━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2020/06/21(第844号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。
あなたの本質は
あなたが自分でそう思っているものではない。
(ニサルガダッタ・マハラジ)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在522名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇
1.「私は理解したと思います」
2.編集後記
──────────────────
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■ 1.「私は理解したと思います」
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今日は梅雨の中休みですね。
曇天ですがそれもまたありがたい。
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と“「私は在る」噺”に
お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
こうして毎週土曜日になると
何やかや書きはじめるのですが、
これはいったい何のためなのか?
このpariというパターンに
起こっている“マインド無礼講”とは、
いわば“存在しない玉葱”の皮を
剥くようなことなのかもしれません。
では早速行きましょうか。
ラメッシ・バルセカールが描く
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』
の比較的初めの方に
【16 彼はあざ笑うためにやってきた……】
という一節があります。
マハラジの言葉はいつもそうですが
とても端的で実物そのものの言葉が
並んでいます。
ラメッシ・バルセカールが
この本を書いてくださったこと、
そして高木悠鼓さんがこの本を翻訳して
くださったことに感謝します。(-||-)
(相変わらず
常識の範囲を超えた長い引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
ちょっと長めの章なので
最初の方だけ飛ばしてご紹介しますね。
──────────────────
セッションの常連の一人があるとき 、
友人を連れてきて、
彼はどんなことも鵜呑みにせず、
自分がそれを受け入れる前に
あらゆることを疑う
非常に鋭い知性の持ち主だと、
マハラジに紹介しました。
マハラジは
「自分はそういった人に会うことを喜んでいる」
と言いました。
その新しい訪問者は数学の教授でした。
マハラジは
「どんな種類の想定もない
まさに一番基本的なレベルから、
二人が会話を始めるのが
おそらく一番いいことだろう」
と提案しました。
で、その訪問者は
その提案を気に入ったでしょうか?
彼はこの申し出に非常に喜び
驚いたに違いありません。
彼は
「その提案を嬉しく思います」
と答えました。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p94)
──────────────────
申し分ない出だしですよね。
われわれはかぶり付きの観客席から
この無前提の対話に
岡目八目での参入を許されます。
さて、マハラジはわたしたちに
どんなふうに語りかけてくるか?
──────────────────
マハラジ
では、
今ここで私の目の前に座っている
あなたについて教えて欲しい。
あなたは正確に「自分」を
何だと思っているのか?
訪問者
私は四九歳の男性で、
ある体重と身長があり、
ある希望と大志をもっています。
マハラジ
一〇年前、
あなたが自分自身にもっていたイメージは
何だっただろうか?
今と同じかな?
では、
一〇歳の時は ?
赤ん坊の時は?
そしてその前は?
あなたが自分自身にもっているイメージは
始終変わってきたのではないだろうか?
訪問者
はい、
私が自分のアイデンティティとして
考えていることは、
始終変化してきました。
マハラジ
それにもかかわらず、
あなたが自分自身について考えるとき、
その奥深くに変化しなかった何かが
あるのではないだろうか?
訪問者
はい、あります。
とはいえ、
自分ではそれが
正確には何かを突きとめられませんが。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p94-95)
──────────────────
マハラジはまず
対座した相手の現在の自己定義を確認して、
通常の身体に一体化した自己定義を聞くと、
それがこの身体の誕生後
つねに変化し続けているイメージの
現在の断片にすぎないことを指摘して、
相手が同意するかどうかを確認します。
そして同意を確認したら、
通常のわれわれの自己定義が
肉体が辿った履歴の羅列にすぎないこと、
それでもわれわれが自分の存在を疑わないのは、
その変化し続ける自己定義の背後に
不変の何かがあるからではないかと問います。
この数学教授の場合は、
マハラジの問に同意しながらも、
自分にはそれが何かわからないと認めました。
──────────────────
マハラジ
それは存在しているという単純な感覚、
実存しているという感覚、
存在の感覚ではないだろうか?
もしあなたが意識していなければ、
あなたの体は
あなたにとって存在するだろうか?
世界があなたにとって存在するだろうか?
神とか創造者についての
質問が存在するだろうか?
訪問者
これは確かに考えるべきことです。
では、
あなたはご自分自身をどう見ているのか
言っていただけませんか?
マハラジ
私は「この私は在るである」、
もしその方がよければ、
私は「あの私は在るである」
訪問者
申し訳ありませんが 、
おっしゃったことが理解できません。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p95-96)
──────────────────
マハラジはここで、
それは「自分は存在する」という感覚ではないか、
と相手に問いかけます。
そして
「存在しているという感覚」は、
「意識しているという感覚」と
同じことなのを直感的に察知させようとします。
つまり、
自分が意識していなかったら、
そもそも人間の身体は存在できるだろうか?
