home > 通信 >『アセンション館通信』第856号:私たちが常に望んでいるもの(R・スパイラ)



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2020/09/13(第856号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 この今が唯一の今で、平安、幸福、愛のすべてが今ここに、
 この状況にある。『プレゼンス―第1巻』(ルパート・スパイラ)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在513名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.私たちが常に望んでいるもの(R・スパイラ)

2.編集後記
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■ 1.私たちが常に望んでいるもの(R・スパイラ)
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すっかり涼しくなりましたね。

いまは霧雨が降っています。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と“「私は在る」噺”に

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

思考はもっともらしく湧いてきます。

まるで湧いてくる思考に

注目する必要があるかのように。

でももともと思考は

特に問題もないところにも、

なにか改善すべき点だとか、

模索すべきことがあるかのような

提案をするのが役割の働きでした。

思考に問題があるのではなく、

それに注目する癖が

未熟といえば未熟、

愚かといえば愚か、

無知と名づければ無知とも言える

今ある理解の状況なのでしょう。

実際は、特に間違ったことが

起こっているわけでもない。

スクリーンにある画面が映っているだけ。

現存がある体験を

映し出しているだけです。

その画面は見かけ上は

これまで映画の中の登場人物の“自分”が

呼び出してきた物語の続きの画面

ということになるのでしょう。

でも特に想像の物語の

内部構造にまで立ち入らなければ、

すべてが現存の中に浮かんでいる

一時の体験画面であることに

疑いはありません。

実在しているのが唯一

永遠の今という現存であり、

すべてがその現存の

一瞬の体験画面であることは確かです。

──────────────────
 想像し、決意したことが現実となる。
 ここに危険性と、
 また同様に解決の糸口があるのだ。
 
 『私は在る』(p228)
──────────────────

こうして土曜日が来ると、

またルバート・スパイラの

『プレゼンス―第2巻』を

眺めたりします。

まだ言葉の中に

何かを探そうとしているのですから、

模索が続いているのでしょう。

言葉への模索が止まるための

言葉を探し求めている……

とでも言うのか。(*^_^*)

この本のはじめの方に

「私たちが常に望んでいるもの」

という章があります。

今回はこの章のはじめの一部を

ご紹介したいと思います。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

最初に女性の方かと思われる

質問者からの少し長目の質問があります。

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 私たちが常に望んでいるもの
 
 
 質問:
 ときにあなたは、探求や模索の終わりとは、
 愛や幸福の体験であると説明します。
 しかし、そういうふうに言ってしまうと、
 この瞬間がどうあるべきかについて、
 新たな模索のパターンや考えが
 作り上げられてしまうのではないでしょうか。
 
 愛や幸福は、他のすべてのものと同じように、
 やって来ては去っていくように見えます。
 困難で不幸せな瞬間にも、
 愛や幸福が現存するはずだと考えると、
 ただただ、
 現在の状況変えたくなってしまいます。
 そして何か他のものが欲しくなってしまう
 ──つまり、
 さらに何かを探し求めてしまいます。
 
 こうしてお手紙を書いているのは、
 愛し、愛されたいという欲求の
 落とし穴にずっとはまってきたからです。
 私は長い間、自分が探しているのは
 そのような愛だと信じてきました。
 今でもまだ、
 私の中の一部がそれを欲しています。
 実際、私は今ここに座って、
 愛を求めて泣いているのです。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p93)
──────────────────

安易に「わかる」という言い方も

できにくいですが、

こういう思いの方も

いらっしゃるわけですよね……。

この質問に対して

ルパート・スパイラは、

特別なことは何も言っていません。

基本を押さえたとても穏当で

懇切丁寧な言葉が語られます。

──────────────────
 愛、平安、幸福とは、
 あらゆる抵抗と模索が溶け去るさまを
 描写した言葉にすぎません。
 それは、
 分離と他者性の崩壊、
 つまり、
 私たちの本質を味わうこと、
 それがそれ自身を味わうことです。
 客観的な性質を持っていないという意味で、
 愛、平安、幸福は、
 客観的なものではありません。
 ですから、
 愛、平安、幸福とは、
 心や体の体験ではありませんが、
 それらに強い影響を与えます。

