━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2020/10/11(第860号)
☆☆ ☆ ☆☆
☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
車も人も道も建物もない、あるのはただスクリーンだけです。
現象がどんな状態でも、それは何も得たり失ったりしません。
そして同時に、気づきはまさにそれらすべての実質なのです。
(『プレゼンス―第2巻』:ルパート・スパイラ)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在512名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.人生に目的はあるのか?
2.編集後記
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■ 1.人生に目的はあるのか?
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このところ雨が降りつづきますね。
雨が降ると……映画の中は寒いです。
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と“「私は在る」噺”に
お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
このメルマガを読んでいる方は
ご存知と思いますが、
それが誰であれその書き手は
自分が納得できる理屈を求めてきました。
意味を求めてきたわけです。
<何故にすべては始まってしまったのか?>
などという思いも起こりました。
この落とし前を
誰がどうやってつけるというんだ!(\/U)
みたいな感じです。
そういった思考エネルギーは
これまでいろいろな観念・表現を
引き寄せてきました。
Oshoは、
「生とは解くべき問題ではない。
生きるべき神秘だ」
と教えてくれました。
しかし瞑想の徒ではなかった書き手は、
それでは満足していませんでした。
まだまだ理屈で納得する必要があった。
そしてニサルガダッタに出会いました。
──────────────────
いつのときも進歩はある。
すべてが進歩に貢献しているのだ。
しかし、これは無知の進歩だ。
無知の輪はつねに
広がりつづけていくかもしれない。
それでも、
それは相変わらず
束縛のなかにとどまったままだ。
やがてグル(師)が現れ、
私たちに真我を探求するように教え励ます。
そして成熟のときを迎え、
その結果として永劫の無知の夜は、
智慧の日の出とともに溶け去るのだ。
しかし実際には、
何も起こってはいない。
太陽はいつもそこにあったし、
夜もなかった。
マインドが幻想の糸で
果てしなく紡ぎだす「私は身体だ」
という観念によって
盲目になっていただけなのだ。
『私は在る』(p131-132)
──────────────────
この言葉が告げている
具体的内容などは知りません。
それでも
「しかし実際には、
何も起こってはいない。」
というメッセージには
痛烈な真理の匂いがあった。
実際はこれが本当なんだ!(@_@) ⌒★?
そんな方向性の確信がありました。
書き手は
「こんなもの要らないではないか?」
という思いを込めて、
人生の意味と目的を知りたくて、
<何故にすべては始まってしまったのか?>
と聞いているのに、
「しかし実際には、
何も起こってはいない。」
と言われた……。
まったく意想外の方向からの
しかも完璧な回答でした。
どうやら自分が目指すべき方向は
そこらへんにあるらしかった。
そしてラマナ・マハルシの
こんな言葉も知ります。
──────────────────
深い眠りのなかでは、
知る者、知識、知られるものは不在である。
これと同じように、
あなたが真の「私」を体験した瞬間、
知る者、知識、知られるものは
存在しなくなるだろう。
目覚めの状態のなかで
起こっていることは何であれ、
知る者だけに起こる。
そしてその知る者自身が非実在であるため、
実際は、
いままで何も起こってはいなかったし、
いまも何も起こってはいない。
そしてこれからも、
何も起こることはないのである。
『あるがままに』(p333)
──────────────────
こうして
実際には何も起こっていない理由、
その構造までが明かされたわけです。
なのでいまは書き手も、
<何故にすべては始まってしまったのか?>
とは思っていません。
しかし、
そのあたりの思考エネルギーが
完全には解体していないかぎり
それにふさわしい言葉が
引き寄せられてくるのです。
今度はルパート・スパイラの
じつに懇切丁寧な言葉でした。
『プレゼンス―第2巻』の終わりの方に
「人生に目的はあるのか?」
という短い章があります。
今回はその全文をご紹介します。
──────────────────
人生に目的はあるのか?
質問:
意識は、何か目的や計画があって、
このようにすべての現象を
つくり出しているのでしょうか?
