home > 通信 >『アセンション館通信』第806号:あなたは今すでに非二元的意識です



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/9/29(第806号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
 苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
 れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
 (『ダイレクトパス』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在821名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.あなたは今すでに非二元的意識です

2.編集後記
──────────────────

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■ 1.あなたは今すでに非二元的意識です
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秋ですね。

これまでどんな気分があるかが

とても重要なことのように感じられていました。

でも、それはただの画面ですね。

幸福とか不幸って、

ただの物語のなかの場面でした。

なんか大層なものでもないような。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

グレッグ・グッドの

『気づきの視点に立ってみたら……』を
https://amzn.to/2O7s8Un

読み返しています。

ほんと、この本、

つくづくすごい本ですね。

日常的には人間として生きている

このpariパターンですから、

いろいろ人間としての

物語の中での行動や思いはあるわけです。

ところがこのグレッグ・グッドの本を

日常的に読み返していると、

自分がほんとうは人間ではなく、

単に「気づいているということ」であることが、

「気づいているということ」以外でありえないことが

だんだん自明になってくるのです。

ただその理解の中で

穏やかに熟していけばいいのだと思われてきます。

この本の対話の五番目に

「意識は非二元的か」という一節があります。

今回はこの対話の前半を写経します。

ここで言う「写経」は

本来の意味とは違うわけですが、

まあ、とことん言葉をつうじて

(もちろん翻訳者の理解を介してですが)

著者の真意に近づきたいという趣旨です。

相変わらず常識の引用の範囲を超えて

長い引用をさせていただきますが、

無断引用して販売部数の減少に寄与し

出版社などにご迷惑をかけるのではなく、

販売部数の拡大に貢献して

本書の出版に関わった方々の利益になる

無料宣伝となることを願っています。(-||-)

本当にいい本なので

読まれることをお勧めします。

ではいきます。

──────────────────
 
 意識は非二元的か
 
 
 ──意識は非二元的なものだと、
   たくさんの先生たちが言います。
   でもその解釈はただの概念にすぎないのでは
   ありませんか? 一人ひとり、別々の意識が
   あるように思います。
 
 そのとおり、それは概念です。
 どんな言い方をしても概念なんです。
 「二元的」も「非二元的」も、
 意識、非二元性、二元性、
 「如性」といったような概念が
 何を意味しているかによって
 そういう表現の意味するところが変わってきます。
 あなたは「ただの」概念ではないかと言いましたね。
 どんなことに対して
 「ただの」概念だと言ったのでしょう?
 実際の真実に対してですか?
 
 ──ええ、意識とはほんとうは何なのかを知りたいん
   です。意識について何が本当なのか、
   ということです。
   非二元的な意識には対象がないという先生たちが
   います。一方で、非二元的な意識とは認識がそれ
   自体を知っていることだという先生たちもいます。
   でもそれでは主体と対象のような感じで、あまり
   非二元的だとは思えません。ですから、非二元的
   な意識とは対象をもたないものなのか、それとも
   自己を知っているということなのか、それが知り
   たい点です。
 
 「対象をもたない」「自己を知っている」
 そのどちらも比喩すが、
 それぞれ少しだけ違う味わいをもった比喩です。
 いずれも文字通りに受け取るべきものではありません。
 こうした比喩は、
 ほとんどの人が
 経験を分割されたものとして感じている
 という現実を踏まえた表現です。
 こういう比喩が示しているのは、
 分割されていない経験のあり方です。
 それがいちどでも「起こる」と、
 つまり経験が分割されているようには
 感じられなくなると、
 「意識」と「意識以外のもの」を
 区別しなくなるでしょう。
 意識という概念そのものが
 優しく穏やかに消えてしまいます。
 それでも「意識」という言葉を
 使い続けるかもしれませんが、
 使うとしても軽やかに、
 余計な形而上的観念がくっついていない形で
 使うことになるでしょうね。 
 
