home > 通信 >最終的な理解とは?(R.スパイラ):『アセンション館通信』第863号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2020/11/01(第863号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称する
ある夢の登場人物に浮上している夢の場面の報告です。

 車も人も道も建物もない、あるのはただスクリーンだけです。
 現象がどんな状態でも、それは何も得たり失ったりしません。
 そして同時に、気づきはまさにそれらすべての実質なのです。
 (『プレゼンス―第2巻』:ルパート・スパイラ)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在511名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.最終的な理解とは?(R.スパイラ)

2.編集後記
──────────────────

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■ 1.最終的な理解とは?(R.スパイラ)
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今日は温かい日でしたね。

枯れ草を少し燃やしたり、

この前修理したデッキ部分に

ペンキを塗ったりしました。

こういうことがありがたいです。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”にお付き合いいただく

今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

以前は確かに、

この瞬間に湧いてくる思考は、

自分が考えているのだと思っていました。

まあ、そういう思い方しか

知らなかったとも言えます。

でも、その後いろいろあって、

その“自分が考える”ということを、

トコトンやらざるを得なくなった。

その延長上で

今もずっとやっているとも言えます。

でもそれが“自分が考えた”結果か

そうでないかは別にして、

今は、

自分が考えているとは思っていません。

“自分”などという分離した実体が

知覚の対象物の中に存在しえないことは

あまりにも自明ですから。

“自分”が気づいている

(=“自分”が気づきを所有している)

のではなく、

気づきの中に“自分”が浮上している

(気づきに照らされて“自分”もいる)

ということはあまりにも自明です。

先日はルパート・スパイラが

“自分”とはひとつの思考であることを、

スクリーンセーバーの比喩をつかって

解説してくれました。

この秀逸な比喩は見事にキマリました。

苦しむ主体である自分というのが

ただの思考の癖にすぎないことが

暴露されたわけです。

もちろん、

こんな話は信じない、

ということはいくらでもあるでしょう。

夢の中の世間の話をするなら、

そもそもこんな話を

聞いたこともないというのが、

世間の大多数の人々だと思います。

その世界の中では、

個々人が存在していて、

それぞれ得だ損だ、勝った負けたと

苦しみに勤しんでいるという

前提になっています。

そこでは常に

個々人に何事かが起こっているのです。

それはわたしも日常的に体験しています。

夢の中の世間の話は

すでにわれわれが熟達した

思考ヨガとも言えるでしょう。

でも、これが、

ただの思考癖にすぎないことが

わかってしまったのです。

いわば二元性そのものが

ひとつの思考癖にすぎないことが、

暗に暴露されてしまった感じです。

実在しているのは

ただ一つの永遠の気づきだけです。

その気づきの前に展開される見かけの中に

どんな独立した実体も存在しない。

その思考癖を選択している実体も

存在していないわけです。

ただあたかも

思考癖が選択されてるかの見かけが、

自然現象として展開されるだけです。

マハラジも

こんなふうに言っています。

──────────────────
 しばらくの間、
 あなたは意味も確信も失ったまま、
 今同様に眠り歩きを続けるだろう。
 しかし、この時期は過ぎていく。
 そして、あなたは仕事が順調に進み、
 成果をあげるのを見ることだろう。
 心が虚ろで離れていくことは、
 誰でも、いつのときでもあるものだ。
 それはもっとも望まれる瞬間なのだ。
 なぜなら、
 それは魂が精神的な拠り所を捨て去り、
 遠くへと航海をはじめたことを
 意味するからだ。
 古かったものが終わりを告げ、
 新たなるものがまだ訪れていないとき
 ――これが無執着だ。
 もしあなたが恐れるならば、
 この状態は悲痛なものとなるだろう。
 しかし、
 本当に何も恐れることはないのだ。
 教えを思い出しなさい。
 何であれ、
 あなたがであうものを超えていきなさい、
 ということを。
 
 『私は在る』(p268)
──────────────────

(-||-)

ありがたいことです。

ルパート・スパイラの

『プレゼンス―第2巻』の後半部分に

「最終的な理解とは?」

という章があります。

今回はその全文をご紹介します。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
 
──────────────────
 
 最終的な理解とは?
 
