home > 通信 >『アセンション館通信』第859号:無限の現存は二つない



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2020/10/04(第859号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 車も人も道も建物もない、あるのはただスクリーンだけです。
 現象がどんな状態でも、それは何も得たり失ったりしません。
 そして同時に、気づきはまさにそれらすべての実質なのです。
 (『プレゼンス―第2巻』:ルパート・スパイラ)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在512名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.無限の現存は二つない

2.編集後記
──────────────────
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■ 1.無限の現存は二つない
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秋らしい秋じゃないですか。

すばらしいです。(^^)/

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と“「私は在る」噺”に

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

こうして土曜日になると

1週間に一度のマインド無礼講に向かって

お約束のモニター画面を前にします。

これから何を書くかは

具体的には何ひとつ知らない

自由な時間とも言えます。

自由と思えばこれこそ自由だよなぁ、

などという思いも浮かびます。

これは<永遠のいま>の中で、

すでに起こったあるバージョンの画面を

たどり直しているということなのか?

それとも今こそが【先端時】で

まっさらな画布を前にして

その画面をこれから描こうとしているのか?

そんなことも決められません。

自分という“決める”当人が

いまここにいるようでもあり、

それは単にそういう思考が湧いている

というだけのことのようでもあり。

確実なことはたしかに、

ここに気づいている自分がいる、

「私は在る」ということだけです。

画面の中身の具体的な内実を、

“知っている”とか“知らない”とか

そんなことを言い出せば、

それこそごまんと思考が舞い上がります。

でもそういう思考そのものが、

その瞬間の中身そのものであることも

また間違いないことです。

土曜日のこの時間になると、

まるでお仕着せのように

そんな思考も舞い上がります。

でもその思考には、

なんとかこの瞬間をやり過ごそうとか、

この瞬間を遠ざけたいとか、

この瞬間を別のものにしたいとかいった、

そんな意図はあまりなさそうです。

とはいえ思考が湧くこと自体が、

まだ完全に<いまここ>を受け容れる

用意ができていないこと、

無意識にそれを避けようとしていることを、

証明しているのでしょうか?

とはいえどんな思考が湧いてきても、

それがこの瞬間の風景の一部であることも

また自明のことです。

湧いてくる思考が

この瞬間の画面から独立している

などということはあるはずもない。

それもこの瞬間の画面の一部です。

昔、16ミリの映画フィルムを

映写機にかけていたことがありました。
https://www.ascensionkan.com/mm/cinema/

フィルムには画像だけでなく

音声も記録されています。

いわゆるサウンドトラックとわれる部分です。

映画フルムには最初から映像と一緒に

音声部分も含まれているわけです。

ネイサン・ギルの比喩で言う

漫画の吹き出しのようなものです。

──────────────────
 こういった思考は、
 漫画のセリフの吹き出しのようなものだと
 考えるといいかもしれません。
 自分の本質のうち、
 気づいているという側面が見落とされ、
 気づきの内容だけに注意が集中して
 その催眠にかかってしまうと
 ──登場人物との同一化
   と言ってもいいですが──
 思考という吹き出しのメッセージが
 信憑性のあるストーリーに思えてきます。
 そうすると、
 その内容は実際には気づきの中で
 今この瞬間に現れているにもかかわらず、
 思考のストーリーによる催眠が、
 今あるということ「以外」、
 またはその「外」へと注意を逸らす
 働きをします。
 
 『すでに目覚めている』(p33)
──────────────────

ただし、

ミナミAアシュタール情報によれば、

地球上の映画と違って、

この地球世界というドラマでは、

眼前に展開する物語のなかで

われわれが分泌する思考や感情を

身体というVRゴーグルが解読して

次にクラウド記憶から呼び出す思考を

動的に変化させているのだとか。

自由意志があるのかないのか、

そういった一見単純な問題も、

これほど入り組んだ状況の中では、

八幡の藪知らずに彷徨いかねません。

けっきょく最後の納得は

感情の大勢がどちらに傾くかで、

決まるしかないのかもしれません。

次に呼び出そうという思考が、

どう諦めの思考に傾いていくかは、

個別具体の場面では

誰にも解きえない謎なのかもしれません。

「運命」と言おうが「恩寵」と言おうが、

違いがないような世界でしょう。

こうして思考に助けを求めるエネルギーが

流れる間は流れるしかないのです。

──────────────────
 解放への道には
 何も立ちはだかっていない。
 そしそしてそれは今ここで
 起こることができる。
 だが、
 あなたはほかのことにもっと興味がある。
 そしてあなたはその興味と闘うことは
 できないのだ。
 あなたはそれとともに行き、
 それを見抜き、
 それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
 それ自体が自ら暴くのを
 見守らなければならないのだ。
 
 『私は在る』(p475)
──────────────────

リード線を精一杯余裕をもたせて

思考を泳がせるしかないのでしょう。

それがどれほどの辛抱強さを要求するか、

マハルシはこんな喩えで描写しています。

──────────────────
 質問者 
 どうして何度試みても心は内面に向かない
 のでしょうか?
 
