home > 通信 >『アセンション館通信』第812号:何が理解を求めているのか?



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/11/10(第812号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
 苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
 れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
 (『ダイレクトパス』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在830名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.何が理解を求めているのか?

2.編集後記
──────────────────

      <<【連絡事項】>>

配信スタンド「メルマ」で読んでいただいている方、

「メルマ」のサービスは今年いっぱいで終わります。

実際に読んでくださっている方は

配信スタンド「まぐまぐ」のほうにご登録ください。

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■ 1.何が理解を求めているのか?
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今日は寒くなるのかと思っていたら、

あ、途中から晴れてきた。

まるで昔の秋みたいな。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

このメルマガの主旨は、

週に一度のマインド無礼講です。

週に一度、pariというマインドが

言いたい放題、

気取りたい放題、

格好つけ放題をしようというわけです。

ところがこれが

どこまで行ってもマインド無礼講なので、

そもそもその内部に

マインドを超える契機が存在しない。

マインドを超えようがないわけです。

ある意味それは当然でもあります。

その必然性を

マハラジはこう語っています。

──────────────────
 あなたはマインドを超えている。
 だが、あなたはマインドで知るのだ。
 知識の範囲、深さ、性質は、
 あなたがどのような手段を使うかに
 依存するということは明らかだ。
 あなたの手段を改善しなさい。
 そうすれば、
 あなたの知識も改善されるだろう。
 
 『私は在る』(p330)
──────────────────

> あなたはマインドを超えている。
> だが、あなたはマインドで知るのだ。

つまりわれわれは

自分がマインドではないという事実を

マインドで理解しなければならないというわけです。

ではそもそも

その自分がマインドではないという事実を

知ろうとしているのはいったい誰なのか?

もちろん知的に教わった解答なら

このメルマガを読んでいるわれわれ全員、

知らないわけではありません。

実際にはそこに誰かなど存在しないわけです。

ただ瞬間瞬間に現れる思考があるだけです。

pariのこのメルマガに関して言うなら、

その瞬間瞬間に現れる思考が

現象する見かけの上で

闇雲に格好のつけ放題をやっているわけです。

それを誰がやっているのか?

そして誰に対してやっているのか?

誰が誰にどんな気遣いをしながら

その一人芝居を演じているのか?

> 知識の範囲、深さ、性質は、
> あなたがどのような手段を使うかに
> 依存するということは明らかだ。

そこで知覚の対象物として現れている思考が

どのようなレベルに現れているのか?

そしてどのようなレベルの思考が

それに応接しようとしているのか?

そのような思考を視野に入れるだけで、

それはどこまでも主観的な現象であり、

それを客観的に評価判断できるような

いかなる基準もありえないことは明らかです。

> あなたの手段を改善しなさい。
> そうすれば、
> あなたの知識も改善されるだろう。

だとするなら、

まず採用する手段のレベルを改善しなさい。

それにしたがって

あなたの観察対象として浮上してくる知識も

改善されてくるのは当然ではないだろうか。

マハラジが言及しているのは

まあそういうことだとも言えるでしょう。

しかし一方で

そういうことを主導できる

「あなた」という分離主体など存在しません。

そういう意味ではマハラジの言葉は

「あなたが実際に何を求めているかによって、

 起こる観察のレベルが必然的に変化するだろう」、

という意味にもなるわけでしょう。

しかしもともと言葉は

あらゆるニュアンスを表現などできませんし、

そんな目的の道具でもないわけです。

いずれにせよ、

「あなた」という分離実体など

存在しないわけですから。

しかしでは、もしマハラジが

「あなたが実際に何を求めているかによって、

 実際に起こる観察のレベルが
 
 必然的に変化するだろう」、

と言ったとすれば、

その場合の「あなた」というのは、

具体的には何のことなんでしょう?

何が理解を求めているのでしょうか?

もちろん、ある意味レベルでは

それが対話の相手を指しているのは確かです。

つまり、

ここでマハラジの言葉を聞いている

われわれのこととも言えます。

では、そのわれわれとは、

実際のところ

具体的には何を意味するんでしょう?