 『気づきの視点に立ってみたら……』(p97-98)
──────────────────

> ──意識は非二元的なものだと、
>   たくさんの先生たちが言います。
>   でもその解釈はただの概念にすぎないのでは
>   ありませんか? 一人ひとり、別々の意識が
>   あるように思います。

この質問者の方が言ってくれているように、

人生という見かけの物語の中では

間違いなく、一人ひとりが別々に

個人の意識をもっているように見えますよね。

> そのとおり、それは概念です。
> どんな言い方をしても概念なんです。

そもそも

言葉そのものが概念とも言えますし、

言葉で概念以外を表現できる可能性もないわけです。

> 「二元的」も「非二元的」も、
> 意識、非二元性、二元性、
> 「如性」といったような概念が
> 何を意味しているかによって
> そういう表現の意味するところが変わってきます。

はい。

> あなたは「ただの」概念ではないかと言いましたね。
> どんなことに対して
> 「ただの」概念だと言ったのでしょう?
> 実際の真実に対してですか?

グレッグ・グッドは

質問者の問のより深い真意を

確認しようとしているのでしょう。

> ──ええ、意識とはほんとうは何なのかを知りたいんです。
>   意識について何が本当なのか、ということです。

さっそくグレッグ・グッドの問に促されて、

質問者の真の問が明かされました。

>   非二元的な意識には対象がないという先生たちが
>   います。一方で、非二元的な意識とは認識がそれ
>   自体を知っていることだという先生たちもいます。
>   でもそれでは主体と対象のような感じで、あまり
>   非二元的だとは思えません。ですから、非二元的
>   な意識とは対象をもたないものなのか、それとも
>   自己を知っているということなのか、それが知り
>   たい点です。

とても具体的な意図のある質問だったんですね。

これでグレッグ・グッドも

質問者にストレートに届く回答ができます。

> 「対象をもたない」「自己を知っている」
> そのどちらも比喩すが、
> それぞれ少しだけ違う味わいをもった比喩です。
> いずれも文字通りに受け取るべきものではありません。

そうか、

わたしなどはこういった言語化された比喩を

“文字通りに受け取”りがちなのかも。

> こうした比喩は、
> ほとんどの人が
> 経験を分割されたものとして感じている
> という現実を踏まえた表現です。

なるほど。

たしかにわれわれは主体と対象という

枠組みを前程した感じ方をしているので、

そういう聞き手の枠組みに届くようにと

こういう教師たちの言葉は語られているでしょうね。

> こういう比喩が示しているのは、
> 分割されていない経験のあり方です。

分割されていない体験をした方々が、

自分のその体験をなんとか言葉にしようとして

工夫された言語表現でしょうから。

> それがいちどでも「起こる」と、
> つまり経験が分割されているようには
> 感じられなくなると、
> 「意識」と「意識以外のもの」を
> 区別しなくなるでしょう。

【それがいちどでも「起こる」と】

こういう言葉を聞かされると、

自分には起こっていない……(-_-;)

というふうに思いがちなものですが、

そう決めつけたものでもないんですよね。(*^_^*)

ゾーン体験とか夕陽を見るとか、

誰もが何らかの経験をもっていたりするものです。

ただ

【「意識」と「意識以外のもの」を区別しなくなる】

というようなところまでは

なかなか行かないと思いますが。

> 意識という概念そのものが
> 優しく穏やかに消えてしまいます。

こういう言葉を聞かされると

自分もそうなりたいと思ってしまいますよね。

> それでも「意識」という言葉を
> 使い続けるかもしれませんが、
> 使うとしても軽やかに、
> 余計な形而上的観念がくっついていない形で
> 使うことになるでしょうね。 

そういう感じなんですね……。

ところで、ありがたいことに、

もちろん質問者はここで引きさがりません。

そして【見かけ】の物語の中で起こっている

われわれの気持ちを代弁してくれます。

──────────────────
 ──でも、直接的に非二元的に経験によって知る
   という話を聞いたことがあります。
   非二元的な意識というものを私はそういう
   やり方でわかりたいんです。

 ええ、
 私が今言ったのはまさにそのことです。
 非二元的な意識をじかに見てみたいわけですね?
 非二元的な意識に抱かれ、
 自分でもそれを抱いて、
 そこから外れるものは何もないという状態、
 そういう経験を求めているということでいいですか?
 