世界は存在できるだろうか?
あれやこれやの問が存在できるだろうか、と。
これは普通に理解できます。
言われてみればたしかにそれはその通りですから。
自分が意識していなかったら、
この身体も世界もどんな疑問も、
存在できるはずがないことは自明です。
自分というのはこの「存在の感覚」、
意識しているということ、
気づいているということだったわけです。
ただし、
> 私は「この私は在るである」、
> もしその方がよければ、
> 私は「あの私は在るである」
というマハラジの表現は
ちょっとわかりにくいとも言えます。(*^_^*)
これは日本語の
【この】や【あの】という指示語の
ニュアンスのせいもあるかもしれません。
まあ、
英訳でも【this】【that】でしょうが。^^;;
マハラジには
意識の見かけに対する一体化がいっさいないので、
その視点から存在感を表現すれば、
(一体化していない)「この私」は「在るという感覚」のことだ。
(一体化した)「その私」とは「在るという感覚」のことだ。
という言い方になるのかもしれません。
さすがにその表現は
この数学の教授には通じなかったようで、
彼は「そう言われてもわかりません」と答えます。
──────────────────
マハラジ
あなたが、
「私は理解したと思います」と言うとき、
それはすべて間違いだ。
そして、あなたが
「私は理解していない」と言うとき、
それは絶対的に真実である。
では、
もっと単純に言ってみよう
──私は意識している存在である──
これやあれの個人ではなく、
意識している存在それ自体である。
訪問者
今度は、
「私は理解したと思います」
と言うところでした!
しかしあなたは、
それが間違いであると、
たった今言ったばかりです。
あなたはわざと私を混乱させようと
しているわけではないのですね?
マハラジ
その反対に、
私はあなたに正確な立場を言っている。
対象物的に言えば、
私は意識の鏡に現れるすべてである。
絶対的に言えば、
私はそれである。
私はその中に世界が現れる意識である。
訪問者
残念ながら、
そのことが見えません。
私に見えるのは、
私の前に現れているものだけです。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p96-97)
──────────────────
マハラジはここで単純に
「──私は意識している存在である──
これやあれの個人ではなく、
意識している存在それ自体である。」
と自分を表現します。
さすがに論理的思考に熟練した方ですね。
こんな場面で、
> 「私は理解したと思います」
> と言うところでした!
なんて言葉は通常出てこないと思います。
「その表現ならわかります」とか、
それなら「私は理解したと思います」と
言うところだったでしょう。
さてここで、マハラジの
【あなたが、
「私は理解したと思います」と言うとき、
それはすべて間違いだ。】
というメッセージですが……。
こういうマハラジの表現には
これまでも何度か触れてきました。
しかし今回はじめてその意味が通じました。(*^_^*)
あ、なるほど。
そりゃそうだ、という感じです。
それについては、
マハラジがあとの方で説明しています。
マハラジの次の表現は
まったく問題ないですよね。
「対象物的に言えば、
私は意識の鏡に現れるすべてである。
絶対的に言えば、
私はそれである。
私はその中に世界が現れる意識である。」
この数学教授の場合は、
こういう表現をはじめて聞いたのでしょう、
「私に見えるのは、
私の前に現れているものだけです。」
と応じます。
──────────────────
マハラジ
もしあなたが意識していないとすれば、
あなたの前に現れるものを
あなたは見ることができるだろうか?
いや、
できないだろう。
それゆえ、
あなたが私の意識の中にだけ実存して、
私があなたの意識の中にだけ実存して
いるために、
すべての実存は純粋に対象的なのでは
ないだろうか?
私たちがお互いを経験するのは、
意識の中の認識行為に限定されるということは
明らかではないだろうか?
言い換えるなら、
私たちが自分の実存と呼んでいるものは、
単に誰か他の人のマインドの中にあるだけで、
それゆえ、
観念的にすぎぎないのではないだろうか?
このことについても熟考してみなさい。
訪問者
あなたは、私たちは皆、
意識の中の単なる現象、
世界の中の幻影にすぎぎないと、
そう私に言おうとしているのですか?
では、
世界それ自身はどうなんでしょうか?
そして、
そこで起こるすべての出来事は?
マハラジ
私が言ったことをよく考えてみなさい。
あなたはその中に
不備を発見することができるかな?
