home > 通信 >『アセンション館通信』第829号:最も高度な霊的実践(R・スパイラ)



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2020/03/08(第829号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
 苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
 れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
 (『ダイレクトパス』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在521名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.最も高度な霊的実践(R・スパイラ)

2.編集後記
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■ 1.最も高度な霊的実践(R・スパイラ)
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すっかり春めきましたね。

今日は温かな日です。

わがが家の庭にはまだ梅が咲いています。

このあたりは遅いんです。

赤紫の木蓮はまだまだ裸木です。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と“「私は在る」噺”に

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

過去十数年にわたって

覚者のモノマネと称して、

「私は在る」とか

「私は気づきだ」みたいな言葉を

書きちらしてきました。

もちろんそれが

間違っていたとも思いませんが、

と同時に

そう言っている自分が、

いわゆる実在だとも気づきだとも

思っていません。

そもそも「実在」や「気づき」が

いちいちそんなことを言うわけもなし。

そういう思考が現れたというだけのことです。

非二元系の情報が使う用語と、

ミナミAアシュタールさんのような

アセンション系の情報が使う用語が

同じでないことは間違いありません。

でもそのどちらの言葉も、

何かを求めるわれわれ

(つまり湧いてくる思考)が

呼び出したものであることも

やはり間違いないと思います。

このところ何度か集中して

ミナミAアシュタール情報をご紹介しました。

そのせいかどうかわかりませんが、

ちょっと位置確認のような気分が

働いたのかもしれません。

ふとパート・スパイラの

『プレゼンス』に手が出ていました。

開いたページに出てきた言葉は

自分が求めたものを再確認させてくれる内容で、

今の気分にとてもフィットしました。

求めて動く思考エネルギーがあるかぎり、

こうして答えてくれる思考エネルギーも現れます。

今回はルパート・スパイラの

『プレゼンス―第1巻』からご紹介しますね。

「幸福は最も高度な、
 スピリチュアルな実践である」
 
という章から引用します。

(相変わらず

 通常想定される範囲を超えた

 長い引用をさせていただきます。
 
 これが本書の出版に関われた方々の
 
 ご迷惑になる無断引用ではなく、
 
 本書の販促に貢献する
 
 無料宣伝となるよう願っています。(-||-) )

──────────────────
 幸福を求めることがなければ、
 言い換えるなら、
 もし現状に完全に満足していれば、
 そこに苦しみはありません。
 
 このため、
 「幸福を覆い隠すこと」、
 「苦しみ」、
 「幸福の追求」は、
 どれも同じです。
 この追求に与えられた別の名前が、
 「分離した自己」です。
 この分離した内側にある自己は
 実体ではありません。
 それは抵抗し模索する活動そのもの、
 つまり苦しみの活動です。
 
 見せかけの分離した実体が
 幸福を追求するのではなく、
 見せかけの分離した実体そのものが、
 幸福の追求なのです。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p285)
──────────────────

> 幸福を求めることがなければ、
> 言い換えるなら、
> もし現状に完全に満足していれば、
> そこに苦しみはありません。

幸福を現状以外の状態と仮想して、

その状態を未来に獲得することを求めなければ、

苦しみというものは存在しない。

> このため、
> 「幸福を覆い隠すこと」、
> 「苦しみ」、
> 「幸福の追求」は、
> どれも同じです。

つまり、

「幸福を追求する」ということは、

今の中にある「幸福を覆い隠すこと」であり、

それが「苦しみ」というものだ。

> この追求に与えられた別の名前が、
> 「分離した自己」です。

この「幸福を追求する」という

不自然な追求に与えられた別の名前が、

「分離した自己」という幻想だ。

> この分離した内側にある自己は
> 実体ではありません。
> それは抵抗し模索する活動そのもの、
> つまり苦しみの活動です。
> 見せかけの分離した実体が
> 幸福を追求するのではなく、
> 見せかけの分離した実体そのものが、
> 幸福の追求なのです。

この現象している身体の

内側に存在すると言われる自己とは、

実際は想像された観念であり、

実体として存在するわけではない。

実体としては存在しない

身体の内側の自己とは、

それ自体がひとつの活動なのだ。

現状として現れているひとつの現象を

想像の中で身体の内側と外側に分離させ、

自らその想像上の内側となって

外側を相手に抵抗を模索することだ。

つまり存在している実体が

幸福を追求しているのではなく、

幸福の追求という模索そのものが

内側の自己の実体だ。

内側の自己とは、

それ自体が苦しむ活動なのだ。

──────────────────
 もし、
 苦しみが他のすべてと同じように
 気づきにあらわれるのを見て、
 それに対して何もできることはないと
 信じるならば、
 私たちは自分を誤魔化しています。
 苦しみは定義上、
 現状に対する抵抗であり、
 代わりとなるものの必然的な追求です。
 現状に対するな抵抗がなければ、
 苦しみもありません。
 
 ですから、
 もし現状で苦しみを体験しているとしても、
 その苦しみに対する抵抗が
 完全になくなってしまえば、
 苦しみは長続きしません。
 苦しみは抵抗そのものだからです。
 こうして、
 苦しみは瞬く間に幸福に変容します。
 