 ──その通りです
 
 既にそうなっているんです!
 あなたは今すでに非二元的意識ですから、
 それはつまり非二元的なやり方で
 そういう意識を知っているということです。
 これは「2+2=4」とか、
 「サクラメントはカリフォルニア州の州都です」
 というように
 頭で理解しているのとは違うやり方です。
 対象に対する理解ではないんです。
 と言うのは、
 意識の中には対象が存在していないからです。
 意識がちょっと離れたところに立って
 横から見てみるという類のものではありません。
 意識を知っているというのは
 車のヘッドライトを見ることは違うんです。
 
 『気づきの視点に立ってみたら……』(p99)
──────────────────

> ──でも、直接的に非二元的に経験によって知る
>   という話を聞いたことがあります。
>   非二元的な意識というものを私はそういう
>   やり方でわかりたいんです。

トニー・パーソンズが

『オープン・シークレット』の中の一節
https://amzn.to/2lO6rv0

「公園」でしたような体験をしたいですよね。(^_-)

> ええ、
> 私がいま言ったのはまさにそのことです。

なんかいい流れに行きそうな感じ。

> 非二元的な意識をじかに見てみたいわけですね?

ですよ。

> 非二元的な意識に抱かれ、
> 自分でもそれを抱いて、
> そこから外れるものは何もないという状態、
> そういう経験を求めているということでいいですか?
> 
> ──その通りです

異議なし。

> 既にそうなっているんです!

お、お、お、(@_@) ⌒★?

何か期待がもてそう。

> あなたは今すでに非二元的意識ですから、
> それはつまり非二元的なやり方で
> そういう意識を知っているということです。

むむ!

【あなたは今すでに非二元的意識ですから、
 それはつまり非二元的なやり方で
 そういう意識を知っているということです。】

理屈からすると

たしかにそういうことになりますね。(@_@)

ということは、

自分でそれを認めることができれば、

そういう意識を知っているということにもなる。

> これは「2+2=4」とか、
> 「サクラメントはカリフォルニア州の州都です」
> というように
> 頭で理解しているのとは違うやり方です。
> 対象に対する理解ではないんです。

なるほど。

要するにこういうことのようです。

われわれは今すでに非二元的意識である。

だから非二元的意識として現象に気づいている。

だから当然、その現象の知り方は

われわれが人間として慣れ親しんでいる

「知る者」と「知られる対象」を分割する

二元的な知り方、

つまり頭で「2+2=4」を理解するような

仕方ではないのだと。

したがってもしわれわれが

自分が非二元的意識であることを

主体と対象の分割を前提にした

いつもの習慣的やり方で知ろうとしてしまうと、

それ自体が不可能な条件をつけることになる。

なぜなら、

非二元的意識として現象に気づいているとは、

こちらにいる主体である意識が

向こうにある対象である現象を知る

というのとは違うからだ、と。

> と言うのは、
> 意識の中には対象が存在していないからです。
> 意識がちょっと離れたところに立って
> 横から見てみるという類のものではありません。
> 意識を知っているというのは
> 車のヘッドライトを見ることは違うんです。

というのも、

そもそも意識のなかには対象が存在しないからだ。

主体である意識がこちらに立って、

向こうにある知覚対象の現象を横目で見ている

というようなことではない。

非二元的意識を知っているというのは、

車のヘッドライトを見るようなことではない。

そもそも意識には内側もなければ外側もない。

境界線もなければ限界もない。

意識以外にはなにもないからだ。

うーむ。

さすがにグレッグ・グッドの説明は

まったく疑問の余地なく明瞭ですね。

しかしそう聞くと、

今度は逆に、

非二元的意識というのがそれほど当たり前なことなら、

なぜ多くの覚者と思われる教師たちが

“非二元的意識を知っている”と言っている

ように思われるのはなぜなのか?