目的や計画という概念は
思考のものであって、
意識のためのものではありません。
思考によって想像された
分離した内側の自己にとって、
人生の究極の目的は、
愛、平安、幸福です。
ですから、すべての人が、
愛、平安、幸福を探し求めるのです。
けれど、
内側にあるように見える自己と
その不可避的な探求によって、
まさに探し求めている愛、平安、幸福が
覆い隠されてしまうということが
理解されていません。
しかし、愛、平安、幸福は、
私たち自身の存在(ビーイング)を
知ることのうちに本来備わっています。
つまり愛、平安、幸福とは、
存在(ビーイング)を
知ることであるのです。
それは私たちの
自己のまたの名にすぎません。
つまり、愛、平安、幸福は、
すべての現象の起源、
実質として存在しています。
ですから、
現象の目的とは、
愛、平安、幸福を得ることだと
言うことはできません。
それはすでに現存しています!
すでにそれらは、
それらを探し求めている思考の
完全なる実質なのです。
『プレゼンス―第2巻』(p270-271)
──────────────────
> 質問:
> 意識は、何か目的や計画があって、
> このようにすべての現象を
> つくり出しているのでしょうか?
考えている自分がいると思うかぎり、
こういう思考が湧くわけです。
> 目的や計画という概念は
> 思考のものであって、
> 意識のためのものではありません。
まったく。(-_-;)
> 思考によって想像された
> 分離した内側の自己にとって、
> 人生の究極の目的は、
> 愛、平安、幸福です。
> ですから、すべての人が、
> 愛、平安、幸福を探し求めるのです。
自分とは別にこの世界が存在し、
その世界の中に環境から分離した
“自分”がいると想像しているかぎり、
その“自分”は必ず
愛、平安、幸福を求めることになる。
> けれど、
> 内側にあるように見える自己と
> その不可避的な探求によって、
> まさに探し求めている愛、平安、幸福が
> 覆い隠されてしまうということが
> 理解されていません。
しかしその“自分”は、
“自分”が愛、平安、幸福を
探し求めるそのこと自体が、
求めるその愛、平安、幸福を
覆い隠していることを知らない。
> しかし、愛、平安、幸福は、
> 私たち自身の存在(ビーイング)を
> 知ることのうちに本来備わっています。
> つまり愛、平安、幸福とは、
> 存在(ビーイング)を
> 知ることであるのです。
> それは私たちの
> 自己のまたの名にすぎません。
でも、実際は、
“自分”が求める愛、平安、幸福は
自分自身を知ること自体に
本来的に備わっている。
言葉を換えれば、
愛、平安、幸福とは
唯一の実在である気づきの、
つまり気づいているこの自分の
別名に他ならない。
> つまり、愛、平安、幸福は、
> すべての現象の起源、
> 実質として存在しています。
> ですから、
> 現象の目的とは、
> 愛、平安、幸福を得ることだと
> 言うことはできません。
> それはすでに現存しています!
> すでにそれらは、
> それらを探し求めている思考の
> 完全なる実質なのです。
だから愛、平安、幸福は、
あらゆる現象の実質として
最初から存在している。
そういうわけなので、
現象の目的が、
愛、平安、幸福を得ることだ
とは言えない。
──────────────────
思考が生じて、
意識は存在していないと想像し、
それゆえに、
愛、平安、幸福も存在していない
と想像しているだけなのです。
この思考によって、
私たち自身の存在の
つなぎ目のない親密さが、
内側の自己と外側の世界という
二つのものになるように見えるのです。
その瞬間から、
分離したように見える自己は、
外側にあるように見える世界で、
失われた愛、平安、幸福を
探し求めることを運命づけられます。
そしてこの探求を、
偉大なる使命、目的、計画にします。
分離した自己は、
この目的なり計画なりが
意識に本来備わっているものだと
想像しますが、
そうではありません。
それは心(マインド)にとってだけです。
映画の中で起こるドラマは
映像のためのもので、
スクリーンのためのものではありません。
ですから、
もし私たちとは
分離した内側の自己だと考えるなら、
愛、平安、幸福を探すことが
目的であり計画です。
この探求は、
分離した自己がすることではありません。
それは、
分離した自己そのものです。
しかし、
私たちは分離した内側の自己ではない
ということが明らかになると、
それと同時に、
見かけ上の自己の目的、計画によって
最終的に達成されることは、
あらゆる現象の起源、本質として、
あらゆる現象に先立って、
またその間にも
存在していることがわかります。
それは、
心(マインド)が目論んで
達成されたのではありません。
それは心(マインド)の目論みが消えたとき、
姿を現します。
実際、心の目論みが、
探し求められている愛、平安、幸福を
覆い隠してしまうのです。
愛、平安、幸福の探求が、
探求されている愛、平安、幸福を、
まさに覆い隠してしまいます。
愛、平安、幸福の探求は、
たいまつを手に持って
暗闇を探すようなものです。
けれども、
私たちとは分離した内側の自己である
と考えているかぎり、
こうした目論みは避けられません。
なぜなら、
この見せかけの自己自体が、
まさに主たる目論みだからです!
