home > 通信 >『アセンション館通信』第858号:気づきだけが存在している



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2020/10/04(第858号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 車も人も道も建物もない、あるのはただスクリーンだけです。
 現象がどんな状態でも、それは何も得たり失ったりしません。
 そして同時に、気づきはまさにそれらすべての実質なのです。
 (『プレゼンス―第2巻』:ルパート・スパイラ)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在512名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.気づきだけが存在している

2.編集後記
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■ 1.気づきだけが存在している
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霧雨が降っているのでしょう、

障子を開けるとガラス戸越しに見える

目の前のサンデッキが濡れています。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と“「私は在る」噺”に

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

私が今いるところは

生前母が使っていた空間です。

仏間の南側に広めの縁側があって、

東端に小さな調理台がついています。

書斎など持ったことがなかったのに、

今頃になって自分の書斎がもてた感じ。

母がいなくなったので

何となく使ってみたのですが、

これがじつに自分にピッタリ。

この小さな空間がわが小宇宙、

わが全天になりました。

「全天」とは中国語で

一日中の意味なんだそうですね。

たしかに一日中

この小宇宙で生活しているような。(*^_^*)

長年フリーランスもどきの

その月ぐらしの生き方をしてきて、

特に自分が恵まれているなどと

感じたことはありませんでしたが、

こうやって生存できていること自体、

とても恵まれているのかもしれません。

じつは右手にあるキッチンのシンクから

いまわが家の猫のニケが降りていきました。

そのシンクの小ささが居心地がいいのか、

夏の間はよくそこで身を丸めて寝ています。

はじめて見たときはドキッとしましたよ。

そんな者がいるはずのないところに、

何やら毛物の片鱗が見えたのですから。

やっぱり生き物の姿は驚きますね。

いまニケがシンクから出ていったのは、

わたしの思考が

自分に向けられていることを感知して、

それがうるさかったのかもしれません。

猫族は自分の都合以外は

いっさい顧慮しないところが素晴らしいです。

その癖、

けっこう勝手な興味はもつのです。

めったにありませんが、

こうしてモニターに向かっている

わたしを見上げて声をかけるのは

たいてい食事の給仕を要求するときです。

そこはちょっと変わった猫で

最初の飼い主が付けた癖なのか、

ニケは自分の食事のときに

近くに誰かが付いていて

給仕することを要求するのです。

給餌ではありません。

いや給餌はもちろん要求しますが、

所定の餌が十分に入っていても、

誰かに近くで「どうぞ」と

勧めてもらうことが必要らしいのです。

餌をやって、食べだしたので、

もういいだろうと思って離れると、

また呼びに来たりします。(>_<)

ある程度つきあってやってから、

いいかげんにしろと思って離れると、

もうそれ以上は何も言いません。

たぶん、こちらの思いは

十分にキャッチしているのでしょう。

大したものです。

思うに、

随分いろいろのことを

教えてくれているのかもしれません。

ああやって生きてもいいわけですね。

あれ、いま見たら、

ニケはまたシンクに戻っています。

ほんとに自由自在だこと。(*^_^*)

それともわたしが創造している

ホログラムが揺らいでいるのかしら?(@_@)

なんちゃって。(^_-)

永遠のなかで生きているのなら、

気にしなきゃいけないことなんて、

ほとんど無いのかもしれません。

現象はすべて対象物であって、

それが束の間の【見かけ】なのは

あまりにも当然だとすれば、

いったいそれ以上に気にすべきことが

何かあるでしょうか?

たとえ【見かけ】上

どんなに足掻こうと藻掻こうと。

その【見かけ】を止めることなど

できないのです。

またたとえ

その【見かけ】を止められたとしても、

そうなったら、そうなったで、

その【見かけ】を認識することは

できないでしょう。

というのも、知覚とは、

不動の背景(自分)に対する

変化の知覚以外ではないのですから。

つまり、

今現在気づいている人は、

ありえる可能性のすべてを

いますでに手にしているわけです。

それ以上

何を獲得することもできなければ、

何を失うこともできないのです。

そしてわたしは気づいている。

これ以上わたしは何を望めるだろう?

