home > 通信 >『アセンション館通信』第855号:想像への興味を失う



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2020/09/06(第855号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 この今が唯一の今で、平安、幸福、愛のすべてが今ここに、
 この状況にある。『プレゼンス―第1巻』(ルパート・スパイラ)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在513名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.想像への興味を失う

2.編集後記
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■ 1.想像への興味を失う
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夢の中では超大型と言えるような

台風が近づいているのだそうですね。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と“「私は在る」噺”に

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

ふと思ったのですが……、

何かを思う状態というのは、

次の思いを呼び寄せている状態

ということなのでしょうね。

たとえば、

身体という仮想現実創造ゴーグルの

機能を想像したとします。

するとその想像意図に合致する思考が

次々と芋づる式に引き寄せられてきます。

当人(と考えている分離実体思考)は

もちろん自分が考えていると思います。

でも実際は、

認識されている世界に

認識主体である実体は存在しません。

現象は認識されているのですから。

現象世界は明らかに知覚対象物の集合です。

知覚の対象物である思考に

次の思考を創造する能力などありません。

映画の中の登場人物の画像が

映画の次の展開を創造していないのと同じです。

映画の登場人物の画像は

すでに撮影済みの展開をなぞるだけです。

ただし、

映画とのアナロジーが妥当なのは

そこまでなのかもしれません。

現象世界という意識が見ている夢は、

(すべてが撮影済みかどうかは

 一先ず措いておくことにして)

いま見ている場面に対して

発動した思考・感情に応じて

引き寄せられてくるらしいからです。

あくまでも今の思考がトリガーとなって

次の思考が引き寄せられてくるらしい。

ということは、

思考というのは

次の思考を呼び出すための信号である

ということになりそうです。

その連想を進めると、

思考にフォーカスしているかぎり、

次の思考が呼び出されることになる。

思考が自発的に停止することはない。

思考の無限連鎖です。

現存の永遠性は、

現象の中では無限連鎖として反映される。

それらの思考はすべて

クラウドデータベースという

無限の既知情報プールから検索されてきます。

われわれ(仮想された)個人は、

ごく小さな既知情報(記憶)から

構成される仮想の観念ですから、

その情報格差たるや

「1対無限」と言ってもいい。

睡眠中に見る「個人的夢」は

そのごく小さな既知情報を材料にして

創造されるのでしょう。

そんなちっぽけな世界の中ですら

思考にフォーカスしているかぎり、

展開される支離滅裂な状況を疑えず、

われわれは巻き込まれるのです。

クラウドデータベースに保存される

無限の既知情報からデザインされる

仮想現実を疑えなくても当然です。

つまり、

思考に焦点を当てているかぎり、

われわれ(仮想された個人)は、

永遠に鼻面を引き回されるわけです。

というのは、

思考に焦点を当てるということが、

思考(想像)が展開する無限連鎖のなかに

何かを求めるということだからです。

ラマナ・マハルシが

「無欲と智慧には
 どんな関係があるのでしょうか?」

という問いに答えた言葉があります。
 
──────────────────
 無欲が智慧である。
 二つは別のものではない。
 それは同じである。
 無欲とは、
 心がいかなる対象物に向かうことも
 差し控えることである。
 智慧とは、
 何の対象物も現れないことを
 意味している。
 言い換えれば、
 真我以外の何ものも求めないことが
 無執着あるいは無欲であり、
 真我をけっして離れないことが
 智慧である。

 『あるがままに』(p405-406)
──────────────────

無欲と智慧は同じものだという。

無欲というのは

意識のフォーカスが思考(想像)に

向かわないことのようです。

すべての知覚対象が

意識の想像であることが自明だからです。

智慧とは

いっさいの想像過程が発動しない

状態のことなのでしょう。

端的に言えば、想像とは、

苦しみの可能性を想像することだから。(^_-)

仮想の苦しみを味わってから、

本来の幸福を求めなくても、

最初から幸福に浸っていればいい。

という消エネルギー主義なのかしら。(*^_^*)

