━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2020/05/24(第840号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。
あなたの本質は
あなたが自分でそう思っているものではない。
(ニサルガダッタ・マハラジ)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在521名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇
1.「束縛」を引き起こすのは
2.編集後記
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■ 1.「束縛」を引き起こすのは
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今日は晴れたり曇ったりの天気。
この時期の庭いじりなどには最適の天気です。
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と“「私は在る」噺”に
お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
ミナミAアシュタールさんの登場以来
このメルマガには
ミナミAアシュタールの言葉と、
ニサルガダッタの言葉が
入り混じって出現するようになりました。
アシュタールの言葉というのは
チャネラーのミナミさんが受信した理解が
彼女の達意の日本語で表現されたものですし、
マハラジの言葉というのは、
モーリス・フリードマンによる
テープ起こしのマラティ語→英語翻訳が
福間巌さんによって日本語に翻訳されたものと
ラメッシ・バルセカールがその記憶を
マラティ語から英語に翻訳し、
それが高木裕子悠鼓さんによって
日本語に翻訳されたものです。
アシュタールとニサルガダッタという
この二つの伝声管を通じて語られる言葉は、
カバーする範囲にかなり共通領域があります。
ただ語調はかなり違うようです。
共通する領域について
ごく類似した理解が語られているにもかかわらず、
きわめて違った雰囲気が感じられる。
むしろ正反対と感じられる趣がないでもない。
こう書いていて、いま浮かんできたのは
【ポジ】と【ネガ】という言葉でした。
まあ、この二つの伝声管を比べるなら、
【ポジ】はミナミAアシュタールで、
【ネガ】がニサルガダッタでしょうね。
ニサルガダッタは、
もし最終的にそれを放棄するつもりなら、
放棄するゴミの内容物を細かく知る必要はない、
というスタンスだと思います。
そこへいくと
ミナミAアシュタールさんは、
「情報を意図的に制限されてきた地球のみなさんは、
宇宙で一般的に知られている科学的知見の
3%くらいしかご存じない」、
といった認識背景からの発言だと思います。
アシュタールさんのメッセージは
「あなたが望む現実を創造する方法をお伝えしています」、
ということになるのでしょうし、
ニサルガダッタは
「現象はすべてあなたが想像したものだが、
現象の中にはそれを創造した実体、
自立した実体としてのあなたは存在していない。
すべての夢見られた形態と意味は
あなたの中に現れた意識の中の対象物にすぎない」
という立場だと思います。
そしてこの二つの伝声管を通じて
最後に語られる共通の言葉は、
「私は知らない」でしょうね。
アシュタール的な表現で言うなら
絶対無限の存在が何なのかは
「私にはわかりません。
いつかわかるときがくるのかもしれませんが」
ということになるのでしょうし、
マハラジふうに言うなら、
──────────────────
私が知らないということ自体、
すべての知識は無知なるものだ
という事実の知識なのだ。
「私は知らない」だけが
私にできる唯一の表明だ。
『私は在る』(p410)
http://tinyurl.com/s747u
──────────────────
ということになるのでしょう。
どちらの観点が優れている、
などということがあるはずもないでしょう。
ありうるとすれば、
わたしはこっちのほうが好き、
ということだけだと思います。(*^_^*)
今回は、
ラメッシ・バルセカール師が祖述する
マハラジ節のほうをご紹介したいと思います。
『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』
https://goo.gl/pWqC7d
のなかに
【43 偽物を偽物として見ることが真理である】
という一節からご紹介します。
──────────────────
43 偽物を偽物として見ることが真理である
あるセッションで議論された話題は、
正確には何が「束縛」を構成しているのか、
ということでした。
マハラジは私たちの本質は非現象
──時間がなく、空間がなく、
知覚不能な存在──であって、
分離した対象物として
私たちがそう見えるもの
── 時間に縛られ、限界があり、
感覚にとって知覚可能なもの──
ではないと説明しました。
「束縛」が起こるのは、
私たちが自分の本当の存在、
非現象を忘れ、現象
──肉体精神装置に他ならない肉体──
と一体化するからなのです。
マハラジが質問を促すと、
何回かセッションに通っていて、
以前はめったに
質問しなかった訪問者の一人が
手を挙げてこう尋ねました。
「肉体との一体化、
単なるそういった一体化が
束縛を意味するのでしょうか?