 マハルシ
 それは修練と無執着によってなされ、
 徐々に成功していくものである。
 長年よその農場の草を
 こっそり食べつづけていた牛を、
 自分の家畜小屋に閉じこめることは
 容易ではない。
 どれほど牛飼いがおいしい干し草と
 良質の飼い葉でおびき寄せても、
 はじめのうちは牛も拒むだろう。
 そのうち少しは食べるようになる。
 だが、
 あてもなくさ迷いだす
 潜在的傾向がふたたび現れ、
 牛は逃げだしてしまう。
 何度も牛飼いに誘われることによって、
 牛は徐々に家畜小屋に慣れてくる。
 そうして、
 ついには野放しにしても
 さ迷わなくなるのである。
 心もまた同様で、
 ひとたび内なる幸福を味わえば
 外の世界へとさ迷うこともなくなるだろう。
 
 『あるがままに』(p306) 
 http://tinyurl.com/2aar6zj
──────────────────

> 長年よその農場の草を
> こっそり食べつづけていた牛を、
> 自分の家畜小屋に閉じこめることは
> 容易ではない。

プ!(>_<)

これはもうリアルすぎて……。

わてほんまによいわんわ。(*^_^*)

> どれほど牛飼いがおいしい干し草と
> 良質の飼い葉でおびき寄せても、
> はじめのうちは牛も拒むだろう。

そういうことですね。

> そのうち少しは食べるようになる。

おお……。

> だが、
> あてもなくさ迷いだす
> 潜在的傾向がふたたび現れ、
> 牛は逃げだしてしまう。

やっぱり……。

> 何度も牛飼いに誘われることによって、
> 牛は徐々に家畜小屋に慣れてくる。

うーむ。

> そうして、
> ついには野放しにしても
> さ迷わなくなるのである。

(-||-)

> 心もまた同様で、
> ひとたび内なる幸福を味わえば
> 外の世界へとさ迷うこともなくなるだろう。

【ひとたび内なる幸福を味わえば】

まずこの段階を通過しなければ。

以前ご紹介したルパート・スパイラの

『プレゼンス―第2巻』

の最初の方にある章

「私たちは生まれていない」
https://www.ascensionkan.com/mm/vol853.html#1

の後半はこんな具合に続きます。

──────────────────
 すべての見かけ上のものから、
 思考や知覚機能によって
 付加された名前や形態を取り除くと、
 それらは無限の現存(プレゼンス)
 として立ち現れます。
 つまり、
 限界も境界も制限も位置も次元もなく、
 純粋な存在として現れるのです。 
 すなわち、
 見かけ上のものもすべて無限であり、
 永遠なのです。
 
 そして、
 限界も位置もない、
 純粋な存在、
 現存(プレゼンス)とは、
 私たちの自己なのではないでしょうか。
 
 というのも、
 無限の現存(プレゼンス)が二つある、
 というのはありえ得ないからです。
 もし、
 ふたつの現存(プレゼンス)があるなら、
 それぞれが制限されてしまいます。
 そしてもし、
 それらが制限されているなら、
 それらは
 純粋な現存(プレゼンス)ではなく、
 見せかけの対象物です。
 
 では、
 その対象物は
 何のためにあるのでしょう?
 ただ、
 気づきのためです。
 言葉を換えると、
 気づきが対象物の目撃者であり、
 その実質なのです。
 
 では、
 その対象物は
 誰のためにあるのでしょう?
 ただ、
 気づきのためです。
 言葉を換えると、
 気づきが対象物の目撃者であり、
 その事実なのです。

  つまり、
 私たちがどちらの方向を見ていようと
 ──私たちが、
 世界は単に
 知覚することからできている
 と知っていようがいまいが、
 世界に知覚から独立した
 何らかの実在性を
 認めていようがいまいが──
 結局は同じことです。
 ただ存在(ビーング)だけがあるのです。
 そしてそれは、
 私たちの自己とは
 このようなものであると
 私たちが親密に知っている、
 気づいている現存(プレゼンス)
 ──それ自身を知っている
 現存(プレゼンス)と同じです。

 『プレゼンス―第2巻』(p76-77)
 https://amzn.to/2EpkHU4
──────────────────

> すべての見かけ上のものから、
> 思考や知覚機能によって
> 付加された名前や形態を取り除くと、
> それらは無限の現存(プレゼンス)
> として立ち現れます。

