home > 通信 >『アセンション館通信』第813号:あなたの非依存性を主張しなさい



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/11/17(第813号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
 苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
 れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
 (『ダイレクトパス』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在831名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.あなたの非依存性を主張しなさい

2.編集後記
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■ 1.あなたの非依存性を主張しなさい
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雲ひとつない秋晴れですね。

すべては気づきの中の現れにすぎません。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

いろいろなことが起こっています。

いろいろ起こっていますが

こういう出来事というものはすべて

(私である)「気づき」に対して現れています。

──────────────────
 気づきは生じるものを見る。
 何が生じるとしても、
 それは気づきに対して現れる。
 形、思考、感情、感覚、
 時間、空間、単一性、多様性といったものが
 気づきに現れるためには、
 気づきそのものが
 そうした要素に制限されたり
 限定されたりすることはありえない。
 気づきはすべての対象に対する唯一の主体なのだ。
 気づきには形がないが、あらゆる形を見る。
 気づきは見られることがないが、見ている。
 
 ……
 
 見ることが自分以外の場所で生じるのを
 じかに経験することはない。
 自分が見ているということを
 「見る」こともできない。
 ……
 いつも「私」が見ていると感じられる。
 
 気づきが見る。
 私が見る。
 どちらも同じだ。
 気づきとは「私」のことなのだ。
 あるいは、
 シユリ・アートマナンダの言葉を借りれば、
 気づきとは「私−原理」だ。
 
 『気づきの視点に立ってみたら……』(p12-13)
 http://goo.gl/1yG1ow
──────────────────

あらゆる現れは

気づきに対して起こっています。

すべては「私」に対して起こっている。

あらゆる現れを見ているのは気づきです。

「私」がすべての現れを見ている。

その「私」はどんな属性ももっていない。

その「私」はいかなる姿でも

現れることができません。

だから「私」を見るということは

はじめから問題になりません。

「私」について言えることは

「私は在る」だけです。

「私は在る」を否定することは

「私」にもできません。

「私」が自分の存在を否定したら、

その否定そのものが

「私」の存在を証明してしまうからです。

こんなこと、

バカのひとつ覚えみたいに言っていても

仕方がないようでもあるのですが、

でも、

われわれの人生体験って、

この現れに対する判断・評価で

揺れ動いているのも事実です。

つまり、

自分が見ているものを

ああだこうだと判断・評価しては、

その判断・評価に応じて

落ち込んだり舞い上がったり、

不幸になったり幸福になったりしている。

自分は不幸になったり幸福になったりできる

と判断・評価しているわけでしょう。(*^_^*)

でも、

形、思考、感情、感覚、時間、空間、

単一性、多様性といったすべてが、

気づきの中の現れなのですから、

その意味の幸福や不幸も

気づきの中の現れにすぎません。

「私」が幸福になったり不幸になったり

できるわけではありません。

「私」が見ている人生体験すべてが

気づきの中の現れであることはもちろん、

その人生体験に対する判断・評価もまた、

気づきの中の現れでだからです。

それらすべての現れは

それを見ている気づきではない。

その意味ではそれは「私」ではない。

起こっていることはすべて「私」ではない。

現れを見ているのは「私」だけれど、

現れの中にあるものは「私」ではない。

属性をもつものしか現れることはできないのに、

現れに気づいている気づきは属性をもちえない。

いかなる属性も持ちえない気づきが、

自らのなかに属性をもつ内容を展開して、

現れとして自分を見ている。

実在するのは

唯一「気づき」だけだとも言えます。

事実、

非二元を教えるグルたちは

そう保証しているようです。

そのような教えによると

結局すべての現れは

純粋な気づきのなかに崩壊してゆくようです。

この純粋な気づきとは何なのか?

