━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2020/10/18(第861号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人pariと称する
ある夢の登場人物に浮上している夢の場面の報告です。
車も人も道も建物もない、あるのはただスクリーンだけです。
現象がどんな状態でも、それは何も得たり失ったりしません。
そして同時に、気づきはまさにそれらすべての実質なのです。
(『プレゼンス―第2巻』:ルパート・スパイラ)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在512名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.スパイラのスクリーンセーバー論
2.編集後記
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■ 1.スパイラのスクリーンセーバー論
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雨霧に煙って遠くは見えません。
画面やその吹き出しや、
いろいろのことが変化していきます。
この変化していく見かけはすべて
気づき以外ではありません。
実際、気づきの外に
気づき以外の実体が存在していたとしても。
その実体は姿を現せないのですから。
──────────────────
あなたが体験できないもの、
それに何の価値があるというのだろう?
『私は在る』(p24)
──────────────────
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と“「私は在る」噺”に
お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
すべての体験が
体験者の存在を指し示しています。
すべての画面が
スクリーンの存在を指し示しています。
今現前するすべての見かけが、
気づきの現存を指し示しています。
相変わらず土曜日になると
勢いのいいことを言っていますが、
でも語られていることは真実です。
すべての体験が
体験者の存在を指し示しています。
たしかに、
見かけの体験者は現象の一部であり、
想像されている物語の中の
登場人物にすぎない、とも言えます。
しかし、
その想像されている物語は、
すべての顕現を可能にする
気づきの現存なしにはありえません。
すべてのドラマは
現存という背景の手の内で点滅している。
映画がスクリーン上の光の点滅であることを
観客は誰でも知っています。
映画の観客は
それを知りながら映画を見ています。
そして退屈を紛らわそうとしている。
そのことは良くも悪くもない、
誰でも知っていることです。
また観客は映画に飽きたら
映画の途中で映画館を出てもいい。
それも観客は誰でも知っています。
ただ面白ければ見つづけるでしょう。
余程つまらないと思った観客は
途中でも映画館を出るでしょうけど。
他にもっといい映画があったのを
思い出したのかもしれません。
映画の途中で出る人は、
相対的に多くはないでしょう。
入場券に支払った額を思えば、
途中で出る気にはならないかもしれない。
映画館に入ることも、
その映画を観つづけることも、
途中から映画館を出ることも、
いずれも良くも悪くもありません。
すべて自然なことです。
いいとか悪いとか
判断できる人がいるわけもないですし。
夢の中にもいろいろな夢が
ありえるでしょうが、
映画もまた夢の中の夢と言えます。
映画という夢の中の夢からも
途中で出てもいいように、
夢から出るのもかまいません。
夢から覚めるには
途中退出しかないのかもしれません。
映画を観ている途中でも
その先の展開にもうそれ以上
興味を持てなくなれば、
映画の魔法は切れています。
夢の中の夢から覚めるのが
夢の中の夢の魔法の終わりなら、
夢から覚めるのは
夢の魔法の終わりなのかもしれません。
夢から覚めるにせよ覚めないにせよ、
それは自然現象なのでしょう。
不自然なことは起こりません。
唯一の実在である無限の気づきは、
無限の夢を許しているのかもしれませんし、
夢を観ていないのかもしれません。
誰が決めるのでしょうか?
