━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2019/12/08(第816号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。
あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
(『ダイレクトパス』)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在832名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.「中毒と気づき」(ヒロさんの翻訳から)
2.編集後記
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■ 1.「中毒と気づき」(ヒロさんの翻訳から)
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今日は曇天、寒い日ですね。
わたしの今はこのような画面です。
「わたし」というのも
その画面の一部なのでしょう。
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、
お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
話の筋はわかった。
この生涯で知りたかったこと、
あるいは疑問に思ったこと、
納得がいかなかったことはすべて
知的な意味ではわかった。
究極的な意味では
誰もほかの誰かを騙しているわけではなかった。
騙される誰かが存在するわけでもなかった。
そういうものはすべて
想像された架空の“分離幻想”を前提にして
積み重ねられてきたたくさんの過去の物語、
を参照しているという虚構の上に立って、
一瞬一瞬に現れる(=自動的に提供される)
観念の中にしか存在していなかった。
探求する意図がどのように生まれるのか?
探求意図に応答する観念がどのように浮上するのか?
そういった細部はわからない。
だがそんなことは真の疑問にはならない。
そういう展開過程、
観念の貯蔵庫から無限の組み合わせ紡ぎ出す過程は、
自動過程として提供できるだろう。
この惑星地球でいま露頭しはじめている
AI技術のレベルからですらそれは推測可能だ。
すべてはいま顕現している世界が現実だと
どれほど信じるかという話だったのだ。
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結局、
すべてはあなたが見、聞き、考え、
感じることが現実だと確信する
あなた自身の信念にかかっているのだ。
なぜあなたの信念を疑わないのか?
この世界が意識のスクリーンの上に、
あなたによって描かれたものだということは
疑いないのだ。
そして、
それは完全にあなたの個人的な世界だ。
たとえ世界のなかにあろうとも、
あなたの「私は在る」という感覚だけが、
世界に属さないものだ。
どのような理論や想像による努力によっても、
「私は在る」を
「私はいない」に変えることはできない。
あなたの存在を否定すること自体が、
あなたの存在を主張している。
ひとたび世界はあなた自身の投影だと悟れば、
あなたはそれから自由だ。
あなた自身の想像のなかにしか存在しない世界から
自由になる必要はない!
いかにその絵が美しくとも、
あるいは醜くとも、
それはあなたが描いたものであり、
あなたはそれに束縛されないのだ。
誰もあなたにそれを
押しつけてはいないということを悟りなさい。
それは想像を現実と見なす習慣によるものなのだ。
想像を想像としてみなさい。
そして恐れから自由になるがいい。
『私は在る』(p218)
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十数年かかってやっと、
この言葉のリアリティーが浸透してきました。
マハラジが語っていることは単純です。
ここに明快に述べられているとおりです。
二段階の翻訳をつうじて言語化された文章は、
いまこのとおりにここにあります。
み終わったときのその理解が、
そこからまた別の観念を求め始めなければ……。
> この世界が意識のスクリーンの上に、
> あなたによって描かれたものだということは
> 疑いないのだ。
この【あなたによって】の
「あなた」とは誰のことでしょうか?
たとえば、
わたしはいまこの言葉を書いています。
あなたはいまこの言葉を見ています。
あなたとわたしが
まったく同一の意識かどうか、
ちょっといますぐ機械的には決めないでおきます。
しかし、
【この世界が意識のスクリーンの上に、
あなたによって描かれたものだ】
という文脈の「あなた」には
あなたもわたしも含まれていることでしょう。
そもそも「純粋な意識」には
このような言葉に対する興味がないので
この言葉は見えないでしょう。
地球上の生命にエネルギーを供給している太陽に
地球上の混乱など何も見えないように。
このような言葉に興味をもつ意識にしか、
このマハラジの言葉は見えないはずです。
つまり、
今ここで使われている「意識」という言葉には、
現象している対象物に気づいている
「意識」の“気づいている”という側面と、
何がしかの“気づかれる対象物”の側面が
両方とも含まれていることになります。
ところがどうも
「意識」の“気づいている”という側面と
