home > 通信 >『アセンション館通信』第857号:スクリーン上のカーチェイス(R・スパイラ)



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2020/09/20(第857号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 車も人も道も建物もない、あるのはただスクリーンだけです。
 現象がどんな状態でも、それは何も得たり失ったりしません。
 そして同時に、気づきはまさにそれらすべての実質なのです。
 (『プレゼンス―第2巻』:ルパート・スパイラ)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在512名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.スクリーン上のカーチェイス(R・スパイラ)

2.編集後記
──────────────────
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.スクリーン上のカーチェイス(R・スパイラ)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

爽やかな秋空……とはいきませんが、

曇天なりに、

すっかり秋らしくはなりました。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と“「私は在る」噺”に

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

自分の考えを主張したいときもあります。

自分の考えという虚構の束縛から

脱出したいときもあります。

どちらも、

主張したい自分や、

脱出したい自分という実体が存在する

と前提している意識(思考)です。

これらの意識(思考)は

一瞬一瞬の今の中に今も現れています。

普段の知覚的印象空間では

自分がいるのは当然のことです。

その自分というのが

この身体を指しているのも自明です。

自分の考えを主張したいときもある。

つまり浮上した思考を

あたかも自分のものであるかのように

主張したいときもある。

自分という束縛から脱出したいときもある。

そのような思考が浮上することもある。

それもまた

そのような思考にすぎないわけです。

思考への同一化という

同じことが起こっているだけです。

浮かんでくる思考をただ見ている。

というそれだけのことが、

なかなか起こらないものですね。

こうして土曜日が来るたびに、

こんな思考がやってくるのです。(*^_^*)

今回もルバート・スパイラの

『プレゼンス―第2巻』
https://amzn.to/2EpkHU4

からご紹介したいと思います。

とてもイメージのある秀逸な表現です。

この本の中程に

「完全に親密にひとつ」

という章があります。

このタイトルを見て、

ちょっと自分のタイプじゃないかも

と思って敬遠していました。(^_-)

ところがドッコイ、

これこそはわたし好みの文章でした。

今回はこの章の前半部分を

ご紹介したいと思います。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 
 完全に親密にひとつ
 
 
 ある時点から、私たちは、
 活動する個人的な実体であると
 考えたり感じたりしなくなります。
 
 時間や空間、
 分離した実体とそれに対応する世界はすべて、
 私たちの本質の上に重ねられたものです。
 
 私たちは、
 自らを制限された、
 分離した実体と考え、感じますが、
 それは単に、
 私たちの本質を忘れてしまったからに
 すぎません。
 
 私たちの本質を思い出すやいなや、
 時間や空間、分離した実体、
 物事、対象物、他者、世界は
 すべて崩壊します。
 そして、それらのものが
 現れてたように見える場所、
 源へと還ります。
 
 しかし、そもそもそれらは
 本当に現れたわけではないため、
 実際に崩壊することはありません。
 ただ、
 存在(ビーイング)の
 常に現存する現実として、
 それらの本来の姿が
 見えるようになるのです。 
 現象としては実質がありませんが、
 存在としては実在するのです。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p188-189)
──────────────────

> ある時点から、私たちは、
> 活動する個人的な実体であると
> 考えたり感じたりしなくなります。

そうなりたいですよね。(-||-)

> 時間や空間、
> 分離した実体とそれに対応する世界はすべて、
> 私たちの本質の上に重ねられたものです。

そうであることは間違いない

とわかっているつもりなんですがね。

> 私たちは、
> 自らを制限された、
> 分離した実体と考え、感じますが、
> それは単に、
> 私たちの本質を忘れてしまったからに
> すぎません。

まだ思い出せていない、

ということなんでしょうね。

> 私たちの本質を思い出すやいなや、
> 時間や空間、分離した実体、
> 物事、対象物、他者、世界は
> すべて崩壊します。

まだ崩壊していないのですから。

> そして、それらのものが
> 現れてたように見える場所、
> 源へと還ります。

(-||-)

> しかし、そもそもそれらは
> 本当に現れたわけではないため、
> 実際に崩壊することはありません。

実際は身体という

物理次元VR視聴ゴーグルで、

入力信号の感覚的印象を再構成しながら

いわゆる体験をしているだけですものね。

> ただ、
> 存在(ビーイング)の
> 常に現存する現実として、
> それらの本来の姿が
> 見えるようになるのです。 

記憶が構成する物語を

付加しなくなるのでしょうね。

> 現象としては実質がありませんが、
> 存在としては実在するのです。

映画を見ながら、

スクリーンだけを実感している

ようなものでしょうか?

