home > 通信 >『アセンション館通信』第814号:許して捧げる(ルパート・スパイラ)



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/11/24(第814号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
 苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
 れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
 (『ダイレクトパス』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在831名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.許して捧げる(ルパート・スパイラ)

2.編集後記
──────────────────

      <<【連絡事項】>>

配信スタンド「メルマ」で読んでいただいている方、

「メルマ」のサービスは今年いっぱいで終わります。

実際に読んでくださっている方は

配信スタンド「まぐまぐ」のほうにご登録ください。

mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html

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■ 1.許して捧げる(ルパート・スパイラ)
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今日はなにやら

うらびれたような曇天ですね。

「うらびれたような」は

あるがままの曇天に重ねられた

解釈にすぎませんが。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

こうして言葉を語ることに

何らかの意味が感じられているあいだは、

言葉によって何かを理解しようとするほかに

どうしようもないのだと思います。

指図している個人が存在するわけではなく、

個人が存在すると思っている観点が

現れのなかで彷徨っているだけなのですから。

ヒロさんが紹介してくださった

ルパート・スパイラの言葉に

こんなのがありました。

──────────────────
 映画で通りのシーンが
 スクリーンに映っていると想像してください。
 「私」を探求することは、
 映画の中で登場人物が通りを行ったり来たりして
 スクリーンを探しているのと似たようなものです。
 
 「私は在る」について ルパート・スパイラ
 http://resonanz360.com/2011/01/02/
──────────────────

じつに秀抜な比喩ですね。

まるで映画の画面の通りのなかで

自分がウロウロしているのが

目に見えるようじゃありませんか。

相変わらずルパート・スパイラの

『プレゼンス―第1巻 安らぎと幸福の技術』

を拾い読みしています。

物心ついてからというもの

年齢を重ねるにしたがってますます

あるがままの現れを回避することに

取り憑かれてきたのですね。

ありがままの現れを

あるがままの幸せとして受け容れることは

壊滅的になくなってしまったわけです。

いつもあるがままの現れに対して

何らかの思いが浮上し、

いつの間にかその浮上する思いのほうが

あるがままの現れそのものよりも

重要であるかのように

思われるようになっていた。

あらためてそんなことを

感じさせられる一節に出会いました。

この本の最後近くにある

「すべてを現存(プレゼンス)に委ねる」

という一節です。

というとまるで

この本を最後まで通読したようですが、

そんなことはありません。

途中はまったく飛ばして、

最後近くを拾い読みしただけです。^^;;

(相変わらず

 通常想定される範囲を超えた

 長い引用をさせていただきます。
 
 これが本書の出版に関われた方々の
 
 ご迷惑になる無断引用ではなく、
 
 本書の販促に貢献する
 
 無料宣伝となるよう願っています。(-||-) )

──────────────────
 開かれ、許している現存として立つか、
 すべてをそれに捧げるか、
 このふたつは、
 実際にはどちらも同じです。
 ややこしい思考であろうと、
 深く、暗い感情であろうと、
 捧げることのできないものも、
 許されないものもありません。
 
 手始めに、
 最もわかりやすい思考や感情を許し、
 捧げてみるとよいかもしれません。
 空想していること、
 日々感じていること、
 体の感覚など、
 何でもよいのです。
 次第に、こうした空想、
 過去や未来へと出かける
 小旅行のような思考が起こるのは、
 体に残されたより不快な感情の
 深層に気づかないようにするためである
 と分かるはずです。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p271)
──────────────────

> 開かれ、許している現存として立つか、
> すべてをそれに捧げるか、
> このふたつは、
> 実際にはどちらも同じです。 

(この文面から察するに、

 ルパート・スパイラはここまでに
 
 現存というものを
 
 すベテに対して開かれていて
 
 すべてを許しているものとして説明し、
 
 その現存として立つあり方と、
 
 もうひとつ
 
 個人としてのすべての体験を
 
 その現存に捧げるあり方を
 
 説いてきているのかもしれません。
 
 そしてこのふたつのあり方は
 
 実際は同じことなのだ、と。)
 
