home > 通信 >『アセンション館通信』第815号:「知覚と心の限界」(ルパート・スパイラ)



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/12/01(第815号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
 苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
 れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
 (『ダイレクトパス』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在832名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.「知覚と心の限界」(ルパート・スパイラ)

2.編集後記
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■ 1.「知覚と心の限界」(ルパート・スパイラ)
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今日は雲ひとつない快晴です。

今年の11月は例外的に雨が多かったので

こういう天気はやっぱり嬉しい。(^^)/

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

これまでいろいろ彷徨ってきて、

確実にわかったことを整理します。


(1)ひとつ明らかなのは:

●われわれの問題というのはすべて

 現れとの関わりで生ずることです。

現れがなければ何も気にすることなど無い。(*^_^*)

現れが無くても、

存在はありうるのかもしれません。

でも、現れが無いということは、

気づくことも、経験することも

起こってはいないということです。

何も起こっていないのですから、

問題など発生するはずもありません。

そして現れが起こるということと、

その現れに気づくことが起こる、

つまり何かを経験するというのは

これは同じことですね。


(2)上記ひとつ目で確認したことの系として、
   二つ目に明らかなのは:

●現れ(顕現=色=客観)と

 気づき(非顕現=空=主観)というのは、

 経験というひとつの事柄が起こるための

 不可欠の両側面だということです。

なぜなら、言うまでもなく

気づかれない現れはありえないからです。

言い換えると、

何かが経験されるためには、

何者かがそれに気づいていなくてはならない

ということです。


(3)上記二つ目の確認事項の系として、
   三つ目に明らかになったのは:

●その現れに気づいている者、

 つまり気づき(非顕現=空=主観)は、

 けっして

 気づきの対象物(顕現=色=客観)には成れない

 ということです。

現れはすべて

気づかれることによって起こっています。

そしてその現れに気づいている者は

絶対に気づきの対象にはなりえない者です。

なぜなら、

気づきの対象物が何かに気づくことなど

ありえないからです。

トニー・パーソンズの著書のタイトルに

『何でもないものが あらゆるものである
  (Nothing Being Everything)』

というのがありました。

まさに、あらゆる経験は、

実際は何にもなれないものがあらゆるものになっている

ということ以外ではないわけです。


(4)上記の三つ目に確認されたことの系として、
   四つ目に明らかになったのは:

●(気づきなしに、気づきの外側に、

  独立して存在するという意味での)

 客観的現象というのは存在しない

 ということです。

よくよく考えてみるに、

この了解事項が意味するものの破壊力は、

半端ではないように思われます。

気づきの外側に、気づきに拠らない

独立した実体というものは存在しえない。(-_-;)

ということは、

気づきの中に境界線を入れて、

気づきを分割できるような客観的実体なども

もちろん存在しえないことになる。

ということは、

気づきというのは「ひとつ」しかない

ということです。(*_*) ⌒★?


(5)上記の四つ目で確認されたことの系として、
   五つ目に明らかになったのは:

●何かを経験しているのは

 実際は継ぎ目のない「ひとつであるもの」だ

 ということです。

「ひとつであるもの(一体性そのもの)」は

実際はけっして何にもなれません。

それはただ「ひとつであるもの」です。

実際に唯一存在しているのは

その「ひとつであるもの」だけです。

それを分割できるようなどんな実体も

その「ひとつであるもの」の外側には

存在していないわけです。


では、

その唯一存在しているものとは何なのか?