という疑問が湧いてきます。

質問者はその点を質します。

ここあたりが今日のハイライトでしょうね。

──────────────────
 ──では「それがわかる」という先生たちが
   いるのはなぜですか?それは、ある人たちは
   わかっているけれど、他の人たちはわかって
   いないというふうに聞こえます。
 
 で、
 あなたは分かっている人たちのグループに
 入りたいわけですね?(微笑)
 
 ──ええ。それがわかっているということには
   何か意味があるはずなんです。あなたも
   ご存知のように、いろいろな書物でそういう
   ことがいわれています。あれはどういう意味
   なんでしょうか?
 
 「それがわかっている」というのは、
 自分が意識以外のものでありえる
 という誤解を脱するということです。
 自分を個人としても対象としても
 とらえなくなることを意味しているんです。
 西洋ではこれはグノーシスと呼ばれています。
 東洋では、
 あなたはそれであることによってそれを知っている
 と表現されます。
 どちらの場合も。
 最初から実際にはそうだったこと、
 つまり自分は気づきそのものだったことを
 心(マインド)が知るという意味です。
 あなたは独立して存在する対象ではありませんし、
 世界と切り離されてもいません。
 皮肉なのは、
 それがわかったとたん、
 「わかる」のは不可能だったと
 わかるということです。
 「わかる」ことは、
 通常は心、
 脳、
 もしくは人がすることだとされています。
 でもあなたも承知の通り、
 心も脳も人も対象にすぎません。
 対象に何かがわかることはありません。
 「ティーカップ」に
 何かがわかることがないのと同じで、
 心に何かがわかることはありえないのです。
 心は対象です。
 それどころか、
 わかるということ自体も対象のひとつです。
 ほかのものから独立して存在している対象は
 まったくないということも、
 すでに見てきました。
 つまり、
 「わかっている人たち」が
 ほかのものとは別に存在する
 というのもありえないわけです。
 
 ──なるほど、分かるということについて
   あなたの言っている意味が意味がわかりました。
   こういうことを自分も「わかりたい」
   というのは筋が通らないんですね。
   ただ、それでも自分をひとりの人間として
   とらえたくないという感じはあります。
 
 自分がひと人の人間だという思い込みや感覚を
 手放したいということですか? 
 
 ──そうなんです!そうなれば苦痛をあまり感じなく
   なるはずです。自分は人間だという思い込みが苦しみ
   を生み出すと言っている先生はたくさんいます。
 
 なるほど、
 でも注意を向けて欲しいのは、
 いまあなたがひとりの人間として
 質問しているということです。
 何かを信じたり信じなかったりするのは
 人間のすることです。
 非二元的な気づきは、
 何かを「する」ということがありません。
 
 ──ええ、でもそれの何が問題なんですか?
 
 問題はありません。
 というよりも、
 ひとりの人間としてこういうことを見る
 というのは普通のことです。
 そういうふうに見なくなるまでは、
 ですが……。
 
 『気づきの視点に立ってみたら……』(p100-103)
──────────────────

> ──では「それがそれがわかる」という先生たちが
>   いるのはなぜですか?それは、ある人たちは
>   わかっているけれど、他の人たちはわかって
>   いないというふうに聞こえます。

つまり、

わかっている人とわかっていない人が

いるように見えるのはなぜなんですか?

という感じですよね。(*^_^*)

どうしたってこれは聞きたくなりますよ。

> で、
> あなたは分かっている人たちのグループに
> 入りたいわけですね?(微笑)

はい、入りたいでーす。

> ──ええ。それがわかっているということには
>   何か意味があるはずなんです。あなたも
>   ご存知のように、いろいろな書物でそういう
>   ことがいわれています。あれはどういう意味
>   なんでしょうか?