 模索と抵抗により、
 私たちの本質、
 気づいている現存が覆い隠され、
 それゆえに、
 愛、平安、幸福も覆い隠されてしまいます。
 愛、平安、幸福は、
 気づきに本来備わっているもの、
 というよりむしろ。
 それはは気づきであるからです。
 
 気づいている現存としての本質を忘れ、
 自分は分離した自己なのだと
 想像することによって、
 私たちは世界にさまよい出て、
 関係性の中に愛を、
 状況の中に平安を、
 対象物の中に幸福を探し求めます。
 
 この模索は、その性質上、
 当然ながら不愉快のものです。
 ──それは苦しみという活動であり、
 分離した内側の自己を定義づけるものです。
 実際には、
 分離した模索する自己は存在しません。
 分離してるように見える自己とは、
 抵抗/模索という活動なのです。
  
 『プレゼンス―第2巻』(p94)
──────────────────

私たちが求めている
 
> 愛、平安、幸福とは、

いわゆる外界の様々な人間関係などの

状況の中にあるのではない。

逆に、

いわゆる外界の状況の中に

それらを模索することによって

それは覆い隠されてしまう。

なぜならそれらは、

すべての体験の背後にあって

すべての体験に気づいている

現存そのものを味わいなのだから。

マインドによって想像された、

分離した外部というものもなければ、

そこに幸福を求めているという

分離した内側の自己

というような者も存在しない。

それはすべて実際に体験されている

親密な体験内実に覆いかぶされた

架空の想像状況にすぎない。

分離した内側の自己とは、

想像された外部の状況に抵抗して、

外部の状況に幸福を模索する

その活動そのもののことだと。

──────────────────
 求めていた関係性や状況、
 対象物が見つかると、
 模索は一時的に終わりを迎えます。
 この溶解において、
 私たちの本質が輝きだします。
 いわば、ほんの束の間の
 (実際は心がそこにいないので
  時を越えた瞬間ですが)
 気づいている現存(プレゼンス)が
 それ自身を味わうのです。
 
 この時を越えた瞬間は、
 愛、平安、幸福として
 知られているものです。
 それは、
 美や理解としても知られています。
 それが私たちの本質であり、
 それはそれ自身を
 ありのままに知っています。
 それは内側の自己の感覚によって、
 見かけ上、
 変化させられることもありません。
 
 心(マインド)が再び目覚めると、
 それはこの非客観的な
 愛、平安、幸福の体験を
 誤って解釈します。
 この体験が起きたとき
 心(マインド)は不在だったのですが、
 関係性や状況、対象物のおかげで
 そのような体験ができたと考えるのです。
 
 こうして、
 主体/客体という考え方が戻ってくると、
 愛、平安、幸福は
 再び覆い隠されてしまいます。
 思考は再び旅に出て、
 新しい関係性、状況、対象物を探し求め、
 愛、平安、幸福の体験が
 再現されることを願います。
 思考は、関係性や状況、
 対象物がこのような体験を
 作り出したのだと誤って信じているのです。
 
 しかし、
 愛、平安、幸福を作り出すのは、
 関係性や状況、対象物ではありません。
 気づいている現存である
 私たちの本質に本来備わっている、
 根底にある愛、平安、幸福は、
 抵抗し模索する思考が
 停止することで輝きだします。
 すなわち、
 抵抗/模索の停止によって、
 私たちの本質は
 それ自身をありのままに知り、
 味わうことができるのです。
 抵抗/模索という活動によって、
 見かけ上、
 本質が覆い隠されることがなくなるからです。