(6)上記の五つ目で確認されたことの系として、
   六つ目に明らかになったのは:

●実際に存在しているのは、

 自分が存在していることを知っている者だ、

 ということです。

そのことは、

「自分が存在していると知っていること」

だと言ってもいいのです。

つまり、あなたしかいないということです。(*^_^*)

ということは、わたししかいないということ。(^_-)

ほかの何を疑っても、

自分が存在していることは疑えないし、

いまこのような経験をしていることも疑えない。

こういうことが確認されたわけです。


これまで生きてきて体験的に感じるのは、

人間としての人生というのは、

言うなれば、

経験として起こってくることを

どのような問題に仕立てるのか、

ということ以外ではなかったような気がする。

それが週に一度こんな文章を書くために、

いろいろな方々の教えに触れているうちに、

これまでの自分の癖になっていた

経験を問題に仕立てるような

そんなふうな考え方というか、

意識エネルギーの流し方が、

なんとなくチンケに見えるようになってきた。

そう生真面目に

経験を問題にはできなくなってきたわけです。

マハラジはこう言います。

──────────────────
 この世界が意識のスクリーンの上に、
 あなたによって描かれたものだ
 ということは疑いないのだ。
 そして、
 それは完全にあなたの個人的な世界だ。
 ……
 ひとたび世界はあなた自身の投影だと悟れば、
 あなたはそれから自由だ。
 あなた自身の
 想像のなかにしか存在しない世界から
 自由になる必要はない!
 いかにその絵が美しくとも、
 あるいは醜くとも、
 それはあなたが描いたものであり、
 あなたはそれに束縛されないのだ。
 誰もあなたにそれを押しつけてはいない
 ということを悟りなさい。
 それは想像を現実と見なす
 習慣によるものなのだ。

 『私は在る』(p218)
──────────────────

(-||-)

なるほどなぁ。

そういうことだったのか……

という気がしてきます。

相変わらずルパート・スパイラの

『プレゼンス─第1巻 安らぎと幸福の技術』

を拾い読みしているのですが、

「知覚と心(マインド)の限界」

という一節に出会いました。

今回はその中からご紹介します。

(相変わらず

 通常想定される範囲を超えた

 長い引用をさせていただきます。

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となるよう願っています。(-||-) )

──────────────────
 二次元の世界しか知覚できない生き物を
 想像してみましょう。
 この生き物は池の水面に暮らし、
 前後左右を見ることはできますが、
 上下を見ることはできません。
 池の端では
 木の枝が水中に垂れ下がっています。
 この生き物にとって、
 枝はどのように見えるでしょうか?
 枝は、
 この生き物の世界においては、
 まっすぐな線であるはずです。
 枝が太ければ、
 線は長くなります。

 もし、この生き物が
 この線をしばらく観察したなら、
 風が枝を揺らすたびに、
 線が長くなったり短くなったりし、
 枝が水から離れると、
 線が消えることに気づくかもしれません。
 雨が降れば、
 雨は小さな突発的な線として現れ、
 雨によって池の水面が上がると、
 枝はより長い線として現れるはずです。
 夏になって池が乾けば、
 枝の先端だけが水に触れ、
 線は短くなるでしょう。

 この生き物は、
 何年も観察を続け、
 その観察に基づいて、
 世界の性質に関する理論を
 作り上げるかもしれません。
 この理論は、
 「現実の三次元の世界」における
 池、木、野原、川、空などの
 現実を反映したものではなく、
 その生き物の心(マインド)の性質や
 限界を反映したものになるはずです。

 『プレゼンス─第1巻』(p202)
──────────────────

うーん、痛烈ですねぇ。(-_-;)

二次元の世界しか知覚できない

想像上の生き物の世界が

じつに見事に描かれています。

思わず、

自分が世界に対して持ってきた解釈が

連想されますよね。

──────────────────
 しかし、
 ここが重要なのですが、

 その生き物が観察した線の本質的な現実は、
 木の本質的な現実を共有しています。
 線は木の横断面であり、
 またそれは、
 木がその一部である野原、川、空の
 本質的な現実を共有しているのです。

 この生き物が本質的な現実を知るために、
 木や自然の全体性を
 知覚する必要はありません。
 その世界にあらわれる
 一本の線の本質を深く探れば、
 線が本当は何であろうと、 
 木が本当は何であろうと、
 そして、
 その生き物自身が正しくは何であろうと、
 すべてはひとつだという
 抗うことのできない真実に出会います。

