home > 通信 >『アセンション館通信』第853号:私たちは生まれていない



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2020/08/23(第853号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 この今が唯一の今で、平安、幸福、愛のすべてが今ここに、
 この状況にある。『プレゼンス―第1巻』(ルパート・スパイラ)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在512名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.私たちは生まれていない

2.編集後記
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■ 1.私たちは生まれていない
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暑い中にも何となく、

朝晩秋の気配が感じられるようです。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と“「私は在る」噺”に

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

このメルマガを書き出してから

夢の中では十数年が経ちました。

そんなわずかの期間ですら、

浮上する思考はこんなにも変わる。

その思考を“自分”だと思おうにも、

それはちょっと無理がある、

と思われてきました。

その思考が自分なのではなく、

その思考を体験しているのが自分でしょう。

囚われているのが自分じゃない。

囚われを見ているのが自分です。

いろいろ先達の言葉を引用してきました。

“自分”では精一杯背伸びをして、

そのとき感じる最も賢そうな

賢者の口真似をしがながら、

さも自分まで賢いかのような

知ったかぶりをしようと望んだはずです。

しかしそのエネルギーも

ついに焼尽しはじめたかもしれません。

得意な時期も少しはありましたが、

恥ずかしい時期のほうが

多かったかもしれません。

でも得意もおかしいけれど、

恥ずかしいというのもちょっと変。

誰のものでもない言葉や意味に、

いちいち反応して、

得意がったり、恥ずかしがったり。

瞬間瞬間に湧いてくる想念は、

呼び出すマインドの状態に応じて

配達されるのでしょう。

配達された想念を

自前の発明品だと吹聴するのも

なにやらちょっと無理がある。

言葉の所有者という分離実体を

確認・逮捕しようとしても、

どうせお仕着せの身体を

掴まされるのが落ちです。

すべての形態と思考は、

今現れているだけ。

はてさて、

こんな言葉をいったい誰が

誰に向けて書いているというのか?

それすらもモゴモゴと

口ごもらずにはいられません。

とはいえ、

そうそう遠慮ばかりもしていられない。

今回もまた得意然と、

ヒットした言葉をご紹介しましょう。

それが役割の身体みたいですから。

最近、ルバート・スパイラの

『プレゼンス―第2巻』を手に入れました。

こういう理解がこんなにたやすく、

こんなに安価に手に入る。

まことに不思議な時代です。

この『プレゼンス―第2巻』に

「私たちは生まれていない」

という一節があります。

このタイトルに惹かれました。

(そう言えばこの身体も、

 「意識は誕生できない」などと

 得意満面叫ばされたことも
 
 ありましたっけ……。)

今回はルパート・スパイラの口から

「私たちは生まれていない」と

静かに語っていただきます。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 
 私たちは生まれていない
 
 
 一般的な考え方によると、
 私たちの自己、
 気づいている現存(プレゼンス)は、
 すでに出来上がった世界の中に
 生まれるのであり、
 その世界は、
 私たちの自己からは分離独立している
 ということになります。
 しかし、この考えに
 どんな根拠があるというのでしょう?
 これらの文字を見ている気づきが、
 世界の中に、
 もしくは心(マインド)や
 体の中に現れたという、
 どんな証拠があるのでしょう?
 
 朝起きたとき、
 私たちの自己、気づきに対して
 最初の体験が現れます。
 気づきはすでにそこにいて、
 その朝一番の体験を体験します。
 同じように、
 生まれたときも、
 気づきがすでにそこにいて、
 それが何であれ、
 最初の体験を体験するのです。

 では、
 私たちは、
 気づきが現れるという体験を
 したことが今まであるでしょうか?
 もちろん、
 気づきは誕生したときに現れるとか、
 朝一番に起きたときに現れる
 というような概念を
 私たちは持っています。
 しかし、
 これは体験でしょうか?
 
