home > 通信 >『アセンション館通信』第854号:物語は“自分”が呼んでいる



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2020/08/30(第854号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 この今が唯一の今で、平安、幸福、愛のすべてが今ここに、
 この状況にある。『プレゼンス―第1巻』(ルパート・スパイラ)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在513名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.物語は“自分”が呼んでいる

2.編集後記
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■ 1.物語は“自分”が呼んでいる
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まだ残暑が続いていますね。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と“「私は在る」噺”に

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

相変わらず時々ルバート・スパイラの

『プレゼンス―第2巻』を眺めています。

この方はとても優しい方というか、

穏当な表現を好む方ですね。

陶芸作家という背景からも

推測されることですが、

文化的な雰囲気を感じます。

文化を受け付けない雰囲気の

ニサルガダッタがとても好きですが、

ルバート・スパイラの

肯定的な表現もありがたいです。

これまでここでご紹介したところ

ぐらいしかまだ読んでいません。

ひどいですね、

それで紹介している。(^_-)

でもどこを開いても

こういう表現に触れられるのです。

とても贅沢な本です。

その『プレゼンス―第2巻』の

かなり最後の方に

「思考はそれ自身の実質の中に消える」

という一節があります。

われわれの現実が

どのように構築されるのかを

解説してくださっています。

今回はその一部をご紹介したいと思います。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 
 思考はそれ自身の実質の中に消える
 
 
 質問:
 どうすれば、記憶を働かせてつつ、
 対象物や世界が
 持続的に存在しているという信念を
 採用しないようにすることができますか?
 
 昨日の晩、
 レストランで夕食を摂ったと
 想像してみましょう。
 夕食の間のある瞬間を選び、
 その瞬間を知覚Aと呼ぶことにしましょう。
 ただし、
 それはその瞬間の記憶ではなく、
 実際の体験ということです。
 知覚Aの後には、
 他の無数の知覚が続きます。
 そして例えば翌朝、
 心(マインド)の中に、
 知覚Aのおおよそのイメージ
 (これをイメージBと呼びましょう)
 が現れます。
 この後には、
 イメージBと知覚Aを結びつける思考
 (これを思考Cと呼びましょう)
 が続きます。
 つまり、思考Cが、
 イメージBは知覚Aの記憶である
 と言うのです。
 
 しかし、
 知覚Aが現存するとき、
 イメージBは存在していません。
 また、
 イメージBが現存するとき、
 知覚Aは存在していません。
 現在の体験と、
 存在していない体験の間には、
 どんな関係があるのでしょう?
 
 では、
 イメージBと知覚Aの間に
 つながりがあると想像している
 思考Cに戻りましょう。
 より注意深く見てみれば、
 思考Cが現存するとき、
 イメージBも知覚Aも
 現存していないことがわかります。
 思考Cが現れるためには、
 イメージBも知覚Aも両方とも
 すでに起こっていなければなりません。
 
 そういうわけで、
 存在していないこのふたつの体験
 (知覚AとイメージB)
 を関連づけるために、
 思考Cは「巨大な容れ物」を想像します。
 知覚AとイメージBは、
 他の無数の存在していない
 対象物や出来事と一緒に、
 この容れ物の中に
 入っていると考えられるのです。
 
 この巨大な容れ物は
 心(マインド)と呼ばれます。
 しかし、私たちが
 心(マインド)に関して体験するのは、
 それがあると考えている思考だけです。
  
 『プレゼンス―第2巻』(p263-264)
──────────────────

> 質問:
> どうすれば、記憶を働かせてつつ、
> 対象物や世界が
> 持続的に存在しているという信念を
> 採用しないようにすることができますか?

簡単に言えば、

どうすれば現象世界のなかにいながら、

その夢を打ち破れるのでしょうか?