それをもう少し具体的に描写することは

できるのでしょうか?

【何が理解を求めているのか?】

そんな気分に

具体的描像をともなう解答を

提供してくれる本に出会ったので、

今回はその文章をご紹介します。

もう新しい本を読むエネルギーは

あまりないのですが、

グレッグ・グッドを噛りはじめてから、

ちょっと非二元の翻訳書を

眺めてみたくなりました。

そして手に入れてみたのが

ルパート・スパイラという方の

『プレゼンス―第1巻 安らぎと幸福の技術』
https://amzn.to/2PYQzlZ

という本です。

まだ文字がほしいということは

その程度の理解ということですから

起こっていることは必然です。

ただ昔のような読書欲はないので、

最初から通して読む

などということはできません。

ところどころ拾い読みするだけです。

するとこんな言葉が飛び込んできました。

【真の、唯一の自己は本来、

 すべての動機、計画、目的から自由です。】

この文章が何かをヒットしました。

真の自己(つまり真我)は

すべての動機、計画、目的から自由だ、

というのです。

これはとても魅力的な定義なので

その周辺を読んでみました。

「永遠の今」

という章の中の一節です。

グレッグ・グッドの場合は

われわれの本質を指すとき

「気づき(awareness)」という言葉を使います。

ルパート・スパイラという方は

「真の自己(true self)」も使いますが、

いちばん多用するのは

「現存(presence)」という言葉です。

──────────────────
 今は私たちの自己です。
 私たちが今にあるのではありません。
 私たちが今なのです。
 今は他のすべてのものと一緒に
 自己が入っている容れ物ではありません。
 それは私たちの自己であり、
 永遠の現存です。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p91-92)
──────────────────

> 今は私たちの自己です。
> 私たちが今にあるのではありません。
> 私たちが今なのです。

今のなかにわれわれ

つまり現存(プレゼンス)があるのではなく、

われわれという現存がすなわち今なのだと。

> 今は他のすべてのものと一緒に
> 自己が入っている容れ物ではありません。
> それは私たちの自己であり、
> 永遠の現存です。

今というのが真我であり

永遠に存在する現存なのだと。

──────────────────
 体や心(マインド)としての自己ではなく、
 気づいている現存である自己に、
 今を拒むどのような動機があるのでしょう?
 そこに思考がなけれ、
 自己には何の動機もありません。
 仮に、
 動機を育んでいる思考の最中であったとしても、
 動機はその思考でしかありません。
 言い換えるなら、
 動機はすべて思考のためにあるのであって、
 私たちの自己とは関係がありません。
 
 「私たちの目的のために
  動機を育む思考があるのだ」
 と思考だけは信じるかもしれませんが、
 動機を持つ自己は架空の自己です。
 架空の自己に動機があるのではありません。
 架空の自己が動機なのです。
 動機とはつまり、
 今を離れ、
 架空の過去や未来において何かに抵抗し、
 何かを探すことそのものです。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p91-92)
──────────────────

> 体や心(マインド)としての自己ではなく、
> 気づいている現存である自己に、
> 今を拒むどのような動機があるのでしょう?

