home > 通信 >『アセンション館通信』第850号:永遠の今(ルパート・スパイラ)



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2020/08/02(第850号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 この今が唯一の今で、平安、幸福、愛のすべてが今ここに、
 この状況にある。『プレゼンス―第1巻』(ルパート・スパイラ)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在516名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.永遠の今(ルパート・スパイラ)

2.編集後記
──────────────────
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.永遠の今(ルパート・スパイラ)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

八月の声を聞いて青空が姿を現しました。

雲が消えれば、

いつでも青空があったわけですね。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と“「私は在る」噺”に

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

夢(現象)の中では

いろいろな観念が生み出されます。

夢が崩壊すれば

観念が湧く必要もなくなるのでしょう。

肉体精神機構が分離を幻出するための

ゴーグルであることが確かだとして、

それを被ることを望んだ自分がいるのか、

それともそんな相談を受けた者は

存在しないのか、

そこのところはわかりません。

感情論理としては、

自ら望んでゴーグルをつけるほうが

納得がいくような気もしますが。


思い出すことすべてが

物語にすぎないような気もしますし。

何気なく横の本棚に目をやったら

なぜかルパート・スパイラの

『プレゼンス―第1巻』

という本に手が出ました。

取り出して眺めてみると、

これがまたいいんですよね。

比較的はじめのほうに

「永遠の今」という章があります。

とても平明な記述の中に

時間が存在しないことが説明されます。

ここで語られている説明を読んで、

なおかつ幸福を探すために

時間を温存しておこうとするのは……。(-_-;)

いや、わかりませんね。(*^_^*)

何かをできる誰もいないわけですし。

では、早速、

本文に入ってご紹介していきましょう。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 
 永遠の今
 
 
 すべての体験は、
 今、起こっています。
 
 往々にして私たちは、
 今を、際限ない過去と
 際限ない未来との間に挟まれた
 断片として捉えます。
 言い換えるなら、
 「今」は時間の継続期間、
 時系列の中で刻々と動いていく
 「今このとき」として捉えられています。
 
 今は疑いなく知られ、
 体験されています。
 では、時間はどうでしょう?
 
 時間はふたつの出来事の間の継続期間です。
 たとえば、
 今日の朝食と明日の朝食との間には
 二十四時間があることになります。
 けれど、
 この継続期間の、
 私たちの実際の体験とは
 どのようなものなのでしょう?
 今この瞬間における、
 今朝の朝食の体験とは何なのでしょう?
 
 それは、
 思考やイメージでしかありません。
 そして、
 明日の朝食もまた
 思考やイメージでしかありません。
 すべての思考やイメージは、
 過去や未来ではなく、
 今、起こっています。
 
 言い換えるなら、
 今、ここには、
 今朝の朝食や明日の朝食の
 実際の体験はありません。
 私たちは朝食についての
 思考やイメージを体験していて、
 それが今、起こっているのです。
 
 今朝、
 朝食を食べたとされている時間も、
 明日、
 朝食を食べるだろうとされている時間も、
 どちらも想像にすぎません。
 実際に体験されているわけではないのです。
 
 実際の朝食の体験が起きるのは、
 今、食べているときだけです。
 朝食についての思考が立ち上がるのもまた、
 今です。
 
 言い換えるなら、
 私たちが真に知っているのは、
 今だけです。
 私たちは、
 未来や過去について実際には知りません。
 未来や過去について実際に知らないのなら、
 どうやって時間について
 知ることができるのでしょう?
 そう、
 私たちは時間を知ることはできないのです。
 
 時間を知らないのなら、
 この体験が起きている今が、
 すべての体験が起きている今と
 同じではないとどうしてわかるのでしょう?
 赤ん坊としての私たちの
 生まれてはじめての体験が起こった今と、
 この本の文字があらわれている今とが
 同じではないと、
 どのようにして知るのでしょう?
 
