━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2020/08/09(第852号)
☆☆ ☆ ☆☆
☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。
この今が唯一の今で、平安、幸福、愛のすべてが今ここに、
この状況にある。『プレゼンス―第1巻』(ルパート・スパイラ)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在513名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇
1.意識して静寂になる
2.編集後記
──────────────────
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.意識して静寂になる
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
この山麓の地にまで
暑さが押し寄せてきています。
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と“「私は在る」噺”に
お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
一週間に一度の貴重な時間を
こうしておしゃべりに費やすことが
どれほど勿体ないことなのか腑に落ちるまで、
埒もない言葉が流れつづけるのか……。
このpariパターンの生涯とは
そのために用意されたのでしょうか?
ルパート・スパイラという方の言葉は
昔の自分には響かなかったかもしれない
穏当な表現の中に
とても深遠な意味を込める方です。
ルパート・スパイラの先生は
フランシス・ルシールという方ですが、
そのフランシス・ルシールの先生は
ジャン・クラインという方です。
ちょっと気になって、
ジャン・クラインの翻訳書
『われ在り I AM』
という本を入手してみました。
このごろは以前のように
一気に読み通すなどということはできないので、
ところどころ開いて眺めています。
今朝こんな箇所に出会いました。
紹介したいと思います。
『われ在り I AM』には
目次というのはありません。
ただ、
1から19までの数字で
全体の記述が区切られているだけです。
今回はその中の「10」という
番号が付された項目の一部です。
この本の場合も
質疑応答が書籍化されているのですが、
編集的に質問(細ゴシック)と
ジャン・クラインの回答(細明朝)は
字体でしか示されていません。
ちょっと区別がつきにくくて、
もう少し視認しやすくししてもいいのでは、
などと思いました。(*^_^*)
ここでは
【質問者】と【ジャン・クライン】として
区別します。
(相変わらず
常識の範囲を超えた長い引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
──────────────────
【質問者】
人生は苦痛に他なりません。
世界は常に悲嘆に暮れています。
このことについて
あなたはどのようにお考えですか?
【ジャン・クライン】
苦しみや悲しみを感じるのは個人です、
この個人は喜びの不在を悲しみと呼びます。
しかし、
これらの相補的なものはいずれも
意識の中で知覚された状態です。
そこから、
知覚されているものと知覚者は
明らかに異なることがわかります。
人格、個人、自我(エゴ)は
一つの知覚対象に過ぎません。
私たちは単に習慣と誤解のせいで、
自分と自分の知覚対象を
同一視していますが、
それこそが私たちの
あらゆる苦しみの原因なのです。
人格は快楽と苦痛の構造の中にしか
存在しません。
自我は絶えず何かを探し求め、
別の何かから逃げ続けることによって
みずからを維持しています。
それは常に何かを選び続け、
意図し続けながら生きているのです。
そして、
この一つ目の洞察から、
私たちの意図や意志はすべて、
自我という幻によって引き起こされた
苦しみから逃れるために
あるのだということがわかります。
選択したり、
獲得したり、
野望を抱いたりすることは
エネルギーの不必要な投影です。
対象そのものには
喜びも苦痛もありません。
苦痛や喜びは完全に
その背後にある人格に依存します。
私たちは
一つの状況にあるすべての要素を
単なる事実として見ること、
つまり
状況を受け入れることができません。
それは人格という幻が
選択を行うせいです。
私たちは苦しみます。
しかし、
苦しみや悲しみは
私たちに
「誰が苦しんでいるのか」
だけを探求するように導く、
強力な指針です。
この問題を探求したいという
深い欲求を抱くと、
重点は知覚されるものから
究極の知覚者へと移ります。
究極の知覚者の本質は
快楽の有無を超えた喜びです。
このようなことから
私たちは、
「苦しみは喜びに繋がる」
と言うことができます。
『われ在り I AM』(p111-112)
──────────────────
> 【質問者】
> 人生は苦痛に他なりません。
> 世界は常に悲嘆に暮れています。
> このことについて
> あなたはどのようにお考えですか?
