━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2020/04/26(第836号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。
あなたの本質は
あなたが自分でそう思っているものではない。
(ニサルガダッタ・マハラジ)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在523名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.あるがままの直感的認識があなただ
2.編集後記
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■ 1.あるがままの直感的認識があなただ
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今日は晴れています。
このところ少し働きすぎて
今日はすっかり休んでいます。
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と“「私は在る」噺”に
お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
波のように異なる気分が訪れますが、
それは顕れの中の働きです。
いろんなことがいろんなふうに
考えられたり感じられたりしますが、
現れの世界は
思考のフォーカスが創造していることは
間違いないのでしょう。
そこに焦点を当てれば、
それが自分ということになるでしょうし、
非二元的には
それが意識の見かけにすぎないことも
確かです。
この身体の誕生以来
ずいぶんいろいろの物語に触れてきました。
物語に強く共振すれば
その物語の真実性も強まるようでした。
その物語が俯瞰される気分のときもあり、
そんなときはその物語が
より大きな物語の中の
ひとつの場面のように思われたこともあります。
でもそういうことが続いていると
やがて
いったいこれは何のためにあるのか?
こんなものなくてもいいではないか?
という感情さえ湧いてきました。
それが自分の問いなのだと思われました。
カフカを読みドストエフスキーを読んでいたころ…。
あるいはおそらくそういうものを読んだから
そういう思考を掴んでいたのだとも言えそうです。
ある意味では、
全部人から聞いた噂にすぎませんでした。
そして瞑想を説くOshoに出会い、
その後友人のナンダンから
ニサルガダッタの『私は在る』を譲り受けました。
すべての思考はただの聞いた話にすぎず、
意識の海に生まれたただの模様にすぎないという
理解が明け染めました。
そして以前出会ってまったく理解不能だった
ラマナ・マハルシの言葉の意味が、
いつの間にかわかるようになっていました。
いろいろな感想が湧きました。
“自分”を大切にするしかないとも言えますし、
“自分”というようなものはないとも言えますし。
ひとつの個性がすべてを包み込めるわけでもなし。
分離した誰かがいるわけでもなし……。
結局、縁のあった探求方法の中から
自分に合った方法を見つけて
すべての思考を排除する以外、
興味がないという方向に行くのでしょうね。
わたしのように色々探しすぎるのは、
おそらく探求を避ける方便なのでしょう。(*^_^*)
もともとそんなに探す必要などなくて、
一つの道で深まればいいだけなのでしょうから。
「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」
という諺がありますが、
この星での体験が少し合わなかったのか
生きること自体に疲れてしまった面もあります。
なんかすべてが要らない気分のときもあります。(^_-)
そういう気分のときは
何と言ってもニサルガダッタ・マハラジです。
今回はラメッシ・バルセカールの
『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの
―時間以前からあった永遠の真実』
https://amzn.to/2J4Pbtr
に「56 最後の日々:最後の教え」
という章があります。
今回はその章の終わりの方のごく一部をご紹介します。
(相変わらず
通常想定される範囲より長い引用でしょうが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となるよう願っています。(-||-) )
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* * * *
一九八一年七月一七日金曜日──
今日は聖なるグル・プルニマ─(弟子たちが
自分の師への献身を新たにするお祝いの日)
でした。
ですから、
マハラジはこの非常におめでたい日に
いくつかの言葉を述べるために、
萎みゆく肉体的資源からエネルギーを
絞り出さなければならなかったはずです。
その日は、
その小さい部屋が帰依者たちでぎっしりとうまり、
かなり暖かかったにもかかわらず、
彼はベッドの上で体を起こして
頭からすっぽりとかぶる衣服を着ていました。
彼は非常に弱々しく話し始めましたが、
しだいに彼の声は
強さを増していくように見えました。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p310)
https://amzn.to/2J4Pbtr
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こうしてマハラジが語る姿とその言葉を
自身覚醒していたラメッシ・バルセカール師が
伝えてくださっています。
ありがたいことです。(-||-)
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あなた方は、
自分が「解放」を得るために
何をすべきかのプログラムを、
