home > 通信 >『アセンション館通信』第841号:意識の種



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2020/05/31(第841号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あなたの本質は
 あなたが自分でそう思っているものではない。
 (ニサルガダッタ・マハラジ)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在521名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.意識の種

2.編集後記
──────────────────
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■ 1.意識の種
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今日も晴れたり曇ったりの天気。

ふと思い立って風鈴を付けました。

なのでときどき風鈴の音がします。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と“「私は在る」噺”に

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

以前は土曜日というと

すっかりマインド無礼講モードに入って、

書く気満々でした。

でもこのごろは

仕事の日はしっかり仕事をして

あまり休んだ感じがしないせいか、

土曜日になるとすっかり

頭を休めたくなってしまいます。

ま、それでいいわけですけどね。

しばらくボーッとしてから

マハラジの言葉を一節分読むと、

もうそれで満腹してしまいます。

ラメッシ・バルセカールが書いた

『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』

はいいですねぇ。

この本は

ラメッシ・バルセカールの本というよりは、

マハラジの本としか思えない。

これはすごいことですよね。

翻訳者の高木悠鼓さんが

この本のマハラジのイメージが

個人的には一番好きだとおっしゃるのも

わかる気がします。

ラメッシ・バルセカールが描き出した

『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』
https://amzn.to/2J4Pbtr

のなかのマハラジの言葉を

ご紹介したいと思います。

この本の前半に

【21 意識の種】という一節があります。

ただこの節は少し長めなので、

じゃっかん省略します。

ぜひ本を購入して

全体をお読みいただくのをお勧めします。

なにしろ素晴らしいのです。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となるよう願っています。(-||-) )

──────────────────
 
 21 意識の種
 
 
 彼は落ち着きがなく、
 そわそわしているように見えました。
 彼の動きはギクシャクし、
 明らかにぎこちなさであふれんばかりでした。
 彼は中年のヨーロッパ人で、
 ほっそりとして、 
 非常に元気でした。
 彼がマハラジを訪問するのは今回が初めてで、
 彼の落ち着きのなさは皆の注目を集めました。
 
 マハラジが彼を眺めると、
 突然彼の目に涙がわき出ました。
 マハラジの慈悲深い眼差しが
 彼を少し落ち着かせたようで、
 彼は自分自身について通常の予備的情報を
 言葉少なに語りました。
 彼は少なくとも20年間は
 ヴェーダーンタ哲学を研究しましたが、
 真実への彼の探求が
 挫折したことがわかったと言いました。
 彼は深く意気消沈し、
 幻滅し、失望し、その追求を
 もはや続けることができなかったのです。
 しかし彼が、
 『アイ・アム・ザット 私は在る』
 を読んだとき、
 一筋の希望がやって来て、
 彼は自分が答えを見つけたことを知りました。
 すぐに彼はインドへの旅に必要な
 最低のお金をかき集め、
 ちょうどボンベイに到着したばかりでした。 
 ふるえた声で彼は言いました。

 「私は今、到達したのです。
  私の探求は終わりました」

 涙が彼の目からとめどもなく流れ、
 彼は自分をほとんど
 コントロールできませんでした。
  
 『ニサルガダッタ・マハラジが
 指し示したもの』(p132-133)
 https://amzn.to/2J4Pbtr
──────────────────

ラメッシ・バルセカールの導入は

いつもながらとても親切ですね。

こういう質問者を得て、

マハラジは喜んだことでしょう。

ゆっくりと問答部分が始まります。

──────────────────
 マハラジは真剣に彼の言うことに耳を傾け、
 おそらく彼に落ち着く時間を与えるために、
 数分間目を閉じて静かに座っていました。
 それから彼に、

 「自分がその肉体でないことに対し
  確固たる確信を持っているかどうか」

 を尋ねました。
 その訪問者は

 「自分が単なる肉体ではなく、
  本の中で明確に説明されているように、
  肉体以上の何かであり、
  その何かとは、
  『私は在る』という知識、
  存在しているという感覚にちがいないことが、
  自分にはきわめて明確です」