わたしはすべてをもっているし、

同時に何ももっていない。

ただ、

すべてがわたしに依存していることを

知っているだけです。

なぜなら

わたしこそが現存だからです。

これはただの観念だとも言えます。

しかしわたしはその観念が

実情を描写していることも知っている。

そしてその観念の真実性を

わたし以外の誰も証明できないことも。

──────────────────
 あなたがあなたを含むすべての
 証明なのだということを、
 まず悟るべきだ。
 あなたの存在を
 証明できるものは何もないのだ。
 なぜなら、
 他者の存在もあなたによって
 確認されなければならないからだ。
 あなたは完全に、
 あなた自身によって在るのだ
 ということを覚えておきなさい。
 あなたはどこからも来なかったし、
 どこへも行かない。
 あなたは時間を超えた存在、
 そして気づきなのだ。
 
 『私は在る』(p178)
 https://amzn.to/3pEbJE8
──────────────────

> あなたはどこからも来なかったし、
> どこへも行かない。
> あなたは時間を超えた存在、
> そして気づきなのだ。

これ……

すごいことですよね。

そしてそれが事実なのです。

こういう内容を

「事実」という言葉で

指し示せるのかどうかは知らないけど。

事実とは言えなくても、

実際の状況とは言えるでしょう。

すごいことですよね。

相変わらず

こうして土曜日が来るたびに、

こんな思考がやってきます。

今回もルバート・スパイラの

『プレゼンス―第2巻』
https://amzn.to/2EpkHU4

からご紹介したいと思います。

前回ご紹介した

「完全に親密にひとつ」

という章の次に

「友を失うことはない」

というタイトルの章があります。

ルバート・スパイラの

タイトル趣味はいまいちわからりませんが、

中身はがっつり好みでした。(^_-)

今回はこの章の前半部分を

ご紹介したいと思います。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 
 友を失うことはない
 
 
 客観的に見える体験はすべて、
 心(マインド)からできています。
 つまり、
 すべての思考や想像、感覚、知覚を含む、
 広い意味での
 心(マインド)からできています。
 
 私たちが対象物や他者、
 世界について知っていることはすべて、
 心(マインド)を通してやってきます。
 つまり、
 思考、想像、感覚、視覚、触覚、味覚、
 嗅覚を通じてやってきます。
 
 こういった性質はすべて
 心(マインド)に属します。
 心(マインド)から離れたところ、
 心(マインド)の外側に、
 対象物や他者、
 世界が存在するという証拠はなく、
 それらを体験することもありません。

 今現在の体験から
 心(マインド)を取り除いたら、
 客観的なものは何も残りません。
 
 心(マインド)は
 どこに現れるのでしょう?
 気づきの中です。
 では、心(マインド)は
 何からできているのでしょう?
 心(マインド)は気づきからできており、
 気づきの中に現れます。
 それ以外に、
 心(マインド)を構成するものは
 存在しません。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p198)
 https://amzn.to/2EpkHU4
──────────────────

> 私たちが対象物や他者、
> 世界について知っていることはすべて、
> 心(マインド)を通してやってきます。
> つまり、
> 思考、想像、感覚、視覚、触覚、味覚、
> 嗅覚を通じてやってきます。

これは

アートマナンダ・クリシュナ・メノン師

の教えに基づく非二元論の基本です。

この教えに学ぶ気さえあれば

容易に理解できる最小限度の観念です。

私たちは

感覚器官を通じて入ってくる感覚的刺激と

それに付加される思考・想像によって

対象物や他者や世界を経験すると。

これらの感覚や思考・想像を

心(マインド)という観念で括るなら、

すべては心(マインド)だと

いうことになります。

> 今現在の体験から
> 心(マインド)を取り除いたら、
> 客観的なものは何も残りません。

いわゆる「客観的」存在と言われるものは

実際はすべて感覚と思考なので、

それを除けば何も残らない。

> 心(マインド)は
> どこに現れるのでしょう?
> 気づきの中です。
> では、心(マインド)は
> 何からできているのでしょう?
> 心(マインド)は気づきからできており、
> 気づきの中に現れます。
> それ以外に、
> 心(マインド)を構成するものは
> 存在しません。

ではその感覚や思考は

どこに現れるのか?

それは気づかれることによって

現象できてている。

つまりそれは気づきの中に

現れているということです。

ではその気づき以外に、

あるいはその気づきの外に

気づきとは別の客観的実体が何かあるのか?