  
 質問:
 ニサルガダッタ・マハラジは次のように言いました。
 「あなたにとって、あなたが世界の中に現れる。
  私にとって、世界が私の中に現れる」。
 この言葉は、
 「もしそれを理解したら、物語はそこで終わる」
 という声明のひとつです。
 つまり、
 それ以上理解することはないということです。
 
 
 もし、
 これがあなたにとって物語の終わりであるなら、
 私はそれを尊重しますし、
 あなたはここで話されることに
 関心がないかもしれません。
 
 しかし、
 自分自身の体験から、
 世界は自分の中に現れると理解したけれど、
 それでもまだ、
 この世界の本当の現実とは何なのだろう
 と考えている人のためには、
 幾分お話できることがあります。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p258)
 https://amzn.to/2EpkHU4
──────────────────

こんなふうに

ルパート・スパイラは話し始めます。

やっぱり

聞いてみたいですよね。(^_-)

──────────────────
 「世界が私の中に現れる」という言葉は、
 世界は私たちの自己から離れた
 外側に現れるという
 以前の信念に比べれば真実です。
 (ニサルガダッタ・マハラジも
  そのような文脈で言ったのに
  違いないでしょう。) 
 しかし、
 これは最終的な理解ではありません。
 
 この言葉には、
 まだかすかな二元性があります。
 世界は気づきとしての
 私の中に現れますが、
 それでも、現れる世界と、
 気づきそのものの間の二元性があるのです。
 これは、
 相対的に言うならば、
 部屋の中に現れる対象物と、
 対象物が現れる部屋の空間との間には、
 ある種の区別があるのと同じことです。

 体験をより深く見つめてみれば、
 実際には、対象物は
 意識の中に生じたり現れたりは
 しないことがわかります。
 そのような対象物は、
 どこから生じたり現れたりするのでしょう?
 それは何からできているのでしょう?
 そして、
 それが消えるとき、
 どこに行くのでしょう?

 『プレゼンス―第2巻』(p258-259)
──────────────────

この部分が今回の

スパイラのお話のエッセンスですね。

スパイラは

> 「世界が私の中に現れる」という言葉は、

最終的な理解ではない、と言います。

これはもちろん、

マハラジの理解に対する判断ではなくて、

この表現に対する判断でしょう。

> この言葉には、
> まだかすかな二元性があります。
> 世界は気づきとしての
> 私の中に現れますが、
> それでも、現れる世界と、
> 気づきそのものの間の二元性があるのです。

たしかに、

「世界が私の中に現れる」というと、

気づきである私とは別に、

世界というものが存在する

かのような印象を与えかねません。

> この言葉には、
> まだかすかな二元性があります。

というわけです。

> これは、
> 相対的に言うならば、
> 部屋の中に現れる対象物と、
> 対象物が現れる部屋の空間との間には、
> ある種の区別があるのと同じことです。

こういう細部を、

このように適格な比喩で

説明できるのは

スパイラの独壇場ですね。

> 体験をより深く見つめてみれば、
> 実際には、対象物は
> 意識の中に生じたり現れたりは
> しないことがわかります。

たしかに、

「意識の中に現れる」という表現は、

あたかも意識の外に

意識とは別の対象物が

存在するかのような印象を与えかねない。

だから、

スパイラは次のように問うわけです。

> そのような対象物は、
> どこから生じたり現れたりするのでしょう?
> それは何からできているのでしょう?
> そして、
> それが消えるとき、
> どこに行くのでしょう?

いったい、

意識の外側に、

意識とは別物の対象物が

存在するのだろうか?と。

──────────────────
 ご存知の通り、世界とは
 気づき以外の何かが存在する
 という信念にすぎません。
 しかし、
 そのような世界を、
 つまり、
 生じたり現れたりする何かを探そうとしても、
 何も見つかりません。
 
 私たちが認識していようがいまいが、
 体験はいつでも常に現存し、
 単一で、
 不変のものです。
 それは気づいており、
 現存しています。
 
 私たちはそれだけであり、
 それだけを知り、
 それだけを愛します。
 この気づいている
 現存(プレゼンス)である私たちは、
 決して動かす、
 変化せず、
 どこにも行かず、
 何もしません。
 私たちはいつでも私自身の場、
 私たちの自己という、
 場を超えた場にいるのです。
 
 私たちはただ、
 ありのままの私たちであり続けますが、
 ときおり何かの色に
 染まるように見えます。
 例えば、
 お茶の味、会話の音、通りや車の眺め、
 サンフランシスコ空港、
 ロンドンの曇り空、
 シーツの感触、
 夢イメージ、
 深い眠りの「無」、
 友達がらのEメールといったものの色です。
 
 この、場を超えた場では、
 何も気づきの中に現れないし、
 生じません。
 そこには、世界、他者、対象物
 といったものは存在しません。
 
 私たちの自己、気づきが、
 すべてのものの唯一の実質です
 (「すべてのもの」は存在しませんが)。
 そして、
 あらゆる見かけ上の物事は、
 私たちの自己がそれ自身を、
 視覚、音、味、感触、匂い
 といった形態に変化させたものです。
 しかし、
 私たちの自己は、
 いつでもそれ自身であるだけです。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p259-260)
──────────────────

> ご存知の通り、世界とは
> 気づき以外の何かが存在する
> という信念にすぎません。

これ……キマリですね。(^_-)

