home > 通信 >『アセンション館通信』第832号:間違った一体化が束縛である



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2020/03/22(第832号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 同じところ(空間?)に、すべては存在しています。
 あなたのまわりには、3次元も、4次元(異次元)も
 5次元も、10次元も同時に存在しているのです。
 ある意味、絶対無限の存在もそこに存在しています。
 (ミナミAアシュタール)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在519名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.間違った一体化が束縛である

2.編集後記
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■ 1.間違った一体化が束縛である
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今日はまた暖かい日ですね。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と“「私は在る」噺”に

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

土曜日は好き勝手なことを書けて

楽しみな日なのですが、

今日はいつになく

普段解放されているはずの仕事が

なだれ込んできて、

ちょっと夜になってしまいました。

まあ、世間の騒ぎと

連動しているわけでしょうね。

それで、

自分の中から自然に流れ出す

言葉というのも出てこないので、

今日はひたすらマハラジの言葉を

写経してお送りしたいと思います。

ラメッシ・バルセカールが

まったく出版を意図せずに書いた最初の本

『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』
https://goo.gl/pWqC7d

に

「27 間違った一体化が束縛である」

という章があります。

マハラジがとても親切に

苦しみや探求というものの全体像を

説明した場面の描写です。

(相変わらず

 通常想定される範囲を超えた

 長い引用をさせていただきます。

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となるよう願っています。(-||-) )

──────────────────
 27 間違った一体化が束縛である
 
 
 訪問者の一人がやや躊躇しながら
 マハラジに質問しました。
 自分の質問がどれほど初歩的に聞こえるか
 どうかを確認できないまま、
 「もし『束縛』と『解放』の問題が
  本当は肉体との一体化の感覚の結果生じるのなら、
  どうやって、
  そして、
  なぜこの一体化は起こるのでしょうか?」
 と彼は尋ねました。
 彼はさらに、
 (どうせなら自分の疑問を最後まで
  尋ねたほうがよさそうだと決心したらしく)
 「もし人生の最後には、
  ジニャーニの場合も無知の人の場合も
  結果が同じなら
  ──肉体は五大元素に戻り、
  意識はニルグナ(属性のないもの)になるなら──
  そもそもなぜ人は霊的知識をもつべきなのか、
  自分には理解できません」
 と付け加えました。
  
 質問者が特にマラティー語で話しているとき、
 マハラジは質問者の言うことを
 目を閉じて聴くことがあります。
 この訪問者の言うことも
 マハラジは目を閉じて聴いていました。
 しかし、
 聴いているときの彼の表情は変化し続けました。
 彼は険しい表情になり、
 私は彼が「これはどんな種類の質問か?」
 と言い返すのではないかと思いました。
 しかし、
 まもなくその険しさが優しい納得の表情に変わり、
 マハラジは微笑みました。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』
 (p168-169)
 
──────────────────

こんなふうに臨場感たっぷりに

マハラジの部屋の中に行けるのは

ありがたいことですね。

この本を書き残してくださった

ラメッシ・バルセカール師に感謝です。(-||-)

──────────────────
 それから、
 彼は目を閉じたまま静かに話し始めました。
 「まず最初に根本的なことを取り扱うことにしよう」
 と彼は言いました
 ──
 全宇宙は意識の中の見かけである。
 もしあなたが意識していなければ、
 世界はあなたにとっては存在しない。
 というのは、
 あなたは何も意識できないからだ。
 この意識(その中で人は現象宇宙を認識する)は、
 私であるすべてである。
 私たちが現象宇宙にいるかぎり、
 このことを認識できるだけだ。
 私たちが現象の夢から目覚めるまで、
 自分の本質であることはできない。
 だから、
 夢自体を理解し、
 観念化と対象化を止めなさい。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』
 (p169)
──────────────────

