している。
 あなたが彼方へと超えていけるようになるまで、
 変化の絶えないもののなかで、
 不変なるものとともにとどまりなさい。
 
 質問者 それはいつ起こるのでしょうか?
 
 マハラジ
 それはあなたが障害を取り去ったとたんに起こるのだ。
 
 質問者 どの障害でしょう?
 
 マハラジ
 偽りへの欲望と真実への恐れだ。
 
 『私は在る』(p359-360)
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「偽りへの欲望と真実への恐れ」が

残っているかどうかが、

探求が終焉しているかどうかの試金石。

それにしても……

なぜこんな無用なことが起こるのか?

──────────────────
 自己がそれ自身を知るためには
 それと反対のもの、
 非自己と直面しなければならない。
 欲望は体験へと導く。
 体験は識別、無執着、自己知識――解放へと導く。
 そして解放とはいったい何だろうか?
 それはあなたが
 生と死を超越したものだと知ることだ。
 あなたが誰なのかを忘れ、
 自分が死を免れることのできない創造物だと
 想像することで、
 あなたは
 悪夢から目覚めなければならないという困難を
 自分に負わせてきた。
 
 探求もまた、あなたの目を覚ます。
 苦しみを待つまでもない。
 幸福への探求のほうがずっといい。
 なぜなら、
 マインドが平和と調和のなかにあるからだ。
 
 『私は在る』(p87)
──────────────────

そうか……その方法のひとつが

シュリ・アートマナンダの「ダイレクトパス」、

現状で自分がすでに気づきそのものであることを

自覚する道なのか。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
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ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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   ………○…………○…………○………


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「私は在る」に関するご意見や単なるメールなど、

ご自由にお書きください。


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■ 2.編集後記:
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わたしはこれまで

映画のなかの登場人物が

その映画のシナリオを出し抜くようなことばかり

模索しつづけてきたように思います。(*-_-*)

まったくお笑いというかなんというか。

それも終わりに近づいてきたのかもしれません。

わかりませんが。

夢の中の役割でしょうが、

けっして他の誰かのために

書いているわけではありません。

今日もすっかり暗くなりました。

ではおやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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