まあ、
これは探求者の共通の思いですよね。
> 【ジャン・クライン】
> 苦しみや悲しみを感じるのは個人です、
【苦しみや悲しみを感じるのは個人】
実体のない架空の存在が苦しむのですね。
> この個人は喜びの不在を悲しみと呼びます。
その個人は
「喜びの不在」を「悲しみ」と言い換えるようです。
> しかし、
> これらの相補的なものはいずれも
> 意識の中で知覚された状態です。
「苦しみ」とか「喜び」と呼ばれるものは
意識の中のち各対象物であると。
> そこから、
> 知覚されているものと知覚者は
> 明らかに異なることがわかります。
そのことから、
「知覚されているもの」と「知覚者」は
明らかに異なることがわかる。
> 人格、個人、自我(エゴ)は
> 一つの知覚対象に過ぎません。
だから、
人格とか個人とか自我といったものは
すべて知覚の対象物にすぎない。
ほんの数行でここまで到達します。
> 私たちは単に習慣と誤解のせいで、
> 自分と自分の知覚対象を
> 同一視していますが、
> それこそが私たちの
> あらゆる苦しみの原因なのです。
【自分の知覚対象】を
【自分】と同一視することこそが、
あらゆる苦しみの原因なのだと。
> 人格は快楽と苦痛の構造の中にしか
> 存在しません。
人格というのは知覚対象である
相補的構造の中にしか存在しない。
> 自我は絶えず何かを探し求め、
> 別の何かから逃げ続けることによって
> みずからを維持しています。
そして自我というのは、
絶えず何かから逃げ続け、
何かを探し求め続ける運動のことだと。
> それは常に何かを選び続け、
> 意図し続けながら生きているのです。
常に何かを選び続け、
意図し続けることで生きているのが
エゴというものだと。
> そして、
> この一つ目の洞察から、
> 私たちの意図や意志はすべて、
> 自我という幻によって引き起こされた
> 苦しみから逃れるために
> あるのだということがわかります。
いったんそのことが洞察されたら
いわゆる「意図」とか「意志」は
すべてエゴという
偽りの観点が捏造した苦しみから
逃れるための手段として
更に捏造された観念だとわかる……。
まさに一刀両断ですね。
> 選択したり、
> 獲得したり、
> 野望を抱いたりすることは
> エネルギーの不必要な投影です。
こういった、
選択、獲得、野望といった観念は
すべて無用なエネルギーの投影です。
> 対象そのものには
> 喜びも苦痛もありません。
> 苦痛や喜びは完全に
> その背後にある人格に依存します。
知覚の対象物そのものに
喜びや苦痛が内蔵されているのではなく、
喜びや苦痛といった反応は
その対象物を知覚している人格の
観点によって創造されるのだと。
> 私たちは
> 一つの状況にあるすべての要素を
> 単なる事実として見ること、
> つまり
> 状況を受け入れることができません。
一つの状況に遭遇すると
個人はそれを単なる事実の集合として
見ることができない。
その状況を解釈せず、
ただ事実として認識することができない。
> それは人格という幻が
> 選択を行うせいです。
それは人格という虚構の観点が、
対象事実の集合に取捨選択を行うからだ。
> 私たちは苦しみます。
そして個人は苦しむのです。
> しかし、
> 苦しみや悲しみは
> 私たちに
> 「誰が苦しんでいるのか」
> だけを探求するように導く、
> 強力な指針です。
しかし同時に、
その苦しみや悲しみは、
自分を個人と自覚する観点を
最後に「誰が苦しんでいるのか」
という一点への探求に導くための
強力な指針の役割も果たしている。
> この問題を探求したいという
> 深い欲求を抱くと、
> 重点は知覚されるものから
> 究極の知覚者へと移ります。
いったい
「誰が苦しんでいるのか?」
という最終的疑問が深く根づくと
その探求の重点は
それまでの知覚対象から
それを知覚している者へと移る。
> 究極の知覚者の本質は
> 快楽の有無を超えた喜びです。
最終的な真の知覚者とは
快楽のあるなしとは関係のない
現象を超越した喜びなのです。
> このようなことから
> 私たちは、
> 「苦しみは喜びに繋がる」
> と言うことができます。
そういう意味では、
「苦しみは喜びに繋がる」
と言うこともできる。
──────────────────
【質問者】
真理の探究において
思考は、どのような役目を
果たすのでしょうか?