【全宇宙は意識の中の見かけである】

根本的に理解すべきことはこれだけだと

マハラジはおっしゃる。

人間に自己同化したわれわれが

現象宇宙を認識するのは意識の中であり、

その意識こそが私なのだ、と。

自分がそこにいると夢見ている間は

現象宇宙を認識してしまうのだから、

その夢から覚めないかぎり

自分の本質であることはできない。

だから見かけは夢なのだと理解し、

見かけの中での観念化をやめなさいと。

──────────────────
 根本的に重要なことは次のことである──
 非現象が実体であり、
 現象は単なる反映であるが、
 それらは異なっていない。
 
 次に理解するべき点はこのことである。
 現象世界の中で、
 「あなた」が「彼」を見るとき、
 両方が意識の中の見かけとして
 お互いによって見られる対象物である。
 しかし、
 他者を対象物として見る
 どんな主体もいないことを本当に理解しなさい。
 ただ見ることだけがあり、
 それは非現象の潜在可能性の
 ある面として機能している。
 これは他のあらゆる感覚にも
 当てはまることはことだ──
 聞くこと、触ること、味わうことなど。
 すべては本質的に「機能」なのだ。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』
 (p169)
──────────────────

【全宇宙は意識の中の見かけである】

ということを受け容れたのなら、

そこで根本的に重要になるのは、

見ている非顕現(あなた)が実体であり、

【見かけ】はその反映にすぎないこと、

しかも両者は別物ではないことを

理解することだ。

それを受け容れることができたなら、

次に理解すべきことは、

その【見かけ】の中に現れる

「自分」が「相手」を見ているとき、

その両者はともに

【見かけ】の中の対象物であって、

そこにどんな分離した「主体」も

存在していないということだ。

【見かけ】の中の対象物は、

あくまでも見られる対象物であって

見ている「主体」ではない。

【見かけ】の中に

見ている「主体」はいない。

見ているのは非顕現であるあなただ。

このことは、

聞くこと、触ること、味わうことなど

ほかの知覚のすべてに当てはまる。

本質的にすべての認識は

非顕現であるあなたの「機能」だ。

このことを疑問の余地がなくなるまで

理解しなさい。

──────────────────
 では、さらに先へ進むことにしよう。
 
 この「機能」は肉体という形態、
  肉体精神装置の仲介を通じて起こり、
 その装置は一つの現象としては
 それ自身が顕現したものにすぎず、
 それゆえ、
 ちょうど影が本体の影であるように、
 非現象のある面である。
 だから、
 行動の選択を想定している
 個人的実体という問題が何もないかぎり、
 すべての現象的機能は自然発生的に起こり、
 「束縛」と「解放」の質問も起こらない。
 
 しかし、
 何が起こっているかと言えば、
 肉体精神形態の機能的核
 (分析のために
  私たちがそれを「個人的意識」と
  呼ぶこともできるだろうが、
  意識それ自体は分割することはできない)
 が、
 分離した実体としての偽主体を
 授与されているということだ。
 とはいえ、それ自身は
 唯一の主体としての非現象を背景にもつ
 対象物にすぎない。
 このようにして、
 生まれて、生きて、
 知ることになっている偽実体が創造されるのだ。
 この偽実体は選択し、 
 決定する独立した権威をもっていると
 また想定されている。
 そして、
 この想定された独立した権威はまた、
 現象世界の機能の中で起こる
 すべてに責任があると想定されている。
 その結果、
 この世界の苦しみ、
 予想される罪と功徳、
 その結果の「束縛」と「解放」の
 必要性が起こるのだ。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』
 (p169-170)
──────────────────