それは自分が存在することを知っている

真の自己意識です。

「私は在る」という存在感覚です。

そしてこれこそが

自分が存在することを知っているわれわれ自身の

“父母未生以前の本来の面目”なのです。

われわれは誰もが

自分が存在することを知っています。

あなたはこれを否定できますか?

否定できませんよね。

だからこそマハラジは

──────────────────
 そこに探求すべき第二の、
 あるいは高次の自己というものはない。
 あなたが最高位の自己なのだ。
  
 『私は在る』(p536)
 http://tinyurl.com/s747u
──────────────────

と断言するわけです。

そしてラマナ・マハルシは

世界の客観的存在を主張する質問者に

こう言うわけです。

──────────────────
 世界があなたのもとへ来て、
 「なぜ『私』は存在するのか?
  『私』はどうして創造されたのか?」
 と尋ねるだろうか?
 その質問をするのはあなたである。
 質問者は彼自身と世界との関係を
 確立しなければならない。
 彼は世界が彼自身の想像であることを
 認めざるをえない。
 
 『あるがままに』(p323)
 http://tinyurl.com/2aar6zj
──────────────────

これ、よくよく考えてみれば、

まことにもってそのとおりじゃないですか。(^^;)

> 世界があなたのもとへ来て、
> 「なぜ『私』は存在するのか?
>  『私』はどうして創造されたのか?」
> と尋ねるだろうか?
> その質問をするのはあなたである。

これこそが

実在するのは世界ではなくあなただ、

ということの証明じゃないでしょうか。

明らかに、われわれは

世界がこのように尋ねて

その実在性を自ら明証したのを見たことがない。

世界は客観的に存在すると信じる人々から

その信念を植え付けられ、

それを鵜呑みにしてただ信じていただけです。

そして大部分の人々がそれを信じ続けている。

その信念を主張する質問者に、

マハルシはこう反問します。

──────────────────
 マハルシ
 ……
 目覚めている今でさえ、
 「私は実在だ」と言っているのは
 世界だろうか、それともあなただろうか?
 
 質問者 もちろんそれを言うのは私ですが、
     私は世界について言っているのです。
 
 マハルシ
 なるほど、
 あなたは世界が実在だと言う。
 だとすれば、
 自分自身の実在性についてさえ無知なあなたが、
 世界の実在性を証明しようとしていることを、
 世界は無視しているのである。
 
 『あるがままに』(p330)
──────────────────

(-||-)

要するに、

世界の客観的存在とは、

聞いた話の受け売りにすぎなかったわけです。

しかも、その世界には

自分としか思えない登場人物がいる。

これで困らない人がいたら見てみたい。(^_-)

この自分と世界のあいだで、

あるいは世界の中の自分として、

現れのなかに生じる様々の観念に翻弄され、

われわれはひたすら本来の安らぎを求めて

右往左往し続けるわけです。

現れのなかにその解決を求めるかぎり、

現れは次から次と

つかの間の解決を示しながら

ありとあらゆる状況や観念を提供してきます。

それは物語の中の永遠のたらい回しです。

この夢の迷宮は

なかで出口を探すかぎり

永遠に次の夢への出口を示します。

──────────────────
 (夢からの)出口の必要はないのだ!
 出口もまた夢の一部分だということが
 わからないのだろうか?
 あなたがするべきことは、
 夢を夢として見ることなのだ。
 
 どこであろうと、
 それが導くところ、それは夢だ。
 夢を超えていこうとする考えそのものが
 幻想なのだ。
 なぜどこかへ行かなければならないのか?
 あなたはただ世界という夢を見ているのだ、
 ということを悟りなさい。
 そして、出口を探すのはやめなさい。
 夢があなたの問題なのではない。
 問題は、
 あなたが夢のなかのある部分が好きで、
 別の部分が嫌いだということだ。
 すべてを愛すがいい。
 あるいは何も愛さないことだ。
 そして不平を言うのはやめなさい。
 あなたが夢を夢として見たとき、
 為すべきことはすべて為し終えたのだ。
 