いや、そういうものは存在しない。

つまりその感覚や思考が

気づき以外のものから

構成されているわけではない。

──────────────────
 しかし、
 心(マインド)が
 気づきの中に現れるというのも、
 あまり正確ではありません。
 なぜなら、
 このように言うと、
 家具は部屋という空間の中に現れるように、
 心(マインド)も気づきの中に現れる
 という印象を与えてしまうからです。
 
 家具は、部屋の外から持ち込まれた、
 何か新しいものです。
 相対的に言うなら、
 それは、部屋という空間以外の
 何か別のものでできています。 
 
 しかし心(マインド)は、
 つまり、
 思考や想像、感覚、知覚は、
 外から持ち込まれたものではありません。
 では、
 私たちの体験の中にあって、
 気づきの外側にあり、
 心が現れ得る場所とはどこなのでしょう?
 
 心(マインド)が出現する以前は、
 気づきだけが存在しています。
 心(マインド)が
 (すべての思考、イメージ、体、
  対象物、他者、世界も含めて)
 現れるとき、
 唯一現存している実質は気づきであり、
 心(マインド)はそれからつくられます。
 
 しかし、心(マインド)が、
 心(マインド)の出現に先立って
 現存するものからできているならば、
 心(マインド)が現れるとき、
 何か新しいものが現れた
 と言うことはできません。
 心(マインド)が現れたと
 知ることなどできるでしょうか?
 誰がそういうのでしょう?
 心(マインド)だけです。
 
 心(マインド)に先立って
 存在しているのは、
 気づきだけです。
 心(マインド)が出現している間も、
 気づきだけが
 存在しています。
 心(マインド)が静まっていくときも、
 気づきだけが存在しています。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p199-200)
──────────────────

> しかし、
> 心(マインド)が
> 気づきの中に現れるというのも、
> あまり正確ではありません。
> なぜなら、
> このように言うと、
> 家具は部屋という空間の中に現れるように、
> 心(マインド)も気づきの中に現れる
> という印象を与えてしまうからです。

なるほど。

たしかに、この比喩は正確じゃない。

> 家具は、部屋の外から持ち込まれた、
> 何か新しいものです。
> 相対的に言うなら、
> それは、部屋という空間以外の
> 何か別のものでできています。 

間違いありません。

気づきの中に思考が現れるというと、

まるで部屋という空間に

別に存在していた家具という実体が

持ち込まれたのと同等の意味を暗示する。

> しかし心(マインド)は、
> つまり、
> 思考や想像、感覚、知覚は、
> 外から持ち込まれたものではありません。

ところが、

わたしが感覚や思考に気づくというのは、

わたしという気づきの空間に

それとは別に実体として存在する

思考や感覚が持ち込まれるわけではない。

> では、
> 私たちの体験の中にあって、
> 気づきの外側にあり、
> 心が現れ得る場所とはどこなのでしょう?

そんなところがあるわけがない。

気づきの内容物に先立って

存在しているのは気づきだけだから。

なぜなら、

気づきの対象物は

気づきに対して現れるのだから。

> 心(マインド)が出現する以前は、
> 気づきだけが存在しています。

はい、波立つ前の静かな意識の海、

いわば純粋な意識の海が。

> 心(マインド)が
> (すべての思考、イメージ、体、
>  対象物、他者、世界も含めて)
> 現れるとき、
> 唯一現存している実質は気づきであり、
> 心(マインド)はそれからつくられます。

純粋な意識の海が波立って、

気づきの中に気づきの対象が、

いわば意識の表現が起こる。

顕現(色)は

非顕現(空)の表現であって、

そこに顕現という別の実体が

存在するわけではない。

> しかし、心(マインド)が、
> 心(マインド)の出現に先立って
> 現存するものからできているならば、
> 心(マインド)が現れるとき、
> 何か新しいものが現れた
> と言うことはできません。

意識の顕現であるマインドの出現は、

部屋という空間の中に

それとは別に実体として存在する

家具が持ち込まれたのとは違う。

マインドは

その出現に先立って存在している

気づき以外のどんなものからも

できていない。

> 心(マインド)が現れたと
> 知ることなどできるでしょうか?
> 誰がそういうのでしょう?
> 心(マインド)だけです。

マインドの出現を知っているのは

マインドだけ。

> 心(マインド)に先立って
> 存在しているのは、
> 気づきだけです。
> 心(マインド)が出現している間も、
> 気づきだけが
> 存在しています。
> 心(マインド)が静まっていくときも、
> 気づきだけが存在しています。