もちろん、
あなたが決めるしかないのです。
ルパート・スパイラの
『プレゼンス―第2巻』の後半部分に
「名俳優」
というとても短い章があります。
今回はその全文をご紹介します。
(相変わらず
常識の範囲を超えた長い引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
──────────────────
名俳優
「私」という考えは、
隙間を埋める詰め物のようなものです。
心(マインド)が創造性、愛、探究心、
実用性に満ちた考えで
占められていないとき、
心(マインド)はこの詰め物に頼ります。
創造性、愛、探究心、
実用性に満ちた考えが
終わりを迎えるとすぐに、
心(マインド)は偽の自己、
偽の行為者、偽の考えるもの、
偽の感じるものを作り上げます。
そして、
終わってしまった活動は、
自分の手柄だと主張します。
この架空の分離した自己が、
心(マインド)の基本設定となります。
それはコンピューターの
スクリーンセーバーのようなもので、
スクリーン上に何のドキュメントも
開かれておらず、
退屈に見えるとき、
それを誤魔化すのが役目です。
スクリーンが退屈に見えるのは、
画像の視点から見たときだけです。
なぜなら、
画像にとって、スクリーン上に
自分の知っているものがまったくない、
つまり対象物がまったくないからです。
しかし、
スクリーンそのものが
不在なわけではありません。
それは存在しています。
実際のところ、
スクリーンが、
目に見える画像の唯一の実質です。
心(マインド)の視点から見たときのみ、
不在なのです。
『プレゼンス―第2巻』(p221-222)
https://amzn.to/2EpkHU4
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> 「私」という考えは、
> 隙間を埋める詰め物のようなものです。
(初めて読んだとき、
この言葉がどういうことを
意味しているのかわかりませんでした。)
> 心(マインド)が創造性、愛、探究心、
> 実用性に満ちた考えで
> 占められていないとき、
> 心(マインド)はこの詰め物に頼ります。
何かに夢中になっているときは、
自分などという観念は起こらない、
といった類のことのようですね。
ところが
夢中になれる対象物が切れると
その隙間を埋めるかのように
「自分」という観念が湧いてくる。
> 創造性、愛、探究心、
> 実用性に満ちた考えが
> 終わりを迎えるとすぐに、
> 心(マインド)は偽の自己、
> 偽の行為者、偽の考えるもの、
> 偽の感じるものを作り上げます。
> そして、
> 終わってしまった活動は、
> 自分の手柄だと主張します。
創造的で愛に満ちた
すばらしい出し物の展開が途切れると、
そのまま空白に戻るのではなく、
あたかも引き継ぐナレーター、
あるいはディスクジョッキー役が
いたかのように、
捏造されたパターンが現れて、
「いまのはすべて私の差配です」、
とのたまうと。(^_-)
> この架空の分離した自己が、
> 心(マインド)の基本設定となります。
これがこれまで
われわれが信じてきた「自分」、
分離した自己という
偽りの基本設定の正体らしい。
すばらしい洞察ですね。(@_@)
> それはコンピューターの
> スクリーンセーバーのようなもので、
> スクリーン上に何のドキュメントも
> 開かれておらず、
> 退屈に見えるとき、
> それを誤魔化すのが役目です。
ヒエー、すばらしい比喩!?(@_@) ⌒★?
ルパート・スパイラの
【エゴ=スクリーンセーバー論】
目からウロコが落ちるとは
まさにこのことです。
> スクリーンが退屈に見えるのは、
> 画像の視点から見たときだけです。
> なぜなら、
> 画像にとって、スクリーン上に
> 自分の知っているものがまったくない、
> つまり対象物がまったくないからです。
【どの視点から見るか?】
このことが決定的なのですね。
見ているのは気づきしかいない。
それもそのはずです。
なにしろ、そもそも
気づきしか実在していないのですから。
しかし、何が現れるかは、
【どの視点から見るか?】
によって決定される。
つまり、
気づきの無限の潜在能力の
顕現側面とも言える心(マインド)は
物語を自在に展開することによって
様々な文脈と立場を創造できる。
そして気づきは、
その立場の視点に同一化して
ドラマを見ることもできる。
(これは複数の実体が存在するようにも
聞こえるかもしれませんが、
実際は、常に一つしか存在しない
見かけ上で起こっていることの
物語的説明にすぎません。)
言い換えると、
真の自己を忘れることができるのです。
「気づき」と言い、
「心(マインド)」と言っても、
ひとつの意識の表現を
表裏の二面に分けて説明したにすぎません。