> ややこしい思考であろうと、
> 深く、暗い感情であろうと、
> 捧げることのできないものも、
> 許されないものもありません。

あなたが体験する

どれほどややこしい思考であろうと、

どれほど深く、暗い感情であろうと、

現存はすべてそれを許している。

だからあなたも

それらをすべて許して、

現存に捧げてみてはどうだろうか。

> 手始めに、
> 最もわかりやすい思考や感情を許し、
> 捧げてみるとよいかもしれません。

(思考や感情を許し、
 
 捧げるという意味は、
 
 その思考や感情に巻き込まれる
 
 ということではなくて、
 
 その思考や感情に気づきながら
 
 それがそこにあることを許し、
 
 その瞬間を現存への捧げ物にする
 
 というような意味合いなんでしょうね。)
 
> 空想していること、
> 日々感じていること、
> 体の感覚など、
> 何でもよいのです。

(現存への捧げものというのは、
 
 その瞬間に起こっていることなら何でもいい。
 
 その瞬間に空想していることでも、
 
 その瞬間に感じていることでも、
 
 その瞬間の体の感覚でも、
 
 それに巻き込まれたり
 
 それを拒否しようとするのではなく、
 
 ただそれがそこにあることに気づいていて、
 
 それがそこにあることを許し、
 
 その瞬間を現存への捧げ物にする、
 
 まあそんな意味合いなのかも。) 

> 次第に、こうした空想、
> 過去や未来へと出かける
> 小旅行のような思考が起こるのは、
> 体に残されたより不快な感情の
> 深層に気づかないようにするためである
> と分かるはずです。

(なんと!(@_@) ⌒★?

 ここでルパート・スパイラは
 
 驚くべきことを言います。
 
 瞬間瞬間に現れる
 
 それらの思考や感情に気づきながら、
 
 それらがそのままそこにあることを許し、
 
 その瞬間を現存への捧げ物にしていると、
 
 空想の中での過去や未来への小旅行が、
 
 身体内に蓄積されている
 
 もっと不快な感情の深層に気づくのを
 
 避けるために起こっていたことが
 
 だんだん分かってくるはずだというのです。)

──────────────────
 この空想の旅が私たちの注意を
 そらすことに成功すると、
 私たちは、深く、暗く、苦い感情に
 十分に触れる必要がなくなり、
 それは体の奥底にしっかりと埋め込まれ、
 めったに浮上することはなくなります。
 
 こうした意識下の感情こそが
 分離という感覚の住処なのですが、
 通常、私たちは思考によって、
 あるいは何らかの物事や活動に
 執着することによって、
 そこにうまく触れないようにします。
 
 その結果、分離した自己は
 封印されたままの姿でとどまります。
 こうして体は
 分離という感覚の隠れ家になるのです。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p271)
 https://amzn.to/2PYQzlZ
──────────────────

> この空想の旅が私たちの注意を
> そらすことに成功すると、
> 私たちは、深く、暗く、苦い感情に
> 十分に触れる必要がなくなり、
> それは体の奥底にしっかりと埋め込まれ、
> 滅多に浮上することはなくなります。

ガーン!(*_*) ⌒★?

湧いてくる思考や感情が誘導するままに

それらの物語に巻き込まれて、

あさっての方に空想の旅を続けていると、

かつて空想の物語のなかで創造した

分離感に基づく深く、暗く、苦い感情に

十分に触れる必要がなくなる。

一見とても明るく、楽しく、

都合がいいようではあるけれど。

その結果、

それらの深く、暗く、苦い感情は

身体の奥底にしっかりと埋め込まれたまま、

めったに浮上することはなくなる……。

> こうした意識下の感情こそが
> 分離という感覚の住処なのですが、
> 通常、私たちは思考によって、
> あるいは何らかの物事や活動に
> 執着することによって、
> そこにうまく触れないようにします。