で、まあ、

ここまでは知的な論理です。

そういうことを想像する段階が、

湧いてくる思考に

いっさい興味がわかない状態へ

向かう過程にあるわけです。

でも、

そういう状態に行く手前に、

湧いてくる(配達される)すべての思考に

気づいている状態があるでしょうね。

どんな対象物も現れない状態は

その彼方に、あるいはその中に

あるわけでしょう。

ルバート・スパイラの

『プレゼンス―第2巻』の
https://amzn.to/2EpkHU4

「思考はそれ自身の実質の中に消える」

の前回に続く箇所を見たいと思います。

──────────────────
 ひとたび、
 巨大な容れ物としての
 心(マインド)という概念が、
 何か実際に存在するものを
 表していると見なされると、
 思考は思う存分活動できます!
 思考はこの「心」という名の容れ物に、
 ありとあらゆる架空の体験を
 入れることができます。
 例えば、
 時間、空間、記憶、対象物、人々、
 誕生、死、因果関係などです。
 
 私たちの現在の苦境を説明するこの図には、
 ひとつだけ欠けているものがあります。
 思考の中に、
 時間、空間、因果関係などからなる
 架空の世界を作り上げたら、
 それは皆、
 そういうものがあると考えている
 思考によって作られたにすぎない
 ということを忘れなければなりません。
 それが想像されたものだということを忘れ、
 それは本物だと想像するのです。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p264)
──────────────────

> 時間、空間、記憶、対象物、人々、
> 誕生、死、因果関係などです。

これらの概念はすべて

想像が紡ぎ出した観念だったんですね。

この想像は

その構造に付き合うなら、

どこまでも深みを掘り込む可能性もあります。

ミナミAアシュタール情報は

太陽系第三惑星地球(テラ)が

一部のレプティリアンが支配する星だと

懇切丁寧に伝えてくれています。

この種の情報にはじめて触れたのは

バーバラ・マーシニアックの

『プレアデス+かく語りき 地球30万年の夜明け』
https://www.ascensionkan.com/mm/books/pleiad+1.html

でした。

この本の「第8章」は

「究極の暴虐のおよばないところ」

と題されています。

この「究極の暴虐」とは何か?

この章は

次のように書き出されていました。

──────────────────
 社会における究極の暴虐は
 戒厳令による支配ではありません。
 意識を心理的に操作することによって
 支配することこそ究極の忘却です。
 意識を心理的に操作して、
 現実を規定し、
 その現実の中にいる存在は
 自分が檻の中に閉じ込められている
 ことすら気がつかないのです。
 このような状況の中にある人々は、
 彼らが存在する場所の外に
 何かが存在するということすら知りません。
 私たちは、
 あなた方が教え込まれてきた存在の
 枠組みの外側にあるものを代表しています。

 『プレアデス+かく語りき』(p126)
──────────────────

この本を読んだとき、

「究極の暴虐のおよばないところ」

というタイトルは

はっきりと意識にとどまりました。

でも、

「意識を心理的に操作することによって
 支配することこそ究極の忘却です。」

という言葉の意味が

明確に理解されていたとは言えません。

この言葉のリアリティは

去年(2019年)の暮、

ミナミAアシュタール情報に触れて

初めて理解されたのでした。

物理次元の現実が

心理的思考が創造するホログラムなら、

「意識を心理的に操作すること」こそが

まさに究極の暴虐です。

その心理操作の支配下にある者が

自から知らずに、意図することなく

自分の思考で創造してしまう現実から

逃れる方法は存在しないからです。

ミナミAアシュタール情報に

「思考の牢獄・思考の檻」

というのがあります。

──────────────────
 あなた達を閉じ込めているのは
 物理的なものではありません。
 
 あなたを閉じ込めているのは
 思考の牢獄なのです。
 
 思考を操作されてしまっているので
 自分では牢獄にいるとは
 思っていないのです。
 
 閉じ込められているとは
 気がつかないのです。
 誰も監視していないしと言いますが・・
 
 あなた達はお互い
 監視しあうようにされています。
 
 常識というルールを与えられ
 それに従うように教育されているので
 
 そこから誰も離れないように
 お互い見張り合っているのです。
 
 親が子どもに、
 それをしてはいけません
 これはしなければいけません
 
 ・・などと教えるのも常識という
 暗黙のルールに閉じ込めているのです。
 
 常識という不安定なルール
 (わざとはっきりとさせないのです。
  あなた達を混乱させ、
  対立させるために、
  不明確にしているのです)
 から出る人を、
 みんなで非難するということは
 お互い監視しあっている
 ということなのです。
 ……
 