といった感じですよね。

ここからルパート・スパイラは

そのいわゆる現象世界が

思考の中だけで構想されていることを

説明してくれます。

> 昨日の晩、
> レストランで夕食を摂ったと
> 想像してみましょう。
> 夕食の間のある瞬間を選び、
> その瞬間を知覚Aと呼ぶことにしましょう。
> ただし、
> それはその瞬間の記憶ではなく、
> 実際の体験ということです。
> 知覚Aの後には、
> 他の無数の知覚が続きます。
> そして例えば翌朝、
> 心(マインド)の中に、
> 知覚Aのおおよそのイメージ
> (これをイメージBと呼びましょう)
> が現れます。
> この後には、
> イメージBと知覚Aを結びつける思考
> (これを思考Cと呼びましょう)
> が続きます。
> つまり、思考Cが、
> イメージBは知覚Aの記憶である
> と言うのです。

われわれの本質である現存の前には

いわゆる現在の「知覚的体験」と

記憶と呼ばれる「イメージ体験」と、

思考と呼ばれる

「想像(解釈)体験」が展開するらしい。

これらはすべて体験の内容であり、

言い換えるなら、

体験の対象物的側面とも言えます。

「知覚的体験」も、

「イメージ体験」も、

「想像(類推・解釈)体験」も、

すべて観念で構成されており、

すべて観念的構造物だと言えます。

「知覚的体験」については、

普通われわれは

客観的に存在する物理的対象物を、

感覚的刺激として直接知覚している

と理解しています。

ところが

非二元の教えに触れて、

体験されることなく存在している

客観的存在物が確認されたことは

いまだかつていちどもないということ。

そもそもそういう対象物が

存在できる可能性は皆無であるという

端的な事実を突きつけられました。

もちろん、こういう言葉は

単なる屁理屈にしか聞こえない人には、

まったく意味のない言葉です。

しかし、

その意味を理解できる者にとっては

これはまったく否定しようにも

否定しようのない事実です。

その意味がわかる者にとっては、

実際に存在しているのは

体験することであって、

体験される対象物ではないことが、

自明になってしまう。

どう考えてもこれは否定できない、

とわかったら、

体験というものの実際を

入念に検証する非二元の先生たちの言葉を

調べざるをえなくなります。

そしてアートマナンダ・

クリシュナ・メノンの流れをくむ

非二元の先生たちの説明を聴くと、

われわれの「知覚的体験」は

けっして対象物の客観的存在性を

実際に体験してはいない。

感覚体験というのは

きわめて観念的構成活動であることが

納得されてくるわけです。

そして主体と客体の“分離”というのが、

じつは“お話”だったということも

理解の範囲に入ってきます。

いろんな常識が、

どうやら単に聞かされてきた

“お話”にすぎなかった

と思われはじめてくる。

マハラジがいう「噂話」に

すぎなかったわけです。

今回のルパート・スパイラの話は、

その「噂話」の解体過程に

関係しています。

> しかし、
> 知覚Aが現存するとき、
> イメージBは存在していません。
> また、
> イメージBが現存するとき、
> 知覚Aは存在していません。
> 現在の体験と、
> 存在していない体験の間には、
> どんな関係があるのでしょう?

レストランで夕食を摂る

という現存の「知覚体験」を

「知覚A」と呼ぶとすると、

「知覚A」が現存しているときは

まだ起こっていない

「回想体験」(イメージB)も、

「想像体験」(思考C)も

まだ起こっていません。

「知覚A」に続いて

いろいろな知覚体験が続くでしょうが、

ふと昨夜のレストランでの

夕食場面が湧いてくる。

「回想体験」(イメージB)の現存です。

「イメージB」が現存するその瞬間には、

「知覚A」は存在していません。

もちろん、

まだ起こっていない「思考C」も

存在していません。

そしてまた別の瞬間に

あの夕食場面は昨夜のことだったな、

と想像する思考過程が起こる。

「想像体験」(思考C)の現存です。

「思考C」が現存する瞬間には、

「知覚A」は存在しませんし、

「イメージB」も存在しません。

ただ、

「知覚A」と「イメージB」は

関係があると主張する「思考C」が

起こっているだけです。

これらの体験はすべて

次々に起こっているだけなのです。

われわれはこれらの過程をすべて、

自分が考えていると思っています。

あるいはそのように条件づけられている

と言ってもいいかもしれない。

ご存知のようにマハラジは

これらの思考は「配達される」

という言い方をします。

そうなると

ちょっと気になるのは

ミナミAアシュタールが言っていた

肉体=VRゴーグル論です。(^_-)