立ち現れている見かけに付加された

すべての想像を取り除くと、

すべては永遠に在る無限の現存の

見かけであることが自明になる……。

> つまり、
> 限界も境界も制限も位置も次元もなく、
> 純粋な存在として現れるのです。 
> すなわち、
> 見かけ上のものもすべて無限であり、
> 永遠なのです。

見かけは永遠に動き続ける。

想像も永遠に次の想像を引き寄せる。

物語はその細部を明かす。

しかしそれはどこまでいっても

ただの想像にすぎない。

見かけの上に押しつけた

すべての想像をを取り除くと

永遠に無限の気づきの

束の間の見かけとして立ち現れる。

そこにはどんな限界も境界線も

制限も位置も次元も存在しない。

> そして、
> 限界も位置もない、
> 純粋な存在、
> 現存(プレゼンス)とは、
> 私たちの自己なのではないでしょうか。

それはそのまま

この見かけに気づいている者の形、

無限の現存の現れになる。

> というのも、
> 無限の現存(プレゼンス)が二つある、
> というのはありえ得ないからです。

なぜなら、

位置も次元もない気づきは

無限の現存であり、

無限の現存が二つあることは

ありえないから。

> もし、
> ふたつの現存(プレゼンス)があるなら、
> それぞれが制限されてしまいます。
> そしてもし、
> それらが制限されているなら、
> それらは
> 純粋な現存(プレゼンス)ではなく、
> 見せかけの対象物です。

もし気づいている

無限の現存が二つあったら、

それらは互いに相手を制限して、

互いに無限ではありえなくなる。

ただの知覚の対象物になってしまう。

知覚の対象物が

見かけに気づくことはできない。

この見かけに気づいているのは

永遠に在る無限の現存。

> では、
> その対象物は
> 何のためにあるのでしょう?
> ただ、
> 気づきのためです。
> 言葉を換えると、
> 気づきが対象物の目撃者であり、
> その実質なのです。

ではこの見かけの対象物は

何に現れているのか?

言うまでもなくそれは

気づきに対して現れている。

気づいているのは

唯一の永遠に無限の現存。

そこには分裂もなければ境界もない。

ならば現れの中にも

分裂もなければ境界もない。

気づきが対象物の目撃者であり

かつその実質であるほかはない。

> つまり、
> 私たちがどちらの方向を見ていようと
> ──私たちが、
> 世界は単に
> 知覚することからできている
> と知っていようがいまいが、
> 世界に知覚から独立した
> 何らかの実在性を
> 認めていようがいまいが──
> 結局は同じことです。

見かけの中に

分裂を見ることもできる。

分裂を見れば分裂は現れる。

見かけの中に

分裂を見ないこともできる。

分裂を見なければ分裂は消える。

宇宙はあなたを映す鏡。

意味はない。

意味はあなたが想像するもの。

> ただ存在(ビーング)だけがあるのです。
> そしてそれは、
> 私たちの自己とは
> このようなものであると
> 私たちが親密に知っている、
> 気づいている現存(プレゼンス)
> ──それ自身を知っている
> 現存(プレゼンス)と同じです。

永遠に無限の気づきだけが

存在していいる。

唯一の気づきである現存が

自らの見かけに気づいている。

見かけのすべてが

気づきの束の間の姿。

そこに分離した実体は存在しない。


瞑想好きのOshoは

その同じことをこんなふうに表現します。

──────────────────
 喜びがあるとき、エゴはない。
 だが喜びが去ると、エゴが戻ってくる。
 そしてエゴが戻ると、
 エゴは喜びを経験に変える。
 さもなければ、
 喜びがあるときは経験者も経験もない。
 分裂はない。
 あなたが喜びを感じるのではなく、
 あなたは喜びなのだ。
 喜びがそこにあるとき、
 あなたはそこにいない。
 喜びがある。
 ただ喜びだけが。
 
 だが遅かれ早かれ……。
 
 あなたにはまだ
 その喜びを永遠に包含する能力がない。
 窓が閉まり、ドアが閉じ、
 香りが消える。
 音楽はどんどん遠ざかり、
 消えていく。
 エゴが戻ってきて、
 そしてエゴは言う。
 「オー、なんとすばらしい経験。
  すごかった。
  ファンタスティックだった!」。
 体験ではなかったものが
 いまや体験に引き下げられる。
 
 『The Sun Rises in the Evening』(10章、p8)
──────────────────

(-||-)

> あなたにはまだ
> その喜びを永遠に包含する能力がない。
> 窓が閉まり、ドアが閉じ、
> 香りが消える。

(;_;)