私が与えることを始終希望して
ここへ通い続けている。
それに対して私は、
実体それ自体がないのだから、
束縛という問題も起こらず、
そして、
もし人が束縛されていないなら、
解放の必要もないと
あなた方に語り続けている。
私にできることはただ、
あなたの本質は
あなたが自分でそう思っているものではない
ということを、
あなたに示すことだけだ。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p310-311)
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> あなた方は、
> 自分が「解放」を得るために
> 何をすべきかのプログラムを、
> 私が与えることを始終希望して
> ここへ通い続けている。
あなたたちは
楽になるためには
いったい何をしたらいいのかと
私に尋ね続けている。
> それに対して私は、
> 実体それ自体がないのだから、
> 束縛という問題も起こらず、
> そして、
> もし人が束縛されていないなら、
> 解放の必要もないと
> あなた方に語り続けている。
それに対して私が言い続けているのは、
楽になりたいあなたとは単なる思考だ
ということだけだ。
楽になりたいあなたとは、
楽になりたいという思考でしかない。
あなた自身とはただの観念にすぎないのだ。
実体として存在していない。
だから束縛もまたただの思考でしかない。
束縛されている実体など存在していない。
束縛されている実体が存在しないのだから、
解放される必要もない。
私があなた方に語り続けているのは、
ただそれだけだ。
> 私にできることはただ、
> あなたの本質は
> あなたが自分でそう思っているものではない
> ということを、
> あなたに示すことだけだ。
私があなたに示すことができるのは、
【あなたの本質は
あなたが自分でそう思っているものではない】
ということだけだ。
あなたが自分をどんな観念に置き換えようとも、
その観念はあなたではない。
あなたはその観念の顕れを可能にするものだ。
あなたはその観念を見ているものと言ってもいいが、
言葉にすればそれもまた観念にすぎない。
【あなたの本質は
あなたが自分でそう思っているものではない】
このことさえ理解できれば、
それ以上に必要なことなど何もないのだ。
──────────────────
しかし、
あなた方のほとんどの人たちが、
私が言うことを受け入れることができない。
中には他の場所へ行く人たちもいて、
そこで彼らはするべきことと、
してはいけないことのリストを与えられて
喜んでいる。
しかし、
あなたが理解しないことは、
あなたが一個の実体として何を修行しても、
それは架空の実体との一体化を強めるだけであり、
それゆえ、
真理の理解から相変わらずほど遠い、
ということだ。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p311)
──────────────────
> しかし、
> あなた方のほとんどの人たちが、
> 私が言うことを受け入れることができない。
だがあなた方のほとんどが
私が言うことを受け入れようとしない。
楽になりたい自分を、
解放されれるべき自分を抱え続けていたい。
> 中には他の場所へ行く人たちもいて、
> そこで彼らはするべきことと、
> してはいけないことのリストを与えられて
> 喜んでいる。
そしてもっと具体的な
実行可能な指示を求めて
他のグルのところに行く人たちもいる。
そして修行項目のリストを受け取り
喜んでいるようだ。
> しかし、
> あなたが理解しないことは、
> あなたが一個の実体として何を修行しても、
> それは架空の実体との一体化を強めるだけであり、
> それゆえ、
> 真理の理解から相変わらずほど遠い、
> ということだ。
だが理解してほしい。
楽になりたい自分が存在するという前提で
その実体としてどれほど修行しようと、
それは自分という架空の実体への
自己同化の幻想を強化するだけであることを。
そのような修行をどれほど重ねても
真理の理解からはほど遠いからだ。
──────────────────
人々は、
自分自身を不完全な人間から
賢者のような完璧な人間に、
何とかして変えなければいけないと
想像している。
彼らがこの思考の滑稽さを見さえすれば
いいのだが。
こういう線で考えている人自身が、
観念、見かけ、夢の中の
登場人物に過ぎない。
どうして単なる現象的幻影が
自分自身を完全にすることによって、
夢から目覚めることができるだろうか?
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p311)
──────────────────
> 人々は、
> 自分自身を不完全な人間から
> 賢者のような完璧な人間に、
> 何とかして変えなければいけないと
> 想像している。
身体への自己同化幻想の中で、
人々は様々な架空の比較を想像し、
架空の自分の不完全性を想像する。
その想像された見かけの中の不完全な人間を
なんとか賢者のような完璧な人間に
変容させなければならないと想像している。
> 彼らがこの思考の滑稽さを見さえすれば
> いいのだが。
想像の中に次々と浮上するこの思考の
壮大な自惚れの滑稽さが
わかりさえすればいいのだが。
> こういう線で考えている人自身が、
> 観念、見かけ、夢の中の
> 登場人物にすぎない。
そういうふうに考えているその人自身が、
ひとつの観念であり、
顕れという見かけの中、夢の中の
登場人物にすぎないと言うのに。
> どうして単なる現象的幻影が
> 自分自身を完全にすることによって、
> 夢から目覚めることができるだろうか?
見かけの中に現れた一瞬の思考が、
どうやって
身体に一体化した自己幻想を完全にしたり、
また完全にすることによって
その自己幻想を目覚めさせられるというのか?