 この生き物の心(マインド)は、
 すべてがひとつであることを
 知ることはないでしょうし、
 その必要もありません。
 なぜなら、
 生き物の自身がそれであるからです。
 生き物が知るべきは、
 生き物自身についてであり、
 それ自身について知ることで、
 それは木、池、野原、川、空、
 そして何であれ
 存在するすべての本質を知るのです。

 言い換えるなら、
 それはそれ自身を知ることで、
 自然のすべての本質や現実を知り、
 自然の永遠性を知ります。
 では、
 どのようにしてそれ自身を知るのでしょう?
 この本質的な存在に何も付け足さず、
 ただそれ自身であることによって
 知るのです。

 必要なのは、
 一度このことをはっきりと理解することです。
 一度気づけば、
 やがてそれは
 私たちの知っている世界を焼き尽くします。

 『プレゼンス─第1巻』(p203-204)
──────────────────

生き物は自分の知覚が許す範囲内でしか

世界を知ることはできない。

またそれ以上知る必要もない。

生き物は自分自身を知ることで、

自然のすべての本質や現実を知り、

自然の永遠性を知るのだと。

では、

どうやって自分自身を知るのか?

自分の本質的な存在に何も付け足さず、

ただ自分自身であることによって知るのだ。

ただ一度はっきりとこのことを

理解することが必要なだけだ。

──────────────────
 この理解のもとで私たちは、
 何事も平凡ではないということを認識します。
 すべての体験は、
 絶対的な真実の唯一の体験です。
 スクリーンにあらわれた映像は、
 真に見られているのはスクリーンだけだ
 という事実を変えないのですから、
 心が現実をどのように表現しようと
 関係ありません。

 映像を「映像」として見るとき、
 スクリーンは
 限界を抱えているように見えますが、
 それがスクリーンであると理解されると
 同じ映像であっても
 そこには制限はないのだとわかります。
 これと同じように、
 体験は心(マインド)において
 制限されていますが、
 気づきにおいては、
 同じ体験が永遠であり無限です。
 私たちはあらゆる瞬間において、
 どちらの可能性にも触れることができます。
 それは私たちの自由です。
 何も私たちを縛ってはいません。
 体験は、
 私たちが見るようにあらわれるのです。

 『プレゼンス─第1巻』(p204)
──────────────────

> スクリーンにあらわれた映像は、
> 真に見られているのはスクリーンだけだ
> という事実を変えないのですから、
> 心が現実をどのように表現しようと
> 関係ありません。

漫画の吹き出しにように

マインドに書き込まれる台詞がどうであろうと、

そこで本当に見られているのが

唯一の実在である見ている自分のスクリーンだ

という事実が変わるわけではない。

> 映像を「映像」として見るとき、
> スクリーンは
> 限界を抱えているように見えますが、
> それがスクリーンであると理解されると
> 同じ映像であっても
> そこには制限はないのだとわかります。

投影された映像を見ていれば

映画はいろいろな物語を展開するが、

見ているのはスクリーンだと知っていると、

同じ映画も無限を反映するだろう。

> これと同じように、
> 体験は心(マインド)において
> 制限されていますが、
> 気づきにおいては、
> 同じ体験が永遠であり無限です。

体験はマインドの解釈によれば

様々な制限を課せられているようでも、

それが気づきそのものだと知っていれば、

同じ体験が永遠の相を帯びてくる。

> 私たちはあらゆる瞬間において、
> どちらの可能性にも触れることができます。

あらゆる瞬間において

私たちの前に展開しているのは

その両方の可能性そのもの。

私たちはいつでも、

そのどちらの可能性にも触れられる。

> それは私たちの自由です。
> 何も私たちを縛ってはいません。
> 体験は、
> 私たちが見るようにあらわれるのです。

どちらに触れるかは私たちの自由。

何も私たちを縛ってはいない。

世界は

私たちが見るように現れる。

──────────────────
 では、
 何が私たちの見方を決めるのでしょう?
 ウィリアム・ブレイクが言ったように、
 「その人が見るものはその人自身である」
 ということです。
 そう、
 すべては私たちの自己から始まります。
 すべては、
 私たちが自己をどのように見て、
 どのように体験するかによって決まります。
 もし私たちの自己を
 分離した内側にある自己として見るのなら、
 宇宙はこの信念に沿って、
 その姿をあらわします。
 もし私たちの自己は制限のない
 気づいている現存であると知っているのなら、
 同じ宇宙がそのことを裏づけます。