 『プレゼンス―第2巻』(p95-96)
──────────────────

いわゆる外部の状況において

求めていた関係性や状況が、

一瞬見つかることがある。

するとその瞬間だけ模索が終わって、

気づき本来の幸福が輝きだす。

この時を越えた瞬間を

私たちは愛、平安、幸福として

体験するのだと。

それを私たちは誤って、

外部の状況が原因で

その安らぎが生まれたのだと誤解する。

そしてまた次の模索が始まると、

その気づき本来の幸福も

覆い隠されてしまう。

しかし実際は、

その幸福を作り出していたのは、

関係性や状況といった対象物ではない。

ただ抵抗し模索する思考がやんだとき

すべての体験の背景にある気づきの

その根底にある幸福が

輝きだしていたのだと。

──────────────────
 それゆえ、
 私たちの自己、
 気づいている現存がやって来ては
 去っていくものではないのと同じように、
 愛、平安、幸福も、
 やって来ては去っていくものではありません。
 しかし、それらはときおり
 覆い隠されているように見えます。
 
 ですから、もし、私とは
 分離した内側の自己であると考えれば、
 必ずや、関係性や状況、
 対象物といった領域の中に、
 愛、平安、幸福を
 探し求めることになるでしょう。
 実際、分離した自己とは、
 愛、平安、幸福の模索なのです。
 
 しかし、
 遅かれ早かれ、
 私たちが探しているものは、
 対象物の領域には
 見つからないということを
 理解しなければなりません。
 これは単に、私たち自身の
 存在(ビーング)を知るということです。
 
 一休みして、
 関係性や出来事、対象物に
 焦点を当てるのをやめてみましょう。
 あなたの自己、
 あなた自身の存在が静かに現存し、
 すべての体験の背後で
 光り輝いていることに気づいてください。
 それは平安そのものです。
 それは愛と幸福の住処です。
 
 愛、平安、幸福を、
 体や心の体験とは考えないでください。
 愛、平安、幸福は透明です。
 
 こんなんで不快な状況の
 真っ只中でさえ、
 気づいている現存(プレゼンス)が
 背後で静かに輝いているのです。
 
 それと親しんでください。
 私たちは完全に親密に、それなのです。
 私たちが常に、
 真に望んでいるのはそれだけです。
 すべての関係性において、
 それだけが求められています。
 
 距離や他者性の感覚がないので、
 それは愛として知られています。
 動揺することがないので、
 それは平安として知られています、
 欠乏感がないので、
 それは幸福として知られています。
 それであってください。
 それと友達になってください。
 それとともに生き、
 それを愛し、
 そこでくつろいでください。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p96-97)
──────────────────

しかし遅かれ早かれ

私たちは自分が求めているものは

知覚の対象物の中には見つからないことを

理解しなければならない。

私たちが求めていたのは、

迷子になった自分が

誰だったのかを思い出すことだったと

理解することになるわけです。

私たちにはじつは

足りないものなど何もなかった。

なぜなら、

体験している自分こそが

そこで体験されているすべてだったと

理解されることになるからです。

すべては気づきである自分の中に

溶けていく。

すべての分離とそこでの物語は、

自分の想像の中でのお話にすぎなかった。

想像している自分以外に

誰が存在するわけでもなかった。

すべては自分に起こっていた。

気づきである自分以外に

他の何が存在するわけでもなかった。

> 一休みして、
> 関係性や出来事、対象物に
> 焦点を当てるのをやめてみましょう。
> あなたの自己、
> あなた自身の存在が静かに現存し、
> すべての体験の背後で
> 光り輝いていることに気づいてください。
> それは平安そのものです。
> それは愛と幸福の住処です。

これ以上何を求める必要があるでしょうか?

(-||-)

──────────────────
 そこには想像があるだけだ。
 知性とエネルギーは、
 あなたの想像のなかですべて
 使い果たされてしまった。
 あなたはまったく
 想像に夢中にさせられてしまったため、
 どれほど実在から遠く離れて
 さまよい歩いたのかさえ
 わからなくなってしまったのだ。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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すべての夢は許されて存在している。

いま自分が見ている夢でなければ、

誰かが代わって見ている夢です。

他の誰かは存在しないのだから。

ぼんやりと一日を過ごしています。

明日は地域の草刈りです。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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