しかしそうして気づきに現れる

その瞬間その瞬間のあるがままを、

その雰囲気をいち早く察知して、

それを回避するふるまいを続けていると、

それらの感情は認知され許容される機会を失う。

ところがそれらの意識下の感情こそが

じつは“分離という感覚”の住まいなのだ、と。

そういった空想上の小旅行の背後で、

密かに“分離の感覚”という虚構が

ますます感覚として実体化していく。

すると、われわれはますます

その“分離の感覚”の気配を恐れるようになり、

過去や未来への空想上の小旅行に

ひんぱんに出かけるようになる。

そうする過程でますます

その空想上の小旅行を現実化していく。

われわれは思考によって、

あるいは何らかの物事や活動に執着することで、

ますます“分離の感覚”には触れなくなる。

かくて分離そのものが現実になっていく。

“臭いものに蓋”とはよく言ったものです。

> その結果、分離した自己は
> 封印されたままの姿でとどまります。
> こうして体は
> 分離という感覚の隠れ家になるのです。

そうしたその場しのぎの安易な対応は

想像されるよりずっと高く付く。

その結果、

つかの間の虚構として

想像されたにすぎなかった“分離した自己”は、

身体内に封印されたままの姿でとどまる。

こうしてわれわれの身体は

“分離という感覚”の隠れ家になる。

その結果、

われわれは身体の崩壊を

自分の崩壊のように恐れることになる。

──────────────────
 深層の感情は通常、
 触れられたり
 見つけられたりすることはありませんが、
 それは、
 私たちが日々何気なく受け取っている
 思考、感情、活動、人間関係などに
 潜在的に影響を与え、
 それらをコントロールします。
 
 実際のところ、
 あらゆる執着は、
 思考への執着の延長線上にあるか、
 もしくはその変形です。
 過去や未来へと飛び回る連続的な思考が、
 不快な感情、つまり、
 欠乏感、不快感、無価値感、不全感、
 不適切感、失望、絶望を静める力を失うと、
 こうした感情を直視しないようにするため、
 私たちは物質や活動への執着のような、
 より極端な手段を講じるのです。
 
 不快感が生じるやいなや、
 私たちは特定の物質や活動に手を伸ばします。
 すると、
 不快感は一時的に弱まり、
 束の間の休息が訪れ、
 私たちの本質である不安が少しの間輝き、
 そのため
 心と体における不安と緊張が和らぎます。
 心(マインド)は、
 この束の間の平安と満足を
 物質や活動のおかげだと考え、
 この習慣が次第に強化されます。
 
 いずれかの時点で私たちは、
 この逃避と模索の全体像に気づき、
 長く避けてきた感情に向き合う
 勇気と明晰さを手にするかもしれません。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p271-272)
──────────────────

> 深層の感情は通常、
> 触れられたり
> 見つけられたりすることはありませんが、
> それは、
> 私たちが日々何気なく受け取っている
> 思考、感情、活動、人間関係などに
> 潜在的に影響を与え、
> それらをコントロールします。

身体内に蓄積されたこの深層の感情は、

ふだん意識されることはないけれど、

われわれの日常的な感覚、

思考、感情、活動、人間関係などを

深いところからコントロールすることになる。

> 実際のところ、
> あらゆる執着は、
> 思考への執着の延長線上にあるか、
> もしくはその変形です。

われわれのあらゆる執着は、

実際は思考への執着のバリエーションにすぎない。

> 過去や未来へと飛び回る連続的な思考が、
> 不快な感情、つまり、
> 欠乏感、不快感、無価値感、不全感、
> 不適切感、失望、絶望を静める力を失うと、
> こうした感情を直視しないようにするため、
> 私たちは物質や活動への執着のような、
> より極端な手段を講じるのです。