 『私は在る』(p135)
──────────────────

はじめて、

マハラジのこの言葉が

本当なのだということが浸透してくる。

(-||-)

夢のなかに

求める安らぎはありえないのです。

なぜなら、

あなたが夢のなかに求めているものは、

その夢から出る必要のない、

その夢を見ているあなた自身だから。

あなたはもともと夢の中にはいない。

あなたは現れることはできないのです。

ただあなたは存在する。

だから、

ときには自分の存在を

確認したくもなるのかもしれません。

そして現れを見たくなる。

そしてすぐに夢のなかに迷い込む。

誰が悪いわけでもない。

そういうことが

起こっているように見えるだけです。

では夢の中に迷い込んだ者は

どうすればいいのか?

どうすればそれが夢だと見破れるのか?

夢のなかに聞こえてくる覚者の声、

マハラジの言葉はこう語りかけます。

──────────────────
 思考と行為において、
 あなたの非依存性を主張しなさい。
 結局、すべては
 あなたが見、聞き、考え、感じることが
 現実だと確信するあなた自身の信念に
 かかっているのだ。
 なぜあなたの信念を疑わないのか?
 この世界が意識のスクリーンの上に、
 あなたによって描かれたものだ
 ということは疑いないのだ。
 そして、
 それは完全にあなたの個人的な世界だ。
 たとえ世界のなかにあろうとも、
 あなたの「私は在る」という感覚だけが、
 世界に属さないものだ。
 どのような理論や
 想像による努力によっても、
 「私は在る」を「私はいない」に
 変えることはできない。
 あなたの存在を否定すること自体が、
 あなたの存在を主張している。
 ひとたび
 世界はあなた自身の投影だと悟れば、
 あなたはそれから自由だ。
 あなた自身の想像のなかにしか
 存在しない世界から
 自由になる必要はない!
 いかにその絵が美しくとも、
 あるいは醜くとも、
 それはあなたが描いたものであり、
 あなたはそれに束縛されないのだ。
 誰もあなたにそれを押しつけてはいない
 ということを悟りなさい。
 それは想像を現実と見なす
 習慣によるものなのだ。
 想像を想像としてみなさい。
 そして恐れから自由になるがいい。
 
 『私は在る』(p218)
──────────────────

> 思考と行為において、
> あなたの非依存性を主張しなさい。

他の何者にも依拠することなく、

あなたはあなた自身で存在している。

なぜならあなたは自分が存在することを

自分で知っているからだ。

あなたは自分の存在を

他の誰にも保証してもらう必要がない。

あなたは誰にも依存せずに自前で存在している。

その非依存性を

あなたの夢の中の思考と行為で主張しなさい。

> 結局、すべては
> あなたが見、聞き、考え、感じることが
> 現実だと確信するあなた自身の信念に
> かかっているのだ。

あなたは他の何者にも依存せずに存在し、

すべての現れはあなたに対して現れる。

そのあなたがなぜ、

現れの中の物語の状況次第で

右往左往させられる必要があるのだろうか?

それはあなたが

その現れのなかに展開する物語が

自分の気づきを離れたどこかに

客観的に存在していると信じているからだ。

そうではないのだ!

現れという夢のなかの物語は

あなたの注目からエネルギーをもらって

現れている。

あなたが興味を失えば、

それ自体で存続することはできない。

結局、あなたが経験するすべては、

あなたが見、聞き、考え、感じることが

現実だと確信するあなた自身の信念に応じて

起こっているにすぎない。

> なぜあなたの信念を疑わないのか?