ミナミAアシュタールさんが言うには

われわれがいう考えるという行為は、

じつは頭からアイディアを

捻り出そうとしているのではなくて、

いわばクラウド情報のように

外側にある情報につながろうとする

行為だというのです。

つまり、

“配達待ち”のようなものです。

どういう配達待ちをするかは、

われわれの興味によって変わる。

つまり、

欲望次第ということです。

──────────────────
 解放への道には
 何も立ちはだかっていない。
 そしそしてそれは今ここで
 起こることができる。
 だが、
 あなたはほかのことに
 もっと興味がある。
 そしてあなたは
 その興味と闘うことはできないのだ。
 
 『私は在る』(p131)
──────────────────

(-_-;)

なかなか意味深だと思いませんか。

このルパート・スパイラの

解説を読んでいると、

まるで物理次元ゲームを楽しむ

VRゴーグルのラフな仕様書を

読んでいるような気分になってきました。

自分が分離した実体だと信じるかぎり、

起こっている事態に水平に巻き込まれる。

すると必ず自分にとって都合のいい

何らかの状況を望むことになるか、

あるいは自分とって都合の悪い

何らかの状況を避けようと

することになります。

まあ、同じことでしょう。

このVRゴーグルに

次の画面を指示しているのは

間違いなくその分離実体を信じている

“自分”です。

あるいは

現存の前に現れたそのような思考に

フォーカスしている体験(意識)……

という言い方のほうが正確かもしれない。

“自分”という

分離した実体が考えているのではなく、

配達されたそのような思考に

注目している状態でしょう。

思考そのものは一定の規則に従って、

ただ配達されている……。

分離実体を信じているかぎり、

“自分”の興味・欲望で

引き寄せたい現実が変わるでしょう。

あるいは“自分”の嫌悪・恐怖で、

避けたい現実が変わるでしょう。

この奇跡的なまでに超高性能の

バイオロボットは、

興味・欲望の発注に合わせて

次の情報を宇宙クラウド情報の

アクセス許可された対象領域から

選択して配達します。

これは完全な自動過程です。

バイオロボットの乗り手の反応次第で

次に展開する知覚体験は変わります。

「知覚体験」

「イメージ体験」

「想像体験」

これらはすべて宇宙クラウド情報からの

配達情報です。

いかに奇跡的とは言え、

そのようなVRゴーグルの作成は

原理的には可能なはずです。

そこで展開する個々の体験が

どう全体と矛盾なく塩梅されるのかを

われわれの既知の知識範囲で

具体的に想像することはできません。

「制限の帝王」と呼ばれる星の住人に

そんなことができるはずもない。(*^_^*)

> では、
> イメージBと知覚Aの間に
> つながりがあると想像している
> 思考Cに戻りましょう。
> より注意深く見てみれば、
> 思考Cが現存するとき、
> イメージBも知覚Aも
> 現存していないことがわかります。
> 思考Cが現れるためには、
> イメージBも知覚Aも両方とも
> すでに起こっていなければなりません。

順次送られてくる

「知覚A」

「イメージB」

「思考C」

などの現存体験は、

あまりにも深いエンタテイメントと

言わざるをえないようです。

展開される物語自体には

どんな意味も内蔵されていません。

すべてただの想像です。

ただの「神芝居」。

要するにエンタメにすぎません。

> そういうわけで、
> 存在していないこのふたつの体験
> (知覚AとイメージB)
> を関連づけるために、
> 思考Cは「巨大な容れ物」を想像します。
> 知覚AとイメージBは、
> 他の無数の存在していない
> 対象物や出来事と一緒に、
> この容れ物の中に
> 入っていると考えられるのです。
> 
> この巨大な容れ物は
> 心(マインド)と呼ばれます。
> しかし、私たちが
> 心(マインド)に関して体験するのは、
> それがあると考えている思考だけです。

マインドがあると主張しているのは、

それがあると考えている思考だけ。

しかし、

たとえそれが仮免であっても、

いったんそれがあると仮定されると、

どんな想像も可能になる。

今日は時間がなくなりました。

興味がつづけば、

またこの続きを書くかもしれません。

(-||-)

──────────────────
 ひとたびあなたの想像以外は
 何も困難をもたらすことができない、
 と絶対の確信を持って知るなら、
 あなたは欲望や恐れ、
 概念や見解に注意を払わず、
 真実とともにのみ生きるだろう。
 
 『私は在る』(p131)
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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まったくこういう話は、

読みたい人しか読めません。

というか、

読んでいる方(という分離した実体)が

存在していると信じていないかぎり、

こういう噺を書きつづけることは

できないのでしょうね。(^_-)

今日も暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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