home > 通信 >『アセンション館通信』第818号:三つの立場の世界観(R・スパイラ)



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/12/22(第818号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
 苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
 れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
 (『ダイレクトパス』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在829名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.三つの立場の世界観(R・スパイラ)

2.編集後記
──────────────────

      <<【連絡事項】>>

配信スタンド「メルマ」で読んでいただいている方、

「メルマ」のサービスは今年いっぱいで終わります。

実際に読んでくださっている方は

配信スタンド「まぐまぐ」のほうにご登録ください。

mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.三つの立場の世界観(R・スパイラ)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

空一面を覆う雲の隙間から

かすかに薄日が差し込んでいます。

冬枯れの山里の風景は静止画のようです。

今年も残り少なくなりましたね。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

この身体の誕生以来、

いろいろな体感や知覚を経験し、

いろいろな想念が湧くのを経験し、

いろいろな観念を信奉する経験をしました。

それぞれの瞬間に

そういう経験を通り抜けているものを自分、

あるいは「私」というのだと思います。

この自分というのが

いったい何なのかということです。

何かの疑問が浮かび、

その疑問の答えを求めていたら、

きっとその疑問のエネルギー波動に見合った

解答が引き寄せられてくることでしょう。

すぐには満足できる解答に出会えなくても、

その疑問をもち続けていれば、

いつかはふさわしい解答に出会えるはずです。

疑問の解答にフォーカスしているかぎり

何らかの解答が現れてくるものです。

そのような類の疑問もあります。

ところでその疑問が

その問いを問うその者に向けられた場合は、

少し様子が違うかもしれません。

自分とは何かと問うているのは誰なのか?

いった誰がそんなことを疑問に思ったのか?

ということになると……、

話は少しややこしくなるかもしれません。

「自分とは何か?」という問い自体は、

間違いなくひとつの思考、

ひとつの現われです。

ではその思考がその問いを問うているのか?

いや、

それはないんじゃないんじゃないでしょうか。

その瞬間その瞬間に

そのときの疑問の形を表現する思考形体が、

その問を問うているというのは

論理的にちょっといただけない。

その疑問自体は

そのような疑問を表現するための想念の形です。

「自分とは何か?」というひとつの想念の形は、

その疑問を呼び出すエネルギーに応じるべく

出番を待つ【想念番号nnnnnn…】みたいなものでしょう。

その【想念番号nnnnnn…】自体が

「自分とは何か?」を問うているわけではない。

では誰が「自分とは何か?」と問うているのか?

もちろん、

その「自分とは何か?」という疑問を

呼び出した当人です。

どうしてもそれが知りたくなったエネルギーです。

それがその瞬間の自分です。

では、

この“その瞬間の自分”というのは、

いわゆる「純粋な気づき」とか、

「気づきの空間」という概念が

指し示すもののことでしょうか?

いや、それもなさそうです。

「気づきの空間」自体が何かを知りたがる……、

というのはちょっといただけない。

「気づきの空間」という概念が指し示すものは、

あらゆる「現れ」を受け容れて照らしだす

いわば光で充満した闇のようなものでしょう。

「気づきの空間」自体が何かをするということはない。

「気づきの空間」という概念は、

タオでいう玄牝(げんぴん)とは

また連想野が異なるでしょうが、

究極の受容性、

すべてを受け容れて輝かせる力という意味では

似たところがあるかもしれません。

そこであらためて

「自分とは何か?」です。

ルパート・スパイラの

『プレゼンス─第1巻 安らぎと幸福の技術』

のなかに

「探されているのは、どの自分だろう?」

という一節があります。

──────────────────
 
 探されているのは、どの自己なのだろう?
 