【ジャン・クライン】
思考を分離した実体とみなすと、
大部分の人がそうしているように、
思考を攻撃や防御のための
道具として使うことになります。
確かに思考は過去、
すなわち記憶からできていますが、
それは自分自身の限界を
はっきりと自覚することができます。
ですから、
最終的に思考はその源である静寂、
「在ること」に道を譲ります。
思考は静寂から生まれ
静寂の中に消えてゆきます。
したがって、
思考の機能とは、
思考の生じた場所、
つまり思考不可能な究極のものを
指し示すことなのです。
『われ在り I AM』(p111-112)
──────────────────
> 【質問者】
> 真理の探究において
> 思考は、どのような役目を
> 果たすのでしょうか?
自分には思考することしかできない
というふうに感じていると、
なんとなく、
こういうふうに聞きたくなりますよね。
> 【ジャン・クライン】
> 思考を分離した実体とみなすと、
> 大部分の人がそうしているように、
> 思考を攻撃や防御のための
> 道具として使うことになります。
思考というものを
独自の実体と考えていると、
その思考を自分を護るための
攻撃や防御の道具として使うという
大多数の人々と
同じ轍を踏むことになります。
> 確かに思考は過去、
> すなわち記憶からできていますが、
> それは自分自身の限界を
> はっきりと自覚することができます。
思考というものが、
過去の記憶に依ることは間違いない。
が同時にその思考は
自分の限界も明確に自覚していて、
思考そのものとして
自足することはできない。
> ですから、
> 最終的に思考はその源である静寂、
> 「在ること」に道を譲ります。
そのため、
最終的には、
思考はそれが生まれた源である
静寂の中へ帰るしかなく、
「在ること」に道を譲ることになる。
> 思考は静寂から生まれ
> 静寂の中に消えてゆきます。
思考は静寂の中から生まれ、
静寂の中へと消えてゆくのです。
> したがって、
> 思考の機能とは、
> 思考の生じた場所、
> つまり思考不可能な究極のものを
> 指し示すことなのです。
その意味では、
思考の働きというのは、
思考が生まれてきた場所、
つまり考えることができない
究極のものを指し示すことだ、
という言い方もできる。
──────────────────
【質問者】
自我は
自分の存在を強化するために、
いつも思考を乗っ取ります。
しかし、
思考よりも自我の観念の方が
深く私たちの中に
根差しているのではないでしょうか?
【ジャン・クライン】
自我は数多くある思考の中の
一つに過ぎません。
時間は記憶の、
すなわち過去の産物です。
自分を分離した実体であると信じて、
自我はスクリーンを作り、
その架空の存在や架空の連続性を
脅かしそうなものすべてに抵抗します。
この信念こそが不安や心配、
分裂した行動などの原因なのです。
『われ在り I AM』(p112-113)
──────────────────
> 【質問者】
> 自我は
> 自分の存在を強化するために、
> いつも思考を乗っ取ります。
> しかし、
> 思考よりも自我の観念の方が
> 深く私たちの中に
> 根差しているのではないでしょうか?
(さて、
あたかも自分を実体であるかのように
表現しているこの質問は、
何やら誤解に根ざしているような。)
> 【ジャン・クライン】
> 自我は数多くある思考の中の
> 一つに過ぎません。
自我というのは
それ自体が一つの観念、
つまり思考に過ぎません。
> 時間は記憶の、
> すなわち過去の産物です。
> 自分を分離した実体であると信じて、
> 自我はスクリーンを作り、
> その架空の存在や架空の連続性を
> 脅かしそうなものすべてに抵抗します。
全体から分離した“自分”とは
過去の記憶を根拠にして
時間という概念装置の中で生き延びる
架空の観念に過ぎません。
しかし、
その実体のない架空の観念が
自分を分離した実体だと信じると、
(つまり、
その思考に意識エネルギーが注がれると)、
自我は自分のまわりに膜を張り、
その膜の中に護られた架空の自分を
(その架空の存在やその連続性を)
脅かしそうなものすべてに抵抗します。
> この信念こそが不安や心配、
> 分裂した行動などの原因なのです。
このような信念(思考)こそが、
不安や心配といった
分裂した行動の原因です。
──────────────────
【質問者】
では、
どうすればその幻想やスクリーンから
自由になれるのですか?