 真の自己とは、
 
 「気づき」であり、
 
 「現存」であり、
 
 「今」なのだから、
 
 その「自己」が「今」を拒む道理がない。

「自己」には「今」を拒む動機がない。

> そこに思考がなけれ、
> 自己には何の動機もありません。

そもそも「自己」には何の動機もない。

動機をもっているのは思考だ。

> 仮に、
> 動機を育んでいる思考の最中であったとしても、
> 動機はその思考でしかありません。

動機そのものが思考でしかない。

> 言い換えるなら、
> 動機はすべて思考のためにあるのであって、
> 私たちの自己とは関係がありません。

つまり動機というのは

思考の存在理由のためにあるだけで、

私たちの自己とは本来何の関係もないものだ。

> 「私たちの目的のために
>  動機を育む思考があるのだ」
> と思考だけは信じるかもしれませんが、
> 動機を持つ自己は架空の自己です。

「あなたの目的のために

 わたしは動機を考えてくれているのだ」、

などと思考は主張するかもしれないが、

そもそも今の現存である真の自己が

自分という今の現存を否定して

今の現存以外を求める理由がない。

今以外を望む動機をもつのは

架空の自己でしかありえない。

> 架空の自己に動機があるのではありません。
> 架空の自己が動機なのです。

真の自己以外に

架空の自己という自己が存在していて、

その架空の自己が動機を所有しているのではなく、

動機とはその架空の自己の別名のことだ。

> 動機とはつまり、
> 今を離れ、
> 架空の過去や未来において何かに抵抗し、
> 何かを探すことそのものです。

動機、

つまりその架空の自己の狙いは、

唯一の真の自己である今を離れて、

架空の過去や未来を捏造して、

その存在しない過去や未来のなかで

何かに抵抗したり何かを探すことなのだ。

──────────────────
 真の、唯一の自己は本来、
 すべての動機、計画、目的から自由です。
 その自由な自己のために、
 その自由な自己から、
 結局はすべての動機、計画、
 目的が生まれるのです。
 
 私たちは純粋な平安、幸福であって、
 今に抵抗することなど知らず、
 また、
 またそれを何かと置き換えようともしません。
 
 思考があってはじめて、
 私たちは今に抵抗し、
 想像し得るより良い状況と
 置き換えようとします。
 そこに思考がなければ、
 今を後にして、 
 未来に平安、幸福、愛、
 もしくは目覚めを得ようとする
 動機はおこりません。
 
 平安、幸福、愛を
 未来に求めるためには、
 私たちは今ここにある自己の
 真の性質を忘れ、
 求めているものが今ここに、
 自己自身にあることを
 忘れなければなりません。
 
 幸福探しのまたの名は不幸探しであり、
 それはつまり、
 私たちの自己を忘れることなのです。
  
 『プレゼンス―第1巻』(p92-93)
──────────────────

> 真の、唯一の自己は本来、
> すべての動機、計画、目的から自由です。

この文章がヒットしたわけです。

【真の、唯一の自己は本来、
 すべての動機、計画、目的から自由です。】

なんと見事な「自己」の定義であることか。

このことが本当に肚に入ったら……。

> その自由な自己のために、
> その自由な自己から、
> 結局はすべての動機、計画、
> 目的が生まれるのです。

このことを

「リーラ(神の遊び)」と称したわけか。

そして強力なマーヤが始まった。

> 私たちは純粋な平安、幸福であって、
> 今に抵抗することなど知らず、
> また、
> またそれを何かと置き換えようともしません。

「真我」である「現存」は

純粋な平安、幸福であって、

今を否定したり

今から離脱を図ったりすることはありえない。

> 思考があってはじめて、
> 私たちは今に抵抗し、
> 想像し得るより良い状況と
> 置き換えようとします。

今を否定するために、

存在しない過去や未来を捏造して、

そこを根城にして今に抵抗し、

より良い状況に置き換えようとするのは

現存のなかに現れる思考でしかない。

> そこに思考がなければ、
> 今を後にして、 
> 未来に平安、幸福、愛、
> もしくは目覚めを得ようとする
> 動機はおこりません。

唯一の現存である今を離脱して、

存在しない架空の過去や未来のなかに

平安や幸福や愛や目覚めといった

より望ましい夢を得ようとする動機は

思考以外にはありえない。

> 平安、幸福、愛を
> 未来に求めるためには、
> 私たちは今ここにある自己の
> 真の性質を忘れ、
> 求めているものが今ここに、
> 自己自身にあることを
> 忘れなければなりません。