 
 質問 ここで探されているのはどの自己
    なのでしょう? どうやら、
 偽物の自己と本物の自己があって、
 人の本質についての調査が偽物の自己に
 深くを及ぶにつれ、
 それは溶けてなくなり、
 本物の自己の現実に光が当たるようですね。
 
 
 探されているのは、
 その人が、その時点で、
 それが自己であると考え、
 感じている「自己」です。
 その時点で
 自己であるように思われるものを調べることが、
 真の自己を実現することへと導くのです。
 
 現状においては、
 この本に印刷されている文字や、
 車の音、体の感覚、最も身近な考えなど、
 そうしたことを知り、
 体験しているものに
 「私(I)」という名前が与えられています。
 それは、
 すべての体験において、
 知り、体験している要素であり、
 つまり、
 現存しています。

 このように、
 知、現存(プレゼンス)
 存在(ビーイング)は、
 私たちの自己に本来備わっています。
 そのため、
 私たちの自己は時に、
 知っている現存、
 気づいている現存、
 気づき
 (つまり私たち自身の存在に気づき、
  それを知っている現存)
 と呼ばれます。
 
 私たちは在り、
 私は在ることを知っているのです。
  
 自己探求とは、
 私たちの自己の本質を調査することです。
 気づいていて存在していること以外、
 私たちの自己について
 体験から言えることはあるでしょうか?

 『プレゼンス―第1巻』(p254-255)
──────────────────

> 探されているのは、
> その人が、その時点で、
> それが自己であると考え、
> 感じている「自己」です。

この「自己」を

実体と呼べるかどうかは別として、

これが「自己」という言葉が意味するもの

であることは疑いなさそうです。

つまりこれは、

まさにわれわれのことです。

わたしが、この時点で、

これが自分であると考え、

感じている「自己」です。

> その時点で
> 自己であるように思われるものを調べることが、
> 真の自己を実現することへと導くのです。

まさにいまこの時点で

自分だと思われるものを調べることが、

真の自己実現へとつながっている。

> 現状においては、
> この本に印刷されている文字や、
> 車の音、体の感覚、最も身近な考えなど、
> そうしたことを知り、
> 体験しているものに
> 「私(I)」という名前が与えられています。

今これを書いているわたし、

今これを読んでいるあなたのことです。

> それは、
> すべての体験において、
> 知り、体験している要素であり、
> つまり、
> 現存しています。

それが間違いなく体験している当人であり、

唯一現存している自己であるわけです。

> このように、
> 知、現存(プレゼンス)
> 存在(ビーイング)は、
> 私たちの自己に本来備わっています。
> そのため、
> 私たちの自己は時に、
> 知っている現存、
> 気づいている現存、
> 気づき
> (つまり私たち自身の存在に気づき、
>  それを知っている現存)
> と呼ばれます。

だから、

わたしたちは、

現存と呼ばれたり、

気づきと呼ばれたりする。

> 私たちは在り、
> 私は在ることを知っているのです。

わたしもあなたも

紛れもなく存在していて、

自分が存在することを知っている。

> 自己探求とは、
> 私たちの自己の本質を調査することです。

自己探求というのは、

自分が存在すると知っているその自分が

自分の本質を調査することです。

> 気づいていて存在していること以外、
> 私たちの自己について
> 体験から言えることはあるでしょうか?

いま存在していて、

自分が存在すると知っていること以外に、

体験から言えることは何もない。


さて、これで……

誰が自己探求しているのかについては

もう疑問の余地はなくなりました。

ただ残念ながらわれわれは、

その自己は身体の中にいるのだと

思い込んでしまっている。

そこでルパート・スパイラは、

その思い込みを

実際に調べてみることを勧めます。

──────────────────
 ですから今、
 あたかも向きを変えるように、
 この本に印刷されている文字、
 そして現在にあらわれていること、
 例えば、思考、体感、知覚などについて
 気づいているものに
 目を向けてみましょう。
 それを探し出し、
 見つめようとしてみてください。 

 すると、
 奇妙なことが起こります。
 気づいている現存は
 間違いなく存在しているにもかかわらず、
 探そうとしても、
 対象物として見つけることはできないのです。
 見つけるために
 どこを向けばよいのかすらわかりません。

 まさにこの体験の中で、
 私たちの自己、
 気づいている現存は
 体の内側にある、
 あるいは体としてある実体だという信念が
 白日のもとにさらされ、
 揺るがされます。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p255-256)
──────────────────

誰がこの文字に気づいているのか

それを確かめてみてください。

> すると、
> 奇妙なことが起こります。
> 気づいている現存は
> 間違いなく存在しているにもかかわらず、
> 探そうとしても、
> 対象物として見つけることはできないのです。
> 見つけるために
> どこを向けばよいのかすらわかりません。