 何かが現れる、
 と筋道を立てて主張するには、
 それが現れる前に
 気づきが存在し、
 実際の体験として、それが現れたと
 主張しなければなりません。
 
 では、
 気づき自体の
 出現についてはどうでしょう?
 もし、
 ひとつの体験として
 気づきが出現したと主張するなら、
 それを体験するために、
 何ものかがすでに存在して
 いなければなりません。
 その「何ものか」は、
 現存し気づいていなければなりません。
 しかし、
 それこそがまさに気づきであり、
 気づきは気づいていて、
 現存しています。
  
 気づきの出現を体験することは
 不可能です、
 私たちは気づきであり、
 その気づきに対して
 何かが現れるのです。 
 
 『プレゼンス―第2巻』(p71-72)
──────────────────

ルパート・スパイラはこの本で、

存在しているのが

気づきだけであることを、

徹底して論理的に説明してくれます。

こういう非二元の話は

マインドで論理的に理解しても仕方がない、

即時の直感的理解でなければならない、

とも言われるようです。

しかし、

セイラー・ボブさんのように、

論理的であれ何であれ、

それが事実であることを

理解しているかどうかだ、と

言われることもあるようです。

未だにこういう本を読むわたしなどは、

論理的にしか理解していない、

ということになるのでしょう。

しかし、そうかと言って、

理解していないという気もしない。

そういう気分のマインドには、

ルパート・スパイラの本は

精神衛生上とてもありがたいです。

まずルパート・スパイラは

気づきが対象物ではないことから

説明していきます。

> 私たちは、
> 気づきが現れるという体験を
> したことが今まであるでしょうか?

そしてこんなふうに論述をはじめます。

> 何かが現れる、
> と筋道を立てて主張するには、
> それが現れる前に
> 気づきが存在し、
> 実際の体験として、それが現れたと
> 主張しなければなりません。

何かの出現を体験するには、

まずそれに気づいている

気づきが存在しなければならない。

つまり、

何かの出現を体験するとは、

気づきが存在するということだと。

> では、
> 気づき自体の
> 出現についてはどうでしょう?
> もし、
> ひとつの体験として
> 気づきが出現したと主張するなら、
> それを体験するために、
> 何ものかがすでに存在して
> いなければなりません。
> その「何ものか」は、
> 現存し気づいていなければなりません。
> しかし、
> それこそがまさに気づきであり、
> 気づきは気づいていて、
> 現存しています。

つまり、われわれは、

気づきが出現したという体験を

したことがないわけです。

これは否定できません。

理解したいという人が、

この論述が理解できないことは

ちょっと考えられない。

> 気づきの出現を体験することは
> 不可能です、
> 私たちは気づきであり、
> その気づきに対して
> 何かが現れるのです。 

気づきは体験の対象物ではない。

気づきに対して何かが現れるのです。

ところで、われわれは

何かが現れるのに気づくという

体験をしている。

ということは、

われわれ自身が気づきなのです。

これ、否定できます?

──────────────────
 この文字を見ている気づきの
 始まりを体験することはできません。
 
 気づきの誕生を
 体験することはできないのです。
 気づきである私たちの誕生も
 体験することはできません。
 
 同じように、
 気づきが死ぬ、
 と筋道を立てて主張するには、
 その消滅を体験する何者かが
 存在していなければなりません。
 私たちが気づきの消滅を
 体験したことはあるでしょうか?
 
 もし、
 その答えが「イエス」だと考えるなら、
 気づきの見かけ上の消滅を体験する
 何がそこにいて、
 気づいていたのでしょうか?
 何であるにせよ、
 それは気づいていて、
 現存していなくてはなりません。
 それは、
 気づきに違いありません。
 
 生まれるときや朝起きるとき、
 私たちは対象物の出現を体験します。
 死ぬときや、
 夜眠るとき、
 私たちは対象物の消滅を体験します。
 しかし、
 気づきである私たちが、
 現れたり、
 生まれたり、
 消えたり、
 死んだりというのを
 体験することはありません。
 
 すなわち、
 気づきが、
 それ自身の出現や始まり、
 誕生、
 継続、
 消滅、
 死を体験することはありません。
 それらは皆、
 心(マインド)が
 気づきの上に重ねた概念にすぎません。
 しかし実際には、
 そういったことは起きていません。
 気づきの上に
 何かが重ねられたというのも、
 想像にすぎないのです。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p72-73)
──────────────────

われわれは

対象物の出現や、

対象物の消滅の体験をしている。

しかし

自分が出現したり、

自分が継続したり、

自分が消滅したりする

体験を実際にしたことはない。

生まれたとか、

死んだとか、

そういう話はすべて、

気づきであるわれわれの

上に押し付けられたか、

あるいは中に浮上してきた、

想像上の概念(噂話)にすぎない。

──────────────────
 ですから、
 私たちが体験するのは、
 気づきは常に現存しているということ
 ──つまり、
 気づきが
 それ自身について体験するのは、
 それは常に現存しているということ──
 そして、
 見かけ上の体、
 心(マインド)、
 世界といった対象物が、
 気づきの中にやって来ては
 去っていくということです。
 
