home > 通信 >『アセンション館通信』第809号:あらゆる理屈は現れである



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/10/20(第809号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
 苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
 れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
 (『ダイレクトパス』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在827名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.あらゆる理屈は現れである

2.編集後記
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■ 1.あらゆる理屈は現れである
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また雨が降ったりしていますが、

降らせないようにもできませんし。

何かをできる自分はいない、

なんて一連の思考が走ったりしますが、

それをコントロールしている自分はいない。

見ている自分がいるだけで。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

【あらゆる理屈は現れである】

という理屈が現れてきました。(*^_^*)

おそらく、現れを創造しているのは

なにかの自動過程なのでしょう。

その自動過程のコアアルゴリズムには

それなりの叡智と呼ばれるような仕組みが

組み込まれているのかもしれません。

あるいは、

それは単なる希望的観測というか幻想で、

じつはそれほどでもないのかもしれません。

わかりません。

ただ現れが現れという自動過程自体のなかで

破綻して、現れとして崩壊する……、

ということは無いのかもしれません。

どんな現れの「出力」も、

なんらかの別の現れの「入力」に永遠回帰するような、

アルゴリズムになっているのかもしれません。

もちろん、それはただの自動過程ですから、

そこにどんな「自己」もありえません。

ただの無意味な無限ループです。

しかしもちろん、

入れ込みさえすれば、

そこには深遠な物語が畳み込まれている……、

といった幻想を維持できるようになっているでしょう。

永遠に観劇していられるピノキオの映画館です。

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 どこであろうと、それが導くところ、それは夢だ。
 夢を超えていこうとする考えそのものが幻想なのだ。
 なぜどこかへ行かなければならないのか?
 あなたはただ世界という夢を見ているのだ、
 ということを悟りなさい。
 そして、出口を探すのはやめなさい。
 夢があなたの問題なのではない。
 問題は、
 あなたが夢のなかのある部分が好きで、
 別の部分が嫌いだということだ。
 すべてを愛すがいい。
 あるいは何も愛さないことだ。
 そして不平を言うのはやめなさい。
 あなたが夢を夢として見たとき、
 為すべきことはすべて為し終えたのだ。
 
 『私は在る』(p135)
──────────────────

(-||-)

> すべてを愛すがいい。

どうもわたしのパターンはそうなりにくい。

> あるいは何も愛さないことだ。

すべてを嫌悪で覆ってしまうようです。

> そして不平を言うのはやめなさい。

不平を言うことによって、

一場の現れにすぎない「理屈」(=観念)を

自分にしてしまうからでしょうね。

自分が愚かであることを嘆くのはかまわないけれど、

必ずしも嘆かなければならないものでもない。

自分の愚かさを嘆いたら、

それは間違いなく

【「自分の」愚かさ】になるでしょうから。

そうなれば「自分」が現れの中に現れることでしょう。

責任転嫁という人間のゲームに耽溺すればするほど、

自分はどんどん現れのなかに取り込まれる。

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 責任を転嫁することは
 人間の特徴的なゲームなのだ。
 何かが起こるために不可欠な要因の
 果てしないリストについて考えていくと、
 すべてが起こるための責任は、
 いかに間接的であっても
 すべてにあると認めるほかはない。
 行為者とは、
 「私の」と「私のもの」という幻想から生まれた
 神話なのだ。
 
 『私は在る』(p394)
──────────────────

(意識のなかの)「現れ」として起こることは、

現れに同一化した意識エネルギーの焦点に応じて

即時に起動される動き(=次画面)として、

量子物理学的な世界を想像することもできます。

あるいはシュリ・アートマナンダ

(クリシュナ・メノン)が教えるように、

映画フィルムの各コマにも似た

前後際断した個別画面として想像することもできます。

いずれにしても、

このような「理屈」(観念)すべてが

一場の現れでしかないことは事実です。

ただ、

一時的な現れである「理屈」(観念)は

一瞬の階段の役割を果たせるのかもしれません。

その階段の「理屈」(観念)を渡り終えたら、

次の瞬間にはその「理屈」(観念)は

使い終えた船として乗り捨てていいのです。

その「理屈」(観念)が終始一貫する

客観的世界の存在を前程する必要はありません。

そういう世界を前程したとたんに、

その客観的に存在する(構造をもつ)世界に

拘束されることに同意したことになりますから。

解放されるべき「自分」というのはいません。

もともと自由な「自分」がいるだけです。

「気づいているということ」は、

気づきの対象の存在と非存在に影響されません。

気づきの対象があろうとなかろうと、

「気づいているということ」自体は存在します。

「気づき」とは「存在」のことだとも言えます。

「気づいているということ」が、

自らの存在の根拠を何かほかのものに、

つまり「現れ」のなかの何かに求めたとき、

混乱と偽りの依存が現れるのです。

なぜなら、

「気づき」の存在を証明できるものは、

「気づいているということ」そのこと以外には

何もないからです。

──────────────────
 あなたがあなたを含むすべての
 証明なのだということを、
 まず悟るべきだ。
 あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。
 なぜなら、
 他者の存在もあなたによって
 確認されなければならないからだ。
 あなたは完全に、
 あなた自身によって在るのだということを
 覚えておきなさい。
 あなたはどこからも来なかったし、
 どこへも行かない。
 あなたは時間を超えた存在、
 そして気づきなのだ。
 