たとえば、

ここに書かれた文字に気づいている者が

存在していることは間違いない。

しかしその存在を確認しようとすると

その誰かはただ両目の後ろに

いるように想像されるだけで、

実際には対象物としては見つからない。

そして両目の後ろに想像されるそのイメージも、

これまたただの観念にすぎない。

自分がどのような大きさで、

どの位置にいるというようなことは、

すべて物理身体のイメージから連想された

観念にすぎない。

物理身体そのものも想像された

気づきの内容の構造物にすぎない。

その身体のイメージが実体ではなく、

気づきの内容から構成された構造物だとわかったとき、

いったい自分はどこにいるのか?

> まさにこの体験の中で、
> 私たちの自己、
> 気づいている現存は
> 体の内側にある、
> あるいは体としてある実体だという信念が
> 白日のもとにさらされ、
> 揺るがされます。

自分はこの身体の中にいるという信念は、

聞かされた作り話を信じていただけの、

単なる思い込みにすぎなかった。

──────────────────
 体験をより深く探ると、
 実際には、
 自己がどこかに位置していて、
 限界を抱えているという
 体験的証拠はないのだということが
 わかります。
 私たちの存在には
 位置も限界もないことへの確信は、
 体験、つまり、
 私たちの自己による
 それ自身の体験からやってきます。
 
 皮肉にも、
 二元的な思考により
 密かに変形されていた私たちの存在が
 それ自体にとって明らかになると、
 同時に、
 私たちはこれまでずっと
 この限界のない、
 場に縛られない現存であったことを
 理解します。
 私たちも自己には他の自己はなく、
 偽りの自己も、
 低次元の自己も、
 個人としての自己もなく、
 つまり、
 この見かけ上の「もうひとつの自己」が
 「本当の自己」になるという旅やプロセスも
 なかったのだということがわかるのです。
 
 しかし、
 このことが体験的に明らかになるまでは、
 私たちが自分自身をそうだと信じ感じている、
 限界を抱えた内側にある自己が、
 見たところ、
 ある種のプロセスや探究、
 旅を経ることは避けられません。
 特に自己探求として知られる
 こうした模索やプロセスは、
 分離した自己に潜在的に付随するものです。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p257)
──────────────────

> 体験をより深く探ると、
> 実際には、
> 自己がどこかに位置していて、
> 限界を抱えているという
> 体験的証拠はないのだということが
> わかります。

実際には

自分がこの身体の中にいるという

体験的証拠が経験されたことは

これまでいちどもなかった。

> 私たちの存在には
> 位置も限界もないことへの確信は、
> 体験、つまり、
> 私たちの自己による
> それ自身の体験からやってきます。

自分の実際の体験の中では

知覚しか経験することはできず、

その知覚が指し示しているのは

結局は気づきの内容でしかなかった。

したがって

気づきの位置や限界を

示しているように思われたものは、

すべて単に気づきの内容から

想像され構成された観念にすぎなかった。

それらはすべて、

気づきの内容の構造物であって、

気づき自体の位置や限界を

規定できるようなものではなかった。

自分はどんな位置も限界も

体験してはいない。

> 皮肉にも、
> 二元的な思考により
> 密かに変形されていた私たちの存在が
> それ自体にとって明らかになると、
> 同時に、
> 私たちはこれまでずっと
> この限界のない、
> 場に縛られない現存であったことを
> 理解します。

これまで聞かされていた話はすべて、

わたしとあなた、

こちら側とそちら側、

主観と客観、内側と外側、

内面と外界と言った二元的な思考によって

密かに変形され歪曲されたものだった。

私たちは実際は、

どこかの場所に閉じ込められてもおらず、

何かによって拘束されてもいなかった。

想像されたもの以外は、

実際にはどんな限界も拘束も体験していなかった。

> 私たちも自己には他の自己はなく、
> 偽りの自己も、
> 低次元の自己も、
> 個人としての自己もなく、
> つまり、
> この見かけ上の「もうひとつの自己」が
> 「本当の自己」になるという旅やプロセスも
> なかったのだということがわかるのです。