 時間と空間から成る四次元の世界が、
 単なる心の反映ではないということが
 どうやって私達にわかるでしょうか?
 私たちには分かりません。
 心(マインド)が真の現実を表現し、
 それを知っているという証拠はなく、
 それがすべての全体像である
 という証拠もありません。
 心(マインド)が傲慢にも
 そうであると主張しているだけです。

 二次元のビジョンの中の生き物が
 三次元の世界と関係しているように、
 私たちの心(マインド)も
 全体性に関係しているのかもしれません。
 言い換えるなら、
 私たちのこの、
 三次元のビジョンと四次元の体験は、
 心(マインド)が想像すらできない
 多次元的全体性の横断面、
 つまり制限された視野なのかもしれません。

 けれど同時に、
 一枚の葉の本質的現実が
 木の本質的現実と同じであるように、
 もしくは、
 ニンジンのそれと
 地球のそれが同じであるように、
 私たちの自己の本質的現実は、
 宇宙の本質的現実と同じです。
 世界が実際にはどうであれ、
 その本質は私たちの本質的存在、
 気づいている現存(プレゼンス)と
 同じなのです。

 「アートマンはブラフマンと同じである」。
 「私と父なる神はひとつである」。

 『プレゼンス─第1巻』(p205-206)
──────────────────

> もし私たちの自己を
> 分離した内側にある自己として見るのなら、
> 宇宙はこの信念に沿って、
> その姿をあらわします。

自分を身体に閉じ込められた分離した存在と見れば、

宇宙はその信念に沿って現れる。

> もし私たちの自己は制限のない
> 気づいている現存であると知っているのなら、
> 同じ宇宙がそのことを裏づけます。

自分は無限の実在と知っていれば、

宇宙はそのことを裏づける。

──────────────────
 心(マインド)は、
 この探求の果てに終焉を迎え、
 体験の真の性質を発見する代わりに、
 真実を知ることはできないという
 限界を悟ります。
 同時に、
 知覚において現実であることは
 (現実でない知覚はありません)、
 すべての究極の現実であると悟ります。
 すでに水の中にいる魚が、
 水を求めながら、
 決してそれを
 見つけることができないのと同じです。

 結果として、
 心(マインド)は
 規律や努力によってではなく
 自然に終わりを迎え、
 体験の荘厳さの前で開かれ、
 そして何も知らないままに佇みます。

 心(マインド)が
 知ることのできるのは心(マインド)、
 つまり思考、感覚、知覚です。
 けれど、
 心(マインド)がそれ自体について知る、
 その「知」は
 心(マインド)には属しません。
 闇を照らす月の光が、
 地球よりももっと大きなもの、
 つまり太陽に属するように、
 心(マインド)もまた
 それよりももっと大きなものに
 属するのです。

 見たところのすべての物事が
 それによって知られる、
 この「知」は私たちの存在、
 透明で光り輝く、
 気づいている現存(プレゼンス)に属します。
 そして、
 知られるすべてはこの「知」です、
 真に知られているのは、
 私たちの存在の光、
 純粋なる気づきの光だけなのです、

 それはいつも、
 ただそれだけを知っています。

 『プレゼンス─第1巻』(p206-207)
──────────────────

いつかは心(マインド)は、

それ自体の限界を悟る。

と同時に

現れているものが永遠の相であり

究極の現実であることを理解する。

そして心(マインド)は

体験の荘厳に自らを開き、

自らの限界を手放す。

何ひとつ自分のものではなかったことを理解し、

自分よりもっと大きなものに明け渡す。

知られるすべては存在の光。

純粋なる気づきの光だけ。

それはいつも、

ただそれだけを知っている。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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またまた

ずいぶん長い引用をしてしまいました。

今日も暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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