━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2020/03/22(第831号)
☆☆ ☆ ☆☆
☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。
同じところ(空間?)に、すべては存在しています。
あなたのまわりには、3次元も、4次元(異次元)も
5次元も、10次元も同時に存在しているのです。
ある意味、絶対無限の存在もそこに存在しています。
(ミナミAアシュタール)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在519名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.マハラジの気づきと意識
2.編集後記
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■ 1.マハラジの気づきと意識
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今日は春の晴天です。
清々しくも温かな日ですね。
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と“「私は在る」噺”に
お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
自然に湧いてくる思考は、
すべて何らかの感想だったり
判断だったりするわけですが、
そういうものすべてが
別にそれでいけないこともないけれど、
それに排他的に特別な価値や意味が
あるはずもないのは自明です。
自然現象の一部に、
その他の自然現象を判断できる
特別な何かがあるはずもありません。
波動世界のなかの一部の波動に、
波動世界全体の意味が込められている
わけでもないでしょうから。
あらゆる独断的判断は、
それ自体としては正しいわけですが、
だからと言って、
それ以外の判断も自然に生まれることを
排除できるわけでもありません。
今日pariはこんなことを書いていても、
一週間後にはまた別なことを書いているわけです。
ただ湧いてくる思考に
特別の意味を仮託しなくなれば、
それはそれでひとつの状態では
あるのかもしれません。
昔、「欲望の階梯」ということを
考えたことがあります。
そして
【「価値」:肉体の欲望】
【「意味」:マインドの欲望】
【「歓び」:ハートの欲望】
【「融解」:魂の欲望(憧れ)】
というようなことを夢想したのでした。
ここで“肉体の欲望”とされた「価値」とは
肉体生命のサバイバルを目標とする
いわば「お金」に還元できる判断指標でした。
どうやらこの文章を紡いでいる
わたし(マインド)などより
よほど賢いらしい肉体にとっては
まことに過小評価された判断ですが、
そこはご愛嬌ということで、
言わんとする意味合いはわかります。
こんなことがわかっているのなら、
なにもわざわざこの惑星地球での
ヴァーチャルリアリティーゲームに
立候補する必要もないだろうにとは思うのですが……。
まあ実体験としては知らないのでしょう。
それはともかく、
上記の分類で言うなら、
ミナミAアシュタールさんはわれわれを
【「歓び」:ハートの欲望】の開花へと
誘っているようです。
それに対してニサルガダッタ・マハラジはわれわれを
【「融解」:魂の欲望(憧れ)】の充足へと、
誘っているということになるのでしょうか。
もちろん、そのおふたりとも、
望まぬ相手を誘おうとなどしていませんから、
自分がそのどちらに惹かれるのか、
という以外の意味はありません。
pariがここで欲望の第一の階梯とした
【「価値」:肉体の欲望】に関しては、
これからの地球は急速に
最終的かつ根本的解決手段を提供する時代へと
向かっていくのでしょうね。
すると残りは
【「意味」:マインドの欲望】
【「歓び」:ハートの欲望】
【「融解」:魂の欲望(憧れ)】
の三択になりますが……。
どうも意外と、自分の中では
【「意味」:マインドの欲望】
に惹かれるエネルギーはあまり感じません。
時代の空気からして、
もう物語の中での比較優位などに惹かれることは
だんだん難しくなってきているのかもしれません。
(もちろん、
テレビのスポーツ番組や科学番組などでは
その価値観は少しも衰えてはいませんが……。)
となると残るは、
【「歓び」:ハートの欲望】
【「融解」:魂の欲望(憧れ)】
の二択です。
これまた少し意外なのですが、
自分がどちらに惹かれるのかわからないです。(*^_^*)
てっきり、
【「歓び」:ハートの欲望】
に惹かれるのかと思っていたのですが、
意外とそうでもない。
かといって、ひたすら
【「融解」:魂の欲望(憧れ)】
に没入してゆくという感じもしない。
ただ、
これまで押しまくられ追いまくられて、
少し休みたいというのが正直な気持ちです。
そうでありながら、
すべての苦しみと言われるものは、
現れの一部と一体化し、
しかも変化を恐れることから生まれる
というのも事実なような。
顕現のパターンのなかに
勝手に条件を設けて勝手に苦しむのか……。
(*^_^*)
前回ご紹介したように、
モーニング息子さんから
『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの
―時間以前からあった永遠の真実』
(ラメッシ・バルセカール (著), 高木 悠鼓 (翻訳))
https://amzn.to/2J4Pbtr
を紹介していただきました。
そのなかに「5 気づきと意識」
という章があります。
今回はその章の過半をご紹介します。
(相変わらず
通常想定される範囲を超えた
長い引用をさせていただきます。
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となるよう願っています。(-||-) )
──────────────────
ある朝、
私がマハラジを表敬して座ったとき、
たった二人の人しかいないことに気づきました。
マハラジは突然尋ねました。
「仮にあるとすれば
『気づき』と『意識』の違いは何か?」
こんなことが起こるとき、
マハラジが答えを期待しているのか、
あるいは、
単に彼は大声で考えているだけなのか、
私たちは本当にはわからないのです。
私たちは彼の思考の流れを壊すのは怖くて、
答えるのに躊躇するのですが、
すると彼は、
「どうしてあなたたちは答えないんだ?