 実際、
 苦しみに対するすべての抵抗が
 やむとすぐに、
 苦しみは幸福として姿をあらわします。
 このように、
 幸福は苦しみの本質ですらあるのです。
 幸福は、
 苦しみを含むすべての体験の中心に
 静かに横たわっていて、

 認識されることを待ち望み、
 私たちの抵抗がなくなることを待ち望み、
 私たちが勇気と愛をもって方向転換をし、
 苦しみに抵抗したり
 それを取り除くおったりしたりすることを
 少しも欲することなく、
 それに向き合うことを待ち望んでいます。
 
 このため、
 絶望の淵にあっても、
 私たちが不幸に完全に取り込まれて
 しまうことはありません。
 完全に取り込まれてしまったら、
 思考が自己を切り離し、
 苦しみを眺め、
 苦しみを取り除こうとする
 隙間さえもないはずです。
 もしそうであるなら、
 それは完全な非二元であり、
 つまり、
 完璧な幸福であるはずです。
 
 言い換えるなら。
 完全な苦しみなど存在しません。
 苦しみは常に、他の何か、
 架空の未来において
 それを取り除こうとする欲求、
 つまり、
 幸福への希求と混ざり合っています。
 
 一方で、
 他の何かが一切混ざっていない、
 絶対的な幸福は存在します。
 それは、
 私たちの自己です。

 『プレゼンス―第1巻』(p285-286)
──────────────────

> もし、
> 苦しみが他のすべてと同じように
> 気づきにあらわれるのを見て、
> それに対して何もできることはないと
> 信じるならば、
> 私たちは自分を誤魔化しています。
> 苦しみは定義上、
> 現状に対する抵抗であり、
> 代わりとなるものの必然的な追求です。
> 現状に対するな抵抗がなければ、
> 苦しみもありません。

もし自分が苦しみを感じていながら、

「非二元」を教条的に信じて、

「苦しんでいる分離した実体は存在しない。
 
 誰も苦しんではいない。
 
 だから苦しみに対してできることは何もない」

と言い張ろうとするなら、

それは自分を誤魔化している。

というのも、

そもそも苦しみというのは

現状への抵抗が起こすエネルギー状態であり、

現状以外のものを何も求めていなければ

苦しみが起こるはずもないからだ。

> ですから、
> もし現状で苦しみを体験しているとしても、
> その苦しみに対する抵抗が
> 完全になくなってしまえば、
> 苦しみは長続きしません。
> 苦しみは抵抗そのものだからです。
> こうして、
> 苦しみは瞬く間に幸福に変容します。

だから、

たとえいま苦しみを体験していても、

それに対する抵抗が完全になくなれば、

その苦しみは継続しない。

苦しみとは抵抗することそのものだから。

かくして、

苦しみは瞬時にして幸福に変容する。

> 実際、
> 苦しみに対するすべての抵抗が
> やむとすぐに、
> 苦しみは幸福として姿をあらわします。
> このように、
> 幸福は苦しみの本質ですらあるのです。

そして実際、

苦しみにエネルギーを投入するのをやめたとたん、

その苦しみは幸福に姿を変える。

つまり、

幸福とは苦しみの本質だとも言える。

> 幸福は、
> 苦しみを含むすべての体験の中心に
> 静かに横たわっていて、
> 認識されることを待ち望み、
> 私たちの抵抗がなくなることを待ち望み、
> 私たちが勇気と愛をもって方向転換をし、
> 苦しみに抵抗したり
> それを取り除くおったりしたりすることを
> 少しも欲することなく、
> それに向き合うことを待ち望んでいます。

幸福とは、

苦しみも含めたあらゆる体験の中心に

横たわっているもののこと。

それはあらゆる体験の中心にいて、

認識されることを待ち望み、

私たちが現状に抵抗することなく、

それを別の体験と取り替えようとしたりせずに、

ただ現状そのものに向き合って

その真の姿を発見することを待ち望んでいる。

> このため、
> 絶望の淵にあっても、
> 私たちが不幸に完全に取り込まれて
> しまうことはありません。
> 完全に取り込まれてしまったら、
> 思考が自己を切り離し、
> 苦しみを眺め、
> 苦しみを取り除こうとする
> 隙間さえもないはずです。
> もしそうであるなら、
> それは完全な非二元であり、
> つまり、
> 完璧な幸福であるはずです。

その意味では、

いかに深い絶望に囚われていたとしても、

私たちが完全に不幸の中に

取り込まれてしまうことはありえない。

なぜなら、

完全に取り込まれてしまったら、

私たちはその現状を不幸と認識することも、

その現状を取り除こうとする隙間も

そこにはありえないはずだから。

もし絶望に完全に取り込まれたら、

それはもう完全な非二元であり、

それ自体が完璧な幸福だからだ。

> 言い換えるなら。
> 完全な苦しみなど存在しません。
> 苦しみは常に、他の何か、
> 架空の未来において
> それを取り除こうとする欲求、
> つまり、
> 幸福への希求と混ざり合っています。