過去や未来への空想上の小旅行が

欠乏感、不快感、無価値感、不全感、

不適切感、失望、絶望といった、

回避したい不快な感情を鎮静できなくなると、

われわれは物質や活動への執着といった

さらなる極端な手段を使ってまで、

こうした感情を回避しようとする。

> 不快感が生じるやいなや、
> 私たちは特定の物質や活動に手を伸ばします。

こうした不快感が生じると、

われわれは一見それらを静めてくれそうな

物質の獲得や活動に手を伸ばす。

そして、一時的に不快感が弱まり、

束の間の休息が訪れたりする。

その瞬間、何ひとつ求めていない

われわれの本質である平安が浮上して、

一瞬、心と身体の不安と緊張が和らぐ。

心はこの束の間の平安と満足を、

手に入れた物質や活動のおかげだと考えて、

ますますこの習慣が強化されることになる。

> いずれかの時点で私たちは、
> この逃避と模索の全体像に気づき、
> 長く避けてきた感情に向き合う
> 勇気と明晰さを手にするかもしれません。

しかし、やがていつかは(恩寵があるなら)、

われわれも

この“分離の感覚”の回避行動と

“平安”の探求行動の全体像を理解して、

これまで長く直面することを避けてきた

深層の感情に向き合う勇気と明晰さを

手にするときが訪れるかもしれない。

──────────────────
 すると、
 私たちの内部で反乱が起こり、
 結果として、体は、
 抑圧し、逃避し、否定し、模索する活動に
 私たちを引き戻そうと
 あらゆることをするでしょう。
 
 しかし、勇気と愛があれば、
 私たちの自己を共犯者にすることなく、
 このエネルギーの表出を自ら通じて
 流れるままにできるはずです。
 
 こうして、
 初めは知らぬ間に、私たちは
 気づいている現存としての立場を取り、
 そうすることで、
 これらの感情が求める唯一のもの、
 つまり私たちの注意を
 感情から奪い去るのです。
 感情は、
 私たちがそれに耽っていようと、
 抑圧されていようと、
 いずれにしても同じように成長します、
 
 もし私たちが勇気と明晰さをもって、
 活動や物質によって、
 もしくは、退屈、予測、恐れ、期待、
 疑いと言った、より巧妙な逃避によって
 このような感情から
 逃げ出さないようにすれば、
 幾層にもわたる感情の層は、
 現存の光に照らされるようになります。
 これらすべての感情は、
 分離した内側にある自己の多様な姿であり、
 架空の自己が耐えられない唯一のこととは、
 はっきりと見つめられることです。
 架空の自己は、
 私たちの不注意によって育ちます、
 影のように、
 光には耐えられないのです、
 
 これらの感情に対して
 何かをする必要はありません。
 私たちの自己、
 気づいている現存は、
 それらとの間に何の問題も抱えていません。
 私たちの自己にとっては
 何の問題もないのです。

 それらを取り除きたいと願うのは、
 架空の自己だけです。
 実際、分離した自己を取り除きたい
 という気持ちもまた、
 分離した自己が自らを永続させようとする、
 巧妙な手口です。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p273-274)
──────────────────

> すると、
> 私たちの内部で反乱が起こり、
> 結果として、体は、
> 抑圧し、逃避し、否定し、模索する活動に
> 私たちを引き戻そうと
> あらゆることをするでしょう。

(物質的な術語を使うなら、
 
 いわゆる脳内ペプチドと理解されている
 
 機構の働きとして実現されているのでしょう。
 
 薬物中毒の解除なら
 
 それこそ大変な苦しみだと思います。)

> しかし、勇気と愛があれば、
> 私たちの自己を共犯者にすることなく、
> このエネルギーの表出を自ら通じて
> 流れるままにできるはずです。

しかし、真の自分への勇気と愛が、

またその誠実さが断固としたものであれば、

深層の感情が表出するのを
 
許せるはずです。

> こうして、
> 初めは知らぬ間に、私たちは
> 気づいている現存としての立場を取り、
> そうすることで、
> これらの感情が求める唯一のもの、
> つまり私たちの注意を
> 感情から奪い去るのです。

こうしてわれわれは

それらの回避行動を促す感情の

真のエネルギー源である

注意を注ぐことをやめることができる。

> 感情は、
> 私たちがそれに耽っていようと、
> 抑圧されていようと、
> いずれにしても同じように成長します、

われわれが

それらの感情に耽溺していても、

それらの感情を抑圧していても、

どちらの場合も感情は同じように成長する。

> もし私たちが勇気と明晰さをもって、
> 活動や物質によって、
> もしくは、退屈、予測、恐れ、期待、
> 疑いと言った、より巧妙な逃避によって
> このような感情から
> 逃げ出さないようにすれば、
> 幾層にもわたる感情の層は、
> 現存の光に照らされるようになります。