自分の人生の間、
ジニャーニは肉体的機能に関するかぎり
自分の肉体を放棄できません。
さらにすべてのジニャーニが
みな同じように行動するわけではなく、
一人ひとりがこの世界で独自に行動し、
独自なやり方で他人と付き合います。
ジニャーニに関してさえ、
この程度は個人的な肉体とある種の
一体化があるのではないでしょうか?」
マハラジは基本をきちんと理解している
この質問を評価して、
微笑んで言いました──
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p242-243)
https://amzn.to/2J4Pbtr
──────────────────
こうして質問が出された雰囲気ともに、
マハラジがその質問を喜んでいる様子が
丁寧に紹介されます。
以下は出された質問に対して、
マハラジがこの上なく懇切丁寧に
答えたその回答です。
──────────────────
肉体は、
意識が現象に留まるために必要な道具である。
生命−呼吸が肉体を離れて
(一般に死として知られている)、
意識が現象的形態から解放されるまで、
どうしてこの二つが
関係を断つことができるだろうか?
束縛は肉体
(肉体は五大元素の肉体精神構造物であり、
それ自身の独立した実存をもっていない)
との単なる形だけの一体化によって、
引き起こされるわけではない。
「束縛」を引き起こすのは、
独立し、自立した実体、
(行為者を装い、それゆえ、
行為とその結果の責任を受け取る実体)
という、
想像された観念を生むような一体化だ。
繰り返して言おう。
ただ肉体との一体化の事実だけが、
「束縛」の観念を引き起こすわけではない。
肉体は道具として
使われ続けなければならない。
束縛は見かけの意志があるときだけ
起こりうる。
つまり、
行為が行為者としての
誰かの選択だと想像されて、
それによって因果律、カルマ、
「束縛」のプロセスが動きだすときだ。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p243)
──────────────────
> 肉体は、
> 意識が現象に留まるために必要な道具である。
> 生命−呼吸が肉体を離れて
> (一般に死として知られている)、
> 意識が現象的形態から解放されるまで、
> どうしてこの二つが
> 関係を断つことができるだろうか?
人間の身体は
意識が現象世界に留まるための道具なのだから、
肉体が生きているかぎり
意識が現象世界の形態や意味と
無関係になることはありえない。
> 束縛は肉体
> (肉体は五大元素の肉体精神構造物であり、
> それ自身の独立した実存をもっていない)
> との単なる形だけの一体化によって、
> 引き起こされるわけではない。
> 「束縛」を引き起こすのは、
> 独立し、自立した実体、
> (行為者を装い、それゆえ、
> 行為とその結果の責任を受け取る実体)
> という、
> 想像された観念を生むような一体化だ。
現象しているある形態に
単に形だけの一体化をしたからと言って、
それだけで「束縛」が引き起こされるわけではない。
たとえば、ゲームの中で
このアバターが自分だと決めても、
それで自動的にプレイヤーが
束縛に巻き込まれるわけではないようなものだ。
実際に「束縛」が起こるのは、
そのアバターが現象世界の中で
独立し自立した実体であると想像され、
その実体が選択し実行した行為の結果に対して
自立した実体であるアバターに責任が生じる
という観念が伴っている場合だけだ。
> 繰り返して言おう。
> ただ肉体との一体化の事実だけが、
> 「束縛」の観念を引き起こすわけではない。
> 肉体は道具として
> 使われ続けなければならない。
> 束縛は見かけの意志があるときだけ
> 起こりうる。
> つまり、
> 行為が行為者としての
> 誰かの選択だと想像されて、
> それによって因果律、カルマ、
> 「束縛」のプロセスが動きだすときだ。
繰り返そう。
ある身体を自分だと認めても、
それだけで自動的に「束縛」の観念が
立ち上がるわけではない。
いずれにせよ
肉体が生存しているあいだは
道具として使われ続けなければならず、
その意味での一体化は続くことになる。
束縛は、その肉体の行為が
何らかの分離した主体が選択した行為であると
想像されたときに引き起こされる。
現象の中に自立した行為者がいて、
彼が選択し、決断し、実行した行為によって、
現象世界に独自のカルマが発動し、
それが因果律の世界に
新たな原因を生み出すと想像されたとき
「束縛」のプロセスが動きだすのだ。
──────────────────
見かけの実体が、
現象化の一般的プロセスの上に
どうやって重ね合わせられるようになるのか、
理解することが必要である。
いったんあなたが偽物を偽物として見るとき、
それ以上真理を追求する必要がなくなるのだ。
いずれにせよ、
真理は対象物としては
考えられることはできない。
どの段階で一体化の問題が
起こるのだろうか?