 しかし、
 「やって来ては去っていく」
 ということすら概念です。
 あらゆる体験の中に
 現存している唯一の実質は、
 気づきです。
 気づきは、
 やってきたり
 去っていったりはしません 。
 「やって来ては去っていく」というのは
 気づきという
 絶えざる現存(プレゼンス)の上に
 重ねられた
 心(マインド)の想像です。
 
 真の意味で、
 やってきて去っていくものは
 ありません。
 それはどこから来て、
 どこに去るのでしょう?
 そして、
 「それ」とは何なのでしょう?
 それは何からできているのでしょう?
 すでに今、
 ここに気づきとして存在していない
 どんなものから、
 それはできているのでしょう?
 
 何ものも誕生したことがないし、
 消滅したこともありません。
 気づきは永遠に在り、
 それがすべての
 見かけ上の物事の実質なのです。
 
 ですから、
 現実には、
 朝目覚めることも
 眠りに落ちることも、
 誕生も死もなく、
 このような見かけ上の状態を
 経ていく実体もありません。
 
 時間、
 場所、
 出来事、
 実体、
 何かの出現といったようなことは、
 どれもただの思考です。
 それらはすべて、
 場所も時間も次元もない、
 気づきという
 現存(プレゼンス)の中で
 「起きる」のです。
  
 すべての体験は、
 常に現存する、
 今です。
 それ以外には何も知られていません。
 ですから、
 新しい体験というのはあり得ません。
 なぜなら、
 古い体験というものも
 決してないからです。
 体験が「今」であったことさえ
 一度もありません。
 なぜなら、
 それは決して
 「そのとき」であったことが
 ないからです。
 
 心(マインド)は、
 体験する「場」に行くことは
 決してできません。
 このことがはっきりわかると
 心(マインド)は溶け去ります。
 この溶解が愛です。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p73-74)
──────────────────

要するに、

われわれが実際に体験しているのは、

気づきは常に現存する

ということだけなのです。

そしてその気づきの中で

見かけ上の体やマインドや世界、

つまり対象物がやって来ては

去っていくだけなのです。

さらにルパート・スパイラは

その生滅・去来すらも否定します。

> 真の意味で、
> やってきて去っていくものは
> ありません。
> それはどこから来て、
> どこに去るのでしょう?
> そして、
> 「それ」とは何なのでしょう?
> それは何からできているのでしょう?
> すでに今、
> ここに気づきとして存在していない
> どんなものから、
> それはできているのでしょう?

見かけとして現れるそれは、

どこから「来る」と言えるのか?

どこへ「去る」と言えるのか?

そもそも「それ」は

何からできているのか?

すべてが気づきではないか。

気づき以外の何があるというのか?

ルパート・スパイラは

ここから一挙に、

最終的な断言へと突き進みます。

> 何ものも誕生したことがないし、
> 消滅したこともありません。
> 気づきは永遠に在り、
> それがすべての
> 見かけ上の物事の実質なのです。

常在するのは気づきだけ。

すべての見かけは、

その永遠に現存する気づきが

演出し気づいている内容物。

つまりすべての実質は

気づきだけなのだと。

> 何かの出現といったようなことは、
> どれもただの思考です。
> それらはすべて、
> 場所も時間も次元もない、
> 気づきという
> 現存(プレゼンス)の中で
> 「起きる」のです。

すべての出来事は、

気づきという現存の中で起きている。

そしてわたしは

すべての見かけに気づいている

永遠の現存である気づきです。

これは疑いようがない。

しかし、もちろん、

まだまだ問題を見つけて

悩みたいのなら、

気づきはいくらでもその悩みのタネを

映し出してくれるはずです。

しかし、わたしが

もう悩むのはうんざりなら、

存在するのは気づきだけだと

理解できないことはありえない。

つまり、

わたしはまだ悩みたいのか?

それとも

もう悩むのはうんざりなのか?