> 体験ではなかったものが
> いまや体験に引き下げられたのだ。

(-_-;)
 
ミナミAアシュタールは

彼一流の超越的な表現で

こんなふうに言っています。

──────────────────
 いまのあなたは完璧なのです。
 
 何かを探さないでください。
 
 どこかに行こうと思わないでください。
 
 どこか違うところに、
 完璧なあなたがいると思わないでください。
 
 いま、そのあなたが
 100%完璧なあなたなのです。
 
 成長はいりません。
 
 成長しなければいけないという発想は、
 
 いまの私ではダメだ・という発想です。
 
 そのような発想をしていると
 
 セルフイメージが低いままになってしまいます。
 
 常にいつもこんな私ではダメだ・・と
 
 自分に言い聞かせてしまっている状態ですので
 
 ずっとセルフイメージは低いままで
 いることになってしまいます。
 
 そうなると、
 ご機嫌さんになることが出来なくなるのです。
 
 ご機嫌さんになるには値しない人間だと
 思い込んでしまいます。
 
 いつかなんでも出来るようになったら
 
 ご機嫌さんになれることが出来る・・
 と思ってしまいます。
 
 好きなことをしていても、
 もっともっと成長しなければいけない、
 
 もっともっと上手にならなければいけない・・
 
 もっともっと高みを目指さなければいけない・・
 
 と思ってしまうと、
 楽しくなくなってしまいます。
 
 そして、
 常に誰かや過去の自分と比較して
 
 いまの自分をジャッジすることになるのです。
 
 ジャッジしていると楽しくありません。
 
 自分の素直な表現が出来なくなるのです。
 
 自分の素直な表現が出来ないと
 
 好きなことも
 好きではなくなってしまうのです。
 
 
 いまのあなたの表現が、
 あなたの100%なのです。
 
 過去のあなたも、
 未来のあなたも、
 いまのあなたには関係ないのです。
 
 いまのあなたが
 100%完璧だということです。
 
 いま表現したいことを楽しく、
 何のジャッジもなく表現してください。
 
 そうすれば、
 楽しくてご機嫌さんになれます。
 
 もっともっと
 上手にならなければいけない・・
 という発想も出なくなります。
 
 楽しんでいる”いま”の自分が
 とても好きになれます。
 
 ”いま”の自分が100%完璧だ
 ということが分かってきます。
 
 どんなことに関しても、
 いまのあなたが完璧だということです。
 
 
 精神世界と言われるところもそうです。
 
 精神的にもっと成長しなければいけない・・
 などと考える必要はありません。
 
 そんなことを考えていると、
 常にジャッジすることになります。
 
 精神的に良い人間にならなければいけない・・
 
 などということはナンセンスです。
 
 波動を軽くしなければいけない・・
 という考えもナンセンスです。
 
 いまのあなたを100%表現していれば、
 
 楽しくご機嫌さんでいられますので
 波動も軽くなります。
 
 そして、ご機嫌さんでいると、
 こころも平和になりますので
 
 自分にも人にも寛容になることが出来ます。
 
 愛のエネルギーで満たされ、
 すべての存在に
 
 尊敬と感謝の気持ちがあふれてきます。
 
 いまのあなたが
 100%完璧なあなたであることを
 あなたが認めてください。
 
 それを認めるのはあなたしかいません。
 
 他の人の太鼓判を欲しがらないでください。
 
 自分で、自分は完璧だ・・と思えば、
 あなたは完璧なのです。
 
 何も欠けたところなどありません。
 
 すべてはOKなのです。
 
 こうでなければいけない・・
 というジャッジをしないでください。
 
 どこか違うところに行かなければいけない
 
 誰か他の人のようにならなければいけない・・
 と思わないでください。
 
 いま、そこにいるあなたが、
 100%のあなたなのです。
 
 それを認めることが出来れば、
 セルフイメージも元に戻り
 
 自分が好きになります。
 
 自分を愛することが出来るようになります。
 
 世界の平和を祈る前に、
 あなた自身を愛し
 
 あなた自身が平和になることを
 まず考えてくださいね。
 
 あなたの中が平和になれば、
 
 あなたの見ている世界は平和になります。
 
 
 あなたに愛をこめてお伝えいたします」 
 http://5am5.blog.fc2.com/
──────────────────

(-||-)

けっして理屈ではなく、

いま何が好きなのかですよね。

それが何を理解したいのか

なのかもしれません。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


「ニサルガ辞書」はここです。
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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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細かいことを気にするエネルギーが

どうやら退潮していくようです。

細かいことは気にしない。

自分が存在していることを知っていれば、

それで永遠に間に合うのだから。(^_-)

今日も暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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