home > 通信 >『アセンション館通信』第817号:心配や欲望はどこから湧く?



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/12/15(第817号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
 苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
 れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
 (『ダイレクトパス』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在831名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.心配や欲望はどこから湧く?

2.編集後記
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■ 1.心配や欲望はどこから湧く?
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今日は雲ひとつない晴天、

十二月というのに今日はこの暖かさです。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

土曜日になるとひどく強気になって

まるで解放されているかのごとき

言葉を吐きつづけているpariですが、

これは別にpariが悪いわけではありません。

みなさんもご存知のとおり、

pariとは単なる知覚の対象物にすぎません。

ひとつの比喩的概念に依拠するなら

pariとはある型式のバイオロボットでしょうし、

別の比喩的表現を用いるなら

pariとはヴァーチャルリアリティのなかでの

つかの間の活動パターンでしかありません。

pariという実体があるわけでもないので、

バカなpariがいるわけでもありません。

毎週土曜日になるとしきりにこのような

一見賢そうな言葉を吐きたくなる症状を付与された

つかの間のオッチョコチョイパターンにすぎません。

でもまだこうして

このパターンへの同一化をつづけているので、

浮上してくる形と意味への執着が

解かれていないわけでしょう。

ところであなたはマハラジが

自由をどう定義しているかご存知ですか?

それはわたしにはまさに

身につまされるほどに納得のイメージでした。

マハラジはいみじくも

【自由とは心配からの自由なのだ】

と喝破しています。

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 自由とは心配からの自由なのだ。
 あなたが結果に影響を与えることは
 できないと自覚したからには、
 欲望と恐れに注意を払うことはやめなさい。
 それらを来ては去っていかせなさい。
 それらに興味や注意といった
 栄養を与えて助長してはならない。

 『私は在る』(p500)
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> 自由とは心配からの自由なのだ。

これほど単純明快な自由の定義をほかに知りません。

実際、心配から解放されるなら

ほかのことなど

どうでもいいじゃないですか。(^_-)

> あなたが結果に影響を与えることは
> できないと自覚したからには、
> 欲望と恐れに注意を払うことはやめなさい。

ところが、

この三行目が現実化していないわけです。

いまだに

「欲望と恐れに注意を払」っている。

つまりはその上の二行、

「あなたが結果に影響を与えることはできない」

ということが

どうにもまだ納得できていないわけです。

つまり、

映画の登場人物の身分でありながら、

映画のシナリオを変化させるという夢想から

解放されていない。(;_;)

頑張ればなんとかなるんじゃないかと

まだ夢想しているということです。

なぜかいま丘宗潭(おかそうたん)老師の

言葉が浮かんできました。

澤木興道老師は

自分が若いころ随身していた丘宗潭老師の

ある独参者への言葉を

後年何度も思い出すことになったそうです。

あるとき入室してきた独参者が丘老師に

「一大事をお示し願います」と乞います。

おそらくは形式的な問だったでしょう。

丘宗潭老師というのは

人品骨柄からするとヤクザの親分みたいな

怖い形相の方だったみたいです。(*^_^*)

その丘宗潭老師がギョロリと目を剥いて

「ウーム、たれの一大事か」と言ったそうです。

「ヘェイ、私のでございます……」

「ナニイ、貴様のか、
 
 貴様一人ぐらい、どうでもいいじゃないか、ウフフ……」

と毒気を吐いたのだとか。(>_<)

随身者として襖の影でこれを聞いていた

当時の若き澤木老師は

「よくまあこんなひどいことを」と思ったそうです。

しかし……後年なんどもこの言葉に

支えられたとも仰っています。

「貴様一人ぐらい、どうでもいいじゃないか」

まことに、そのとおりというか……。

マハラジはむろん、

そういう言い方はしません。

でも、

> それらを来ては去っていかせなさい。
> それらに興味や注意といった
> 栄養を与えて助長してはならない。

くらいはおっしゃるわけです。

しかし、この言葉が

われわれに届くかどうかはまた別です。

ちなみにこのpariパターンなどには

二十年かけてもこの

【欲望と恐れに注意を払うことはやめなさい】

というたったこれだけのメッセージが届かない。

だからいまだに

欲望と恐れに注意を払うことを

後生大事に続けているわけです。

なぜそうなのか?

なぜわたしは

欲望と恐れに注意を払いつづけるのか?