 あの今とこの今は違うというのは思考です。
 そして、
 その思考もまた、
 今、起こっています。
 私たちは今から逃れることはできません。
 今以外の今が存在し得る時間はないのです。

 『プレゼンス―第1巻』(p89-90)
──────────────────

> すべての体験は、
> 今、起こっています。
> 
> 往々にして私たちは、
> 今を、際限ない過去と
> 際限ない未来との間に挟まれた
> 断片として捉えます。
> 言い換えるなら、
> 「今」は時間の継続期間、
> 時系列の中で刻々と動いていく
> 「今このとき」として捉えられています。

この出発点・前提は、

この本の読者や、

このメルマガの読者を含めて、

ほぼすべての地球人の現状、

誰もが同意できる観点だと思います。

ルパート・スパイラは

その常識に対して

次のような視点を紹介することから

論述を始めます。

> 今は疑いなく知られ、
> 体験されています。
> では、時間はどうでしょう?

と。

> 時間はふたつの出来事の間の継続期間です。
> たとえば、
> 今日の朝食と明日の朝食との間には
> 二十四時間があることになります。
> けれど、
> この継続期間の、
> 私たちの実際の体験とは
> どのようなものなのでしょう?
> 今この瞬間における、
> 今朝の朝食の体験とは何なのでしょう?

この展開はついていけますよね。

> 今朝、
> 朝食を食べたとされている時間も、
> 明日、
> 朝食を食べるだろうとされている時間も、
> どちらも想像にすぎません。
> 実際に体験されているわけではないのです。

これに反論できる人はいないでしょう。

> 実際の朝食の体験が起きるのは、
> 今、食べているときだけです。
> 朝食についての思考が立ち上がるのもまた、
> 今です。

紛れもない事実です。

> 言い換えるなら、
> 私たちが真に知っているのは、
> 今だけです。

実際に知っているのは今だけ。

> 私たちは、
> 未来や過去について実際には知りません。
> 未来や過去について実際に知らないのなら、
> どうやって時間について
> 知ることができるのでしょう?
> そう、
> 私たちは時間を知ることはできないのです。

われわれは過去や未来を

実際に体験したことはなく、

また体験できる可能性もない。

実際には知らないのに、

どうして

過去と未来に裏打ちされた

時間というものがあると

知ることができるのか?

そして実際、

時間を想像することはできても、

時間を知ることはできない。

> 時間を知らないのなら、
> この体験が起きている今が、
> すべての体験が起きている今と
> 同じではないとどうしてわかるのでしょう?

これがじつに新鮮な視点です。

われわれが知っているのは

体験できるのは今だけだということ、

今しか体験できないということです。

それなら

すべての体験が起こっているのは

この今かもしれないではないか?

どうしてそうではないとわかるのか?

> 赤ん坊としての私たちの
> 生まれてはじめての体験が起こった今と、
> この本の文字があらわれている今とが
> 同じではないと、
> どのようにして知るのでしょう?

赤ん坊として生まれたときの今と

これを書いている今が同じではないと、

どうしてわかるのか?

> あの今とこの今は違うというのは思考です。
> そして、
> その思考もまた、
> 今、起こっています。
> 私たちは今から逃れることはできません。
> 今以外の今が存在し得る時間はないのです。

「赤ん坊のときの今と
 
 今現在のこの今は違う」
 
と言っているのは思考にすぎない。

その思考もまた、今起こっている。

たとえ思考がそんなことを想像しても、

今以外の今が存在できる余地はない。

つまり

時間という思考は今起こりえても、

時間を体験できる今はない。

この今以外の

過去や未来という

(今が存在すると主張する)

時間は存在しえない。

──────────────────
       ∞
 
 今から逃れてみましょう。
 一秒でいいですから、
 今から逃れ、
 過去に戻ってみましょう。
 できますか?
 一分間、
 未来に身を置いてみることはできますか?
 いったいどこへ行くというのでしょう?
 どこに行けるというのでしょう?
 