純粋意識(非顕現)が波立って

そこにマインド(顕現)が現れるとき、

その顕現を知っているのは

その顕現だけ。

──────────────────
 しかし、この説明も
 相対的な真実にすぎません。
 私たちはすでに、
 実際の体験として時間は
 まったく存在しないことを理解しました。
 そうであるなら、
 「先立って」や「〜の間」や「〜の後」
 というのはどこにあるのでしょうか?
 つまり、
 今現在の体験の
 「前」「間」「後」という時間は
 どこにあるのでしょう?
 それらは今現在の
 思考の中にあるだけです。
 
 同様に、
 心(マインド)が変化するとき、
 たとえば、ある状況が消えて
 新たな状況が現れるときも、
 気づきは現像し続け、
 その間ずっと
 変化することはありません。
 
 最初の状況が起きる前も、
 それが出現している間も、
 次の状況が出現している間も、
 そして、それが消えた後も、
 あらゆる状況が現れては消える間ずっと、
 永遠に、
 気づきだけが存在しています。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p200-201)
──────────────────

> しかし、この説明も
> 相対的な真実にすぎません。
> 私たちはすでに、
> 実際の体験として時間は
> まったく存在しないことを理解しました。

時間とは

今現存している思考が、

今現存していない別の思考(記憶)を

参照できる……

という偽りを前提して

はじめて存在できる虚構の枠組み。

これが想像というもの。

> そうであるなら、
> 「先立って」や「〜の間」や「〜の後」
> というのはどこにあるのでしょうか?

もちろん、

思考の中にしか無い。

> つまり、
> 今現在の体験の
> 「前」「間」「後」という時間は
> どこにあるのでしょう?
> それらは今現在の
> 思考の中にあるだけです。

時間についてのすべての観念は、

今現存している思考が、

今現存していない別の思考(記憶)を、

参照するという

虚構のアクロバット上にしかない。

> 同様に、
> 心(マインド)が変化するとき、
> たとえば、ある状況が消えて
> 新たな状況が現れるときも、
> 気づきは現像し続け、
> その間ずっと
> 変化することはありません。

その間ずっと存在しているのは

永遠の不動である気づきだけ。

> 最初の状況が起きる前も、
> それが出現している間も、
> 次の状況が出現している間も、
> そして、それが消えた後も、
> あらゆる状況が現れては消える間ずっと、
> 永遠に、
> 気づきだけが存在しています。

映画が投影される以前も、

映画が投影されている間も、

映画が消えた後も、

実際に存在しているのはスクリーンだけ。

──────────────────
 しかし、
 これもまた相対的な真実にすぎません。
 気づきの現存と卓越性を明確にするため、
 このように説明したまでのことです。
 体験に関する一般的な説明は、
 時間と空間の
 絶対的な実在性を暗示しますが、
 それよりは真実に近いというだけです。
 しかし、
 もっと詳しく調べていくと、
 この説明も
 完全に真実ではないことがわかります。

 気づきだけが
 「いつも」存在しています。
 時間の中の「いつも」ではではなく、
 「常に現存する今」です。
 いかなる状況においても、
 それ以外のものは存在しません。
 
 もし、自分は体の中にいる、
 もしくは体として存在する
 という立場をとると、
 多様な対象物、
 人々、場所、状況、出来事が
 存在するように見えます。
 もし、
 自分は心(マインド)の中にいる、
 もしくは心(マインド)として存在する
 という立場をとれば、
 多様な考えや感情が
 存在するように見えます。
 
 しかし、
 もし気づきとしての立場をとれば、
 ──実際そのことに
 気づいていようがいまいが、
 私たちは何時でも
 気づきであるのですが──
 そこにあるのはただ一つの、
 実質的で、常に現存する、
 不変不動の現実だけです。
 
 何もやって来て
 去っていったりはしません。
 何も動かないし、変わりません。
 決して何も失われません。
 気づきは
 すべての見かけ上の物事に先立ち、
 そして、
 それらのうちに存在します。 
 