 と断言しました。
 彼は付け加えて言いました。

 「しかし私は、
  『私は在る』というこの知識に
  絶えず留まるべきだという
  マハラジの提案が何を意味しているのか、
  理解できませんでした。
  人は正確には何をすべきなのでしょうか?」

 彼は語り続けました。

 「先生、
  私はもう言葉にはうんざりしています。
  私はそれらを何百万も
  読んだり聞いたりしましたが、
  何も得ませんでした。 
  どうか今、
  単なる言葉ではなく、
  その実質を私にください。
  そうすれば、
  私は永遠にあなたに感謝することでしょう」
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
 指し示したもの』(p133)
──────────────────

まさに、

申し分ない質問者の登場です。

このような質問者には、

マハラジは懇切丁寧に答えます。

そしてラメッシ・バルセカールが

そのマハラジの言葉を

渾身の尊敬と愛を込めて再現します。

──────────────────
 「非常にけっこうだ。
  あなたは今実質を得ることだろう。
  もちろん、
  私はそれをあなたに伝えるために
  言葉を使わなければならない」

 どマハラジは言い、
 さらに次のように続けました。

 「反対方向に向かい、
  あなたの存在の源泉に戻りなさいと、
  もし私が言ったら、
  その言葉はあなたにとって
  意味を為すだろうか?」
 
 それに対してその訪問者は

 「自分のハートは
  マハラジの発言の真実を
  直感的には受け入れてはいますが、
  自分はその問題に
  より深く入らなければなりません」

 と返答しました。
 
 それから、
 マハラジは次のように続けました。

 「あなたは立場全体を明確に
  瞬間的に理解しなければならないし、
  これをすることができるのは、
  ただ問題の根底へ
  行くことによってのみた。
  あなたは『私は在る』という知識が、
  どうやって現れたのかを
  発見しなければならない。
  種こそ重要で、
  この存在の種を発見すれば、
  あなたは全宇宙の種を知ることだろう」
  
 『ニサルガダッタ・マハラジが
 指し示したもの』(p133-134)
──────────────────
 
ここでマハラジは

【『私は在る』という知識】を

【存在の種】という言葉で

言い換えているようです。

>  種こそ重要で、
>  この存在の種を発見すれば、
>  あなたは全宇宙の種を知ることだろう

と。

──────────────────
 マハラジはさらに続けます──

  あなたも知っているとおり、
  あなたは肉体をもち、
  その肉体の中にはプラーナ
  ないし生命力と
  意識(ないし存在、
  私はあるという知識)がある。
  では、
  人間というこの全現象は、
  他の生物の現象と
  何かの違いがあるのだろうか?
  あるいは、
  大地から芽を出す草とさえ
  違いがあるのだろうか?
  そのことを深く考えてみなさい。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
 指し示したもの』(p134)
──────────────────