あなたたちは、
こうやって毎日毎日話を聴いて、
時間を無駄にしているのか?」
などと言うこともあります。
しかしその朝は、
彼は答えを待たずに先に進みました。
彼の観察によれば、
気づきは絶対のもので、
それゆえ、
グナティータである。
つまり三つのグナを超えている。
その一方、
意識は食物−肉体に養われ、
制限されている何かなのです。
食物−肉体が破壊されるとき、
意識もまた消えます。
注意すべきことは、
誰も死なないということです──
五大元素からできていた肉体は
生命がなくなったとき、
元素と混じり合い、
三つのグナの支配下にあった意識は
グナから解放されます。
『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』 (p42)
──────────────────
この本は
ラメッシ・バルセカールが
出版をまったく想定せずに書いた
最初の本だそうですが、
臨場感あふれるレポートですね。
> 「仮にあるとすれば
> 『気づき』と『意識』の違いは何か?」
というのは私たちにとっても
とても興味を引かれる話題です。
でラメッシ・バルセカールは
マハラジの見解を次のように報告しています。
> 彼の観察によれば、
> 気づきは絶対のもので、
> それゆえ、
> グナティータである。
> つまり三つのグナを超えている。
> その一方、
> 意識は食物−肉体に養われ、
> 制限されている何かなのです。
本書の用語解説には、
「グナ Gunas
属性、質。
宇宙の実体(プラクリティ)の三つの属性は
サットヴァ、ラジャス、タマス。
グナは宇宙のすべての物理的思考的心霊的
顕現の根本的原理である。」(p369)
とあります。
まあ、
意識エネルギーの顕現の仕方に関する
ヒンドゥー哲学の概念だと思います。
つまり、マハラジによると、
「気づき」というのは、
意識エネルギーの顕現の前提であるので、
顕現的側面に拘束されない絶対のものだと。
他方、「意識」というのは
意識エネルギーの顕現の内容物である
「食物−肉体」に養われているため、
顕現的側面に拘束されると。
> 食物−肉体が破壊されるとき、
> 意識もまた消えます。
つまり、
食物の悪化欠如その他による肉体の破壊で、
意識自体も消えると。
> 注意すべきことは、
> 誰も死なないということです──
> 五大元素からできていた肉体は
> 生命がなくなったとき、
> 元素と混じり合い、
> 三つのグナの支配下にあった意識は
> グナから解放されます。
ただしここで注意すべきなのは、
意識が消えたからといって
誰かが死ぬわけではない。
物質的要素から構成されていた肉体は
そこから生命が抜け出ると、
肉体としては崩壊し
物質的要素に分解して元素と混じり合い、
顕現的側面に拘束されていた意識は
顕現的側面から解放される。
──────────────────
気づきは根本的原初の状態で、
それは時間−空間の観念以前にあり、
どんな原因も支援も必要としていません。
それはただ在ります。
しかしながら、
このユニシティの原初の状態の上に
意識の観念が起こるとき、
「私は在る」という感覚がわき起こり、
二元性の状態を生み出します。
意識には形が伴い、
それは物質の表面に映る絶対の反映です。
人は絶対とは別に意識を考えることはできません。
つまり、
太陽なくして、
太陽の反映はありえないのです。
しかし、
意識がなくても、
絶対はありえるのです。
たとえば、
熟睡しているとき、
意識がありませんが(それは休息しています)、
気づきは確かにそこにあります。
なぜなら、
目覚めたとき、
人は自分が眠っていたことに気づくからです。
でも、
それは目覚めたときだけです。
『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』
(p42-43)
──────────────────
> 気づきは根本的原初の状態で、
> それは時間−空間の観念以前にあり、
> どんな原因も支援も必要としていません。
> それはただ在ります。
そこへいくと、
「気づき」というのは
もともと意識エネルギーの
根本的原初の状態のことなので、
それは意識の顕現的側面の理解様式である
時間−空間の観念以前にある。
意識の顕現的側面の内容物のなかに
どんな原因も支援も必要とすることなく、
「気づき」はただ存在している。
> しかしながら、
> このユニシティの原初の状態の上に
> 意識の観念が起こるとき、
> 「私は在る」という感覚がわき起こり、
> 二元性の状態を生み出します。
この絶対的単一体の原初状態にある