 実際のところ、見かけ上の
 物事が存在するための場所も、
 時間も、過去も、現在も、未来も、
 何もありません。
 気づきそのものがあるだけです。
 
 もし、
 意識的に気づきとしての立場をとれば、
 私たちがなるかもしれないもの、
 なれるかもしれないもの、
 達成できるかもしれないものは、
 すでに完全に
 「いかなる瞬間にも」存在していることが
 はっきりとわかります。
 それは常に現存しています。
 
 起きることはすべて、
 気づきだけでできており、
 気づきは常に現存しています。
 
 気づき以外のものであることは可能か、
 気づき以外のものになることは可能か、
 気づき以外の何かを達成することは可能か
 と問うことはできません。
 実際、
 何もどんなものも存在していないし、
 「起きる」こともないのです。
 
       ∞
 
 『プレゼンス―第2巻』(p201-202)
──────────────────

> 気づきだけが
> 「いつも」存在しています。
> 時間の中の「いつも」ではではなく、
> 「常に現存する今」です。
> いかなる状況においても、
> それ以外のものは存在しません。

映画の中でどんな物語が流れようと、

その物語の中でスクリーンが

どのように説明されようと、

実際に存在しているのはスクリーンだけ。

それは映画の中のどんな

物語にも依存していない。

> もし、自分は体の中にいる、
> もしくは体として存在する
> という立場をとると、
> 多様な対象物、
> 人々、場所、状況、出来事が
> 存在するように見えます。
> もし、
> 自分は心(マインド)の中にいる、
> もしくは心(マインド)として存在する
> という立場をとれば、
> 多様な考えや感情が
> 存在するように見えます。

映画の物語の中の

登場人物の立場に立つなら、

あらゆる物語は現実になる。

> しかし、
> もし気づきとしての立場をとれば、
> ──実際そのことに
> 気づいていようがいまいが、
> 私たちは何時でも
> 気づきであるのですが──
> そこにあるのはただ一つの、
> 実質的で、常に現存する、
> 不変不動の現実だけです。

しかし、

映画の中の物語はすべて、

今現存していない思考(記憶)を、

今現存している思考が参照するという

虚構の上にしか存在できない。

その虚構の物語を想像している

自分という実体は存在していない。

その虚構の物語は

感情反応に応じて配達されてくる。

> 何もやって来て
> 去っていったりはしません。
> 何も動かないし、変わりません。
> 決して何も失われません。
> 気づきは
> すべての見かけ上の物事に先立ち、
> そして、
> それらのうちに存在します。 

永遠に常に存在しているのは

気づきだけ。

> 実際のところ、見かけ上の
> 物事が存在するための場所も、
> 時間も、過去も、現在も、未来も、
> 何もありません。
> 気づきそのものがあるだけです。

波立とうと波立つまいと、

存在しているのは意識の海だけ。

波立ちの中に現れる

虚構の物語の中では

様々な登場人物が演出され、

いろいろな立場・状況が想像される。

しかし、

実際に存在しているのは

唯一の気づき、意識の海だけ。

> もし、
> 意識的に気づきとしての立場をとれば、
> 私たちがなるかもしれないもの、
> なれるかもしれないもの、
> 達成できるかもしれないものは、
> すでに完全に
> 「いかなる瞬間にも」存在していることが
> はっきりとわかります。
> それは常に現存しています。

どんな物語も、

どんな立場も状況も、

すべて意識の神芝居。

> 起きることはすべて、
> 気づきだけででき来ており、
> 気づきは常に現存しています。

常に現存しているのは

気づきだけ、あなただけ、

わたしだけ。

> 気づき以外のものであることは可能か、
> 気づき以外のものになることは可能か、
> 気づき以外の何かを達成することは可能か
> と問うことはできません。
> 実際、
> 何もどんなものも存在していないし、
> 「起きる」こともないのです。

すべての疑問や問いは、

意識の海の波立ちの中の

虚構の想像の中にしか無い。

実際は、

何も起こっていない。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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──────────────────
 私は私で在る。
 夢の前も、夢の間も、夢の後も。
 だが、私が夢のなかで見ることは、
 私ではないのだ。
 
 『私は在る』(p135)
──────────────────

今日も暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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