ちゃんとわれわれの代弁をしてくれています。

> 「それがわかっている」というのは、
> 自分が意識以外のものでありえる
> という誤解を脱するということです。

おお、なるほど。(@_@) ⌒★?

そう言えば、たしかに、

われわれは自分を人間だと思っていたり、

身体だと思っていたり、

思考や感情だと思っていたり、

物質だと思っていたりしますよね。(@_@)

> 自分を個人としても対象としても
> とらえなくなることを意味しているんです。

そういうことか。(-_-;)

そう言われれば、

自分を個人だと思っていたり、

他人から見た対象だと思っていたら、

非二元的意識を知っている意識とは

違うのは確かだと思えてくるわけだ。

> 西洋ではこれはグノーシスと呼ばれています。

ほお。

> 東洋では、
> あなたはそれであることによってそれを知っている
> と表現されます。

なるほど。

> どちらの場合も。
> 最初から実際にはそうだったこと、
> つまり自分は気づきそのものだったことを
> 心(マインド)が知るという意味です。

経験をしている自分とは

気づき以外にはありえないということが

自明な感じの想念が湧いてくるということか。

> あなたは独立して存在する対象ではありませんし、
> 世界と切り離されてもいません。

経験をしている自分とは、

経験されている現れのなかで

独立して存在する対象などではありえないし、

経験されている世界と切り離されてもいないことが、

自明の前提になってくるというわけか。

> 皮肉なのは、
> それがわかったとたん、
> 「わかる」のは不可能だったと
> わかるということです。

それがわかったとたん、

「わかる」のは不可能だったとわかる。

なんかゾクゾクする感じ。(^_-)

> 「わかる」ことは、
> 通常は心、
> 脳、
> もしくは人がすることだとされています。

たしかに……。(-_-;)

考えてみれば

誰が何を「わかる」というんだろう?

何かを「わかる」誰がいる?

「わかる」の主体を想定するなら、

それは自分ということになるんだろうけど、

じゃ、その自分とは何かといえば

通常は

「心(マインド)」が納得することだったり、

「脳」が理解することだったり、

「人」がすることだということになるのかも。

> でもあなたも承知の通り、
> 心も脳も人も対象にすぎません。

なるほど。

われわれが通常慣れ親しんでいる世界では、

「心」も「脳」も「人」の知覚の対象です。

「心」「脳」「人」といった名称はもちろん、

その形体イメージも、

その機能概念もすべて知覚の対象です。

> 対象に何かがわかることはありません。

「心」「脳」「人」といった名称や、

その形体イメージや、

その機能概念といった知覚の対象に

何かがわかるということはない。

それは当然のこと、それはありえない。

何しろそれらは知られる対象なのだから。

> 「ティーカップ」に
> 何かがわかることがないのと同じで、
> 心に何かがわかることはありえないのです。

まったくです。

「心」という名称や、

心の働きとして想像されるイメージなど、

すべて知覚の対象にすぎないものに

何かがわかるということはありえない。

それは「ティーカップ」に

何かがわかることがないのと同じこと。

> 心は対象です。
> それどころか、
> わかるということ自体も対象のひとつです。

心(マインド)の実体は

経験された想念という対象物であり、

それどころか、

「わかる」ということ自体も

理解とか納得感という想念の出現という

ひとつの出来事にすぎない。

出来事もまた対象のひとつです。

> ほかのものから独立して存在している対象は
> まったくないということも、
> すでに見てきました。

見かけを構成する現象世界には

他の対象物から分離独立した対象物というのは

存在しえない。

もしそのような

他の対象物から分離独立した対象物があったとしても、

そのようなものは現象することができないため

経験できないからです。

> つまり、
> 「わかっている人たち」が
> ほかのものとは別に存在する
> というのもありえないわけです。

つまり、

わかっていない人たちから分離独立した

別の存在である「わかっている人たち」というのは

ありえないということです。

> ──なるほど、分かるということについて
>   あなたの言っている意味が意味がわかりました。

たしかに、

これだけ懇切丁寧に説明されたら、

わかりたいと望んでいる人にはわかります。

>   こういうことを自分も「わかりたい」
>   というのは筋が通らないんですね。

自分が知覚対象である人間の立場を取りながら、

人間として非二元的意識を「わかりたい」

というのは無理なわけですね。

>   ただ、それでも自分をひとりの人間として
>   とらえたくないという感じはあります。

ただそれでも、これ以上

ひとりの人間としての自覚のままでいるのは

もう嫌だという感じはあります。

> 自分がひと人の人間だという思い込みや感覚を
> 手放したいということですか? 