マハラジはこの

「もう言葉は要りません。

 実質がほしいのです」
 
と訴える真摯な質問者に

最大限のショートカットを

与えているはずです。

要するに、

これを読むわれわれも、

マハラジがここで伝えるメッセージを

理解しさえすればいいはずです。

人間の身体に生命力と意識があることは

あなたも知っているはずだ。

ではその人間に関わる全現象が

他の生物と何か違うところがあるのか、

そのあたりを深く考えてみよう。

──────────────────
  仮にあなたの裏庭に
  水が少したまったとしよう。
  しばらくして、
  ある虫の肉体がそこで自分自身を形成し、
  動き始め
  それは自分が実存していることを知る。
  それからまた、
  古くなったパンのかけらが
  数日間部屋の片隅に置かれたとしよう。
  するとその中にウジ虫が姿を現し、
  動き始め、
  それは自分が実存していることを知る。
  鶏の卵がしばらくしたのちに孵り、
  突然卵が割れて、
  雛が現れ、
  動き始め、
  それは自分が実存していることを知る。
  男の精子が女の子宮の中で発芽し、
  10ヶ月後に赤ん坊として分娩される。
  精子は完全に成長した幼児の形態へと発展し、
  睡眠と目覚めの状態を通過し、
  その通常の肉体的機能を果たし、
  自分が実存していることを知る。 
  これらのすべての場合において
  ──虫、昆虫、鶏そして人間── 
  本当に生まれたものは何なのか?
  妊娠から分娩までのプロセスを
  監督したのは何なのか?
  そして、
  予定日に生まれたのは
  「私は在る」という
  知識ではないだろうか?
  四つの場合すべて同等に、
  この存在性ないし意識は、
  どんな種類の「支援」もなく
  自分自身を発見したが、
  間違って自分自身を
  それが身につけた
  特定の形態と一体化している。
  言い換えるなら、
  実際はどんな形も形態もないもの、
  「私はある」という知識、
  ただ存在しているという感覚
  (これやあれではなく、意識全体)が、
  それ自身をある特定の形態だけに制限し、
  それによってそれ自身の誕生を受け入れ、
   その後は常に
   死の恐怖の影の中で生きるのだ。
  したがって、
  生まれたのは個人的人格
  ないしアイデンティティ、
  エゴという概念が生まれたのだ。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
 指し示したもの』(p134-345)
──────────────────

そしてマハラジは

庭の片隅の水たまりから

虫が形成され、動き出し、

自分の存在を知る過程や、

ウジ虫がわき、動き出し、

自分の存在を知る過程や、

鶏の卵が割れて、

雛が現れ、動き出し、

自分の存在を知る過程と、

人間の男性の精子が

女性の子宮の中で発芽して、

10ヶ月後に赤ん坊として分娩され、

幼児の形態へと発展し、

人間が自分の存在を知る過程において、

実際は何が起こっているのか?

それらのすべてを監督しているのは

何なのかと疑問を提します。

そしてわれわれは

何ひとつ努力することなく

自分の存在を知ったのではないかと。

つまり、

これらすべての生物の誕生において

実際に生まれたのは

「私は在る」という知識なのだ。

その「私は在る」という知識が

身にまとった形態に一体化して

現象しているその形態を

“自分”だと勘違いして、

そのあとその形態の崩壊(死)を

恐れる存在(エゴ)として

生きることになったのだと。

──────────────────
  今、あなたは
  「私はあるという性質」の源泉が
  わかかっただろうか?
  それはその個人的実存を
  肉体に依存しているのではないだろうか?
  そして肉体とは発芽した精子が
  成長したものではないだろか?
  そして重要なことは、
  精子はその子供の父親が消費した
  食物のエッセンスに
  他ならないのではないだろうか?
  そして最後に、
  食物とは四大元素
  (空間、空気、火、水)によって、
  第五の元素、土の媒介を通じて
  生み出された何かではないだろうか?
 
  このように、意識の種は
  植物に他ならないものへと還元され、
  肉体は意識の「食物」である。
  肉体が死ぬやいなや意識もまた消える。
  それにもかかわらず、
  意識は全宇宙の「種」なのだ!
  
 『ニサルガダッタ・マハラジが
 指し示したもの』(p135-136)
──────────────────

「私は在る」というこの知識が、

肉体に依存するのがわかるだろうか?

そして肉体が

そこで消費される食物のエッセンスに

他ならないのがわかりだろうか?

