home > 通信 >『アセンション館通信』第808号:観照を実現する



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/10/13(第808号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
 苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
 れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
 (『ダイレクトパス』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在824名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.観照を実現する

2.編集後記
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■ 1.観照を実現する
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これを書いているのは

いつものとおり土曜日なので

現在は超大型台風と言われる

台風19号(2019年)が上陸中です。

眼前の庭の向こうは

だんだん強くなる雨風に覆われて、

前方左右に見える山以外は何も見えません。

すべて気づきのなかの現れですね。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

グレッグ・グッドの

『気づきの視点に立ってみたら……』を
https://amzn.to/2O7s8Un

読み返しています。

物質という

気づきの外側に独自に存在するとされる

客観的存在物をわたしたちは経験していない。

シュリ・アートマナンダ(クリシュナ・メノン)

が教える「ダイレクト・パス」の教えは、

端折って言うとそういうことでしょう。

そしてこのことが腑に落ちるにつれて、

自分が経験しているものが

気づき以外になにもないことが納得されます。

経験しているのはすべて気づきです。

自分とか他人という観念も

気づきの内容にすぎません。

もちろん、

自分や他人や世界という思い込みは

習慣化されたとても強力な観念ですから、

それを維持し続けるのはごく普通のことです。

維持し続けても別に良くも悪くもない。

ごく普通です。

でも、それが

気づきのなかの現れとして起こっている

思い込みにすぎないことも確かなので、

かならずしも

維持しなければならないこともない。

その観念をしっかり掴み続けてもいいし、

その観念が崩壊するに任せてもいい。

いずれにせよ、

どんな現れもすべて気づきのなかの現れであり、

それ自体が気づきそのものです。

何が起こってもそれは気づきです。

気づきの外側に、

気づきとは別個に、

どんな独自の客観的存在物があるわけでもない。

なぜなら、

たとえそんなもの、

(つまり、気づきの外側に、

 気づきとは別個
 に、

 独自の客観的存在物)がありえたとしても、

それは私には現れないからです。

経験できないものを誰が気にする?(^_-)

気づきとは

あらゆる現れがそれに対して現れるものです。

気づきはひとつしかありません。

──────────────────
 世界のなかの対象物はたくさんあるが、
 それを見る目はひとつだ。
 高次のものは低次のものにとって
 つねにひとつとして現れ、
 高次のものにとって低次のものは
 多数として現れる。
 
 『私は在る』(p84) 
──────────────────

個々人が気づきを所有しているわけではない。

その逆に個人というのは

気づきのなかに現れるひとつの観念であり、

個人が存在するわけではないという意味では、

それは偽りの観念です。

そもそも気づきを分割できるものなど存在しない。

気づきを境界線で分けることはできない。

なぜなら、「分割」も「境界線」も

気づきのなかに現れた観念にすぎないからです。

気づきのなかに現れた観念が

どうやって気づきを切れるのですか?(*^_^*)

個人は存在しません。

個人とは気づきのなかに現れた観念です。

何回言っても同じこと。(^_-)

ただ、

われわれが実際の経験のなかで

気づきの外側に気づきとは別個に

存在している客観的存在物を

経験していないということについては、

グレッグ・グッドの

『ダイレクトパス』を読んで
https://amzn.to/2O7s8Un

自分で納得されるのがいいと思います。

そこでどういう実験が勧められ、

どういう結論が解説されているのか?

そうですねぇ、(-_-;)

もしかしたら解説のある部分から

ついていけないという感じをもつ方も

いるのではないかと思います。

でも、その場合は、

その内容をこう理解したらいいです。

つまり、

自分の実際の知覚経験を詳細に調べると、

われわれの実際の経験は

すべて気づきの内容を確認しているだけで、

気づきの外側に気づきとは別個に

存在している客観的存在物の証拠を

なにひとつ経験してはいない、

ということです。

さらに言い換えるなら、

われわれの実際の知覚経験は、

「われわれは仮想現実によって

 物質という客観的存在(の幻影)を

 確信させられているわけではない」

と断定・証明できる証拠を

じつはいっさい掴んでいない、ということです。

五感と思考作用のすべての経験は、

ただ知覚経験の存在を確認しているだけで、

さらにそれらの知覚経験は

じつは気づき以外に存在しているわけではなく、

すべての経験はけっきょく

気づきの存在を確認しているだけだということ。

グレッグ・グッドが

『ダイレクトパス』で書いている内容は、

煎じ詰めるとそういったことです。

そしてそのことは、

本当にそうだと思えば

それが確信になる可能性があります。

──────────────────
 想像し、決意したことが現実となる。
 ここに危険性と、
 また同様に解決の糸口があるのだ。
 
 『私は在る』(p228)
──────────────────

もちろん、

個人でいることにより大きな魅力があれば、

すべての経験は気づきだと知ることに、

特に何のメリットもありません。(^^;)