そのどちらなのかというだけです。

悩みたいのなら、

悩んだらいい。

それを気づきが邪魔することは

ありえません。

しかし

もし悩みたくないのなら、

永遠に現存するのが気づきであり、

唯一気づきだけが存在することを

理解できないということはありえない。

ルパート・スパイラが

ここまで懇切丁寧に

世界のあり方を

わたしに説明してくれているのだから。

──────────────────
 そのような世界が
 どういうものなのかを知るためには、
 まず、
 心(マインド)や感覚によって
 分け与えられたものをすべて、
 世界から取り除かなければなりません。
 
 心(マインド)が世界に与えた、
 感覚による認識をすべて取り除くと、
 形のない現存(プレゼンス)、
 存在だけが残ります。
 それ以外のものは何であれ
 知覚されますが、
 それゆえに、
 それは真の世界ではなく、
 知覚機能に属します。
 
 すべての見かけ上のものから、
 思考や知覚機能によって
 付加された名前や形態を取り除くと、
 それらは無限の現存(プレゼンス)
 として立ち現れます。
 つまり、
 限界も境界も制限も位置も次元もなく、
 純粋な存在として現れるのです。 
 すなわち、
 見かけ上のものもすべて無限であり、
 永遠なのです。
 
 そして、
 限界も位置もない、
 純粋な存在、
 現存(プレゼンス)とは、
 私たちの自己なのではないでしょうか。
 
 というのも、
 無限の現存(プレゼンス)が二つある、
 というのはありえ得ないからです。
 もし、
 ふたつの現存(プレゼンス)があるなら、
 それぞれが制限されてしまいます。
 そしてもし、
 それらが制限されているなら、
 それらは
 純粋な現存(プレゼンス)ではなく、
 見せかけの対象物です。
 
 では、
 その対象物は
 何のためにあるのでしょう?
 ただ、
 気づきのためです。
 言葉を換えると、
 気づきが対象物の目撃者であり、
 その実質なのです。
 
 では、
 その対象物は
 誰のためにあるのでしょう?
 ただ、
 気づきのためです。
 言葉を換えると、
 気づきが対象物の目撃者であり、
 その事実なのです。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p76-77)
──────────────────

世界はすべて

知覚機能によって創造された

見かけ上の形態と思考です。

それは時間と空間の中にしか

存在しないし、

すべて束の間の想像でしかない。

そこで悩む(遊ぶ)ことはできる。

しかしそれを

もう望まないのなら、

それが束の間の

見かけにすぎないことを、

理解できないということはありえない。

その束の間の儚い見かけを

取り除くとどうなるのか?

> 心(マインド)が世界に与えた、
> 感覚による認識をすべて取り除くと、
> 形のない現存(プレゼンス)、
> 存在だけが残ります。

形のない現存だけが残る。

ただ「在る」ということ、

存在していることだけが残る。

> それ以外のものは何であれ
> 知覚されますが、
> それゆえに、
> それは真の世界ではなく、
> 知覚機能に属します。

ミナミAアシュタールふうに言うなら、

身体というVRゴーグルが投影する

ホログラムにすぎないわけです。

では、

そこに投影される

世界という物語空間を取り除くなら、

残るのは?

> そして、
> 限界も位置もない、
> 純粋な存在、
> 現存(プレゼンス)とは、
> 私たちの自己なのではないでしょうか。

永遠の今という現存、

つまり

自分が存在しているだけ。

なぜなら、

自分である永遠の現存が、

制限されているということは

ありえないから。

> というのも、
> 無限の現存(プレゼンス)が二つある、
> というのはありえ得ないからです。

時間にも空間にも制限されない

無限の現存が

二つあることはありえない……。

というのも、

> もし、
> ふたつの現存(プレゼンス)があるなら、
> それぞれが制限されてしまいます。

間違いない。

> そしてもし、
> それらが制限されているなら、
> それらは
> 純粋な現存(プレゼンス)ではなく、
> 見せかけの対象物です。

お見事です。

(-||-)

──────────────────
 ひとたびあなたの想像以外は
 何も困難をもたらすことができない、
 と絶対の確信を持って知るなら、
 あなたは欲望や恐れ、
 概念や見解に注意を払わず、
 真実とともにのみ生きるだろう。
 
 『私は在る』(p131)
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こういう話は、

読みたい人しか読めません。(*^_^*)

当たり前です。

こんな話を、

読みたくない人が読むはずがない。

だからこそ、

人畜無害なのです。(^^;)

今日も暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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