われわれが

退屈、予測、恐れ、期待、疑いといった、

より巧妙な思考に逃げ込んで

深層の感情を回避しようとしなければ、

やがてそれらの深層の感情にも

現存の気づきの光が到達する。

> これらすべての感情は、
> 分離した内側にある自己の多様な姿であり、
> 架空の自己が耐えられない唯一のこととは、
> はっきりと見つめられることです。
> 架空の自己は、
> 私たちの不注意によって育ちます、
> 影のように、
> 光には耐えられないのです、

意識下に蓄積された深層の感情とは、

想像された“分離の感覚”が集積した

架空の“内側の自己”の多様な側面だ。

その架空の自己は気づきの光が届かない

無意識の闇のなかでしか成長できない。

つまり架空の自己は

われわれの不注意によって育つ。

地下室の闇と同じで、

光には耐えられないからだ。

> これらの感情に対して
> 何かをする必要はありません。
> 私たちの自己、
> 気づいている現存は、
> それらとの間に何の問題も抱えていません。
> 私たちの自己にとっては
> 何の問題もないのです。

これらの深層の感情に対して

何かをする必要はない。

気づきの光である私たちの現存は、

それらの深層の感情とのあいだに

どんな問題も抱えていないからだ。

私たちには何の問題もない。

> それらを取り除きたいと願うのは、
> 架空の自己だけです。
> 実際、分離した自己を取り除きたい
> という気持ちもまた、
> 分離した自己が自らを永続させようとする、
> 巧妙な手口です。

それらの深層の感情を恐れ

それを取り除きたいという願うのは、

それらの深層の感情を根拠にしている

架空の分離した自己自身しかいない。

自らの根拠を恐れ、

それと直面することを回避しようとするのは、

分離した自己が自らの根拠を温存して

自らを永続させようとする巧妙な手口とも言える。

──────────────────
 許し、捧げること以外、
 何も必要とされていません。
 かつて、
 私たちの存在(ビーイング)、
 この開かれた、空の、
 許している現存(プレゼンス)は、
 体と心によって利用され、
 結果として、それらの特性を
 受け継いだかのように見えました。
 つまり、私たちの自己は限界を抱え、
 位置づけられ、年齢や性別を持ち、
 密度があり、固く、
 死ぬことを運命づけられているように
 見えていたのです。
 
 委ね、捧げることは、
 このプロセスを反転させます、
 私たちの自己が
 心と体の性質を引き受ける代わりに、
 心と体が、
 開かれた、空の、透明な現存の性質を
 帯びるようになるんです。
 これは、
 お湯に角砂糖を溶かすようなものです。
 お湯は何もしないし、
 角砂糖も何もしません。
 しかし、
 角砂糖は次第にお湯に溶けていきます。
 お湯の、
 透明で、温かく、開かれた 、空の性質は、
 角砂糖の性質に取って変わります。
 それはそれ自体に溶けていくのです。

 許し、捧げることにおいて起こるのも
 これに似ています。
 誰も、何に対しても、誰に対しても、
 何もしません。
 
 捧げているように見える者は、
 捧げられる者なのです

 体、心、世界はシンプルに委ねられ、
 それ自身のタイミングで、
 私たちの存在の、透明で、開かれた、
 空の、親密な性質に満たされ、
 浸されます。
 
 分離した内側にある自己を
 特徴づけていた恐れ、不安、緊張は、
 心と体による
 努力や規律、操作によってではなく、
 自然に、努力することなく、
 ゆっくりとこの透明さに溶けていきます。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p274-275)
──────────────────

> 許し、捧げること以外、
> 何も必要とされていません。

今の瞬間に現れるものにただ気づいていて、

それを避けず、拒否せず、

ただそこにあることを許し、

現存に捧げること以外、

必要なことは何もない。

> かつて、
> 私たちの存在(ビーイング)、
> この開かれた、空の、
> 許している現存(プレゼンス)は、
> 体と心によって利用され、
> 結果として、それらの特性を
> 受け継いだかのように見えました。

これまで私たち気づいている現存は、

身体と心に利用され、

それらの特性をまとったかのように見えていた。

> つまり、私たちの自己は限界を抱え、
> 位置づけられ、年齢や性別を持ち、
> 密度があり、固く、
> 死ぬことを運命づけられているように
> 見えていたのです。