【ジャン・クライン】
自我は必死に生き延びようとして、
蓄えた記憶にしがみついたり
将来に欲望を投影したりします。
そしてその結果、
大量のエネルギーを使い果たします。
蓄積、選択、同化などは
すべて一つの地平で、
つまり時間と持続の中で起こります。
そのエネルギーは
常にそれ自身に戻ってきて
悪循環を生み出します 。
この動きや分散、
あるいは過去と未来との間の
振り子運動に巻き込まれずにいると、
この習慣のパターンを維持していた
エネルギーを休ませることができます。
そして最終的に、
私たちは自分を自由にしてくれる
気づき(アウェアネス)を
自覚できるようになります。
そのとき、
そのエネルギーは
永遠の今の中に垂直に集まります。
精神活動と無関係で、
過去といっさい関わりを持たず、
肉体的もしくは心理的な習慣が
まったくなく、
選択も反復も行わない気づきだけが、
自発的な理解への扉を開くことができます。
瞬間的な理解は間違いを消し去り、
かつて間違いを犯すために使われていた
エネルギーは間違いから離れ、
「在ること」としての真理に統合されます。
できるだけ頻繁に、
意識して静寂になってください。
そうすれば、
あなたはもう、
あれこれのものになりたいという
欲望の餌食にはならないでしょう。
また、
日々の生活で起こる日常的な出来事が中に、
全体の成就の背後にある
深い意味を発見するでしょう。
なぜなら、
自我がまったくないからです。
絶えず戦略を立てているような
あなたの生き方や
あなたが夢中になっている
さまざまな期待は、
不安と欲望のパターンから生じたものです。
そして、それは
あなたが探し物を見つけるのを邪魔します。
しかし現実には、
あなたの探し物がなくなったことなど
一度もありません。
ですから、
あなたが本来の状態にあれば、
それを思い出すのに
何の手がかりも必要ありません。
なぜなら、
何も忘れられてはいないからです。
思考と感情は
海潮(うしお)のように満ち引きします。
あなたはそれらを自分と同一視して、
「私の思考、私の感情」
と言います。
肉体とは
多少局在化した濃密な感覚の塊です。
それと同様に、
心もただの
思考パターンと感情の集まりです。
しかし、
あなたの身体と心は
真我(セルフ)の現れに他なりません。
あなたが存在するのは、
あなたが純粋意識の現れだからです。
あなたの本質は鋭敏で
自分の中に現れるものすべてに
気づいています。
しかし、
あなたは自覚的に
気づかなくてはなりません。
つまり自分自身が気づいていることに
気づかなくてはなりません。
あなたはすべてのことの
究極の認識者です。
直接的な知覚があなたをこの生、
この存在に目覚めさせます。
論理的分析によって
自分の本質を知ることはできません。
しかし、
日常生活の中で瞑想を開花させれば、
自己の本質を成就します。
『われ在り I AM』(p113-115)
──────────────────
> 【質問者】
> では、
> どうすればその幻想やスクリーンから
> 自由になれるのですか?
まったくです。
> 【ジャン・クライン】
> 自我は必死に生き延びようとして、
> 蓄えた記憶にしがみついたり
> 将来に欲望を投影したりします。
はい、たしかに。
> そしてその結果、
> 大量のエネルギーを使い果たします。
間違いありません。
> 蓄積、選択、同化などは
> すべて一つの地平で、
> つまり時間と持続の中で起こります。
蓄積、選択、同化といった
物語を構成するための努力は、
すべて時間とその持続という
一つの平面内で、
つまり物語空間の中で起こるのです。
> そのエネルギーは
> 常にそれ自身に戻ってきて
> 悪循環を生み出します 。
そのエネルギーは
物語空間の中でたらい回しされて、
つねに発信者自身に戻ってきます。
それは誰ひとり止める者がいない
悪循環なのです。
> この動きや分散、
> あるいは過去と未来との間の
> 振り子運動に巻き込まれずにいると、
> この習慣のパターンを維持していた
> エネルギーを休ませることができます。
その物語空間の中に入って、
それを止めることはできません。
しかし、
その動きや分散と言った
過去と未来との間の振り子運動に
巻き込まれずにいることはできます。
その振り子運動にそれ以上介入せず、
エネルギーを注がずに放っておけたら、
それらの習慣パターンを維持していた
エネルギーを休息させられます。
> そして最終的に、
> 私たちは自分を自由にしてくれる
> 気づき(アウェアネス)を
> 自覚できるようになります。
そして最終的には、
自分がすべてを認識している
気づきであることが自覚できます。
そこに誰かはいません。
不自由は存在できません。
> そのとき、
> そのエネルギーは
> 永遠の今の中に垂直に集まります。
そのときエネルギーは
永遠の今の中に垂直に集まります。