“気づかれる対象物”という側面の分割は、
観念的なもののすぎないようでもある。
たとえば、マハラジは
このようなことを言っています。
──────────────────
マインドは起こっていることに関心を持つが、
気づきはマインド自体に関心をもつのだ。
子どもはおもちゃを追い求めるが、
母親はおもちゃではなく子どもを見ている。
たゆまず見つづけることで、
私は完全な虚空となったのだ。
そしてその虚空とともに、
すべては私に戻ってきた。
ただマインドを除いて。
私はマインドを失い、
取り戻すことができないことに気づいたのだ。
『私は在る』(p239)
──────────────────
> マインドは起こっていることに関心を持つが、
> 気づきはマインド自体に関心をもつのだ。
こう聞くかぎり
1.「起こっていること」と、
2.その起こっていることに関心をもつ「マインド」と、
3.そのマインドに関心をもつ「気づき」という
三つのレベルがあるようでもある。
しかしまたこの三つのレベルは、
> 子どもはおもちゃを追い求めるが、
> 母親はおもちゃではなく子どもを見ている。
とも喩えられています。
つまり、
1.「おもちゃ」(=現象=起こっていること)
2.「子ども」(=現象に関心をもつマインド)
3.「母親」(=マインド関心をもつ気づき)
という意識の三つのレベルです。
しかしどうやらこれは、
必ずしも絶対的に固定された
レベルというのでもなさそうです。
むしろ、これは
「Crarity(明晰性)」に向かって
瞬間瞬間にダイナミックに移動する
意識の焦点のようなものかもしれません。
その意識の焦点は三つの機能レベルを内包していて、
それが、現象、マインド、気づきなのかもしれません。
「私」というのはこの、
「現象・マインド・気づき」の3レベルを内包する
意識の焦点と理解できるようでもあります。
その意識の焦点にはいろいろな状態があって、
たとえば、
「現象」 「マインド」 「気づき」
● ○ ○
● ● ○
− ● ○
− − ●
こんな状態もありうるのかもしれません。
● は自覚されている状態で、
○ は自覚されていない状態です。
ま、言うまでもなくただの観念ですが。^^;;
「Crarity(明晰性)」に向かって
たゆまず進みつづけること、
つまりあらゆる顕現を拒否せずに
ただ見守りつづけることによって、
覚者(と言われる意識の焦点)は
自ら純粋な意識へと自覚を
移していったのだと思います。
> たゆまず見つづけることで、
> 私は完全な虚空となったのだ。
あらゆる顕現にどんな実体もないこと、
「気づいているということ」だけが
実在していることを自覚したのでしょう。
> そしてその虚空とともに、
> すべては私に戻ってきた。
> ただマインドを除いて。
> 私はマインドを失い、
> 取り戻すことができないことに気づいたのだ。
実在しないものをすべて失い、
実在する自らに安らいだのだと思います。
と……このように知的に理解することに、
どれほどの意味があるのか?
相変わらずルパート・スパイラの
『プレゼンス─第1巻 安らぎと幸福の技術』
https://amzn.to/2PYQzlZ
を拾い読みしています。
ところで、
ひところ見えなかったヒロさんのサイトが
現在は見られるのはご存じですか?
https://resonanz360.wordpress.com/
これまで読んでいなかった記事を
またたくさん読ませていただいています。
いまはルパート・スパイラに興味があるので、
ヒロさんが翻訳された彼の記事を眺めています。
今回すばらしい記事を見つけたので
ご紹介したいと思います。
「中毒と気づき ルパート・スパイラ」
という記事です。
この記事はQ&Aなのですが、
質問者の質問もまたすばらしいのです。
その質問者の真摯な質問エネルギーに応答して
ルパート・スパイラから
まことに懇切丁寧な覚者の叡智が流れ出しています。
といっても、ヒロさんの達意の翻訳は
すべて上記のサイトで見られますので、
ここではごく一部だけ再掲させていただきます。
興味を持たれた方は
ぜひ上記サイトの記事をご覧ください。
──────────────────
A. どんな種類の中毒も、
それが不適切な性的行動であれ、
アルコールであれ、ドラッグであれ、喫煙であれ、
もっと穏やかな形の行動であれ、
常にその源泉は、
分離している、制限されている、
特定の位置を持っているという信念と、
もっと重要ですが、
そうした感覚にあります。
この分離という信念や感覚が現れる
もっとも一般的な形態は、
現状の微妙な
あるいはあまり微妙でない形での拒否であり、
それは
「いま起こっていることは私には好ましくない」や
「いま起こっていることと違う何かが私には必要だ」
というものです。
この二つの態度、
昔から恐れと欲望と呼ばれるものですが、
これらは見かけの上で分離した
自己の二つの側面です。
これらは、
「あるがままに対する抵抗」の
もっとも一般的な形のうちの二つです。
言い換えると、
「見かけの上での分離した存在」、
「あるがままに対する抵抗」、
そして様々な目的物、
物質あるいは経験を通した「幸福の探求」は
同義です。
「中毒と気づき ルパート・スパイラ」
──────────────────
あらゆる中毒行動の源泉は
われわれが同一化している
1.自分は分離している、
2.自分は制限されている
3.自分は特定の位置を持っている
という信念とその感覚にあるというのです。