 http://5am5.blog.fc2.com/blog-date-20200822.html
────────────────── 

これはOshoも言うように

この惑星で「教育」と言われるもの

そのものの内実でしょう。

われわれ地球人類が紡ぎ出している

夢の世界の基本構造です。

だから、

それが夢であることを、

夢から目覚めた意識たちが

それぞれの言葉で語るのでしょうね。

アートマナンダ・クリシュナ・メノンの

非二元の教えの流れをくむ

ルパート・スパイラも

ある意味では、

その一人に数えられるのでしょう。

ルパート・スパイラは

前回の箇所に続いて

次のように語ります。

──────────────────
 こうして、
 思考は自分が作ったものを
 自分が作ったものではないと想像します。
 それは考え出されたものではなく、
 独立して存在するものだと、
 思考が想像するのです。
 この瞬間、
 想像が現実になっていように見えます。
 そしてその結果、
 現実が失われ、
 覆い隠されていように見えます 。
 
 つまり、
 想像と現実が入れ替わったのです。
 想像が現実になったように見え、
 現実は、
 よくて想像されたもの、
 悪くすると、
 非実在と見なされます。

 このように体験の現実を忘れることは、
 「無知」として知られています。
 これは、
 私たちの体験の、
 直接的で親密な性質を
 見落としているということです。
 このように現実を無視するのは、
 分離した内側の自己と分離した外側の世界、
 つまり、
 主体と客体を想像するのと同じことです。
 
 時間、空間、実在、
 対象物、因果関係などが
 想像上のものだということを
 いったん忘れてしまうと、
 それはひどく現実味を帯びてきます。
 そして私たちは、
 この忘却の結果現れた架空の人間として、
 この忘却がもたらす報いを
 受けるように見えます。
 
 しかし、
 すべては思考の創造物にすぎない
 ということを忘れると、
 私たちは自らがそのことに
 戸惑いを感じていることに気づきます。
 なぜなら、
 心の奥深くに、
 体験の現実についての知識があるからです。
 つまり、
 真の忘却というものは存在しないのです。
 
 私たちの思い出す力の強さ、
 すなわち、
 それ自身の存在を知る気づきの強さが
 弱められることはありません。
 最も無知であるように見える思考にも、
 それを曇らせることはできません。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p265-266)
──────────────────

> こうして、
> 思考は自分が作ったものを
> 自分が作ったものではないと想像します。
> それは考え出されたものではなく、
> 独立して存在するものだと、
> 思考が想像するのです。

これこそが、

この物理次元の現実に生きている

われわれの日常そのものです。

この物理次元の現実が

すべて客観的に存在していると

信じているわれわれの……。

> つまり、
> 想像と現実が入れ替わったのです。
> 想像が現実になったように見え、
> 現実は、
> よくて想像されたもの、
> 悪くすると、
> 非実在と見なされます。