展開される物語の見かけに狼狽して、

慌ててそれに対応しようとするのではなく、

世界の客観的存在を信じる

自分の信念を疑いなさい。

自分が夢を見ているのだという観念に

全身で賭けてみなさい。

> この世界が意識のスクリーンの上に、
> あなたによって描かれたものだ
> ということは疑いないのだ。

あなたの前に展開されているのは、

あなたという映写機を通じて

あなたというスクリーンに投影された

世界であることを私が保証しよう。

まずは私を信じてみなさい。

> そして、
> それは完全にあなたの個人的な世界だ。

あなたが見ているのは

完全にあなた用に誂えられた

あなたのための個人的世界だ。

あなた用の娯楽映画なのだ。

その映画を成り立たせているのは

気づきであるあなただ。

だが映画に夢中になっているあなたは、

現れが客観的に存在していると誤解した

無知に同一化している。

> たとえ世界のなかにあろうとも、
> あなたの「私は在る」という感覚だけが、
> 世界に属さないものだ。

だが、

たとえ夢の世界の対象物に同一化していても、

あなたの「私は在る」という感覚だけは、

その現れの世界には属していない。

> どのような理論や
> 想像による努力によっても、
> 「私は在る」を「私はいない」に
> 変えることはできない。

現れの世界を根底から支えている

その「私は在る」という感覚は、

その世界で展開される物語のなかで

いかなる理論や想像を凝らしても

「私はいない」に変えることはできない。

それは夢の世界の基幹構造に反する。

> あなたの存在を否定すること自体が、
> あなたの存在を主張している。

存在を否定するそのこと自体が、

その否定者の存在を主張してしまうのだ。

> ひとたび
> 世界はあなた自身の投影だと悟れば、
> あなたはそれから自由だ。

要するに、

あなたの眼前で展開されている世界は、

気づきであるあなたがいなければ

もともと現れることすらできないこと、

また

その気づきであるあなたは、

その世界の中の何者にもなれないこと、

そしてまた

その世界のなかで苦しんでいるのは

もともと存在しない虚構のあなたであり、

世界の中のそれらの状況は

単に想像された虚構にすぎないこと、

これらのことを理解しなさい。

これらのことが理解されたら、

あなたはそれらの状況から絶対的に自由だ。

> あなた自身の想像のなかにしか
> 存在しない世界から
> 自由になる必要はない!

あなたは確かに

物語の創造に夢中になったが、

自分が想像している物語のなかから

あなたが解放される必要があるだろうか?

いいや、

あなたはもともと物語の外にいたのだ。

> いかにその絵が美しくとも、
> あるいは醜くとも、
> それはあなたが描いたものであり、
> あなたはそれに束縛されないのだ。

どれほど精魂を傾け、

工夫をこらして創り上げた絵であっても、

それはあなたが想像した絵にすぎない。

あなたはそれに束縛されていない。

あなたが束縛されたいのでないかぎりは。

> 誰もあなたにそれを押しつけてはいない
> ということを悟りなさい。

また、あなた以外の誰も、

あなたにそれを押しつけてはいない。

あなたの執着以外に、

あなたを不幸にできるものは存在しないのだ。

> それは想像を現実と見なす
> 習慣によるものなのだ。

あなたが世界のなかで苦しんでいるのは、

創造を現実と見なす世界のなかで

あなたが教え込まれ、信じ込んで、

身に着けた習慣のせいだ。

> 想像を想像としてみなさい。
> そして恐れから自由になるがいい。

自由になりたいのなら、

すべてが自分の想像にすぎなかったことを

受け容れなさい。

想像を想像として扱うがいい。

そして恐れから自由になりなさい。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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自分の苦しみの原因が

この現れている身体やマインドとの

自己同一化にあることは

知識としては知っていました。

それ以外ではありえないことが

日々明らかになるだけです。

苦しみを避けたいという欲望は、

自分の執着以外のどこにも係留していない。

本当にそんな執着に意味があるのか?

その思いが強まる程度に応じて、

個々の思考に対する執着が

露呈してくる過程です。

それでも習慣的に

一日の大部分の注意が現れに向かう。

気づきに向かってはいないのです。

これもこの身体が誕生させられたときに

定められていた運命なのでしょう。

今日も暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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