 体験にしっかりと寄り添うと、
 この今こそが、
 いつもここにある
 唯一の今なのだとわかります。
 それは永遠に、今なのです。
  
 この今は、
 時間の中でどこかに行ったりはしません。
 今が前へ進んだり
 後ろへ進んだりするための
 時間は存在しません。
 今は、
 時間の中の一点ではありません。
 それは時間とは関係ありません。
 時間からできていないのです。
 
 今は何からできているのでしょう?
 今はいつもここにあるのだから、
 同じようにいつもここにある何かから
 できているはずです。
 私たちの体験において、
 いつもここにあるものとは何なのでしょう?
 心(マインド)、体、世界?
 いいえ、違います。
 それは私たちの自己でしかあり得ません。

 今は、
 私たちの自己です。
 私たちが今にあるのではありません。
 私たちが今なのです。
 今は、
 他のすべてのものと一緒に
 自己が入っている容れ物ではありません。
 それは私たちの自己であり、
 永遠の現存(プレゼンス)です。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p91-92)
──────────────────

> 今から逃れてみましょう。
> 一秒でいいですから、
> 今から逃れ、
> 過去に戻ってみましょう。
> できますか?
> 一分間、
> 未来に身を置いてみることはできますか?
> いったいどこへ行くというのでしょう?
> どこに行けるというのでしょう?

あなたは今以外のどこかへ

行けるだろうか?

一瞬でも今から離れられるだろうか?

それはできない。

> 体験にしっかりと寄り添うと、
> この今こそが、
> いつもここにある
> 唯一の今なのだとわかります。
> それは永遠に、今なのです。

実際の体験に即して

誠実に言うなら、

あなたは一瞬たりとも

この今を離れることはできない。

これが存在しうる唯一の永遠の今なのだ。

> この今は、
> 時間の中でどこかに行ったりはしません。
> 今が前へ進んだり
> 後ろへ進んだりするための
> 時間は存在しません。

この今は

永遠にあなたがいるここにあって、

その永遠の今が前後に移動できるような

時間などというものは存在しない。

> 今は、
> 時間の中の一点ではありません。
> それは時間とは関係ありません。
> 時間からできていないのです。

今とは時間の中の一点ではない。

今は時間からできているのではない。

時間などとは何の関係もない。

> 今は何からできているのでしょう?
> 今はいつもここにあるのだから、
> 同じようにいつもここにある何かから
> できているはずです。

では、今は何からできているのか?

今はいつもここにある。

それなら、今は、同じように

いつもここにあるものでできているはず。

> 私たちの体験において、
> いつもここにあるものとは何なのでしょう?
> 心(マインド)、体、世界?
> いいえ、違います。
> それは私たちの自己でしかあり得ません。
> 今は、
> 私たちの自己です。
> 私たちが今にあるのではありません。
> 私たちが今なのです。
> 今は、
> 他のすべてのものと一緒に
> 自己が入っている容れ物ではありません。
> それは私たちの自己であり、
> 永遠の現存(プレゼンス)です。

自分の体験に即して

正直に誠実に述べるなら、

それがマインドでも、身体でも、

世界でもないのは明らかだ。

あらゆる体験において、

つねに永遠にここにあるもの、

そしてその体験に気づいているもの、

それはわれわれの自己でしかありえない。

今とは、

われわれの自己のことだ。

今の中に自己がいるのではなく、

今とはわれわれの自己、

永遠に気づいている

現存の別名に他ならない。

──────────────────
 体や心(マインド)としての自己ではなく、
 気づいている現存である自己に、
 今を拒むどのような動機があるのでしょう?
 そこに思考がなけれ、
 自己には何の動機もありません。
 仮に、
 動機を育んでいる思考の最中であったとしても、
 動機はその思考でしかありません。
 言い換えるなら、
 動機はすべて思考のためにあるのであって、
 私たちの自己とは関係がありません。
 