だから、

完全な苦しみというものは存在しない。

苦しみの中には常に、

想像上の未来に現状とは別の状態を

獲得したいという欲求が、

つまり幸福の追求が混在している。

> 一方で、
> 他の何かが一切混ざっていない、
> 絶対的な幸福は存在します。
> それは、
> 私たちの自己です。

他方、

一切の混じりけなしの絶対的幸福は存在する。

それが私たちの自己だ。

──────────────────
 もしそこに不幸があるのなら、
 それは、
 私たちが分離した内側にある自己としての
 立場をとっているからです。
 その場合
 架空の自己は、
 不幸を含むすべての物事が
 気づきにおいて起こっていると
 主張することはできません。
 なぜなら、
 分離した自己は、
 あるもの──私たちの自己──が
 気づきであり、
 他のもの──対象や世界──は
 気づきではない
 とする信念だからです。
 
 このため、
 不幸になって、
 「すべきことは何もない」
 と主張することは矛盾しています。
 分離した実体はすでにひとつの動きであり、
 現状の否定、
 幸福の追求だからです。
 それこそが、
 苦しみや模索の活動そのものです。
 
 もし見かけ上の個人として
 すべきことは何もないと考えるのなら、
 私たちは自分自身を欺いています。
 勇気も知性もないために
 向き合うことができない不快な感情の上に、
 「非二元」のベニヤ板を
 貼りつけているのです。
 
 こうなると非二元は新たな宗教となり、
 実際の体験に正直に勇気をもって
 向き合うのを避けるために、
 私たちはこれを利用するようになります。
 この場合は、
 見かけ上の分離した内側にある自己が
 非二元の教えを都合よく盗用し、
 自身を守るために利用しているのです。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p288-289)
──────────────────

> もしそこに不幸があるのなら、
> それは、
> 私たちが分離した内側にある自己としての
> 立場をとっているからです。
> その場合
> 架空の自己は、
> 不幸を含むすべての物事が
> 気づきにおいて起こっていると
> 主張することはできません。

だから、

もし不幸があるのだとしたら、

それは分離した自己という立場を

とっているからにほかならない。

不幸を感じながらしかも、

不幸を含むすべての現象は

私という気づきに対して起こっている、

と主張することはできない。

> なぜなら、
> 分離した自己は、
> あるもの──私たちの自己──が
> 気づきであり、
> 他のもの──対象や世界──は
> 気づきではない
> とする信念だからです。

というのは、

分離した自己とは、

自分とは気づきであり、

その他の一切は気づきではない、

と信じることだから。

> このため、
> 不幸になって、
> 「すべきことは何もない」
> と主張することは矛盾しています。
> 分離した実体はすでにひとつの動きであり、
> 現状の否定、
> 幸福の追求だからです。
> それこそが、
> 苦しみや模索の活動そのものです。

だから、

自分が不幸を感じていながら、

「すべきことは何もない」と主張するのは

矛盾している。

なぜなら、

不幸を感じていること自体が、

そこに現状を否定していること、

幸福を追求していること、

つまり分離した実体という苦しむ活動が

存在することを明かしているから。

> もし見かけ上の個人として
> すべきことは何もないと考えるのなら、
> 私たちは自分自身を欺いています。
> 勇気も知性もないために
> 向き合うことができない不快な感情の上に、
> 「非二元」のベニヤ板を
> 貼りつけているのです。

分離した個人の立場に立ちながら、

「できることはなにもない」と唱えるのは、

向き合う勇気を出せない不快な感情に

ただ「非二元」のベニヤ板を貼りつける

誤魔化し以外の何ものでもない。

> こうなると非二元は新たな宗教となり、
> 実際の体験に正直に勇気をもって
> 向き合うのを避けるために、
> 私たちはこれを利用するようになります。
> この場合は、
> 見かけ上の分離した内側にある自己が
> 非二元の教えを都合よく盗用し、
> 自身を守るために利用しているのです。

そうなっては、

非二元は新たな宗教となって、

分離した自己を護るために利用されるだけだ。

(こうまで見事に描写されては、
 
 もはや不幸の余地を残しながら、
 
 非二元を語るふりはできないようです。
 
 不満とか比較を語りたいのなら、
 
 非二元に言及するのはやめたほうがいい。
 
 非二元を語りたいのなら、
 
 その前に比較という幻想を語ることは
 
 卒業したほうがいい。)

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


   <<ご連絡:今度は見えます>>

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「私は在る」に関するご意見や単なるメールなど、

ご自由にお書きください。


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http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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ミナミAアシュタール情報によると、

われわれが体験するすべての現実は、

自分が発信するエネルギーによって

象られるといいます。

自分が現状をどう受けとめるかによって、

自分が発するエネルギーの形が決まる。

そして自分が出すエネルギーによって

自分が体験する現実は創造される。

いかなる瞬間にも

周囲のエネルギー場を現実の形にしているのは

自分が出す思考エネルギーの形。

ということはいつの瞬間にも

自分の意識が最初だということです。

これ、たいへんなことですね。

「比較」そのものが幻想だった。

つまり、客観的なものなど

なにもないということです。

すべてがOKなのです。

今日もすっかり暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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