自分の自己も他人の自己も、

実際に体験したことはなかった。

偽りの自己も、

低次元の自己も、個人の自己も

実際に体験したことはなかった。

すべて自分という気づきの内容物から

想像した構造物(観念)にすぎなかった。

「偽りの自己」が「真の自己」になるという

探求の旅もなかった。

すべては想像にすぎなかった。


かくてルパート・スパイラは

自分と現れに対する態度として、

三つの可能性に言及します。

──────────────────
 私たちの本質と考えられるものについて、
 三つの可能性を探ってみましょう。
 まずは、
 心(マインド)と体。
 次に、物事の目撃者、
 そして、気づき、つまり現存、
 これら三つの立場には、
 それぞれの世界観があります。

 ひとつ目は、
 無知の立場と言えます。
 ここでの無知という言葉は、
 批判や軽蔑としてではなく、
 事実を述べるために使われています。
 この立場において、
 私たちの真の性質は「無視され」、
 結果として、
 私たちは心と体からできていると
 誤って思い込み、 
 感じるようになります。
 
 ふたつ目は、
 知恵や理解の立場であり、
 ここでは明らかに、
 私たちは気づきであり、
 それに対し、
 もしくはその中に、
 体、心、世界といった対象物が現れます。
 
 三つ目は愛の立場です。
 ここでは明らかに、
 対象物、他者、自己、世界は存在せず、
 現存、意識、
 もしくは気づきからなる純粋な体験の、
 つなぎ目のない親密さだけがあります。
 
 自己探求はひとつ目とふたつ目の立場に
 属するものです。
 ひとつ目の立場においては、 
 自己探求が、
 分離した実体による、 
 啓示を求めるプロセスのように
 見えたとしても仕方ありません。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p258)
──────────────────

> 心(マインド)と体。
> 次に、物事の目撃者、
> そして、気づき、つまり現存、
> これら三つの立場には、
> それぞれの世界観があります。

ひとつ目は、

自分を心と体と見なす態度。

二つ目は、

自分を物事(世界)の目撃者と見なす態度。

三つ目は、

自分を気づきそのもの、

現存そのものと見なす態度。

> ひとつ目は、
> 無知の立場と言えます。
> ここでの無知という言葉は、
> 批判や軽蔑としてではなく、
> 事実を述べるために使われています。
> この立場において、
> 私たちの真の性質は「無視され」、
> 結果として、
> 私たちは心と体からできていると
> 誤って思い込み、 
> 感じるようになります。

物理的世界の客観的存在を信奉する

ひとつ目の態度は、

無知と言わざるをえない。

なぜなら、この信念の中では

気づきという私たちの真の性質が

無視されているから。

> ふたつ目は、
> 知恵や理解の立場であり、
> ここでは明らかに、
> 私たちは気づきであり、
> それに対し、
> もしくはその中に、
> 体、心、世界といった対象物が現れます。

二つ目の態度は、

知恵と理解の立場。

この態度の中では

私たちは気づきであり、

その気づきに対して、

あるいはその気づきの中に

体や心や世界という気づきの対象物が現れる。

> 三つ目は愛の立場です。
> ここでは明らかに、
> 対象物、他者、自己、世界は存在せず、
> 現存、意識、
> もしくは気づきからなる純粋な体験の、
> つなぎ目のない親密さだけがあります。

三つ目の態度は愛の立場。

この立場の中には

対象物も他者も自己も世界も現れない。

ここにあるのはただ気づきからなる

限界も境界もない純粋な体験の親密さだけ。

──────────────────
 自己探求が心におけるプロセスとされるのは、
 この見かけ上の実体のためだけなのです。
 これ実体が存在していないことがわかり、
 それゆえこの実体には
 それ自身の本質を探究することも、
 他にも何もすることができないとわかれば、
 存在しているのは常に気づきだけであって、
 自己探求とは単に、
 そうと承知の上で、
 この現存としてとどまることだ
 ということがわかります。
 自己探求とはつまり、
 究極的には、
 私たちの存在の内に、
 その存在として、
 そうと知った上でとどまることなのです。
 
 自己探求は、
 ゆっくりと消えていく
 スクリーン上の映像に似ています。
 何らかの物や実体(映像)のように
 見えていたものは、
 実際にはスクリーンでしかなかった
 ということが明らかになります。
 