そしてそのような、

架空の過去や未来のなかに

より望ましい夢を求めるためには、

それ自身が何ひとつ欠けることなく

平安、幸福、愛そのものである

真の自己の状態をいちど忘れなければならない。

> 幸福探しのまたの名は不幸探しであり、
> それはつまり、
> 私たちの自己を忘れることなのです。

そのような「幸福探し」とは、

別名「不幸探し」のことであり、

つまりは真の自己を忘れることなのだ。

──────────────────
 では
 何が私たちの自己の
 現存を忘れてしまうのでしょう?
 自己には
 「自己を知らないこと」ができないため、
 それは私たちの自己ではありません。
 自己とは、
 それ自身の知だからです。
 
 平安と幸福という永遠の性質、
 つまり、私たちの真の自己、
 気づいている現存を忘れてしまうのは
 どの自己なのでしょう?
 それは架空の自己です。
 それこそが分離した自己です。
 
 架空の自己は、
 それを想像する思考から生まれます。
 それは架空の、
 思考が生んだ自己であり、
 平安と幸福は、
 今この現状にはないと想像します。
 もし、
 幸福と平安がここにないのであれば、
 いったいどこにあるのでしょう?
 「今ではない」どこかでしかありません。
 この「今ではない架空のどこか」に
 与えられた名前が、
 時間です。
 
 実のところ、
 架空の分離した
 内側にある自己の性質である
 抵抗と模索に意味が与えられ、
 それが繰り広げられる舞台が
 時間なのです。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p93)
──────────────────

> では
> 何が私たちの自己の
> 現存を忘れてしまうのでしょう?

では、

われわれの真の自己である現存を

忘れてしまうものとは何なのか?

> 自己には
> 「自己を知らないこと」ができないため、
> それは私たちの自己ではありません。
> 自己とは、
> それ自身の知だからです。

それが真の自己であることはありえない。

なぜなら、

真の自己とは自己知のことだからだ。

他の何者にも依拠することなく

「自己を知っている」ことだ。

だから、

真の自己が「自己を知らないこと」は

その定義上ありえない。

> 平安と幸福という永遠の性質、
> つまり、私たちの真の自己、
> 気づいている現存を忘れてしまうのは
> どの自己なのでしょう?

では、

あらゆる現れに気づいている真の自己の

平安と幸福という永遠の性質を

忘れているのはいかなる自己なのか?

> それは架空の自己です。
> それこそが分離した自己です。

それが分離した自己という

虚構の自己像を想像した架空の自己だ。

> 架空の自己は、
> それを想像する思考から生まれます。

架空の自己とは

そのような虚構の自己像を想像した思考だ。

> それは架空の、
> 思考が生んだ自己であり、
> 平安と幸福は、
> 今この現状にはないと想像します。

それは思考が生んだ架空の自己であり、

その架空の自己が

いまこの現状の中には平安と幸福がない

と想像しているのだ。

> もし、
> 幸福と平安がここにないのであれば、
> いったいどこにあるのでしょう?

では、そのここにはない幸福と平安は

どこにあるというのか?

> 「今ではない」どこかでしかありません。

もちろん、それは

「今ではない」どこかでしかないだろう。

> この「今ではない架空のどこか」に
> 与えられた名前が、
> 時間です。

そのここにはない幸福と平安があるという

「今ではない架空のどこか」に付与された名前が

「時間」なのだ。

> 実のところ、
> 架空の分離した
> 内側にある自己の性質である
> 抵抗と模索に意味が与えられ、
> それが繰り広げられる舞台が
> 時間なのです。

そしてその捏造された

虚構の分離した自己の努力、

抵抗と模索に大いなる意味が与えられ、

称賛されるその活躍の舞台が

当然ながら、これまた時間なのだ。

──────────────────
 今はこの今でしかいないことが
 はっきり分かると、
 分離した自己による抵抗や模索は
 崩れ去ります。
 分離した自己の行き場がなくなるのです。
 
 抵抗や模索が崩れ去ると、
 分離した自己そのものも
 崩れ去ります、
 分離した自己とはそもそも、 
 何かを求める実体ではなく、
 何かを求める活動そのものだからです。
 
 この今が唯一の今で、
 平安、幸福、愛のすべてが
 今ここに、
 この状況にあるということ、
 今ここに、
 この状況にしかありえないということを
 体験的に理解したならば、
 探求は何になるというのでしょう?
 目覚めを求める意味とは何なのでしょう?
 誰がそれを求めるというのでしょう?
 