【世界とは
 気づき以外の何かが存在する
 という信念にすぎません】

(-||-)

> しかし、
> そのような世界を、
> つまり、
> 生じたり現れたりする何かを探そうとしても、
> 何も見つかりません。

これは日常的に

世界を見ているわれわれには

ちょっとチンプンカンプンとも言えます。

でも、言われていることは、

見えている世界というのは

知覚印象のソフト的

(つまり観念的)構成物であって、

それ自体が意識の内容ではあっても、

意識の外にある世界を

発見しているのではない

という意味でしょうね。

> 私たちが認識していようがいまいが、
> 体験はいつでも常に現存し、
> 単一で、
> 不変のものです。
> それは気づいており、
> 現存しています。

認識作用が起こっていようといまいと

ただ一つしかない不変の気づきは

永遠に現存しており、

自らが存在することを知っている。

> 私たちはそれだけであり、
> それだけを知り、
> それだけを愛します。

実在しているのはそれだけなので、

むろん気づいているわれわれは

それであり、

それだけを知っており、

それだけを愛している。

> この気づいている
> 現存(プレゼンス)である私たちは、
> 決して動かす、
> 変化せず、
> どこにも行かず、
> 何もしません。
> 私たちはいつでも私自身の場、
> 私たちの自己という、
> 場を超えた場にいるのです。

気づいている現存は

観念の創造物である時空間に

先立って存在しているため、

けっして動くことも、

変化することもなく、

何もしていない。

気づきである私たちの自己は

そのような場を超えた場にいる。

> 私たちはただ、
> ありのままの私たちであり続けますが、
> ときおり何かの色に
> 染まるように見えます。

永遠の気づきである私たち現存は

何もしていないが、

ときおり何かであるように見える。

> 例えば、
> お茶の味、会話の音、通りや車の眺め、
> サンフランシスコ空港、
> ロンドンの曇り空、
> シーツの感触、
> 夢イメージ、
> 深い眠りの「無」、
> 友達がらのEメールといったものの色です。

この夢に見られた現象世界の

様々な形態と意味に染まるように見える。

> この、場を超えた場では、
> 何も気づきの中に現れないし、
> 生じません。
> そこには、世界、他者、対象物
> といったものは存在しません。

だが、

意識の観念的構築物である

時空間に先立って存在している

この永遠の気づきの中では、

何も現れないし生じない。

そこには

世界、他者、対象物といった

観念的構築物はいっさい存在せず、

そこでは何も起こっていない。

> 私たちの自己、気づきが、
> すべてのものの唯一の実質です
> (「すべてのもの」は存在しませんが)。
> そして、
> あらゆる見かけ上の物事は、
> 私たちの自己がそれ自身を、
> 視覚、音、味、感触、匂い
> といった形態に変化させたものです。
> しかし、
> 私たちの自己は、
> いつでもそれ自身であるだけです。

あらゆる見かけ上の物事は

永遠の気づきである私たち現存が、

自らを視覚、音、味、感触、匂い

といった形態に変化させたものにすぎない。

実在するのは

唯一永遠の気づきである私たち現存のみ、

私たちが自分自身に気づき、

自らを味わい、

自らを愛しているだけ。

永遠に不変の気づきが

存在しているだけだから。

──────────────────
 世界や対象物、
 他者といったものはないと
 はっきり分かれば、
 次は、
 私たちの自己、気づき、
 この唯一の実質とは何なのかを
 問うことができます。
 しかし、
 それに名前をつけるには、
 わずかとはいえ
 それを対象化しなければなりません。
 私たちはそれを、
 「他の」何かに対する
 「ある」何かにし、
 こうして二元性は戻ってしまいます。
 
 分離して独立した世界があるという
 考えが崩壊すると、
 気づきがあるという考えも崩壊します。
 客体がなければ、
 主体もありません。
 もし主体があるならば、
 客体もなければなりません。
 そういうわけで、
 ワンネスという考えの中にさえ
 二元性が含まれています。
 ワンネスは多すぎるのです。
 
 こうして、
 私たちは古のマスターたちの
 叡智の深さを理解します。
 彼らはこの理解を、
 「一なるもの」とか「ワンネス」と
 名づけたりはしませんでした。
 ただ、
 「ニではない」とだけ言ったのです。
 
 心(マインド)は
 これ以上先に行くことは不可能です。
 私たちは沈黙するだけです。
 しかしそれは、
 音の不在という意味での
 沈黙ではありません。
 それは音の不在や存在に先立つ沈黙です。
 もっと広い意味で言うと、
 体、心(マインド)、
 世界に先立つ沈黙、
 それらを超えた沈黙です。
 体、心(マインド)、
 世界が現れるとき、
 私たちは本当に知るのは、
 そういうものに形を変えた、
 この沈黙にすぎません。
 