でももし個人でいることに

本当にうんざりしているのなら、

すべての経験は気づきであるち知ることは、

大いなる安らぎをもたらす可能性がある。

今回はそのあたりの内容を

『気づきの視点に立ってみたら……』

から写経してみたいと思います。

以前『アセ通』第531号(2014/06/08)で

『気づきの視点に立ってみたら……』のなかの

【観照する気づきは個人のものではない】

という一節を引用したことがあります。

今回はその次の

【観照を実現する】という一節です。

──────────────────
 観照を実現する
 
 
 どんなものについても、
 それは気づき以外のなにものでもない
 と感じられるようになったとき、
 観照は実現したことになる。
 気づきがあり、
 そして気づきとは別に
 物事が独立して存在している
 という感じがなくなる。
 暴力、病気、生物としての死さえ、
 気づきの外にあるとは感じない。
 それがみずから生じた独立したものであって、
 気づきの外に存在している何かで
 作られているとは感じられない。
 気づきを危険にさらすものにも見えない。
 
 この時点で、
 高次の理性に可能なことの
 ほとんどが完了する。
 目に見える世界も目に見えない世界も
 身体も心(マインド)も、
 そのどれについても
 気づきの外側に存在している
 と感じられることはもうない。
 なにごともそれ自体で持続する
 独立したものとしては経験されず、
 観照する気づきの中の
 自然発生的な現れで構成されたものとして、
 あらゆるものが経験される。
 
 観照を実現したとき、
 自分がずっと家にいたことに気づく。
 自分が生まれた存在であるとも、

 いつか死ぬだろうとも思わなくなる。
 宇宙そのものが消滅することがあっても、
 気づきとしての自分が消えることはない。
 
 何が起こっているように見えても、
 それを個人的に捉えることはない。
 なぜなら
 現象が起こるのを可能にしていた構造が、
 じつは最初からいちども
 存在したことがなかったとわかるからだ。
 どんなときにも、
 孤立感も分離感も疎外感も
 まったく感じなくなる。
 自分が精神的にどこまで進歩したかを
 他人と比較することもなくなる。
 ほかの人と同じような経験を
 したがることもなくなるが、
 それは経験が個人のものであるとは
 まったく感じられなくなるからだ。
 経験という言葉は、
 このひとつの包括的な気づきを
 表す同義語になったのだ。
 
 経験はとても甘美で開かれたものになる。
 気づきは愛とも呼ばれる
 ということを前に記したが、
 瞬間瞬間の直接的な経験が、
 それが真実であることを
 はっきりと示してくれる。
 甘美さといっても、
 それは心地よい現れとして
 経験されるわけではない。
 この甘美さは
 それよりもずっと深遠なものだ。
 現れたり消えたりする対象ではないのだ。
 管理者は現れのまさに源泉そして本質として、
 どんな場合でも感じられる。
 通常は「痛み」とみなされるような現れも、
 このまったく同じ甘美さによって
 甘美さとして優しく抱かれる。
 この完全な開放性、明晰さ、愛、甘美さの
 例外であるように感じられるものは何もない。
 これは過激で革命的だ。
 そしてそれがあなたの本来のあり方なのだ。
 
 『気づきの視点に立ってみたら……』(p54-57)
──────────────────

> どんなものについても、
> それは気づき以外のなにものでもない
> と感じられるようになったとき、
> 観照は実現したことになる。

どうやら

たったこれだけのことのようです。

これなら

とても不可能というようなことではない。

実際に自分が

「気づいているということ」

それ自体であるのは紛れもありません。

あとは自分の実際の経験が

気づきの内容確認以外ではないことを

確信しているかどうかだけです。

知覚経験とは知覚内容の経験であって、

知覚の対象物の存在を経験してはいないこと。

さらに、

知覚経験と言っても

気づきの外側に存在する、

気づきとは別個の知覚機能というものの

存在が確認されたわけではないこと。

つまり知覚内容とは

気づきの内容にほかならないこと。

ということは、

自分が経験している対象物というのは

実際は気づきの内容以外ではないこと。

かくてわれわれの実際の経験は、

気づきの存在を確認しているにすぎない

ということになります。

そしてそれだけで、

【どんなものについても、
 それは気づき以外のなにものでもない
 と感じられるように】

なるわけです。

それだけでグレッグ・グッドは

【観照は実現したことになる。】

と言います。

> 気づきがあり、
> そして気づきとは別に
> ものごとが独立して存在している
> という感じがなくなる。

ああ、

そういう感じになっていくわけですね。

それはありえると思います。

> 暴力、病気、生物としての死さえ、
> 気づきの外にあるとは感じない。

そういうものは

まさに気づきのなかの現れにすぎない。

> それがみずから生じた独立したものであって、
> 気づきの外に存在している何かで
> 作られているとは感じられない。

物質という客観的存在物として

気づきとは別個に、

気づきの外側に存在している

とは感じられなくなる。

> 気づきを危険にさらすものにも見えない。

気づきのなかの現れの動向によって、

気づきの存在が脅かされるとは思えない。

> この時点で、
> 高次の理性に可能なことの
> ほとんどが完了する。

これで高次の理性ができること、

いわば恩寵に可能なことの

ほとんどが完了する。

(ああ、これだけで理解という意味では

 必要なことはすべて完了するんですね。
 
 これなら、
 
 とても不可能というようなことではない。)