あたかも私たちには限界があり、

形体や位置という定義を担い、

身体の崩壊によって死滅するかのように

見えていた。

> 委ね、捧げることは、
> このプロセスを反転させます、

気づきに現れる今の現れを

すべてすべてそのまま許し、

現存に捧げることはこのプロセスを反転させる。

> 私たちの自己が
> 心と体の性質を引き受ける代わりに、
> 心と体が、
> 開かれた、空の、透明な現存の性質を
> 帯びるようになるんです。

気づきの光であるわれわれ本来の自己が

心と身体の属性を引き受けるのではなく。

その反対に、

心と身体のほうが本来の現存の性質、

開かれた、空の、透明な性質を帯びるようになる。

> これは、
> お湯に角砂糖を溶かすようなものです。
> お湯は何もしないし、
> 角砂糖も何もしません。
> しかし、
> 角砂糖は次第にお湯に溶けていきます。
> お湯の、
> 透明で、温かく、開かれた、空の性質は、
> 角砂糖の性質に取って変わります。
> それはそれ自体に溶けていくのです。

それは角砂糖がお湯に溶けるようなもの。

どちらも何もしないのに、

ただ自然に角砂糖はお湯になっていく。

> 許し、捧げることにおいて起こるのも
> これに似ています。
> 誰も、何に対しても、誰に対しても、
> 何もしません。
> 
> 捧げているように見える者は、
> 捧げられる者なのです

誰も、何に対しても、何もしない。

ただ気づきの光の中で

もともと存在しなかった境界が

溶けていくだけ。

捧げる者も、捧げられる者もいない。

> 体、心、世界はシンプルに委ねられ、
> それ自身のタイミングで、
> 私たちの存在の、透明で、開かれた、
> 空の、親密な性質に満たされ、
> 浸されます。
> 
> 分離した内側にある自己を
> 特徴づけていた恐れ、不安、緊張は、
> 心と体による
> 努力や規律、操作によってではなく、
> 自然に、努力することなく、
> ゆっくりとこの透明さに溶けていきます。

架空の分離した自己が

抱えていた恐れ、不安、緊張は、

自然に、努力することなく、

ゆっくりと透明な無境界の中に溶けていく。

──────────────────
 現存がすべてを引き受けるのを
 許しましょう。
 今ここにあるものは、
 気づきによってすでに
 完全に受け入れられているからこそ、
 ここにあります。
 もし気づきによって
 受け入れられていなければ、
 それは現れてはいません、
 
 実際、これらは
 単に受け入れられているのではありません。
 すべてのあらわれは、
 気づきに愛されています。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p275)
 https://amzn.to/2PYQzlZ
──────────────────

> 現存がすべてを引き受けるのを
> 許しましょう。
> 今ここにあるものは、
> 気づきによってすでに
> 完全に受け入れられているからこそ、
> ここにあります。
> もし気づきによって
> 受け入れられていなければ、
> それは現れてはいません、

今ここに現れているものは、

気づきが完全に受け入れているからこそ、

ここに現れている。

そうでなければ、

それは現れていなかったことだろう。

> 実際、これらは
> 単に受け入れられているのではありません。
> すべてのあらわれは、
> 気づきに愛されています。

それは愛されているからこそ

今ここに現れているのだ。

──────────────────
 実際、現存(プレゼンス)は
 すべての体験とあまりにも親密で、
 不幸や悲しみを知りません。
 悲しみには常に、
 現状に対する否定が含まれます。
 現存は何も否定できません、
 それはもともと広く開かれており、
 抵抗を知りません。
 あらゆる否定、
 それによるあらゆる悲しみは、
 架空の自己のためにあり、
 唯一現実の自己、
 気づいている現存のために
 あるのではありません。
 
 私たちは、
 悲しみは避けなければならない
 と考えています。
 実際はその逆です。
 悲しみにとって耐えがたいのは、
 抱きしめられることです。
 物質や活動に逃げ込んだり、
 霊的な完璧主義という
 象牙の塔に逃げ込んだりしても、
 悲しみが終わることはありません。
 その状況を親しく抱きしめ、
 抵抗する余地がまったくなくなることで、
 悲しみは終わるのです。
 