これらの知覚現象は

肉体精神装置をつうじて実現されるが、

それは非顕現であるあなたの

ある機能側面が現象したものであって、

個々の肉体精神装置が

個別の行為主体として

存在しているわけではない。

なぜなら

見ている非顕現(あなた)は、

分割不可能なひとつの意識だからだ。

ところが実際に起ってしまうのは、

【見かけ】の劇の中で

個々の肉体精神装置に対して

「個人的意識」と呼ばれるような

偽の主体が仮想されることだ。

かくて

もともとは【見かけ】のなかの

対象物にすぎない個々の肉体精神装置が、

あたかも選択し、

決定する能力をもった、

独立した主体でもあるかのように

想定されてしまったわけだ。

この誤解が責任という観念を生み、

その結果、

成功と失敗、善行と悪行など、

この世のあらゆる苦しみが創造され、

またその結果の「束縛」や

その「束縛」からの「解放」といった

探求の必要性が起こったわけだ。

──────────────────
 今、
 その立場が明確になっただろうか?
 私たちの本質が
 相対性の中で自分自身を自分でないもの、
 偽実体と間違って一体化しているのだ。
 「束縛」はこの一体化から起こる。
 罪悪感と束縛に苦しみ、
 それゆえ、
 解放を求めるのはこの偽実体である。
 私は絶対に苦しむことはできない。
 なぜなら、
 「私」は
 感覚が経験されるようなどんな道具も
 備えていないからだ。
 楽しいものであれそうでないものであれ、
 どんな経験も
 「自分」と呼ばれている、
 間違って一体化された幻影的対象物によってのみ
 経験されることが可能である。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』
 (p170)
──────────────────

要するに、起こったことは

見ている真の主体であるあなたが、

【見かけ】のなかの肉体精神装置という

自分自身ではない偽の実体に一体化して、

想像された架空の劇のなかに

囚われてしまったということだ。

解放を求めているのは

この想像された架空の囚われ人だ。

見るということを可能にしている

非顕現であるあなた自身は、

絶対に苦しむことはできない。

【見かけ】の劇は

あなたの中で起こっている。

あなた自身は【見かけ】の劇の中に

入ることはできない。

感覚装置を備えているのは

【見かけ】のなかの肉体精神装置であって、

見ている非顕現のあなたではないからだ。

苦しみや楽しみを経験しているのは

あなたが間違って一体化している

【見かけ】のなかの肉体精神装置だ。

見ているあなたではない。

──────────────────
 では最後に、
 ジュニャーニの場合に
 何が起こるかを理解しなさい。
 ジュニャーニは、
 現象宇宙が根本的に幻想であることだけでなく、
 また顕現の自然な機能の中で
 現象としての自分の見かけの役割も
 直感的に理解している。
 彼が自分に分け与えられた
 人生の旅を生きるとき、
 現象に何が起きても、
 それにスムーズに対応し、
 そのあとで「故郷へ戻る」。
 彼は他の人と同じように
 自分の人生を生きているように見えるが、
 その重要な違いは、
 彼は偽実体から自分自身を切り離し、
 それゆえ苦しみを経験しないということだ。
 
 無知の人の場合、
 それ自身が幻想である偽実体が、
 顕現という夢−世界を
 見かけの自由意志をもった
 独立した実体として経験し続ける。
 そして、
 それは苦しみを生む。
 なぜならそれは、
 輪廻転生の観念を含む
 カルマとして知られている
 因果関係の観念に巻き込まれるからだ。
 
 絶対の非現象は
 無数の形態を通じて自分自身を顕現し、
 それらの形態は毎瞬創造され破壊され、
 この自然発生的機能の中には
 どんな実体の観念も入る余地がまったくない。
 それゆえ、
 自立し独自した実体という観念に基づく行為
 ──肯定的なものであれ否定的なものであれ──
 がある時には、
 アドヴァイタの本質を理解することが
 根本的にできないのだ。
 自分自身を探求者だと考え、
 「解放」に向かって努力している
 偽実体がいるかぎり、
 それは「束縛」されたままであり続けるだろう。
 探求者こそが求められるものであることが、
 深く直感的に認識されなければならない。
 これが起こるとき、
 探求者が消えるのだ。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』
 (p171)
──────────────────

ジニャーニは【見かけ】の宇宙が

幻想にすぎないことを知っているが、

同時にそこで自然に演じられる劇の中での

自分の見かけの役割も直感的に理解している。

彼は他の人と同じように

彼の人生を生きているように見えるが、

実際はつねに偽の実体を切り離し、

苦しみも楽しみも経験しない。

自分を探求者と思い込み、

解放に向けて努力しているかぎり、

解放されるべき「束縛」を抱えるだろう。

探求されているのが

束縛されている当人であることが

深く直感的に認識されるまではそれが続く。

それが起こったとき探求者は消える。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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おこがましくも『アセ通』既刊号は
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■ 2.編集後記:
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悩むことの馬鹿らしさが露呈するまでは、

悩むしかないわけでしょう。

いまは雨が降っています。

ラメッシ・バルセカールが描き出す

マハラジの言葉を読めるのは、

ありがたいことですね。

今日もすっかり暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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