 「私たちの目的のために
  動機を育む思考があるのだ」
 と思考だけは信じるかもしれませんが、
 動機を持つ自己は架空の自己です。
 架空の自己に動機があるのではありません。
 架空の自己が動機なのです。
 動機とはつまり、
 今を離れ、
 架空の過去や未来において何かに抵抗し、
 何かを探すことそのものです。
 
 真の、唯一の自己は本来、
 すべての動機、計画、目的から自由です。
 その自由な自己のために、
 その自由な自己から、
 結局はすべての動機、計画、
 目的が生まれるのです。
 
 私たちは純粋な平安、幸福であって、
 今に抵抗することなど知らず、
 また、
 それを何かと置き換えようともしません。
 
 思考があってはじめて、
 私たちは今に抵抗し、
 想像し得るより良い状況と
 置き換えようとします。
 そこに思考がなければ、
 今を後にして、 
 未来に平安、幸福、愛、
 もしくは目覚めを得ようとする
 動機は起こりません。
 
 平安、幸福、愛を未来に求めるためには、
 私たちは
 今ここにある自己の真の性質を忘れ、
 求めているものが今ここに、
 自己自身にあることを
 忘れなければなりません。
 
 幸福探しのまたの名は不幸探しであり、
 それはつまり、
 私たちの自己を忘れることなのです。
  
 『プレゼンス―第1巻』(p92-93)
──────────────────

> 体や心(マインド)としての自己ではなく、
> 気づいている現存である自己に、
> 今を拒むどのような動機があるのでしょう?
> そこに思考がなけれ、
> 自己には何の動機もありません。
> 仮に、
> 動機を育んでいる思考の最中であったとしても、
> 動機はその思考でしかありません。
> 言い換えるなら、
> 動機はすべて思考のためにあるのであって、
> 私たちの自己とは関係がありません。

この今の中に

一つの身体が見えていて、

その身体がある想念を生じさせており、

その囚われた思いの中で

今の状況から逃げだしたいと

思い悩んでいたとして、

それを映し出している永遠の現存に、

その今を拒むどんな動機があるだろう?

永遠の気づきは永遠に気づいているだけ。

そこにはどんな動機もありえない。

動機は湧いている思考でしかない。

動機は思考による思考のためのもので、

永遠の気づきとは何の関係もない。

> 「私たちの目的のために
>  動機を育む思考があるのだ」
> と思考だけは信じるかもしれませんが、
> 動機を持つ自己は架空の自己です。
> 架空の自己に動機があるのではありません。
> 架空の自己が動機なのです。
> 動機とはつまり、
> 今を離れ、
> 架空の過去や未来において何かに抵抗し、
> 何かを探すことそのものです。

「わたしの目的実現のために、

 動機を育も思考があるのだ」

なとど信じる思考が湧いていたとしても、

その動機を捏造しているのは架空の自己。

しかも架空の自己が

動機を持っているのですらなく、

湧いている動機こそが架空の自己だ。

動機とは、

永遠の今を離れ

架空の過去の文脈から架空の未来を想像し、

その架空の状況に抵抗しようと

何かを求めることなのだから。

> 真の、唯一の自己は本来、
> すべての動機、計画、目的から自由です。
> その自由な自己のために、
> その自由な自己から、
> 結局はすべての動機、計画、
> 目的が生まれるのです。

実在する永遠の気づきは、

いかなる動機、計画、目的にも

拘束されてはいない。

逆にその自由な自己から、

すべての動機、計画、目的が

生まれているのだから、

> 私たちは純粋な平安、幸福であって、
> 今に抵抗することなど知らず、
> また、
> それを何かと置き換えようともしません。

永遠に実在する気づきは

もともと純粋な平安、幸福。

今に抵抗することなど思いつきもせず、

別の何かと置き換えようともしていない。

> 思考があってはじめて、
> 私たちは今に抵抗し、
> 想像し得るより良い状況と
> 置き換えようとします。
> そこに思考がなければ、
> 今を後にして、 
> 未来に平安、幸福、愛、
> もしくは目覚めを得ようとする
> 動機は起こりません。