人は一般的に肉体を自分自身として
一体化しているわけだが、
それはプラーナ(生命力)と
意識のための肉体構造物にすぎない。
プラーナ・意識がなければ、
肉体とは何だろうか?
ただの死体だ!
意識が間違ってそれ自身を
肉体的覆い──肉体精神器官──と
一体化したというただそれだけの理由で、
個人が存在するようになるのだ。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p97-98)
──────────────────
> もしあなたが意識していないとすれば、
> あなたの前に現れるものを
> あなたは見ることができるだろうか?
> いや、
> できないだろう。
もしあなたが意識でなかったら、
(もしあなたが気づいていなかったら)
あなたの眼前に現れるものを
見ることができるだろうか?
いや、
これは絶対に無理ですよね。
【現象に気づいているということは、
気づいていること自体が気づきだということです。】
これはまさに
「理解したと思います」
と言えるような話でないのは確かです。
> それゆえ、
> あなたが私の意識の中にだけ実存して、
> 私があなたの意識の中にだけ実存して
> いるために、
> すべての実存は純粋に対象的なのでは
> ないだろうか?
ここでマハラジが指摘しているのは
驚くべき内容です。(@_@) ⌒★?
(「実存」という訳語に違和感がある方は、
「存在」を当てたらいいと思います。)
あなたは私の意識の中にだけ現れ、
私はあなたの意識の中にだけ現れる
ことが明らかなのだから、
すべての現れ、すべての存在は
まさに純粋に対象的であること、
意識の中に現れた対象物であることが
わからないだろうか、というわけです。
知覚の対象となるすべての存在は、
純粋に対象的な存在物だというのです。
これは否も応もなく、明確です。
> 私たちがお互いを経験するのは、
> 意識の中の認識行為に限定されるということは
> 明らかではないだろうか?
> 言い換えるなら、
> 私たちが自分の実存と呼んでいるものは、
> 単に誰か他の人のマインドの中にあるだけで、
> それゆえ、
> 観念的にすぎぎないのではないだろうか?
> このことについても熟考してみなさい。
われわれが「現実」と呼ぶ人生体験は
互いに相手を経験することから成り立っています。
この経験は意識の中の認識行為の中にしかない。
つまり、自分の“実体”というのは
じつは他人のマインドの中にしか存在しない。
自分の“実体”とは純粋に観念的なものだというです。
──────────────────
訪問者
しかしもちろん、私とあなたは
他の何百万人の人たちと共に
この世界で生きて
仕事をしなければいけない
分離した個人です。
あなたは私をどう眺めているのですか?
マハラジ
私はこの世界にいるあなたを、
まさにあなたが自分の夢の中で
自分自身を眺めるように眺めている。
この答えで満足かな?
あなたの体がベッドで休んでいる間、
夢の中であなたは全世界を創造する
──それはあなたが「現実」世界
と呼ぶものに似ている──
その中には、
あなた自身も含めて、
人々がいる。
あなたは自分の夢の中で
自分自身をどう眺めるのだろうか?
目覚めた状態で、
世界が出現し、
私が「目覚めた夢の状態」と呼ぶものへ
あなたは引き込まれる。
夢を見てる間、
あなたの夢の世界は
あなたには非常に現実に見える。
そうではないだろうか?
あなたが「現実」と呼んでいる
この世界もまた夢ではないと、
どうしてあなたはわかかるのか?
それは、
偽物を偽物として、
非現実を非現実として、
移ろいゆくもの移ろいゆくものとして
見ることによって、
あなたが目覚めなければいけない夢だ。
つまり、それは
観念的空間−時間の中にしか
「存在する」ことができない。
そういった「目覚め」のあとで、
あなたは現実にいるのだ。
そのときあなたは、
時間−空間の中で
感覚的に認識された表面の内部で、
想定された自由意志をもって
「生きている」現実的夢としての世界を見る。
では、
あなたが個人と呼ぶものについてだが、
この現象を分析的に、
そして、
もちろんマインドをオープンにして、
すべての現存する
精神的条件づけと先入観を放棄して、
調べてみたらどうだろうか?
そうすれば、
何を発見するだろうか?
肉体はプラーナと意識のための
単なる肉体的構造物にすぎず、
プラーナと意識が
肉体的精神器官を構成している。
そしてこの「個人」は、
外部の刺激に反応し、
幻想的イメージと解釈を生み出す以外に
何もしていないのだ。
さらに、
この感覚をもった個人的存在は、
それを認識する意識の中の
対象物としてしか
「実存」することができない!