『プレゼンス―第2巻』(p271-272)
──────────────────
> 思考が生じて、
> 意識は存在していないと想像し、
> それゆえに、
> 愛、平安、幸福も存在していない
> と想像しているだけなのです。
意識の海が波立って
自らが気づきと現象として生じ、
その現象は形態と思考として姿を現す。
その現象の一側面である思考が
意識は存在していないと想像し、
現象の別の側面である形態の中に
愛、平安、幸福を探し求める。
> この思考によって、
> 私たち自身の存在の
> つなぎ目のない親密さが、
> 内側の自己と外側の世界という
> 二つのものになるように見えるのです。
その想像の中で
内側の自己と外側の世界という
見かけ上の二つのものの分裂が現れる。
> その瞬間から、
> 分離したように見える自己は、
> 外側にあるように見える世界で、
> 失われた愛、平安、幸福を
> 探し求めることを運命づけられます。
> そしてこの探求を、
> 偉大なる使命、目的、計画にします。
この思考の想像の中で
形態の中に孤立している自分が現れ、
その孤立した自分が、
外側にあると思える世界の中で、
失われた愛、平安、幸福を
探し求めはじめる。
そしてその探求を
偉大な使命、目的、計画
などといった観念に仕立て上げる。
> 分離した自己は、
> この目的なり計画なりが
> 意識に本来備わっているものだと
> 想像しますが、
> そうではありません。
> それは心(マインド)にとってだけです。
> 映画の中で起こるドラマは
> 映像のためのもので、
> スクリーンのためのものではありません。
>
> ですから、
> もし私たちとは
> 分離した内側の自己だと考えるなら、
> 愛、平安、幸福を探すことが
> 目的であり計画です。
だから、
自分は見かけの世界の中で
肉体に閉じ込められた存在である
と想像する立場からは、
愛、平安、幸福を探すことは
目的になり、計画になる。
> この探求は、
> 分離した自己がすることではありません。
> それは、
> 分離した自己そのものです。
ただしその探求は
分離した自己という
見かけの実体がすることではなく、
分離した自己という想像そのもの
というほかはない。
> しかし、
> 私たちは分離した内側の自己ではない
> ということが明らかになると、
> それと同時に、
> 見かけ上の自己の目的、計画によって
> 最終的に達成されることは、
> あらゆる現象の起源、本質として、
> あらゆる現象に先立って、
> またその間にも
> 存在していることがわかります。
しかし、あるとき
この身体が気づいているのではなく、
(つまり、この身体が
気づきを所有しているのではなく)
気づきの中に
この身体も現れていることが
明確にわかってしまう。
すると、
もともとその気づきには、
(すべての現象に
先立って存在しているその気づきには)、
すべての現象の起源、本質として
見かけの世界の中で達成されることは
すでに存在していることが自明になる。
> それは、
> 心(マインド)が目論んで
> 達成されたのではありません。
> それは心(マインド)の目論みが消えたとき、
> 姿を現します。
> 実際、心の目論みが、
> 探し求められている愛、平安、幸福を
> 覆い隠してしまうのです。
愛、平安、幸福とは
もともと、
思考が目論んで達成するものではなく、
思考の目論みが消えたとき、
おのずから現れるもの。
実際は、
思考の無闇な想像と企みゆえに
覆い隠されていたにすぎなかったことが
理解される。
> 愛、平安、幸福の探求が、
> 探求されている愛、平安、幸福を、
> まさに覆い隠してしまいます。
> 愛、平安、幸福の探求は、
> たいまつを手に持って
> 暗闇を探すようなものです。
想像上の自分の壮大な探求とは、
たいまつを手に持って
暗闇の中を明かりを求めて
探しまわっていたにすぎなかった。
> けれども、
> 私たちとは分離した内側の自己である
> と考えているかぎり、
> こうした目論みは避けられません。
> なぜなら、
> この見せかけの自己自体が、
> まさに主たる目論みだからです!