肉体というのは意識の食物なのだ。

だから肉体が滅ぶとき

意識もまた消える。

だがそれにもかかわらず、

意識は全宇宙の「種」なのだ。

──────────────────
  あらゆる個々の個人は、
  自分が夢を見るたびに、
  意識の中で創造される世界と
  同等の経験をする。
  人が完全に目覚めていず、
  意識がただわき起こっているとき、
  人は夢を見る。
  そして、
  自分の夢の中、
  意識の中の最小の場所の中で
  外側の「現実」の世界に似た
  全夢−世界が創造される
  ──すべては一瞬の間に──
  そして、
  その世界の中で太陽が地球が見られるのだ。
  その地球には丘と川と建物があり、
  「現実」の世界の人々と
  同様に振る舞う人々
  (夢見ている人も含む)が住んでいる。
  その夢が続いている間、
  夢−世界は実に現実であり、
  夢見ている人自身も含めて
  その夢の中の人々の経験は真実で、
  実体があり、
  真正なものに見える。
  おそらく、
  「現実」の世界の経験よりもそう見える。
  しかしいったん、
  夢見ている人が目覚めれば、
  そのとき実存していた
  すべての「現実」をもった夢−世界全体が、
  意識の中へと崩壊する。
  夢は意識の中で創造されたのだ。
  目覚めた状態では、
  無知の種(マーヤー、存在性、
  プラクリティ、イーシュワラ等々)
  のせいで世界が出現し、
  あなたを目覚めた夢状態へと引き込む。
  睡眠も目覚めもともに
  生きた夢における観念的状態である。
  あなたは自分が目覚めているという
  夢を見ている。
  あなたは自分が眠っているという
  夢を見ている──
  そして、
  自分が夢見ていることを理解しないのは、
  あなたがまだ夢の中にいるからだ。
  実際あなたは、
  これすべては夢であることを
  本当に理解するとき、
  あなたは既に目覚めていることだろう!
  ただジニャーニにだけが
  本当の目覚めと本当の睡眠を知っている。
  
 『ニサルガダッタ・マハラジが
 指し示したもの』(p136)
──────────────────

そしてマハラジは

夢から覚めた観点から

夢の様子を上のように描写します。

夢を見ているのは意識だ。

夢の中で様々な情景が創造される。

その夢見られた情景の

一点景に一体化した意識は、

その肉体と一体化した状態のなかで

この夢に見られた風景の中の

登場人物と同じ体験をするのだと。

自分が夢の中にいることを

あなたが自覚しないのは、

あなたが夢から覚めていないからだと。

このあと少し続く

インド哲学的な文脈での説明を飛ばすと、

最後にマハラジは以下のように

講話の主旨をまとめます。

──────────────────
  非個人的意識がそれ自身を顕現し、
  それぞれの肉体的形態と一体化するとき、
  「私−概念」が生まれ、
  「私−概念」は自分が独立した実体を
  もっていないことを忘れて、
  その原初の主体性を
  意志と欠乏と欲望をもった対象物へと転換し、
  それゆえ、
  苦しみに傷つきやすくなるのだ。
  この間違ったアイデンティティが
  まさに「束縛」であり、
  それからの解放が求められるべきである。
 
  では、
  「解放」とは何か?
  解放、さとりないし目覚めとは、
  深く次のことを理解すること、
  直感的に理解することに他ならない。
  (a)すべての顕現の種は、
     非個人的意識である。
  (b)求められているのは、
     顕現の非顕現的側面である。
  そして
  (c)それゆえ、
     探求者それ自身が
     求められているものである!
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
 指し示したもの』(p140)
──────────────────
 
実在する非個人的意識が

自身を現象として顕現させるとき、

現象する個々の肉体的形態を自分と誤解する。

そこに誕生するのが「私−概念」だ。

その「私−概念」を認識している

実在する非個人的意識は、

当然だが個別の肉体的形態をもっていない。

「私−概念」が生まれても、

その「私−概念」は独立した実体をもっていない。

「私−概念」そのことを忘れて、

自らを意志と欠乏と欲望をもつ対象物だと

夢想するとき、

仮想された苦しみに巻き込まれる。

それが「束縛」という妄想であり、

そこからの解放が求められるのだと。

最後にマハラジは

以下のように見晴らしをまとめます。

──────────────────
 講話を要約して、
 マハラジは次のように言いました。
 
  もう一度全部をまとめてみよう。
 
  1 原初の状態では、
    どんな知識も条件付けも、
    属性も形態もアイデンティティもなく、
    「私は在る」が行き渡っている。
 
  2 それから、
    (そうすることがその性質である
     という以外の)
    どんな明らかな理由もなく、
    非個人的意識である
    「私は在る」という思考ないし観念が生じ、
    その上に世界が生きた夢として現れる。
 