現象性は非現象性の中に
一元的に潜在しているので
(非現象は現象の中に内在しているので)、
一体化の問題は本当は
まったく起こるべきではない。
非現象(アヴィヤクタ)と
現象性(ヴィヤクタ)の間に
どんな特定の一体化も必要ないのだ。
そういった必要が起こるのは、
非現象的−絶対が、
分離した対象物の中に顕現するとき、
つまり、
対象化のプロセスがあるときだけである。
対象化のプロセスは必然的に「二元性」、
つまり、
二つの要素
──対象物を認識し知覚する
主体(ヴィヤクティ)と
認識され知覚される対象物──
への分裂を要求する。
重要な点は、
知覚者−主体と
知覚される対象物の両方が
相互関連する対象物であり、
意識の中にだけ
存在することができるということだ。
現象化のプロセスは意識の中で起こり、
意識は実際に私たちの本質である!
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p243-244)
──────────────────
> 見かけの実体が、
> 現象化の一般的プロセスの上に
> どうやって重ね合わせられるようになるのか、
> 理解することが必要である。
> いったんあなたが偽物を偽物として見るとき、
> それ以上真理を追求する必要がなくなるのだ。
見かけが顕現する一般的プロセスに
どのように見かけの実体が投影されるのかを、
理解する必要がある。
見かけがすべて意識の中の対象物にすぎず、
いかなる意味でもそこに主体はありえないこと、
そこに仮想された主体とは
偽物でしかありえないことが見抜かれるとき、
知覚対象の中に真理を求める必要がなくなる。
> いずれにせよ、
> 真理は対象物としては
> 考えられることはできない。
いずれにせよ、
知覚の対象物の中に
不動の真理を求めることなどできない。
> どの段階で一体化の問題が
> 起こるのだろうか?
> 現象性は非現象性の中に
> 一元的に潜在しているので
> (非現象は現象の中に内在しているので)、
> 一体化の問題は本当は
> まったく起こるべきではない。
いったいどのような段階に
このような一体化の問題が紛れ込むのか?
もともと現象とは
何者かが認識するからこそ存在できる。
その意味では
本来、現象すること自体の中に
すでに観察主体という非現象は内在している。
そのことが明らかであるなら、
もともと一体化の問題など
本来起こるべきではないのだ。
> 非現象(アヴィヤクタ)と
> 現象性(ヴィヤクタ)の間に
> どんな特定の一体化も必要ないのだ。
現象と非現象は
もともと一つの事柄の表裏なのだから、
主体と客体への分裂などありうるはずもなく、
そのことが自明な地平では
特定の対象物への一体化の必要など
はじめからありえないのだ。
> そういった必要が起こるのは、
> 非現象的−絶対が、
> 分離した対象物の中に顕現するとき、
> つまり、
> 対象化のプロセスがあるときだけである。
そのような一体化の必要が起こるとしたら
それは現象の中に内在する非現象という絶対が
現象する対象物の中に現れたと
妄想されたときにかぎることになる。
つまり対象化という虚構のプロセスのなかだけだ。
> 対象化のプロセスは必然的に「二元性」、
> つまり、
> 二つの要素
> ──対象物を認識し知覚する
> 主体(ヴィヤクティ)と
> 認識され知覚される対象物──
> への分裂を要求する。
対象化という虚構のプロセスは、
現象に一元的に内蔵されている顕現と非顕現を、
知覚の対象物である現象側にのみ空想的に持ち込み、
現象世界そのものを
知覚する主体と知覚される対象物という
虚構の二つの要素に分裂させることを意味する。
> 重要な点は、
> 知覚者−主体と
> 知覚される対象物の両方が
> 相互関連する対象物であり、
> 意識の中にだけ
> 存在することができるということだ。
> 現象化のプロセスは意識の中で起こり、
> 意識は実際に私たちの本質である!