こう伺うと、
人生とはまさに中毒行動そのものですね。
そして、この分離という信念や感覚は
「いま起こっていることは私には好ましくない」
とか
「いま起こっていることと違う何かが私には必要だ」
という想念として現れるというのです。
要するに一言でいうなら、
それは「あるがままに対する抵抗」の形だと。
そして、
1.「見かけの上での分離した存在」
2.「あるがままに対する抵抗」
3.「幸福の探求」
というのはじつは同じものだと。
そこから、
(見かけ上の分離存在である)身体が消えると
「私」が消えるという感じ、
つまり恐怖感が生まれる。
この恐怖感に触れるのを回避するために
不必要な思考やおしゃべりや解釈が現れる。
──────────────────
この当たり障りのない解釈は、
「あるがままの拒否」のもっとも単純な形です。
それは、「あるがまま」から
ほぼ常に注意をそらすことを確実にする、
継続的で目立たないおしゃべりです。
これが第一の中毒です。
「中毒と気づき ルパート・スパイラ」
──────────────────
われわれの人生の通奏低音とも言える
「継続的で目立たないおしゃべり」こそが
“第一の中毒”だというのです。(*_*) ⌒★?
そしてこの一見無害な【おしゃべり】が
じつは【分離した自己】にとっての
完璧な避難所となるのだと。
でもやがて長ずるにしたがって
もっと強い回避策が必要になる。
──────────────────
こうしたより強く効く回避の様式は、
私たちがよく知っている一般的な中毒の形態です
──働きすぎ、過食、過度の活動、金銭中毒、
テレビの見すぎ、アルコールやタバコや
ドラッグやポルノの過剰な使用等々──。
「中毒と気づき ルパート・スパイラ」
──────────────────
働きすぎ、食べすぎ、富の追求、娯楽、
こういうものはすべて何かを避ける
ための回避策なんですねぇ。
──────────────────
こうしたものすべては、
単に回避の戦略であり、
「あるがまま」の回避、
「これ」の回避、
「いま」の回避であるにすぎません。
これらは
分離した自己という感覚にとっては
なじみの避難所なのです。
──────────────────
なんと。(@_@) ⌒★?
ただ何もしないでいると
気づきの表面に浮上してくるものを
回避するために駆り立てられていたとは。
ということは、
「あるがまま」の状態にただいて、
「いま」に浮上してくるものを
浮上させることがどうしても不可避なのです。
──────────────────
問題の根源にたどり着くということは、
分離した「私」の源泉に行くことを意味し、
単に分離した「私」という信念だけではなく、
より重要なことですが、
分離しているという感覚をみることです。
見かけの上で分離した自己の仕組み全体が
微妙なところまですべて理解されたときに初めて、
私たちはそこから解放され、
それは、分離の信念と感覚という覆いが
見かけの上で取り去られ、
気づきが「意識して」それ自身の中に
それ自身として立ち上がるということです。
──────────────────
ルパート・スパイラはどこかで、
アドヴァイタの探求の道では、
知的な理解は10パーセント、
残りの90パーセントは身体の中に
畳み込まれている分離の感覚の解放だと
言っていたようです。
そのためには
まず習慣的なお喋りに気づくことは
不可避なのだと思います。
ずいぶん遠回りしたようでもありますが、
それが恩寵なのでしょう。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
<<ご連絡:今度は見えます>>
「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
………○…………○…………○………
▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
「私は在る」に関するご意見や単なるメールなど、
ご自由にお書きください。
………○…………○…………○………
▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518
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■ 2.編集後記:
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自分がいること、
そして何かを経験していることは
疑うことができません。
言葉を換えると、
「自分がいる」とは
「気づいているということ」です。
「自分がいる」かぎり、
その自分は何かに気づいている。
何かを経験しているのです。
それは確かです。
でも、
何を経験しているかは確かではない。
自分は自分が「気づいているということ」を
見ているのかもしれません。
それをどう解釈するかは重要ではない。
つまり、
どういう思考が浮上するかは
重要ではないのです。
それが思考の堂々巡りであることが
洞察されることが重要なのです。
浮上してくる思考を
あまり重要視しなくなることが。
今日も暗くなりました。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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