> 目に見える世界も目に見えない世界も
> 身体も心(マインド)も、
> そのどれについても
> 気づきの外側に存在している
> と感じられることはもうない。

およそ現象世界と感じられるものは、

目に見えるものも目に見えないものも、

感じる身体も想念もすべてひっくるめて

それらが気づきの外側に

気づきとは別個に独立して存在しているとは

感じられなくなる。

> なにごともそれ自体で持続する
> 独立したものとしては経験されず、
> 観照する気づきの中の
> 自然発生的な現れで構成されたものとして、
> あらゆるものが経験される。

経験される現象すべてが

それ自体で独立して存在しているとは感じられず、

気づきのなかの自然発生的な現れの連続として

感じられる。

> 観照を実現したとき、
> 自分がずっと家にいたことに気づく。

その観点が定着したとき、

自分が一度も我が家を離れたことがなかった

ことに気がつく。

> 自分が生まれた存在であるとも、
> いつか死ぬだろうとも思わなくなる。
> 宇宙そのものが消滅することがあっても、
> 気づきとしての自分が消えることはない。

現れの形の変化が自分の存在に

何らかの影響を及ぼすとはまったく思われない。

たとえ宇宙が消滅することがあろうと、

その出現を可能にした

自分が消えることがないのがわかっている。。

> 何が起こっているように見えても、
> それを個人的に捉えることはない。
> なぜなら
> 現象が起こるのを可能にしていた構造が、
> じつは最初からいちども
> 存在したことがなかったとわかるからだ。

起こっているどんなことも、

それを個人的に捉えることはない。

客観存在を構成すると思われていた全構造が

すべて現れの場面という自然現象にすぎず

それらの画面として現れる一瞬一瞬の場面である

ある観念が別の観念を捕まえることも

参照することにありえない。

現象世界の構造とは

一瞬現れたひとつの観念にすぎず、

気づきの外側のどこかに客観的に存在したことなど

いちどもなかったとわかるからだ。

> どんなときにも、
> 孤立感も分離感も疎外感も
> まったく感じなくなる。

すべての現れは自分という気づきのなかの一場面。

その場面のなかのどこかで

孤立感や分離感や疎外感を感じることはもうない。

> 自分が精神的にどこまで進歩したかを
> 他人と比較することもなくなる。
> ほかの人と同じような経験を
> したがることもなくなるが、
> それは経験が個人のものであるとは
> まったく感じられなくなるからだ。

すべての現れを見ている自分が

その現れのなかの誰かになって

他人との比較に興ずることはもうない。

誰かほかの人の経験をしたがることもない。

その誰かほかの人の経験は

自分が誰かほかの人として経験しているのだから。

> 経験という言葉は、
> このひとつの包括的な気づきを
> 表す同義語になったのだ。

経験とは個人的なものではなくなる。

個人とは気づきのなかに現れたひとつの観念。

その虚構の観念が気づきを所有できるわけではない。

気づきを分割することも、

気づきのなかに境界線を引くこともできない。

分割も境界線も

気づきのなかに一瞬現れた観念にすぎない。

経験とは気づきである自分に起こるもの、

気づきのなかに現れである

一瞬の観念に起こるものではない。

> 経験はとても甘美で開かれたものになる。
> 気づきは愛とも呼ばれる
> ということを前に記したが、
> 瞬間瞬間の直接的な経験が、
> それが真実であることを
> はっきりと示してくれる。

経験はいつも分離も境界もない

気づきの質で包まれる。

──────────────────
 区別と分離の感覚が不在なときを
 愛と呼ぶがいい。
 
 『私は在る』(p128)
──────────────────

> 甘美さといっても、
> それは心地よい現れとして
> 経験されるわけではない。
> この甘美さは
> それよりもずっと深遠なものだ。
> 現れたり消えたりする対象ではないのだ。
> 甘美さは現れのまさに源泉そして本質として、
> どんな場合でも感じられる。

甘美さとは

経験の内容についての言及ではなく、

あらゆる経験に滲み出す

現れの源泉であり本質である気づきの香り。

> 通常は「痛み」とみなされるような現れも、
> このまったく同じ甘美さによって
> 甘美さとして優しく抱かれる。
> この完全な開放性、明晰さ、愛、甘美さの
> 例外であるように感じられるものは何もない。
> これは過激で革命的だ。
> そしてそれがあなたの本来のあり方なのだ。

普通なら「痛み」と見なされるような現れさえ、

この金剛不壊の気づきの質に包まれて安らぐ。

他者というものは存在しない。

あらゆる現れは

この完全な開放性、明晰さ、愛、

甘美さのなかで溶解し、例外は存在しない。

それがあなたの本来のあり方なのだ。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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昨夜はすごい雨風でしたね。

夕方途中で停電が起こり、

同じころに水も止まりました。

ありがたいことに

今朝方になって電気が復旧し

こうして書けています。

夢の中にもやすらぎが浸透しますように。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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