というと、つまり、

ひと人の人間だという思い込みや感覚を

手放したいということですか? 

> ──そうなんです!そうなれば苦痛をあまり感じなく
>   なるはずです。自分は人間だという思い込みが苦しみ
>   を生み出すと言っている先生はたくさんいます。

そうなんです。

もう人間だという思い込みから脱出したいんです。

人間としての苦悩はもううんざりです。

多くの先生たちが

自分が人間だという思いが苦しみの原因だと

言っているので。

> なるほど、
> でも注意を向けて欲しいのは、
> いまあなたがひとりの人間として
> 質問しているということです。

そうですか。

でもここで注意を向けて欲しいのは、

そのあなたがいま

自分をひとりの人間として信じ込み、

ひとりの人間として質問していることです。

> 何かを信じたり信じなかったりするのは
> 人間のすることです。

というのも、

じつは何かを信じたり信じなかったりするのは

自分を人間と信じる観念の立ち位置なんです。

> 非二元的な気づきは、
> 何かを「する」ということがありません。

非二元的な気づきは、

何かを「する」ということがないのです。

> ──ええ、でもそれの何が問題なんですか?

え、というと、

何かを「する」ことの何が問題なんですか?

> 問題はありません。
> というよりも、
> ひとりの人間としてこういうことを見る
> というのは普通のことです。
> そういうふうに見なくなるまでは、
> ですが……。

別に問題はありません。

というより、

むしろ人間としては

物事をそういうふうに見るのは普通のことです。

そういうふうに見なくなるまではですが。

……。

ふふ……なにか意味深。

人間が追い込まれていますね。(^_-)

人間は質問をしたい。

人間は文句を言いたい。

人間は責任転嫁をしたい。

でもそういう立場に固執しているかぎり、

非二元的意識が開け染めることはない。

そもそも非二元的意識しか存在しないし、

非二元的意識がこの上もなく露出しているのだから、

それ以上開け染めようがない。(^_-)

ただここで自分を何かだと思いたい者だけが、

その何かの経験を掴んでいるだけで……。

その何かとは本当に存在しているのか?

そのあなたとは誰なのか?

そしてこの経験を可能にしているものは

何かをしているのか?

(*^_^*)

ラマナ・マハルシは言ったそうです。

「創造もなければ、
 
 破壊もなく、
 
 道もなければ、
 
 目標もなく、
 
 自由もなければ、
 
 運命もない。
 
 何も起こったことがなかった」

誰がどんな夢を見ているというのでしょう。

苦しんでいる人は、

本当に存在しているのか?

存在するのは非二元的意識だけです。

でも、

こう言ったからといって、

何か他にできることがあると

わたしが信じているというわけではありません。(^_-)

これは意識が見ている夢です。

ただ夢見られている登場人物の方に

その意識の焦点があるだけで。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/index.html

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


   ………○…………○…………○………


▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

「私は在る」に関するご意見や単なるメールなど、

ご自由にお書きください。


   ………○…………○…………○………


▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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夢の登場人物には

夢のシナリオをどうこうできる可能性は

まったくありません。

夢は定められているシナリオに沿って

完璧に進行しています。

夢の登場人物にとっては

心配することが少しずつ

なくなっていくのかもしれません。

そうなることになっていればですが。

今日は午前中に草刈り

午後には紫陽花の枝切りをしました。

今日もすっかり暗くなりました。

ではおやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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