それはまったく幻影なのだ。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p98-99)
──────────────────
マハラジにそう言われて、
黙ってありがたく引き下がるとしたら、
それはスピリチュアル探求者です。(^_-)
数学の教授はそれでは引き下がりません。
しかしそうは言っても、現に私たちは個人であり、
個人として生きて、働かなければなりません。
いったいあなたは、
私たちをどのように見ているのですか?
と問いかけます。
> 私はこの世界にいるあなたを、
> まさにあなたが自分の夢の中で
> 自分自身を眺めるように眺めている。
私にもあなたと同じように見えている。
だがあなたが“目覚め”のなかで
「現実」と呼んでいる世界は、
あなたが“眠り”の中で
夢と呼んでいる世界と
本当に違うものなのか?
> あなたが「現実」と呼んでいる
> この世界もまた夢ではないと、
> どうしてあなたはわかかるのか?
夢から覚めるというのは、
> 偽物を偽物として、
> 非現実を非現実として、
> 移ろいゆくもの移ろいゆくものとして
> 見ること
以外ではない。
あなたが「現実」と呼んでいるものは、
実際は
あなたがそこから目覚めなければいけない夢なのだ。
なぜならそれは、
観念的思考(時空間)の中にしか存在しないからだ。
そしてあなたがそれほど
存在を確信している個人だが、
その存在の根拠は移りゆく肉体の中にしかない。
そしてその個人が果たしている機能は、
観念的思考(時空間)の中に現れた映像の解釈でしかない。
しかもその個人自体が
意識の中の対象物としてしか現れることはない。
つまり、個人というのは
意識が見ているまったくの幻影なのだ。
そう言われて、
数学の教授は思わずこう反問します。
──────────────────
訪問者
あなたが本当に言わんとしていることは、
私が見る夢と
私がこの世界で生きていることには
なんの違いもない、
ということですか?
マハラジ
あなたは熟慮すべき、
瞑想すべきことをすでにたくさん聞いた。
さらに私が話を進めることを
あなたが望んでいるのは、確かだろうか?
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p99)
──────────────────
では、この人生というのは
私が眠りの中で見る夢と
何も違わないと言うのですか?
こう反問されて、
マハラジは
これまであなたが聞いた内容でも
咀嚼すべきものがたくさんあるはずだが、
もっと話を進めることを望んでいるのかね?
と確認します。
──────────────────
訪問者
私は真剣な研究を
大量にやることに慣れていますし、
疑いもなくあなたもそうだと思います。
ですから、
あなたがさらに続けてくださり、
これをその論理的結論へと導いてくだされば、
私としては実にありがたく思います。
マハラジ
非常にけっこうなことだ。
あなたが熟睡しているとき、
現象世界は
あなたのために存在しているだろうか?
あなたは自分の第一の状態
──あなたの原初の存在──
この肉体−意識の状態が
頼まれもせずに、何の助けもなく、
あなたに侵入する前の状態──を
直感的に自然に視覚化することが
できないだろうか?
その状態の中で、
あなたは自分の「実存」を
意識していただろうか?
もちろん、
そうではない。
宇宙的現象はただ意識の中にだけあるが、
「目覚めた」者は、
自分が見る中心を絶対の中においている。
原初の純粋な存在の状態では、
その存在に気づかずに、
意識は水の広がりの上の波のように起こる。
そして、
意識の中で世界が現れ、
消える。
波が上がったり、
下がったりするが、
水の広がりは残る。
すべての始まりの前に、
すべての終わりのあとに、
私は在る。
何が起こっても、
「私」はそれを観照するために
そこにいるはずだ。
世界が「実存」していない
というのではない。
それは実際に実存しているが、
単に意識の中の見かけ
──知られていない無限の非顕現の中の
知られた顕現全体──としてだ。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p100)
──────────────────
こうしてマハラジの言葉は波のように押し寄せます。
あなたが熟睡しているとき
この現象世界はあなたに現れるだろうか?
あなたが睡眠中の夢を見ていたとき
その夢の世界は疑いもなく存在していた。
だがあなたが目覚めたとき
その夢の世界は存在しなかったことを知る。
この現象世界は
「私は存在している」という存在感の襲来とともに
訪れたものだ。
この存在の感覚が訪れる前にも
絶対的状態があることをあなたは直感的に
視覚化できないだろうか?