意識エネルギーが波立って揺らぐと、
「私は在る」という感覚がわき起こって、
その「私は在る」の観念を根拠に、
二元性の状態が生まれる。
> 意識には形が伴い、
> それは物質の表面に映る絶対の反映です。
その観念は形をイメージして
その観念に応じた形体が誕生する。
それは意識エネルギーの可能性が
物質的顕現として反映されたとも言える。
> 人は絶対とは別に意識を考えることはできません。
> つまり、
> 太陽なくして、
> 太陽の反映はありえないのです。
ただし、
この意識エネルギーの原初状態である
「気づき」の光の中に
意識の内容物が浮かび上がるのだから、
この「気づき」の能力なしに、
人間が考えることができるわけではない。
つまり、
太陽自体が存在しなければ、
その光の中に浮かび上がる世界が
存在しえないのと同じことだ。
> しかし、
> 意識がなくても、
> 絶対はありえるのです。
しかし、
逆に意識エネルギーの波立ちで起こる
意識の顕現的側面がなくても、
意識エネルギーそのものは存在する。
> たとえば、
> 熟睡しているとき、
> 意識がありませんが(それは休息しています)、
> 気づきは確かにそこにあります。
> なぜなら、
> 目覚めたとき、
> 人は自分が眠っていたことに気づくからです。
> でも、
> それは目覚めたときだけです。
たとえば、
熟睡中には顕現世界は存在しないが、
それは意識エネルギーが静まり、
「気づき」が休息しているだけで、
「気づき」自体はそこに存在している。
だから、
意識エネルギーが活性化して目覚めたら、
「自分」が眠っていたことに気づく。
ただし、
そう気づくのは目覚めてからだけだ。
──────────────────
マハラジは、
私たちがいつもいっしょにいる仲間は意識であり、
自分の意識の流れに継続的に注意を払うことが、
私たちを絶対
──根本的実存、生命−愛−喜び──
へ連れて行くということを、
私たちに決して忘れさせません。
マハラジによれば、
意識していることをまさに意識することが、
すでに絶対に向かう運動であるということです。
マインドはそのまさに性質によって、
外向きで、
物事の源泉を物事それ自身の
内部に求める傾向があります。
マインドが内なる源泉に向けられるとき、
それはほとんど
新しい生活の始まりのようなものです。
絶対が意識にとって替わるのです。
意識の中の一つの思考である
「私は在る」が停止します。
気づきの中においてはどんな思考もありません。
気づきは意識の源泉です。
マハラジは
「静かに座って、
マインドの表面に何が来るかを眺めているのは、
素晴らしい霊的練習である」
と私たちに提案します。
私たちが思考と呼んでいるものは、
水の表面のさざ波のようなものです。
『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』
(p43-44)
──────────────────
> マハラジは、
> 私たちがいつもいっしょにいる仲間は意識であり、
> 自分の意識の流れに継続的に注意を払うことが、
> 私たちを絶対
> ──根本的実存、生命−愛−喜び──
> へ連れて行くということを、
> 私たちに決して忘れさせません。
私たちの常なる道連れは意識なのだから、
つねに自分の意識の流れに注意を払い続けることが
私たちを根本的実存へと連れて行く。
> マハラジによれば、
> 意識していることをまさに意識することが、
> すでに絶対に向かう運動であるということです。
マハラジによれば、
自分が意識していることを意識することは
それ自体が絶対に向かう運動なのです。
> マインドはそのまさに性質によって、
> 外向きで、
> 物事の源泉を物事それ自身の
> 内部に求める傾向があります。
マインドの本質は、
外界に顕現する物事の源泉を、
現れている物事それ自体に求めることです。
> マインドが内なる源泉に向けられるとき、
> それはほとんど
> 新しい生活の始まりのようなものです。
> 絶対が意識にとって替わるのです。
そのため、
マインドが内側を向くということ自体が、
ほとんど新たな人生の始まりとも言える。
なぜなら、
これまで意識の顕現的側面に向けられていた注意が、
気づきそのものに向けられるからです。
> 意識の中の一つの思考である
> 「私は在る」が停止します。
> 気づきの中においてはどんな思考もありません。
> 気づきは意識の源泉です。
かくて意識の中の一つの思考だった
存在の感覚が現象するのをやめる。
そのとき気づきの中にどんな思考もない。
ただ意識の源泉である気づきだけが残る。
> マハラジは
> 「静かに座って、