別の側面とも言えますが
ひとつの同じ意識しか存在しません。
「リーラ」(神性遊戯)、
(神の隠れん坊)とは、
まさにこの状況を言うのでしょう。
──────────────────
要点をつかみなさい。
世界と自分はひとつであり、
完全なのだということを。
誤りはあなたの姿勢にあり、
そこに再調整の必要があるのだ。
『私は在る』(p158)
──────────────────
(-||-)
> しかし、
> スクリーンそのものが
> 不在なわけではありません。
> それは存在しています。
> 実際のところ、
> スクリーンが、
> 目に見える画像の唯一の実質です。
> 心(マインド)の視点から見たときのみ、
> 不在なのです。
気づきが存在していないわけではない。
気づきが存在しているからこそ、
ドラマが現れることができる。
そしてドラマの唯一の実質は
気づきでしかありえない。
なにしろ気づき以外には
何も存在していないのだから。
ただ
【どの視点から見るか?】
によってすべてが決定される。
ドラマの中の登場人物の
視点から見るなら、
映画(の中のドラマ)が展開しつづけ
その実質であるスクリーンは
忘れられるしかない。
──────────────────
同じように、
心(マインド)の視点から見ると、
心(マインド)は見かけ上の
対象物しか知らないので、
気づきは退屈なものに見えます。
本当は気づきが
自らの実質であることを、
心(マインド)は知らないし、
知ることもできません。
この気づきの
見かけ上の空虚さを避けるため、
心(マインド)は偽の現存、
偽のアイデンティティ、
つまり
分離した内側にある自己を作り上げ、
真の気づきの現存の真似をします。
偽の自己は、
心(マインド)が考えたり、
想像したり、感じたり、
知覚したりする合間に
取り組めるものを与えてくれます。
この偽の自己が、
私たちの体験の
背景になるように見えます。
それはいつでも存在し、
他のあらゆる知覚と知覚の間、
そしてそれらの中を
流れているように見えます。
それは名俳優なのです。
体験の本質をより深く探求していけば、
偽の自己は
体験の永遠の背景ではないことが
ますますはっきりとしてきます。
それはむしろ、
体験そのものの
無数に変化する表情のひとつです。
スクリーンセーバーは、
すべてのドキュメントの背景でも
実質でもないことが
はっきりとわかるのです。
それは単に画像の一つ、
ドキュメントと同じようなものです。
この段階に来ると、
見かけの内側の自己は、
体験の主体というよりも
客体であることがわかります。
その結果、それはもはや、
心(マインド)がいろいろなことを
考えたりイメージしたりする合間の
基本設定ではなくなります。
それは単に、
思考やイメージの
一つでしかないことがわかるのです。
『プレゼンス―第2巻』(p222-223)
──────────────────
> 同じように、
> 心(マインド)の視点から見ると、
> 心(マインド)は見かけ上の
> 対象物しか知らないので、
> 気づきは退屈なものに見えます。
これが映画の中に入ってしまった、
登場人物の悲しいところ。
その立場のわれわれからは、
気づきに焦点を合わせつづけることは
この上もない退屈にしか見えない。
(なぜなら、そうした途端に
それまで夢中になっていたドラマが
まったくの空無になってしまう
と恐れるからです。)
> 本当は気づきが
> 自らの実質であることを、
> 心(マインド)は知らないし、
> 知ることもできません。
このルパート・スパイラの
言葉の意味が浸透してくるために
わたしは一生かかっている。(*^_^*)
> この気づきの
> 見かけ上の空虚さを避けるため、
> 心(マインド)は偽の現存、
> 偽のアイデンティティ、
> つまり
> 分離した内側にある自己を作り上げ、
> 真の気づきの現存の真似をします。
退屈しのぎが
えらい地獄の釜の蓋を開けるわけです。
地獄の展開に見入っているかぎり、
それが自分の創作物だとはわからない。
だから目を閉じることができない。
> 偽の自己は、
> 心(マインド)が考えたり、
> 想像したり、感じたり、
> 知覚したりする合間に
> 取り組めるものを与えてくれます。
> この偽の自己が、
> 私たちの体験の
> 背景になるように見えます。
すべての現象を仕切っている
かのように詐称した途端、
思いも寄らない苦境が生みだされ、
その苦境の再生産という悪循環の中にしか
生きられる道はないように見える。
> それはいつでも存在し、
> 他のあらゆる知覚と知覚の間、
> そしてそれらの中を
> 流れているように見えます。
> それは名俳優なのです。
名俳優、
名ディスクジョッキー。
誰が騙しているのか?
誰が騙されているのか?