たが実際は、
この知覚主体も知覚される対象物も、
ともに意識の中に現れる対象物であり
意識の中でしか存在できない相互関連性なのだ。
現象化は意識の中でしか起こりえず、
その意識こそが私たちの本質なのだ。
──────────────────
この基本的ポイントをよく理解しなさい。
私たちはお互いの対象物としてだけ存在し、
しかもそれもまた、
私たちを知覚する主体の意識の中にのみある。
それぞれの対象物は、
対象物になる他人に対して
知覚する主体(ヴィヤクティ)の立場を取る。
そして、
ここで「実体」(ヴィヤクティ)が生じる。
知覚する主体が
自分の主体的機能を考えるとき、
「自分自身」を一個の実体、
意志と選択をもつ独立し、
自立した自己だと想定する。
それから、
この幻影−実体は、
正しいと間違っている、
善と悪、
受け入れられることと受け入れられないこと
という相互関連する正反対の立場から
自分の対象物を比較し、
区別し、判断し、洗濯するために、
「二元性」の原理
(それは現象のまさに基盤である)を
さらに追求する。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p244)
──────────────────
> この基本的ポイントをよく理解しなさい。
ここで語られている要点をよく理解しなさい。
> 私たちはお互いの対象物としてだけ存在し、
> しかもそれもまた、
> 私たちを知覚する主体の意識の中にのみある。
私たちは物語を成立させるための
相互関連性の部品としてのみ存在しており、
それらの部品とその相互関連性は
それらを知覚する意識の中でしか存在できない。
> それぞれの対象物は、
> 対象物になる他人に対して
> 知覚する主体(ヴィヤクティ)の立場を取る。
だがそれにもかかわらず、
意識のなかで知覚されたそれぞれの対象物は、
妄想された劇の中では
互いに相手を知覚する知覚主体であるかのような
立場を取る。
> そして、
> ここで「実体」(ヴィヤクティ)が生じる。
かくて
この対象化という虚構のプロセスのなかで、
「実体」という幻想が生まれるのだ。
> 知覚する主体が
> 自分の主体的機能を考えるとき、
> 「自分自身」を一個の実体、
> 意志と選択をもつ独立し、
> 自立した自己だと想定する。
現象の中に現れる見かけの知覚主体が
自分に主体的機能を空想するとき、
あたかも“自分”が一個の実体であり、
自らの意志と選択権能を持つ
分離独立した自己なのだと想定するのだ。
> それから、
> この幻影−実体は、
> 正しいと間違っている、
> 善と悪、
> 受け入れられることと受け入れられないこと
> という相互関連する正反対の立場から
> 自分の対象物を比較し、
> 区別し、判断し、選択するために、
> 「二元性」の原理
> (それは現象のまさに基盤である)を
> さらに追求する。
かくて
見かけの個々の実体と
その相互関係のなかで妄想された劇の中で、
その幻影の実体は、
「二元性」の原理に基づく様々な
相互関連する正反対の立場から、
“自分”の対象物を
比較し、区別し、判断し、選択する。
そのようにして、
現象の基盤である「二元性」の原理を
さらに追求するのだ。
だが、
その空想上の“自己”が
いかに自由に選択し、判断し、
行為していると想像しようとも、
そこで選択する自由意志そのものが
受け皿(情報)とそれに与えられる刺激(情報)という
対象物間における相互関連性の関数にすぎず、
機械的自動過程とその結果でしかない。
したがって自由意志による選択を妄想した
見かけの行為主体は、
その行為の結果を見通すことはできない。
いずれにせよ、
自ら望んだ結果を得ることはできないということだ。
それが体験というものの内実だ。
意識の中で知覚された対象物の中に、
真の分離独立した「実体」が存在できるはずもない。
その要点が理解されたとき、
対象物の中に真実を求めようとする
幻想の探求は止むだろう。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
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考えるということ、
幻想の中での真理の探求が止まるまで、
「束縛」はまた解体していないのですから
この愚行は継続するしかありません。
今日もすっかり暗くなりました。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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