さて、

ここからが強力なイメージです。

──────────────────
 スクリーン上で
 カーチェイスを見ていると
 想像してみましょう。
 このカーチェイスは、
 ある一台の車の中から撮影されています。
 日常でも、
 こうした映画を見るときは、
 体も活発化し、動揺し、
 自分が車の中にいて、
 猛スピードで突進し、
 きわどいところで他の車や建物、
 人々をかわしているように感じます。
 
 カーチェイスが終わると、
 私たちは体の緊張に気づきます。
 それは、
 自分をカメラの視点と
 同一化することで生じました。
 カーチェイスが終わった後もずっと、
 ときには映画が終わった後もずっと、
 体の中に
 このような感覚が残ることがあります。
 
 しかし、
 映画の中のある時点で
 ──それは、
   どの瞬間にも起こりえますが──
 自分は車の中にいて、
 猛スピードで運転し、
 間一髪で他のものを
 避けたりしているわけではないことが
 明らかになります。
 
 車の運命は私たちの運命ではない
 ということが明らかになるのです。
 つまり、
 車も、人も、道も、建物もない
 ということが明らかになりなるのです。
 あるのはただ、
 スクリーンだけです。
 
 ひとたびこのことを理解すれば、
 それと同時に、
 いつでもずっと
 そうであったことがわかります。
 私たちは、
 体験に関する明白な事実を
 忘れていただけなのです。
 私たちはそれをいつでも
 知ることができたのですが、
 忘れることによって、
 自分たちは車の中にいて、
 猛スピードで運転し、
 たえずズ危険にさらされているという
 感覚が引き起こされたのです。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p189-190)
──────────────────

> スクリーン上で
> カーチェイスを見ていると
> 想像してみましょう。

このアナロジーが素晴らしい!

> このカーチェイスは、
> ある一台の車の中から撮影されています。

リアルにイメージできますよね。

> 日常でも、
> こうした映画を見るときは、
> 体も活発化し、動揺し、
> 自分が車の中にいて、
> 猛スピードで突進し、
> きわどいところで他の車や建物、
> 人々をかわしているように感じます。

相撲なんかを見ていてさえ、

思わず身体が動いてしまうときがある。(*^_^*)

> カーチェイスが終わると、
> 私たちは体の緊張に気づきます。

はい。

> それは、
> 自分をカメラの視点と
> 同一化することで生じました。

たしかに。

> カーチェイスが終わった後もずっと、
> ときには映画が終わった後もずっと、
> 体の中に
> このような感覚が残ることがあります。

そういうことありますよね。

> しかし、
> 映画の中のある時点で
> ──それは、
>   どの瞬間にも起こりえますが──
> 自分は車の中にいて、
> 猛スピードで運転し、
> 間一髪で他のものを
> 避けたりしているわけではないことが
> 明らかになります。

ふっと、

それに気づく瞬間がある。

人によっては、

カーチェイスだと最初からそれほど

入り込めない場合もあるかもしれません。

> 車の運命は私たちの運命ではない
> ということが明らかになるのです。

一瞬前までは

思わず身体が反応していたけれど、

気がつけばそれは目の前の画面上の

パターンの変化にすぎなかった。

自分とは何の関係もない。

自分はただそれを見ているだけ。

目をつぶれば見えなくなる。

> つまり、
> 車も、人も、道も、建物もない
> ということが明らかになるのです。

たしかに、

見せられた目まぐるしい映像の変化で

勝手にそこに車や人や道や建物が

存在していると想像していただけでした。

> あるのはただ、
> スクリーンだけです。

間違いなく、

スクリーンがあるだけでした。

起こっていたのは

そのスクリーン上に踊る

色と音のパターン変化にすぎなかった。

> ひとたびこのことを理解すれば、
> それと同時に、
> いつでもずっと
> そうであったことがわかります。

身体として誕生して以来の人生は

すべてこの身体への同一化の結果

起こっていたことにすぎなかった。

実際は、

すべて入力される感覚的信号から

再構成した仮想現実を見て

起こっている現実を想像して

いたにすぎなかった。

> 私たちは、
> 体験に関する明白な事実を
> 忘れていただけなのです。

見ているのは

見られている対象物の一部である

この身体ではない。

この身体を含めたすべての現象を

映し出しているのがわたし。

> 私たちはそれをいつでも
> 知ることができたのですが、
> 忘れることによって、
> 自分たちは車の中にいて、
> 猛スピードで運転し、
> たえずズ危険にさらされているという
> 感覚が引き起こされたのです。