> マインドの表面に何が来るかを眺めているのは、
> 素晴らしい霊的練習である」
> と私たちに提案します。
> 私たちが思考と呼んでいるものは、
> 水の表面のさざ波のようなものです。
マハラジは
退屈に耐えてマインドの表面に
浮上してくるものを眺めているのは、
すばらしい霊的実践だと言っています。
思考と呼ばれているものは、
水の表面を揺らすさざ波のようなものです。
──────────────────
思考は常に一体化や非難へと導きます。
それらは先入観念の産物であり、
本当の理解を邪魔します。
さざ波がないとき、
水の表面は静かであるように、
思考がなく受け身で、
完全に受容的であるとき、
マインドは静かです。
マハラジは言います。
「あなたのマインドの鏡に
あらゆる種類の映像が現れて、
しばらく止まり、
そして、消えていく。
静かにそれらが
来ては去っていくのを眺めなさい。
注意深くあり、
しかし、
決して何も心惹かれたり、
嫌悪感を抱いたりしないようにしなさい。
こうした静かな観照は、
歓迎されざるお客を無視するように、
あらゆる無益な思考を
しだいに追い払うという効果があることだろう。
このように、
公平な観照者として、
介入することなく、
批判することなく、
自分自身の内側にいることによって、
つまり、
「私は在るという性質」の中にいることによって、
「深い」未知が意識の表面に
やってくることが促され、
未使用のエネルギーを解放し、
そのおかげであなたは
生命の起源の神秘を理解するようになるのだ」
『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』(p44)
https://goo.gl/pWqC7d
──────────────────
> 思考は常に一体化や非難へと導きます。
> それらは先入観念の産物であり、
> 本当の理解を邪魔します。
マインドの表面に浮上する思考は
つねに私たちをその思考への同一化や
他の現れへの非難へと誘導する。
それは先に入ってきて
私たちがそれに同一化した観念、
つまり先入観念の誘導にすぎず、
真実の理解を妨げるものだ。
> さざ波がないとき、
> 水の表面は静かであるように、
> 思考がなく受け身で、
> 完全に受容的であるとき、
> マインドは静かです。
水が波立たなければ
水面が静かであるように、
思考が浮かばず、受け身で、
完全に受容的であれば、
マインドは静まる。
>
> マハラジは言います。
> 「あなたのマインドの鏡に
> あらゆる種類の映像が現れて、
> しばらく止まり、
> そして、消えていく。
> 静かにそれらが
> 来ては去っていくのを眺めなさい。
> 注意深くあり、
> しかし、
> 決して何も心惹かれたり、
> 嫌悪感を抱いたりしないようにしなさい。
> こうした静かな観照は、
> 歓迎されざるお客を無視するように、
> あらゆる無益な思考を
> しだいに追い払うという効果があることだろう。
> このように、
> 公平な観照者として、
> 介入することなく、
> 批判することなく、
> 自分自身の内側にいることによって、
> つまり、
> 「私は在るという性質」の中にいることによって、
> 「深い」未知が意識の表面に
> やってくることが促され、
> 未使用のエネルギーを解放し、
> そのおかげであなたは
> 生命の起源の神秘を理解するようになるのだ」
(-||-)
けっして心惹かれたり嫌悪感を抱いたりせずに、
ただマインドの鏡に映るものを眺めている。
それができれば、それだけでいいのか……。
介入することなく、批判することなく、
ただ自分の内側にただの存在感としてとどまる。
誕生直後の赤ん坊の感じだな……。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
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マハラジの言葉を読めば、
その引力を感じます。
そしてまた騒々しい思考を
追いかけるのですが……。
とはいえ、
浮かんでくる思考が自分ではない。
自分はその思考に気づいている者。
そのことは観念的にはわかります。
ただ、また
その思考を追いかけている……。
これもまたそのような体験なのでしょう。
今日もすっかり暗くなりました。
おやすみなさい。
<(_ _)>
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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