 つまり、
 見かけ上の「私」は、
 唯一現実の「私」、
 気づきからできていて、
 これまでもずっとそうであったことが
 明らかとなるのです。
 
 時として限界を抱え、
 位置づけられているように見えるとしても、
 存在するのは気づきだけであり、
 実際、
 それは唯一限界のない自己であり、
 限界のない自己を知っています。
 
 分離した内側にある自己の「私」は、
 思考と感情によって分離し、
 限界を抱え、
 場に縛られた実体であるように
 見えていましたが、
 この思考と感情の押しつけから自由になると、
 まさに同じ「私」が、
 気づきという唯一真の「私」としての
 姿を現すのです。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p265-266)
──────────────────

> 自己探求が心におけるプロセスとされるのは、
> この見かけ上の実体のためだけなのです。

自己探求がマインドの旅だと言われるのは、

身体の中にいるとされる

誤った自己像のせいにすぎない。

> これ実体が存在していないことがわかり、
> それゆえこの実体には
> それ自身の本質を探究することも、
> 他にも何もすることができないとわかれば、
> 存在しているのは常に気づきだけであって、
> 自己探求とは単に、
> そうと承知の上で、
> この現存としてとどまることだ
> ということがわかります。
> 自己探求とはつまり、
> 究極的には、
> 私たちの存在の内に、
> その存在として、
> そうと知った上でとどまることなのです。

身体の中にいるとされる分離した自己が

実際には存在していないことがわかれば、

実際に存在しているのは常に気づきだけなので、

自己探求とは、

自分が気づきであることを知りながら

気づきとしてとどまること以外ではない。

> 自己探求は、
> ゆっくりと消えていく
> スクリーン上の映像に似ています。
> 何らかの物や実体(映像)のように
> 見えていたものは、
> 実際にはスクリーンでしかなかった
> ということが明らかになります。

自己探求とは

いわば映画のフェイドアウトのようなもの。

ドラマが演じられているように見えていた画面は、

実際には空白のスクリーンにすぎなかった。

> つまり、
> 見かけ上の「私」は、
> 唯一現実の「私」、
> 気づきからできていて、
> これまでもずっとそうであったことが
> 明らかとなるのです。

見かけ上の自分こそが、

唯一現実の自分であり、

それは気づきからできており、

これまでもずっとそうだったことが明らかになる。

> 時として限界を抱え、
> 位置づけられているように見えるとしても、
> 存在するのは気づきだけであり、
> 実際、
> それは唯一限界のない自己であり、
> 限界のない自己を知っています。

たとえ今それが

限界を抱えどこかに位置づけられ、

ドラマの登場人物のように見えたとしても、

実際に存在するのは

限界もないどんな定義も担わない

唯一実際に存在して気づいている自分だけ。

> 分離した内側にある自己の「私」は、
> 思考と感情によって分離し、
> 限界を抱え、
> 場に縛られた実体であるように
> 見えていましたが、
> この思考と感情の押しつけから自由になると、
> まさに同じ「私」が、
> 気づきという唯一真の「私」としての
> 姿を現すのです。

その唯一実際に存在して気づいている自分が

一瞬、限界を抱え、

場に縛られた実体であるかのような

見かけを映し出していただけ。

それを“巨大な詐欺”と言おうが、

“リーラ(神の戯れ)”と言おうが、

“大いなる恩寵”と言おうが、

それらはすべて

自分の中に映し出された観念にすぎなかった。

それはひとときの自分の現れだった。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


   <<ご連絡:今度は見えます>>

「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


   ………○…………○…………○………


▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

「私は在る」に関するご意見や単なるメールなど、

ご自由にお書きください。


   ………○…………○…………○………


▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


   ………○…………○…………○………


━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

土曜日は楽しいです。

マインド無礼講ですから。

思いなしか、

太陽神経叢のあたりの不安が

けっこうひんぱんに現れます。(*^_^*)

何しろ歓迎しているので。(^_-)

今日も暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2019 paritosho
──────────────────

home】 【挨拶】 【本棚】 【映画】 【N辞書】 【R辞書】 【随想】 【仕事】 【通信】 【連絡