 『私は在る』(p178)
──────────────────

(-||-)

わたしは自分が存在することを知っている。

これは事実です。

ただ自分をこの身体だと誤解した瞬間にだけ、

心配がわき起こるのです。

でもそんな瞬間にすら、

その心配に気づくことは起こっている。

現れに「気づいているということ」自体は

その瞬間にもあるわけです。

この「気づくということ」自体が無かったら

どんなによかっただろうと思うことが

なかったわけではありません。

そうしたら

何ひとつ始まることも終わることもなかっただろうし、

どんなにさっぱりすることかと。

でも、もしかしたら

ある意味でそれが実情ではないのか、

という気配を感じることもあります。

それはラマナ・マハルシが

「創造もなければ、破壊もなく、
 
 道もなければ、目標もなく、
 
 自由もなければ、運命もない。
 
 何も起こったことがなかった」

と語っていたと知ったときです。

つまり、

「気づくということ」自体が無かったら

どんなによかっただろう、という想念は、

悪夢のなかで想像された「無」、

なのかもしれないと感じられたのです。

再び言い換えるなら、

「気づき」が無かったらどんなによかったか、

という想念は、

悪夢のなかに射し込んだ存在の反映

なのかもしれない、ということです。

──────────────────
 存在は幸福と同じであり、
 幸福は存在と同じである。
 ムクティ(解脱)という言葉は非常に魅惑的だ。
 人はなぜ探求するのだろうか?
 そこに束縛があると信じるために
 解脱を探し求めるのである。
 だが事実は、
 そこに束縛はなく、ただ解脱だけがある。
 なぜそれを解脱と名づけておいて、
 それから探しに出かけるのだろうか?
 
 『あるがままに』(p37)
──────────────────

ここで語られるマハルシの断言は、

それ自体にはまったく矛盾はありません。

しかし、

夢の中の住人がこの言葉を聞くと、

なんとも了解しがたい。

なぜなら夢の中の住人は

知覚される現れを存在と誤解しているからです。

しかし【見かけ】は幻像であって

存在ではありません。

夢のなかで夢からの出口を探すことが

恐怖と惨めさを生み出すのです。

【なぜどこかへ行かなければならないのか?
 あなたはただ世界という夢を見ているのだ、
 ということを悟りなさい。
 そして、出口を探すのはやめなさい。
 夢があなたの問題なのではない。
 問題は、
 あなたが夢のなかのある部分が好きで、
 別の部分が嫌いだということだ。】

そうか……。

現れのなかに好きな部分があるから、

現れのなかに嫌いな部分が生まれるのか。(-_-;)

当たり前だなぁ。

それが夢のなかで出口を探すということか。

そうやって夢を実体化しているのか……。

> 人はなぜ探求するのだろうか?
> そこに束縛があると信じるために
> 解脱を探し求めるのである。

現れは一場の幻像。

そのなかに望ましいものを見つけ、

疎ましいものを創造しながら、

わたしは夢のなかでさまよっているのか。

それ自体存在もせず、

必要もないものを求めて、

わたしはあがいている。

そして求めるものが手に入らないと言って、

今度はその自分がハマった束縛を嘆くのか。

そしてその束縛からの脱出を約束してくれる

解脱を求めてまたあがく。

とこういうことが起こっていると

マハルシは言っているわけか。

とはいえ、

現れという【見かけ】のなかで

(“自分”にとって)

望ましい状態を求めているかぎり

なかなかこの理解は浸透しないよなぁ。(-_-;)

しかし

現れという【見かけ】のなかに

何ひとつ求めない理解にとっては、

マハルシのこんな指示で十分なわけだ。

──────────────────
 質問者 この覚醒とは何でしょうか?
     どのようにしてそれを得、
     培うことができるのでしょうか?
 