それは明らかに、

「欲望」や「恐れ」が

自分に関係があると思っているからです。

つまり、

「欲望」や「恐れ」に影響される

“自分”というものがいると思っているからです。

いま気づきの空間内に

ウルトラハイビジョン3D映像が映写されています。

そこにpariという身体パターンも投影されている。

その同じ気づきの空間内に今度は

欲望とか恐れといった思考パターンが投影される。

するとそこに

pariが欲望や恐れで動揺する映像が投影され、

pariの物語が展開するというわけです。

pariの身体像も欲望や恐れの想念も

すべてわたしという気づきの空間に現れた

知覚の対象物にすぎません。

わたしという気づきの空間と

そこに投影される幻像との関係は、

映画館の空白のスクリーンと

スクリーン上に投影された映画のようなものでしょう。

実在するスクリーンは

投影されたどんな映画にも染まりません。

映写が終わればただの白い空白であるだけです。

気づきであるわたしは、

今浮上している画面とは何の関係もない。

pariとして顕現している物語は、

気づきであるわたしとは何の関係もない。

しかし気づきであるわたしが存在しなければ、

pariという物語がありえないことも自明です。

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 あれやこれ、
 と指し示すことができるものは、
 あなたではありえない。
 何かほかのものだとさえ言えない。
 あなたは知覚や想像を超えた何かだ。
 それにも関わらず、
 あなたなしでは想像も知覚もありえない。
 あなたはハートの感じること、
 マインドの考えること、
 身体の為すことを観察する。
 そのこと自体が、
 あなたはあなたが観察するものではない
 ということを示唆しているのだ。
 あなたなしで知覚や体験が可能だろうか?
 体験とはかならず何かに帰属するものだ。
 誰かが、
 これは私の体験だと言明するのだ。
 体験者なくして体験はありえない。
 体験者が体験にその実在性を与えるのだ。
 あなたが体験できないもの、
 それに何の価値があるというのだろう?
 
 『私は在る』(p24)
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> あれやこれ、
> と指し示すことができるものは、
> あなたではありえない。

はい。

それは“何か”であるための表現です。

わたしは何にもなりえない気づきの空間です。

> 何かほかのものだとさえ言えない。

その“何かほかのもの”もやはり

その何かを存在させるための表現ですから。

> あなたは知覚や想像を超えた何かだ。

わたしという気づきを源泉として

知覚や想像という働きが湧き起こる。

> それにも関わらず、
> あなたなしでは想像も知覚もありえない。

わたしという気づきの空間は

そこで湧き起こる想像や知覚の働きによって

定義されるわけにはいかない。

逆にわたしという気づきの空間がなければ、

どんな想像も知覚も起こりえない。

> あなたはハートの感じること、
> マインドの考えること、
> 身体の為すことを観察する。

わたしという気づきの空間は

そこで湧き起こるハートの感じ、

そこで湧き起こるマインドの思考、

そこで湧き起こる身体の行為に気づいている。

> そのこと自体が、
> あなたはあなたが観察するものではない
> ということを示唆しているのだ。

そこでハートが感じていること、

そこでマインドが思考していること、

そこで身体が行っている行為に

わたしが気づいているということ自体が、

気づいているわたしが、

ハートが感じていることでもなく、

マインドが思考していることでもなく、

身体が行っている行為でもないことを

示唆している。

それらはわたしという気づきの対象物であり、

それらはわたしが気づいているがゆえに

現れることができるのだ。

> あなたなしで知覚や体験が可能だろうか?

気づいているわたしいないのに、

知覚や体験だけが起こるというようなことが

はたして可能だろうか?

> 体験とはかならず何かに帰属するものだ。
> 誰かが、
> これは私の体験だと言明するのだ。

体験する者がいないのに

体験だけがあるということはありえない。

体験とは必ず誰かの体験であり、

これは私の体験だと言明する者に帰属する。

> 体験者なくして体験はありえない。
> 体験者が体験にその実在性を与えるのだ。
> あなたが体験できないもの、
> それに何の価値があるというのだろう?

体験者がいない体験というものはありえない。

体験する者がその体験を存在させている。

逆に

けっして体験できない体験があったとして、

そんなものに何の価値があるだろう?

……。

誰がいまこの文字を書いているのか?

気づきの空間が書いている?

いや、それはありえない。

気づきの空間は何もしない。

ただすべてを許容し、

すべてを気づきの光で照らし出しているだけ。

心配や欲望はどこから湧き起こる?

映像が紡ぐ物語のなかで想像された観点が

新たな変化を呼び起こす……。

それはどこから湧くんだろう?

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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これはただ起こっているだけです。

今日も暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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