この世で現実的に生きるとは、

しっかりと物理的根拠を確認し、

根拠のある現実を認め、

その現実にしかるべく対応する生き方です。

その指針のどこにも

間違ったところはありません。

つまり、正常でいるかぎり

夢からは出られないわけです。

> 時間、空間、実在、
> 対象物、因果関係などが
> 想像上のものだということを
> いったん忘れてしまうと、
> それはひどく現実味を帯びてきます。

通常は「現実味を帯びる」どころか、

それが現実そのものです。

> そして私たちは、
> この忘却の結果現れた架空の人間として、
> この忘却がもたらす報いを
> 受けるように見えます。

苦しむ人として苦しむわけです。

しかし、

ルパート・スパイラは

すべてを忘れることはないといいます。

> しかし、
> すべては思考の創造物にすぎない
> ということを忘れると、
> 私たちは自らがそのことに
> 戸惑いを感じていることに気づきます。

忘れているよ……。

とアラームが鳴り続けている状態でしょうか。

> なぜなら、
> 心の奥深くに、
> 体験の現実についての知識があるからです。

映画は常に

不動のスクリーンの上で踊っている。

> つまり、
> 真の忘却というものは存在しないのです。

完全な「無知」というものは存在しない

ということなのでしょうか。

> 最も無知であるように見える思考にも、
> それを曇らせることはできません。

無知の帳である思考でさえ、

気づきの光を完全に覆い隠すことはできない。

──────────────────
 私たちはこの戸惑いを、
 苦しみや不幸の体験として知っています。
 それは直感と信念との間の葛藤です。
 すべての体験の中心には幸福があることを、
 私たちは深いところで知っているのですが、
 その直観と、
 思考がその上にかぶせた信念とが
 葛藤しているのです。
 
 体や心(マインド)、
 世界の領域で提供される
 伝統的な手法を使って、
 この不幸を十分に
 和らげることができなかった場合、
 くるりと向きを変えて、
 心(マインド)そのものの
 構成概念を問い直す人たちもいます。
 記憶、時間、空間、分離した自己、
 世界とは何だろう?
 などと問うわけです。
 こういった問いは、
 実際はすべて同じものです。
 ですから、
 その答えも皆、同じです。
 
 しかし、
 その究極的な答えは、
 単なるもうひとつの
 思考の構成概念ではありません。
  
 それは思考の溶解です。
 思考が、それ自身の実質の中に
 溶けていくのです。
 
 ですからもし、
 あなたの問いを
 もと来たほうへずっとたどっていき、
 また別の思考の構成概念でしかない
 答えを受け取ることを拒否すれば、
 生き生きとして非客観的な、
 絶えざる現存(プレゼンス)としての
 答えが見つかるでしょう。
 思考はこの現存からできており、
 その中へと消えていくのです。
  
 『プレゼンス―第2巻』(p265-267)
──────────────────

> 私たちはこの戸惑いを、
> 苦しみや不幸の体験として知っています。

ついつい思考に助けを求めてしまう

このいたたまれなさこそが、

じつは最後まで帰還を求めさせる

可能性としての松明なのでしょうか。

まわりの暗闇ではなく、

その松明そのものに気づくための。

> それは直感と信念との間の葛藤です。
> すべての体験の中心には幸福があることを、
> 私たちは深いところで知っているのですが、
> その直観と、
> 思考がその上にかぶせた信念とが
> 葛藤しているのです。

苦しみというのは

苦しみからの脱出の約束、

じつは苦しみは存在していなかった

という最後の発見を約束している。

> しかし、
> その究極的な答えは、
> 単なるもうひとつの
> 思考の構成概念ではありません。
>  
> それは思考の溶解です。
> 思考が、それ自身の実質の中に
> 溶けていくのです。

そうか……、

最後には思考が溶けてしまうのですね。

> ですからもし、
> あなたの問いを
> もと来たほうへずっとたどっていき、
> また別の思考の構成概念でしかない
> 答えを受け取ることを拒否すれば、
> 生き生きとして非客観的な、
> 絶えざる現存(プレゼンス)としての
> 答えが見つかるでしょう。
> 思考はこの現存からできており、
> その中へと消えていくのです。

それが想像への興味を失う

ということなのでしょう。

(-||-)

──────────────────
 ひとたびあなたの想像以外は
 何も困難をもたらすことができない、
 と絶対の確信を持って知るなら、
 あなたは欲望や恐れ、
 概念や見解に注意を払わず、
 真実とともにのみ生きるだろう。
 
 『私は在る』(p131)
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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すべてここに置いてあります。
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■ 2.編集後記:
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このテラでの夢は

恐ろしいほどの過酷な夢かもしれません。

でもその夢の苦しみの中に

その苦しみからの脱出の約束が

秘められている。

じつは苦しみは存在していなかった

という事実の発見まで。

今日は夢の中でいろいろ出来事があって、

夕方まで書き始められませんでした。

今日も暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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