> 体験の本質をより深く探求していけば、
> 偽の自己は
> 体験の永遠の背景ではないことが
> ますますはっきりとしてきます。
芝居の幕間に
幕の前に引っ張り出された
掃除夫みたいなもの?(*^_^*)
> それはむしろ、
> 体験そのものの
> 無数に変化する表情のひとつです。
ネイサン・ギルは
自分という観念も
ひとつの風景のようになる
と言ってましたっけ。
> スクリーンセーバーは、
> すべてのドキュメントの背景でも
> 実質でもないことが
> はっきりとわかるのです。
> それは単に画像の一つ、
> ドキュメントと同じようなものです。
amazonが提供している
「Kindle Paperwhite」という
読書のための専用端末があります。
これは省電力のために
E Ink(イーインク)という技術を
使ってているのですが、
これは電源の入っていない状態で
ケース扉を開けると、
すでにスクリーンセーバーが
表示されています。
これが表示パターンのひとつ
であることは間違いありません。
でも、開けたらすでに
表示されている。
これこそ「私は在る」ですね。(^_-)
> この段階に来ると、
> 見かけの内側の自己は、
> 体験の主体というよりも
> 客体であることがわかります。
「私は在る」は
ひとつの知覚対象なのだー。(*^_^*)
> その結果、それはもはや、
> 心(マインド)がいろいろなことを
> 考えたりイメージしたりする合間の
> 基本設定ではなくなります。
> それは単に、
> 思考やイメージの
> 一つでしかないことがわかるのです。
私は考える、
というのはちょっと無理かも。
──────────────────
私たちは常にスクリーンを
体験すべきなのですが、
スクリーンの見かけ上の
退屈さを紛らわすために
スクリーンセーバーが作られました。
しかしそれは取り除かれ、
その結果、
スクリーンそのものが見えます。
これは、気づきが
それ自身の存在(ビーイング)を
認識する瞬間です。
気づき自身を表面的に心(マインド)で
覆い隠すことはもはやありません。
それは無知の終わりです。
気づきが
それ自身に気づいていないように
見えることは、もうないのです。
この時を超えた瞬間、
気づきは空白の無ではないことが
認識されます。
心(マインド)が
かつて考えていたような無ではなく、
それはむしろ豊かで満ち足りており、
心(マインド)の見かけ上の豊かさも、
それからできています。
実際、
この視点から見れば、
本当に空っぽで、無で、
非実在であるのは、
分離した内側の自己なのです。
基本設定は今や
スクリーンセーバーではなく、
スクリーンそのものになります。
つまり、
分離した自己ではなく、
気づきそのものが
私たちの基本設定になるのです。
そして、
心(マインド)にとって、
それ自身の源にとどまることは
ますます自然になります。
考え、感じ、知覚する合間に、
分離した内側にある自己を
作り上げることよりも、
そちらの方が自然になるのです。
『プレゼンス―第2巻』(p223-224)
──────────────────
> 私たちは常にスクリーンを
> 体験すべきなのですが、
> スクリーンの見かけ上の
> 退屈さを紛らわすために
> スクリーンセーバーが作られました。
これは誰かの仕業とか、
誰かの悪戯というわけじゃない。
わいがやったったー!\(^O^)/
とも言えるけれど、
それも心(マインド)のなかの
一つの思考にすぎません。
> しかしそれは取り除かれ、
> その結果、
> スクリーンそのものが見えます。
もしも、
あなたが望むなら……。
> これは、気づきが
> それ自身の存在(ビーイング)を
> 認識する瞬間です。
そしてマインドが死ぬ瞬間。
ああ……。
> 気づき自身を表面的に心(マインド)で
> 覆い隠すことはもはやありません。
> それは無知の終わりです。
> 気づきが
> それ自身に気づいていないように
> 見えることは、もうないのです。
ここ以外に目指すところもないけれど、
しかし、
目指す思いがまだある……。
それがマインド。
> この時を超えた瞬間、
> 気づきは空白の無ではないことが
> 認識されます。
そうなんだ。
> 心(マインド)が
> かつて考えていたような無ではなく、
> それはむしろ豊かで満ち足りており、
> 心(マインド)の見かけ上の豊かさも、
> それからできています。
(-_-)
> 実際、
> この視点から見れば、
> 本当に空っぽで、無で、
> 非実在であるのは、
> 分離した内側の自己なのです。
ああ。
> 基本設定は今や
> スクリーンセーバーではなく、
> スクリーンそのものになります。
(-||-)
無口。
(*^_^*)
> つまり、
> 分離した自己ではなく、
> 気づきそのものが
> 私たちの基本設定になるのです。
はい。
> そして、
> 心(マインド)にとって、
> それ自身の源にとどまることは
> ますます自然になります。
> 考え、感じ、知覚する合間に、
> 分離した内側にある自己を
> 作り上げることよりも、
> そちらの方が自然になるのです。
南無阿弥陀佛。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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すべてここに置いてあります。
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■ 2.編集後記:
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さて、
これはハイなのか。
ローでもないよなあ。
今日も暗くなりました。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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