  3 意識はそれ自身を顕現するために、
    形態、肉体を必要とし、
    それと自分自身を一体化し、
    それゆえ、
    「私」の想像的対象化とともに
    「束縛」という観念を開始する。
    人がこの自己一体化という立場から、
    考え、行動するとき、
    純粋な主体(無限の潜在可能性)を
    一つの対象物、
    限定された現実へと変えるという
    原罪を犯す。
    ということができるだろう。
 
  4 どんな対象物もそれ自身の
    独立した実存をもっていず、
    それゆえ、
    対象物は生きた夢から
    自分自身を目覚めさせることはできない。
    それにもかかわらず、
    その冗談とは、
    幻想的個人(一個の対象物)が、
    何か他の対象物を
    「絶対」ないし現実として
    求めることである。

  5 もしこのことが明確になれば、
    人は向きを反転し、
     意識が起こる前
    自分は元々何であったのか
    (そしてずっと何であったのか)を
    発見するために戻る。

  6 この段階で、
    人は肉体でもなければ意識でさえなく、
    意識が到着する前の
    命名のしようがない完全なる潜在可能性
    (意識の中では、
     その状態がどんな名前をもつにしろ、
     それは観念に過ぎない)
    であるという目覚めがやってくる。
   
  7 これで、円は完全になる。
    探求者が求められているものである。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
 指し示したもの』(p140-142)
──────────────────
 
1 原初の状態にはいかなる属性もない

  純粋な「私は在る」が行き渡っている。
  
2 そこに何の理由もなく

  非個人的意識である
  
  「私は在る」という観念が生じ、
  
  その観念を種に世界が夢見られる。

3 その夢の中に

  非個人的意識が自らを顕現するために

  肉体が創造される。
  
  非個人的意識は
  
  夢の中のその対象物と一体化して、
  
  「束縛」という観念を始動し、
  
  純粋な主体性を対象物化するという
  
  「原罪」を犯す。

4 対象物は夢見られた存在であるため
  
  自力で夢から覚めることはできない。

5 以上のことが明確に理解されたとき、
  
  人は夢(現象)の中に求めることをやめ、
  
  向きを変えて意識が起こる前に戻る。

6 この段階で
  
  意識の中ではすべてが観念であること、
  
  自分が完全なる潜在可能性であることの
  
  理解が明け初める。

7 探し求めていたものは自分であった。

──────────────────
 マハラジは最後に言います──
 
  結論を言えば、
  「私」としては、
  私たちは非現象であることを
  深く理解しなさい。
  現在の現象性の状態
  (その種は意識である)は
  一時的なものであり、
  原初の変化しない非現象の状態の上にある
  病気か月食のようなものである。
  人ができることはただ、
  自分に与えられた寿命を
  生きることだけである。
  そして寿命の最後に、
  現象という月食が終わり、
  非現象がその純粋なユニシティの状態で
  自分自身の気づきにまったく気づかずに
  再び行き渡る。

 この説明の間、
 その訪問者は
 まるで魔法にかかったかのように
 ずっと静かに座っていました。
 彼は一度話そうと試みましたが
 うまくいかず、
 マハラジは断固たる態度でそれを止めたので、
 彼は完全な平和のまま座っていました。
 その間、
 他の訪問者は一人また一人と
 マハラジに敬意を表して、
 去って行きました。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
 指し示したもの』(p142)
──────────────────

自己とは非現象であることを

深く理解しなさい。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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   ………○…………○…………○………


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   ………○…………○…………○………


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   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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ありがたいことです。(-||-)

無意識に起こる考えるという作用は

夢の中で起こる自動過程のようです。

この考えるという自動過程は

対象物と一体化した観点からは

解除できないのでしょう。

非個人的意識がそのことを知って、

対象物と一体化した観点から生ずる

自動過程としての「考えるという機能」を

気づくたびにその都度オフにするしかない。

澤木興道老師が座禅のことを

“自分が自分を自分する”と言っていましたが。

座線はせずとも自分が何かを思い出し、

“自分が自分を自分する”ことは必要なのでしょう。

今日もすっかり暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
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──────────────────

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