 マハルシ
 あなたが覚醒なのだ。
 覚醒とはあなたのもうひとつの名前だ。
 あなたが覚醒なのだから、
 それを得たり、
 培ったりする必要はない。
 あなたがしなければならないことは、
 真我でない他のものごとに
 注意をはらうのをやめることだけだ。
 もしそれらに気づくのをやめれば、
 純粋な覚醒だけが残る。
 それが真我である。
 
 『あるがままに』(p21)
──────────────────

> あなたがしなければならないことは、
> 真我でない他のものごとに
> 注意をはらうのをやめることだけだ。

じつにシンプルかつ真実の指示……。

このようなマハルシの教えで十分な理解も

あるわけだよなぁ。

わたしの場合は

こういう言葉が意味しているものが

了解されるためにすらn十年が必要だった。

連想野がまるで違っているのだから。

だから時代の流行が変わってくると、

教えの指示も変化せざるをえないわけか。

ラメッシ・バルセカールは

この「霊的探求」という過程を

次のように描いています。

──────────────────
 (霊的探求という)この現象においては、
 どんな対象物の間にも違いがありません。
 すべての対象物は意識の中の単なる見かけです。
 あなたが主体だと思っている「自分自身」は、
 実に
 自分自身を主体だと思っている
 他の対象物から認識されている対象物です。
 誰か他の人があなたを見ます。
 その人にとってはその人が主体で、
 あなたが対象物です。
 でも根本的には、
 観察者も観察されるものも両方が対象物です。
 
 『意識は語る』(p322)
──────────────────

つまり、われわれは

自分で道を求めている主体のつもりでも、

実際は明らかに全員が

現象という見かけのなかの対象物にすぎない、

ということ。

──────────────────
 この逆説とは何でしょうか?
 誰が何を求めているのでしょうか?
 その唯一の満足できる答えは、
 意識がそれ自身を求めているというものです。
 それは、
 主体がそれ自身を求めているのです。
 意識が自分自身をそれぞれの人間機構と一体化し、
 それから、
 それを「自分」と呼びます。
 「自分」は単なる観念にすぎません。
 それは、
 個人的意識として一体化された
 非個人的意識なのです。
 その源泉、
 宇宙意識を求めているのは個人的意識です。
 主体としての意識が自分自身を求めているのです。
 
 『意識は語る』(p322)
──────────────────

霊的探求のなかで人間(という

見かけのなかの対象物)が求めているのは、

対象物の獲得で得られる地上の幸福ではない。

霊的探求のなかで人間が求めているのは

実際は自分自身だ。

つまり

見かけのなかの対象物が真の主体を求めている。

ということは、実際は

見かけのなかの対象物が真の主体を求めているのを

意識が見ているということだ。

非個人的意識が個人的意識に一体化して、

非個人的意識を求めている!(@_@)
 
──────────────────
 ヒンドゥー哲学が「リーラ」と呼んでいるのは、
 この奇妙なゲームです。
 それに対しては何の説明もありません。
 神秘家は長い間、
 この現象界は意識が認識する意識の中の見かけで、
 全現象は非個人的プロセスである
 と言い続けてきました。
 今日では科学者が、
 全現象は自己生成するプロセスである、
 つまり、
 それはそれ自身として生じると言っています。
 この非個人的プロセスこそ、
 私たちが一体化している探求なのです。
 私たちは「私は何かを求めている」、
 つまり「自分」が何かを求めていると信じています。
 すると探求はものすごくみじめになります。 
 
 『意識は語る』(p321-322)
──────────────────

この宇宙的な意識の遊びのなかで

見かけのなかの対象物にすぎない人間が、

自分が求めているのだと思い込んだとき、

その探求はひどく惨めなものになる。(>_<)

とまあ、ラメッシ・バルセカールは

そう言っているわけです。

いやいや、

なんともひどい話です。(*^_^*)

というのも

実際に経験しているのは意識であって、

肉体ではないからです。

そしてこのひどい話は、

肉体との自己同化が続いているあいだは

解消されません。

そして、

実際に経験しているのは意識であって

肉体ではないとはっきりわかったとき、

この惨めな苦しみは終わります。

そして実際は、

苦しんでいた者など誰もいなかったことが

突然了解されるわけです。

いやはや、なんというか。(-_-;)

この見かけのなかで演じられているのは

じつはエンタテインメントです。

娯楽というのはすべて中毒性がある。

この一喜一憂する変化の波を

けっしてバカにすることはできません。

その変化の波に骨絡みになっている

かもしれないからです。

──────────────────
 世界は無数の輪(リング)でできている。
 それに引っかける鉤(フック)は
 みなあなたのものだ。
 あなたの鉤をまっすぐにしなさい。
 そうすれば
 何もあなたを捕らえることはできないだろう。
 あなたの耽溺を放棄しなさい。
 ほかに何も放棄するものはない。
 常習的な利欲心、
 結果を探し求める習慣を止めなさい。
 そうすれば自由の世界はあなたのものだ。
 
 『私は在る』(p259)
──────────────────

「私は在る」

しかしその私は

存在しないものに一体化して体験している。

夢から夢へと。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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ご自由にお書きください。


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■ 2.編集後記:
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一週間に一度だけ、

わかったような言葉ばかりを

メチャクチャに吹きまくっています。

何かをしているのがわたしなら、

わたしは夢の中の登場人物。

わたしがただ見ているだけなら

わたしはいない。

今日も暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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