──────────────────
唯一の「目覚め」は
あるがままの直感的認識である。
実際、この認識においては、
「誰」はまったく問題ではない。
なぜなら、
その認識それ自身が自分の本質であり、
そういった直感的認識の前提条件は
現象の消失だからである。
認識されるのは全体としての顕現であって、
自分自身を
分離した観察者として維持している
「誰か」によるものではない。
認識することが絶対の全体的機能である
──直感的に認識することが
あなたの本質である。
認識の中に現れる宇宙は
感覚のあるあらゆる生き物を映し出す鏡である。
つまり、
意識は見かけの宇宙のまさに源泉である。
意識は顕現した中身と何の違いもない。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p311-312)
──────────────────
> 唯一の「目覚め」は
> あるがままの直感的認識である。
ありうる唯一の「目覚め」は
いっさいの空想を剥ぎ取った
あるがままを直感的に認識することだ。
> 実際、この認識においては、
> 「誰」はまったく問題ではない。
実際のところ、
これを認識する上で、
「誰」がというようなことは
まったく問題にならない。
> なぜなら、
> その認識それ自身が自分の本質であり、
> そういった直感的認識の前提条件は
> 現象の消失だからである。
なぜなら、
あなたは見ている物語の中の誰かを
救おうとしているのではなく、
そのような物語の浮上を
可能にすることこそが自分の本質だと
直感的に認識することだからだ。
そのような直感的認識が起きるためには、
いっさいの思考が消えなければならない。
> 認識されるのは全体としての顕現であって、
> 自分自身を
> 分離した観察者として維持している
> 「誰か」によるものではない。
顕現全体が認識されているのであって、
自分を個別の観察者として想像する
分離した自己幻想の「誰か」が
認識しているのではないのだ。
> 認識することが絶対の全体的機能である
> ──直感的に認識することが
> あなたの本質である。
> 認識の中に現れる宇宙は
> 感覚のあるあらゆる生き物を映し出す鏡である。
認識することが絶対の機能の総体だ。
直感的に認識することこそが
絶対であるあなたの本質なのだ。
認識の中に現れる宇宙とは
感覚能力をもつ全生物を映し出す鏡とも言える。
> つまり、
> 意識は見かけの宇宙のまさに源泉である。
> 意識は顕現した中身と何の違いもない。
要するに、
意識とは見かけの宇宙がそこから現れる
まさにその源泉と言える。
意識とは現れの源泉であり
同時にその現れを映し出すものだ。
別の言い方をするなら、
顕現する中身の源泉と
映し出す能力は同じ意識だと言える。
顕現と非顕現は同じものなのだ。
──────────────────
そして、
そういった認識は、
一人の「誰」とも、
意識の中の一つの現象、
見かけともまったく何の関係もない。
一人の「誰」は機能全体の
非常に小さい部分にしかすぎない。
この事実を深く直感的に理解することが
唯一の「目覚め」ないし「悟り」、
つまり、
架空の「束縛」からの
架空にぎない「解放」、
生きている−夢からの目覚めである。
グルとは何をするのか?
自己覚醒したグルは
為されうる唯一のことをする──
それは内側にいるサットグルを
指差すことである。
あなたがサットグルを
覚えていようといまいと、
サットグルは常にそこにいるので、
必要なことは、
絶えずサットグルと関わることだけである。
それ以外のことは
どんな努力も助けにならないばかりか、
障害や危険となることであろう。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p312)
──────────────────
> そして、
> そういった認識は、
> 一人の「誰」とも、
> 意識の中の一つの現象、
> 見かけともまったく何の関係もない。
> 一人の「誰」は機能全体の
> 非常に小さい部分にしかすぎない。
またそういった認識は、
意識そのものの全体的機能であって、
現れの中のある現象とか、
映し出される物語の中の「誰」かが
為しうるようなものではない。
映し出される物語の中の「誰か」は、
そのような意識の全体的機能の中の
非常に小さな構成部分でしかない。
> この事実を深く直感的に理解することが
> 唯一の「目覚め」ないし「悟り」、
> つまり、
> 架空の「束縛」からの
> 架空にすぎない「解放」、
> 生きている−夢からの目覚めである。
このことを深く直感的に知ることが
ありうる唯一の「目覚め」であり「悟り」だ。
それは取りも直さず、
想像の中の架空の「束縛」からの
架空の「解放」であり、
生きている−夢からの目覚めなのだ。
> グルとは何をするのか?
> 自己覚醒したグルは
> 為されうる唯一のことをする──
> それは内側にいるサットグルを
> 指差すことである。
サットグルの働きとはなんだろうか?
自己に目覚めたグルは
そこで起こりうる唯一の働きを担う。
それは意識の見かけに向けられた
あなたの意識のフォーカスを移動して、
見ているあなたへと向けることだ。
> あなたがサットグルを
> 覚えていようといまいと、
> サットグルは常にそこにいるので、
> 必要なことは、
> 絶えずサットグルと関わることだけである。
あなたが顕れを映し出している自分を
自覚していようといまいと、
現象があるかぎり
それを映し出しているあなたは常にいる。
だから必要なことは、
あなたが絶えず映し出している自分を
自覚することだけなのだ。
> それ以外のことは
> どんな努力も助けにならないばかりか、
> 障害や危険となることであろう。
それ以外のことは、
どんな努力も助けにならない。
かえって障害や危険となることだろう。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
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永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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■ 2.編集後記:
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さまざまなグルたちの教えが、
同じものであるわけではありません。
ニサルガダッタ・マハラジの教えは、
ラマナ・マハルシの教えと
とても似てはいるでしょうが、
細部では異なるところもあるでしょう。
アートマナンダ・クリシュナ・メノンの教えは、
上の二人の教えとはまた異なるのでしょう。
チャネリング情報として降りてきた、
ミナミAアシュタールのメッセージは
また上記のグルたちの教えとは異なります。
自分がどの教えに惹かれるか?
それはむろん自分が決めるほかありません。
今日は暗くなりました。
おやすみなさい。
<(_ _)>
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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