それがこの身体という

ウルトラリアルなVRゴーグルを

被るということなのでしょう。

──────────────────
 この騒ぎはすべて
 スクリーン上の芝居にすぎず、
 自分の中のことではないと、
 私たちは気づきます。
 
 そして、それと同時に、
 映画の登場人物たちにとっての
 時間や空間、因果関係は、
 スクリーンにとっては、
 それ自身の絶えざる
 現存(プレゼンス)にすぎない
 ということもわかります。
 
 スクリーンが、
 映画の中で起きることや
 話の筋によって
 活気づけられることなど
 あるでしょうか?
 スクリーンも興奮したり、
 がっかりしたりするでしょうか?
 スクリーンも現れたり、
 消えたりするでしょうか?
 映像が変わったり、
 動いたりするにつれ、
 スクリーンも変わったり、
 動いたりするでしょうか?
 
 映画の結末によって、
 スクリーンが何かを得たり、
 失ったりはしません。
 スクリーンは映像によって
 活気づくこともないし、
 映像の表面的な性質を
 分かち合うこともありません。
 しかしそれと同時に、
 スクリーンはまさに
 映画の実質でもあります。
 
 同様に、
 私たちの自己の本質を忘れることで、
 自分は分離した外側の世界で
 動き回っている分離した実体である
 という思考や感覚が引き起こされます。
 スクリーンと同じように、
 私たちの自己、
 気づきもすでに、
 それがそうでありうるすべてです。
 それは、
 体、心(マインド)、
 世界といった現象が
 どんな状態にあっても、
 何かを得たり失ったりはしません。
 しかし、
 それと同時に気づきは、
 まさにそれらのものの実質でもあります。

 『プレゼンス―第2巻』(p190-191)
──────────────────

> この騒ぎはすべて
> スクリーン上の芝居にすぎず、
> 自分の中のことではないと、
> 私たちは気づきます。

その芝居に入りたければ、

それには誰も反対しない。

私はそのための身体を持っている。

ただし入れば、

まずその芝居の束縛は免れない。

でもいつの瞬間にも

自分がその芝居の一部ではない

ことに気づくことは起こりえる。

> そして、それと同時に、
> 映画の登場人物たちにとっての
> 時間や空間、因果関係は、
> スクリーンにとっては、
> それ自身の絶えざる
> 現存(プレゼンス)にすぎない
> ということもわかります。

むしろ、

私はその芝居のすべて、

すべての登場人物、

その時間と空間、因果関係、

そのすべてが私の絶えざる現存に

ほかならない。

> スクリーンが、
> 映画の中で起きることや
> 話の筋によって
> 活気づけられることなど
> あるでしょうか?

現存としての私が

その芝居の展開から

何かを得られる可能性は皆無。

でもその芝居の展開に興味を持てば、

その人はその芝居の中の

登場人物になってしまう……。

すべての体験を可能にしている

実在する自分(現存)は……

永遠の不動なのに。

> スクリーンも興奮したり、
> がっかりしたりするでしょうか?

それは……しないよなぁ。

> スクリーンも現れたり、
> 消えたりするでしょうか?

いやいや。

> 映像が変わったり、
> 動いたりするにつれ、
> スクリーンも変わったり、
> 動いたりするでしょうか?

それはないでしょ。

> 映画の結末によって、
> スクリーンが何かを得たり、
> 失ったりはしません。

そう……。

そして実際はその自分しか実在しない。

> スクリーンは映像によって
> 活気づくこともないし、
> 映像の表面的な性質を
> 分かち合うこともありません。

リーラ、神の隠れん坊とは

そういうことなんだなぁ。

> しかしそれと同時に、
> スクリーンはまさに
> 映画の実質でもあります。

それがあるから

すべての現象が存在できるのだから。

> 同様に、
> 私たちの自己の本質を忘れることで、
> 自分は分離した外側の世界で
> 動き回っている分離した実体である
> という思考や感覚が引き起こされます。

芝居の登場人物に同一化するということは、

自分が何であるかを忘れること。

自分を忘れることで、

その忘却の中で分離の夢が

虚構の実体化を見かけ上実現する。

> スクリーンと同じように、
> 私たちの自己、
> 気づきもすでに、
> それがそうでありうるすべてです。

気づきは、

虚構の夢を可能にするものであり、

夢の中の登場人物であり、

見かけの芝居への反応であり、

可能性のすべてであり、

実在するすべてです。

> それは、
> 体、心(マインド)、
> 世界といった現象が
> どんな状態にあっても、
> 何かを得たり失ったりはしません。
> しかし、
> それと同時に気づきは、
> まさにそれらのものの実質でもあります。