想像の中で状況に囚われ、

より良い状況を望んで

今に抵抗するのは思考だ。

そこに思考がなければ、

今を離れようとする意図も、

未来に平安、幸福、愛、

さらには目覚めを得ようとする動機も

起こりえない。

> 平安、幸福、愛を未来に求めるためには、
> 私たちは
> 今ここにある自己の真の性質を忘れ、
> 求めているものが今ここに、
> 自己自身にあることを
> 忘れなければなりません。
> 
> 幸福探しのまたの名は不幸探しであり、
> それはつまり、
> 私たちの自己を忘れることなのです。

平安、幸福、愛を未来に求めるために

私たちは一度

求めているものが今ここに、

自己自身にあることを

忘れなければならないのです。

──────────────────
       ∞
 
 では
 何が私たちの自己の
 現存を忘れてしまうのでしょう?
 自己には
 「自己を知らないこと」ができないため、
 それは私たちの自己ではありません。
 自己とは、
 それ自身の知だからです。
 
 平安と幸福という永遠の性質、
 つまり、
 私たちの真の自己、
 気づいている現存を忘れてしまうのは
 どの自己なのでしょう?
 それは架空の自己です。
 それこそが分離した自己です。
 
 架空の自己は、
 それを想像する思考から生まれます。
 それは架空の、
 思考が生んだ自己であり、
 平安と幸福は、
 今この現状にはないと想像します。
 
 もし、
 幸福と平安がここにないのであれば、
 いったいどこにあるのでしょう?
 「今ではない」どこかでしかありません。
 この「今ではない架空のどこか」に
 与えられた名前が、
 時間です。

 実のところ、
 架空の分離した
 内側にある自己の性質である
 抵抗と模索に意味が与えられ、
 それが繰り広げられる舞台が
 時間なのです。
 
 今はこの今でしかいないことが
 はっきり分かると、
 分離した自己による抵抗や模索は
 崩れ去ります。
 分離した自己の行き場がなくなるのです。
 
 抵抗や模索が崩れ去ると、
 分離した自己そのものも
 崩れ去ります。
 分離した自己とはそもそも、 
 何かを求める実体ではなく、
 何かを求める活動そのものだからです。
 
 この今が唯一の今で、
 平安、幸福、愛のすべてが今ここに、
 この状況にあるということ、
 今ここに、
 この状況にしかありえないということを
 体験的に理解したならば、
 探求は何になるというのでしょう?
 目覚めを求める意味とは何なのでしょう?
 誰がそれを求めるというのでしょう?
 
 架空の自己が架空の未来に
 そうした物事を求めるだけであって、
 思考がなければ、
 私たちの自己、
 気づいている現存には、
 現状を否定し、
 それを置き換えようとする
 仕組みはありません。
  
 『プレゼンス―第1巻』(p93-95)
──────────────────

> では
> 何が私たちの自己の
> 現存を忘れてしまうのでしょう?
> 自己には
> 「自己を知らないこと」ができないため、
> それは私たちの自己ではありません。
> 自己とは、
> それ自身の知だからです。

では、

何が永遠の現存を忘れるのか?

それは私たちの自己という

永遠の現存ではありえない。

なぜなら、

自己とは自己を知っていることだから。

> 平安と幸福という永遠の性質、
> つまり、
> 私たちの真の自己、
> 気づいている現存を忘れてしまうのは
> どの自己なのでしょう?
> それは架空の自己です。
> それこそが分離した自己です。

現存が永遠の幸福であることを

知っている真の自己が

自身を忘れることがない以上、

気づいている現存を忘れるのは

どこの自己か?