 抵抗なく完全に受け入れられると、
 悲しみには何が起こるのでしょう?
 抵抗しようとする衝動が少しもない体験は、
 幸福や平安と呼ばれます、
 悲しみを避けようとする
 薄いベールに覆われた幸福と平安こそが
 悲しみです。
 
 私たちが
 これまで絶望していたことのすべては
 体験の中心にあり、
 認められることをずっと待っていました。
 必要なのは、
 架空の未来や過去のために、
 あるがままを回避するのを止めることだけです。
 悲しみは、
 今には耐えられません。
 それは、過去や未来がなければ
 生き延びることはできないのです。
 
 あらゆる模索は、
 私たちを未来へ連れ去り、
 定義上、
 すべての体験の中心にいつもある
 平安と幸福を覆い隠してしまいます。

 私の師が最初に言ったのは、
 「瞑想は、
  すべてに対する普遍的な肯定である」
 という言葉でした。
 しばらくは気づきませんでしたが、
 その後に述べられたことはすべて、
 この言葉の補足にすぎませんでした。
 すべてはそれに始まり、
 それに溶けていきます。
 人生のあらゆる時点で、
 愛と瞑想の区別はなくなります。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p279)
──────────────────

> 悲しみには常に、
> 現状に対する否定が含まれます。
> 現存は何も否定できません、
> それはもともと広く開かれており、
> 抵抗を知りません。
> あらゆる否定、
> それによるあらゆる悲しみは、
> 架空の自己のためにあり、
> 唯一現実の自己、
> 気づいている現存のために
> あるのではありません。

悲しみは常に、

今現れているものを否定するがゆえに

現れている。

現存は何ひとつ否定していない。

架空の自己だけが

そこに否定すべきものを発見し、

そのゆえに悲しみに暮れる。

> 私たちは、
> 悲しみは避けなければならない
> と考えています。
> 実際はその逆です。
> 悲しみにとって耐えがたいのは、
> 抱きしめられることです。

私たちは

悲しみは避けるべきものと考えている。

それは逆だ。

悲しみこをは抱きしめるべきものだ。

抱きしめられることに

悲しみは耐えられない。

> 物質や活動に逃げ込んだり、
> 霊的な完璧主義という
> 象牙の塔に逃げ込んだりしても、
> 悲しみが終わることはありません。

悲しみを避けるためのあらゆる活動は

悲しみを終わらせることはできない。

> その状況を親しく抱きしめ、
> 抵抗する余地がまったくなくなることで、
> 悲しみは終わるのです。

悲しみをまったく避けることなく

抱きしめたとき、

悲しみは終わる。

> 抵抗なく完全に受け入れられると、
> 悲しみには何が起こるのでしょう?
> 抵抗しようとする衝動が少しもない体験は、
> 幸福や平安と呼ばれます、
> 悲しみを避けようとする
> 薄いベールに覆われた幸福と平安こそが
> 悲しみです。

悲しみとは、

回避衝動というベールをまとった

幸福と平安のことだから。

> 私たちが
> これまで絶望していたことのすべては
> 体験の中心にあり、
> 認められることをずっと待っていました。
> 必要なのは、
> 架空の未来や過去のために、
> あるがままを回避するのを止めることだけです。
> 悲しみは、
> 今には耐えられません。
> それは、過去や未来がなければ
> 生き延びることはできないのです。

必要なのは、

架空の未来や過去のために、

あるがままを回避するのを止めることだけ。

過去や未来がなければ

悲しみは生き延びられない。

> あらゆる模索は、
> 私たちを未来へ連れ去り、
> 定義上、
> すべての体験の中心にいつもある
> 平安と幸福を覆い隠してしまいます。

今現れているものを拒否して、

なにか別の現れを模索することは、

私たちは虚構の未来へと連れ去り、

あらゆる体験の中心に常にある

平安と幸福を覆い隠してしまう。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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ずいぶん長い引用をしてしまいました。

だんだん煮詰まってきたようにも思います。

今日も暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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