とはいえ、
自分とは分離した内側だと
想像しているかぎり、
<何故にすべては始まってしまったか?>
といった想像上の探求は避けられない。
というのも、
その見せかけの自己自体が
“リーラ(神の隠れん坊)”とも
言われてきた
主たる目論みなのだから。
──────────────────
つまり、
意識はそれ自身を、
愛、平安、幸福として知っており、
それはあらゆる現象の源であり実質です。
しかし、
見かけの個人にとって、
愛、平安、幸福は宿命です。
すなわち、
意識にとって目的や計画はありません。
分離したように見える
内側の自己にとっては
目的や計画はあります。
といっても、
見かけ上の自己が
計画を立てるのではありません。
見かけ上の自己そのものが計画なのです。
分離したように見える内側の自己とは、
幸福の探求そのものです。
私たちの真の自己、
気づいている現存(プレゼンス)、
意識とは、
内側の自己が探し求めている
幸福そのものです。
幸福が計画を立てることなど
できるでしょうか?
幸福はすでに、
そのために
すべての計画が立てられたものなのです。
『プレゼンス―第2巻』(p273-274)
──────────────────
> つまり、
> 意識はそれ自身を、
> 愛、平安、幸福として知っており、
> それはあらゆる現象の源であり実質です。
> しかし、
> 見かけの個人にとって、
> 愛、平安、幸福は宿命です。
意識はむろん、
自分が愛、平安、幸福であることを
知っている。
それが全現象の源であり実質だから。
ただ意識の海が波立って、
そこで現れる見かけの中では、
そこで上映されるドラマの中の
登場人物にとっては
愛、平安、幸福は
最後にたどり着く宿命というしかない。
> すなわち、
> 意識にとって目的や計画はありません。
> 分離したように見える
> 内側の自己にとっては
> 目的や計画はあります。
> といっても、
> 見かけ上の自己が
> 計画を立てるのではありません。
> 見かけ上の自己そのものが計画なのです。
実在する意識の海そのものに
目的や計画というものはない。
増えもしなければ減りもしない。
汚染もなければ浄化もない。
進歩もなければ退歩もない。
ただそこで上映される夢の中には
そういうものがすべてある。
といっても、
それは映画の中の登場人物が
企画し創造するものではなく、
それらの登場人物そのものが
計画なのだから。
> 分離したように見える内側の自己とは、
> 幸福の探求そのものです。
> 私たちの真の自己、
> 気づいている現存(プレゼンス)、
> 意識とは、
> 内側の自己が探し求めている
> 幸福そのものです。
分離した内側の自己こそが
幸福の探求そのもの。
現存している気づき、
つまり私たち自身こそが
分離した内側の自己が
探し求めている幸福そのもの。
> 幸福が計画を立てることなど
> できるでしょうか?
> 幸福はすでに、
> そのために
> すべての計画が立てられたものなのです。
幸福であるあなたが
何を計画できるだろうか?
あなたがどこに向かえるというのか?
何を求めて?
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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■ 2.編集後記:
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一週間に一度のマインド無礼講を
計画したわたしがいるでしょうか?
それともそれは
意識が見た夢のなかの登場人物なのか?
今日も暗くなりました。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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