それはドラマのどんな展開にも

汚されないもの。

それ自体で完全であるもの。

増えることも減ることもないもの。

永遠の不動。

永遠の今。

今この瞬間に現存するもの。

──────────────────
 スクリーンが
 映像の形を取るのと同じように、
 気づきも、
 体や心(マインド)によって
 制限されるように見えます。
 しかし、
 体や心の見かけ上の性質は、
 気づきには何の関係もありません。
 それと同時に、
 体や心にひとたびある種の
 相対的な実在性を与えたとしても、
 それらは気づきだけでできている
 と言えるのです。
 
 それでは、
 何が変化し、
 動いているのでしょう?
 スクリーンは映画の、唯一、
 常に現存する背景であり
 実質であるので、
 変わらないし、動きません。
 同じく、
 車も変わらないし、動きません。
 なぜなら、
 それはそのようなものとして
 存在しているわけではないからです。
 
 映像だけが、動き、変化します。
 しかし、
 思考がなければ、
 映像でさえ、
 動かないし、変わりません。
 なぜなら、
 変化や動きには記憶が必要であり、
 そして、
 記憶とは、現時点での
 思考にすぎないからです。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p191)
──────────────────

> スクリーンが
> 映像の形を取るのと同じように、
> 気づきも、
> 体や心(マインド)によって
> 制限されるように見えます。

制限が信じ込まれた立場からすれば、

リーラとは“巨大な信用詐欺”だ

と言う権利もあるでしょうね。

たとえば、

このわたしの人生は

まったく要らないものだった

とも言えるかもしれません。

ただ、その「わたし」というのが、

存在するのかどうか。

時空間の中で想像された夢の中には、

そういう意識の位置もある、

ということでしょうね。

ただ、

すべてそのような意識の内容物は、

想像の中にしかない。

夢の中でしか現象していない。

そういうものが存在している、

とは言えない。

夢から覚めたら、

それはどこにも存在していないわけです。

> しかし、
> 体や心の見かけ上の性質は、
> 気づきには何の関係もありません。

気づきはどんな意図にも

何の関係もないでしょうね。

意図とか目的とか、

そういったあらゆる見かけ上の性質は、

気づきというスクリーンを

その性質で染め上げることはできない。

> それと同時に、
> 体や心にひとたびある種の
> 相対的な実在性を与えたとしても、
> それらは気づきだけでできている
> と言えるのです。

そして時空間という

記憶で構成される物語空間のなかの夢は、

何の材料で作られているのかといえば、

そこに気づきの波立ち以外のものが

あるわけでもない。(-_-;)

> それでは、
> 何が変化し、
> 動いているのでしょう?

何が変化し、

動いているのでしょう?

> スクリーンは映画の、唯一、
> 常に現存する背景であり
> 実質であるので、
> 変わらないし、動きません。

映画の画面の動きに沿って、

スクリーンが動くわけではない。

> 同じく、
> 車も変わらないし、動きません。

車として想像され認識された現象も、

それは記憶によって想像された夢。

> なぜなら、
> それはそのようなものとして
> 存在しているわけではないからです。

実際に、

そこに動く車という実体が

存在するわけではないわけです。

> 映像だけが、動き、変化します。

動いて変化しているのは、

映像だけ、イメージだけです。

> しかし、
> 思考がなければ、
> 映像でさえ、
> 動かないし、変わりません。

その映像、イメージもまた

思考によって想像された観念にすぎない。

> なぜなら、
> 変化や動きには記憶が必要であり、
> そして、
> 記憶とは、現時点での
> 思考にすぎないからです。

すべては知覚を刺激した

パターンの変化から想像され、

空想された観念にすぎない。

今この瞬間に想起された記憶は、

けっしてどこかに実体として

実在しているわけではないからです。

どれほどの苦しみが想像されようとも、

その苦しみの原因がどこかに

実在するわけではない。

ただ記憶の連鎖の中で

それは想像されたにすぎないのです。

わたしは、

あるいはあなたは、

そのような想像に興味を持つ思考に

フォーカスしているだけなのでしょう。

その興味に逆らうことは

できないのです。

その興味が自分なのだから。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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──────────────────
 解放への道には
 何も立ちはだかっていない。
 そしそしてそれは
 今ここで起こることができる。
 だが、あなたはほかのことに
 もっと興味がある。
 そしてあなたは
 その興味と闘うことはできないのだ。
 あなたはそれとともに行き、
 それを見抜き、
 それが単に判断と賞賛の誤りで
 あることを、
 それ自体が自ら暴くのを
 見守らなければならないのだ。
 
 『私は在る』(p475)
──────────────────

そういうことかぁ。(-_-;)

そういうことだなぁ。

今日も暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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