 架空の自己が架空の未来に
 そうした物事を求めるだけであって、
 思考がなければ、
 私たちの自己、
 気づいている現存には、
 現状を否定し、
 それを置き換えようとする仕組みはありません。
  
 『プレゼンス―第1巻』(p94-95)
──────────────────

> 今はこの今でしかいないことが
> はっきり分かると、
> 分離した自己による抵抗や模索は
> 崩れ去ります。
> 分離した自己の行き場がなくなるのです。

これらの称賛される過去や未来は

じつは存在しない。

それは単に今の思考でしかない。

今が過去になったり、

未来が今になったりすることは

実際にはありえない。

それは単に今の思考でしかない。

「今」とはたった今の

この「今」でしかないことが

はっきりとわかると、

分離した自己による抵抗や模索

といった捏造話は崩れ去る。

分離した自己という

虚構の話の行き場がなくなるのだ。

【実際に存在する「今」は、

 たった今のこの「今」だけだ。】

> 抵抗や模索が崩れ去ると、
> 分離した自己そのものも
> 崩れ去ります。

いったんこのことが本当に理解され、

抵抗や模索が崩れ去ったら、

分離した自己自体も崩れ去るしかない。

> 分離した自己とはそもそも、 
> 何かを求める実体ではなく、
> 何かを求める活動そのものだからです。

分離した自己という、

そのような実体があったわけではなく、

時間の中に何かを求める活動が

あっただけだからだ。

> この今が唯一の今で、
> 平安、幸福、愛のすべてが
> 今ここに、
> この状況にあるということ、
> 今ここに、
> この状況にしかありえないということを
> 体験的に理解したならば、
> 探求は何になるというのでしょう?
> 目覚めを求める意味とは何なのでしょう?
> 誰がそれを求めるというのでしょう?

実際に存在するのは

この今あるこの「今」だけで、

平安、幸福、愛のすべてが

本当にあるのが今ここだとわかったら、

そのことを体験的に理解したら、

いったい誰がそんなものを

架空の未来に求めるだろうか?

いったい誰が

目覚めを求めたりするだろうか?

誰が何のためにそんなものを求めるのか?

> 架空の自己が架空の未来に
> そうした物事を求めるだけであって、
> 思考がなければ、
> 私たちの自己、
> 気づいている現存には、
> 現状を否定し、
> それを置き換えようとする
> 仕組みはありません。

架空の自己が架空の未来に

そういうものを求めるだけ。

言い換えるなら、

いまこの瞬間にそのような思考が

現れているだけ。

その思考があなたを巻き込めなければ、

それはただ崩れ去るしかない。

「現存」そのもののなかに

自らを否定し、

それを別のものと置き換えようとする

仕組みなどはないのだから。

では、いったい

【何が理解を求めているのか?】

何がまだこうして本を読もうとするのか?

それはまだ自分が求めることに

意味を感じている思考です。

別の言い方をすると、

自分が分離した実体として

存在すると信じている理解と言ってもいい。

まだ自分が何かできる可能性がある

と信じている思考です。

まだそんな架空の実体など存在しない

ということに確信がない思考です。(*^_^*)

まだ自分が頑張れば

何かできることがあるんじゃないか、

と思っている思考と言ってもいい。

わかりました?(^_-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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   ………○…………○…………○………


▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

「私は在る」に関するご意見や単なるメールなど、

ご自由にお書きください。


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   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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【あなたはマインドを超えている。

 だが、あなたはマインドで知るのだ。(p330)】

これがどういう意味なのか

長いこと考えてきたような気がします。

この「あなた」という言葉は、

使われるその文脈次第で

千変万化の変わり身を見せますから。

やっと理解を求めているのが誰なのか

なんとなく正体が見えてきたような気がします。

今日も暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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