それこそが自ら分離を想像している

架空の自己だと。

> 架空の自己は、
> それを想像する思考から生まれます。
> それは架空の、
> 思考が生んだ自己であり、
> 平安と幸福は、
> 今この現状にはないと想像します。

架空の自己とは

思考が生んだ自己であり

今のこの現状の中には

平安と幸福がないと想像する思考です。

> もし、
> 幸福と平安がここにないのであれば、
> いったいどこにあるのでしょう?
> 「今ではない」どこかでしかありません。
> この「今ではない架空のどこか」に
> 与えられた名前が、
> 時間です。

もしこの今のなかに

幸福と平安がないのだとしたら、

それをどこに探し求めたらいいのか?

(そして、

 それが足りないことを誰が、
 
 あるいは何が感じているのか?)

探すべき場所は

「今ではない」どこかしかありえない。

その幸福と平安を探すべき

「今ではない架空のどこか」

に付けられた名前こそが時間だと。

> 実のところ、
> 架空の分離した
> 内側にある自己の性質である
> 抵抗と模索に意味が与えられ、
> それが繰り広げられる舞台が
> 時間なのです。

実際、時間とは、

永遠の幸福と平安の欠如を感じている

分離を想像する架空の自己が、

自らの抵抗と模索に意味を与え、

それを繰り広げるための舞台にほかならない。

> 今はこの今でしかいないことが
> はっきり分かると、
> 分離した自己による抵抗や模索は
> 崩れ去ります。
> 分離した自己の行き場がなくなるのです。

実際の体験が起こる今が、

この今しかないことが腑に落ちると、

この今以外のどこにも

永遠の幸福と平安があるはずがないとわかる。

変化する見かけの中に

幸福と平安を探し求めていた

抵抗や模索は行き場を失い崩壊する。

> 抵抗や模索が崩れ去ると、
> 分離した自己そのものも
> 崩れ去ります。
> 分離した自己とはそもそも、 
> 何かを求める実体ではなく、
> 何かを求める活動そのものだからです。

変化する見かけの形に向けられていた

心的エネルギーは退潮し、

分離した架空の自己が解体する。

もともと

それは実体ではなく、

抵抗し模索する活動そのものだったのだから。

> この今が唯一の今で、
> 平安、幸福、愛のすべてが今ここに、
> この状況にあるということ、
> 今ここに、
> この状況にしかありえないということを
> 体験的に理解したならば、
> 探求は何になるというのでしょう?
> 目覚めを求める意味とは何なのでしょう?
> 誰がそれを求めるというのでしょう?

現にあるこの今以外に

どんな今もないことが了解されたら、

平安、幸福、愛のすべては

今ここにしかありえないことがわかる。

なぜなら

平安、幸福、愛を求めていたのは、

その欠如を感じていたためだから。

現存というこの今しかないのだから、

平安、幸福、愛は今ここにある。

目覚めとは何か?

求めるとは何か?

誰が何を求めるというのか?

> 架空の自己が架空の未来に
> そうした物事を求めるだけであって、
> 思考がなければ、
> 私たちの自己、
> 気づいている現存には、
> 現状を否定し、
> それを置き換えようとする
> 仕組みはありません。

平安、幸福、愛の欠如を想像する思考が

一瞬のあいだ湧いただけ。

架空の自己が架空の未来に、

それを求めようとしただけ。

その思考が静まれば、

その背後にある永遠の気づきに

現状を否定し、

想像上のより良い状況と

置き換えようとする試みは起こらない。

「今」とは

これを書いているこの瞬間の今のこと。

これまであらゆる体験が起こってきた、

その今であることが納得されると、

今あるこの状況の中に

平安、幸福、愛があることもわかる。

他のところを探すように仕向けられるのが、

この分離を幻出するゴーグルの機能なのか?

それとも地球という特殊環境のせいなのか?

しかし、

平安、幸福、愛は

今この体験の中に秘められている。

それを避けなければ。

架空の時間の中にそれを求めなければ。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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これから暑い夏がやってきますね。

今日は暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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