私は見るという行為の中心をこの絶対的状態に置いている。
見えているものはあなたと同じなのだ。
世界はたしかに起こっている。
それを否定はしない。
だがその知覚対象である世界は
ただ意識の中の見かけとして
現れているだけなのだ。
──────────────────
始まったものは、
終わらなければならない。
現れたものは消えなければならない。
見かけの継続は相対性の問題だが、
その原理とは、
時間と経過の支配下にあるものは何であれ、
終わらなければならず、
それゆえ、
現実ではないということだ。
では、
この生きている夢の中で、
あなたはまだ眠っていて、
そして、
認識可能なすべてのものは
生というこの幻想の中に含まれていることを、
あなたは直感的に理解できるだろうか?
つまり、
この対象化された世界を認識している間、
自分自身のことを、
認識される全体から分離している
一つの「実体」だと思っている人は、
実際はこの非常に仮想的世界の
統合的一部であるということを?
また次のことをも考えてみなさい──
私たちは、
自分の望みや希望と野心に従った、
そして、
自分自身の個人的努力を通じた、
自分の計画と意図に従った
自分自身の人生を生きていると、
確信しているようである。
しかし、
これは本当にそうなのだろうか?
それとも、
私たちはまさに個人的夢の中でのように
操り人形として、
意志もなく夢見られ、
生かされているのだろうか?
考えなさい!
見かけとしてではあるが、
世界がただ実存するように、
夢見られている人物たちは
どちらの夢の中でも、
中身を持っているに違いないことを
忘れてはいけない──
夢見られている人物たちは
夢の中の主体である。
だから、
私は言うのだ──
相対的には「私」は存在していないが、
顕現した宇宙が私自身である。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p101)
──────────────────
始まったものは終わらなければならない。
それはただの意識の中の束の間の見かけだ。
時間(観念的思考)の中にあるものには、
何の実体もないのだ。
したがって、
その観念的思考の中に現れる世界の中で
自分の存在を確信している者は、
その観念的思考の世界の一部になる。
睡眠中の夢から目覚めたら
その夢の世界が存在しなかったとわかるように、
この時空間(観念的思考)の中の世界も
存在感が訪れる前の絶対的状態に
視座を置く者には夢のようにしか現れない。
あなたはその夢の中で
ただ操り人形のように生かされている
夢の中の主体なのか?
それともそれがすべて
自分が生み出す夢と知りながら
見ている存在なのか?
それをしっかり熟考しなさい。
──────────────────
訪問者
私は全体像を理解し始めたと思います。
マハラジ
考えることそれ自身が
マインドの中の概念ではないだろうか?
物を直感的に見るとき、
思考は不在である。
だから、
あなたが自分は理解した
と思っているとき、
あなたは理解していないのだ。
あなたが直接認識するとき、
考えることはない。
あなたは自分が生きていることを
知っているが、
自分が生きていると考えることはない。
訪問者
なんということでしょうか!
あなたが提供しているのは
新しい次元のように思います。
マハラジ
私は新しい次元については知らないが、
あなたはそれをうまく表現した。
実にそれは、
物事を測る新しい方向と
言うことができるだろう
──視点の新しい中心──
思考を避け、
物事を直接認識することによって、
観念化を避けることになるからだ。
言い換えるなら、
全体的マインドで直感的に見るとき、
見かけの見る人は消え、
見ることが見られるものになる。
それから、
この訪問者は立ち上がって、
かなりの献身的愛着と従順さをもって、
マハラジに敬意を表しました。
それは彼が到着したときに示したよりも
深いものでした。
彼はマハラジの目を見つめ、
そして、
微笑みました。
マハラジが彼に
「なぜ微笑んでいるのかね?」
と尋ねると、
「ある英語のことわざを思い出したからです」
と答えました。
「彼らはあざ笑うためにやってきたが、
祈るために残った!」
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p102-103)
──────────────────
【私は全体像を理解し始めたと思います】
(^_-)
> 考えることそれ自身が
> マインドの中の概念ではないだろうか?
考えるということは
マインドの中で起こっているのだ。
> 物を直感的に見るとき、
> 思考は不在である。
直感的に理解するときそこに思考は存在しない。
> だから、
> あなたが自分は理解した
> と思っているとき、
> あなたは理解していないのだ。
だからあなたが
「私は理解したと思います」と言うとき、
あなたは理解していない。
> あなたが直接認識するとき、
> 考えることはない。
> あなたは自分が生きていることを
> 知っているが、
> 自分が生きていると考えることはない。
あなたは
「私は生きていると思います」とは言わない。
あなたが生きていることは、
誰に承認してもらわなくても
あなた自身が知っているからだ。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
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おこがましくも『アセ通』既刊号は
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………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「私は理解したと思います」
という言葉の含意がわかりましたね。(*^_^*)
今日もすっかり暗くなりました。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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