(素晴らしいですね。)
> 精神活動と無関係で、
> 過去といっさい関わりを持たず、
> 肉体的もしくは心理的な習慣が
> まったくなく、
> 選択も反復も行わない気づきだけが、
> 自発的な理解への扉を開くことができます。
どんな活動とも習慣とも無縁な、
どんな物語にも属さない、
どんな意味にも汚染されない、
すべてに開いた気づきだけが、
自発的な理解への扉を開くことができる。
> 瞬間的な理解は間違いを消し去り、
> かつて間違いを犯すために使われていた
> エネルギーは間違いから離れ、
> 「在ること」としての真理に統合されます。
ゲシュタルトが変わると、
エネルギーはもう間違いの捏造に
使われることはなくなります。
> できるだけ頻繁に、
> 意識して静寂になってください。
思い出したら、
意識して静寂になってください。
(このことだけを
理解できればいいわけですね。)
> そうすれば、
> あなたはもう、
> あれこれのものになりたいという
> 欲望の餌食にはならないでしょう。
欲望が起こっても
それは風景にすぎません。
その欲望に関わる誰かはいません。
> また、
> 日々の生活で起こる日常的な出来事の中に、
> 全体の成就の背後にある
> 深い意味を発見するでしょう。
> なぜなら、
> 自我がまったくないからです。
全体の成就の中で、
日常的な出来事は、
物語とはまったく異なる意味を明かすでしょう。
> 絶えず戦略を立てているような
> あなたの生き方や
> あなたが夢中になっている
> さまざまな期待は、
> 不安と欲望のパターンから
> 生じたものです。
そのとおりです。
> そして、それは
> あなたが探し物を見つけるのを
> 邪魔します。
この理解がどれだけ沈潜するか。
> しかし現実には、
> あなたの探し物がなくなったことなど
> 一度もありません。
しかし実際は、
あなたは何も忘れていません。
けっして消えることのないものは、
煙幕に覆われることを恐れません。
> ですから、
> あなたが本来の状態にあれば、
> それを思い出すのに
> 何の手がかりも必要ありません。
> なぜなら、
> 何も忘れられてはいないからです。
何一つ忘れられてはいないから、
このいわゆる現実という
偽りの煙幕に対する違和感があるのです。
> 思考と感情は
> 海潮(うしお)のように満ち引きします。
海の波のように思考と感情は訪れるます。
> あなたはそれらを自分と同一視して、
> 「私の思考、私の感情」
> と言います。
現れた思考や感情を自分だと思って、
「私の思考、私の感情」
などという思いが浮かんできます。
> 肉体とは
> 多少局在化した濃密な感覚の塊です。
> それと同様に、
> 心もただの
> 思考パターンと感情の集まりです。
肉体が
濃密な感覚の塊であるように、
マインドも
思考と感情の集まりなのです。
> しかし、
> あなたの身体と心は
> 真我(セルフ)の現れに他なりません。
でもその身体と心は、
源泉の顕現でもあるわけです。
> あなたが存在するのは、
> あなたが純粋意識の現れだからです。
> あなたの本質は鋭敏で
> 自分の中に現れるものすべてに
> 気づいています。
わたしが存在するのは、
わたしが気づきの現れだから。
わたしは自分の中に現れる
すべてに気づいている。
> しかし、
> あなたは自覚的に
> 気づかなくてはなりません。
> つまり自分自身が気づいていることに
> 気づかなくてはなりません。
しかしわたしは、
現れに気づいているのが自分だと
自覚しなければならない。
自分が気づきであることに
気づかなくてはならない。
> あなたはすべてのことの
> 究極の認識者です。
> 直接的な知覚があなたをこの生、
> この存在に目覚めさせます。
わたしは、
森羅万象の究極の認識者。
そのことの直感的な即座の知覚が
わたしをこの現存に目覚めさせる。
>
> 論理的分析によって
> 自分の本質を知ることはできません。
どれほど論理的に分析しても、
この現存を知ることはできない。
> しかし、
> 日常生活の中で瞑想を開花させれば、
> 自己の本質を成就します。
日常生活の中で
静寂が花開くことだけが。
この現存の自覚をもたらしうる。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
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余計なことが
落ちてゆくのが成熟なら……。
このメルマガは残るのか?
はたまた消えるのか?
そうか、
何も起こっていないのですね。
今日は暗くなりました。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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