       ∞
 
 『プレゼンス―第2巻』(p260-261)
──────────────────

> 世界や対象物、
> 他者といったものはないと
> はっきり分かれば、
> 次は、
> 私たちの自己、気づき、
> この唯一の実質とは何なのかを
> 問うことができます。

気づきが見かけ上染まる

世界、対象物、他者といったものが、

実際は存在しないことが自明になると、

はじめて、

唯一永遠の実在である

私たち気づきとはいったい何か、

と問うことができる。

> しかし、
> それに名前をつけるには、
> わずかとはいえ
> それを対象化しなければなりません。
> 私たちはそれを、
> 「他の」何かに対する
> 「ある」何かにし、
> こうして二元性は戻ってしまいます。

しかし、それにいったん

何らかの名前をつけようとすれば、

それは「何か」に対して、

それは「何か」だと言うことになり、

また二元性が戻ってくる。

> 分離して独立した世界があるという
> 考えが崩壊すると、
> 気づきがあるという考えも崩壊します。

分離独立した世界がある

という観念が崩壊すると、

それと同時に、

気づきがあるという観念も崩壊する。

> 客体がなければ、
> 主体もありません。
> もし主体があるならば、
> 客体もなければなりません。
> そういうわけで、
> ワンネスという考えの中にさえ
> 二元性が含まれています。
> ワンネスは多すぎるのです。

対象物が消滅したのだから、

気づきだけが

主体として留まることはできない。

客体がなければ主体もない。

いまやワンネスという観念にすら

二元性が含まれていることが

明らかになる。

実在を指し示すには

ワンネスの含意は多すぎることがわかる。

> こうして、
> 私たちは古のマスターたちの
> 叡智の深さを理解します。
> 彼らはこの理解を、
> 「一なるもの」とか「ワンネス」と
> 名づけたりはしませんでした。
> ただ、
> 「ニではない」とだけ言ったのです。

ここではじめて、

古の賢者たちが使った言葉の

意味合いがわかってくる。

彼らはそれをただ、

「二ではない」と表現した。

> 心(マインド)は
> これ以上先に行くことは不可能です。
> 私たちは沈黙するだけです。

言葉でそれ以上実在に

近づくことはできない。

気づきはそこで沈黙するしかない。

> しかしそれは、
> 音の不在という意味での
> 沈黙ではありません。
> それは音の不在や存在に先立つ沈黙です。
> もっと広い意味で言うと、
> 体、心(マインド)、世界に
> 先立つ沈黙、
> それらを超えた沈黙です。
> 体、心(マインド)、
> 世界が現れるとき、
> 私たちは本当に知るのは、
> そういうものに形を変えた、
> この沈黙にすぎません。

しかしそこで起こる沈黙は、

音の不在という意味での

沈黙ではない。

それは時空間という

観念の構成物の創造に先立つ

場を超えた場に在る沈黙。

世界、他者、対象物

として現れているのはすべて

その場を超えた場に在る沈黙が

形を変えたものにすぎない。
 
──────────────────
 私たちの自己、「私」、
 気づきという概念が最初に生じ、
 そして、最後に去ります。
 これにはもっともな理由があります。
 つまり、
 それだけが「実在」する「もの」だから、
 それだけが
 概念化に値するものだからです。
 
 実際のところ、
 すべての名前や言葉は
 気づきに付けられた名前、
 気づきを修飾する名称であると、
 私たちは認識します。
 お茶、音、道、車、空港、空……
 こうしたものはどれも、
 気づきの名前、
 形態なのです。
 映画の中の人々や家々、
 木々、野原、空は、
 私たちがスクリーンに与えた
 名前や形態にすぎないのと同じことです。
 それは常にスクリーンでしかありません。
 
 気づきに名前はありません。
 しかし、
 気づきはあらゆる名前で呼ばれます。
 
 ですから、ある意味、
 私たちは出発点に、
 つまり純粋な体験に戻るのです。
 すべてが再びシンプルになります。
 現実の性質を問い、
 考えることは、
 もうその役目を終えました。
 それは終わりを迎えたのです。
 私たちは、自らが再び
 街中に戻っていることに気づきます。
 いわば、
 すべての体験の中心に深く、
 愛として戻るのです。
 そして、
 自由にあらゆる体験の形をとり、
 なおかつ、
 あらゆる体験から独立しています。
 
 つまり私たちは、
 自らが愛、自由、平安そのものであると
 気づくのです。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p261-262)
──────────────────

> 私たちの自己、「私」、
> 気づきという概念が最初に生じ、
> そして、最後に去ります。
> これにはもっともな理由があります。
> つまり、
> それだけが「実在」する「もの」だから、
> それだけが
> 概念化に値するものだからです。

自己、「私」、

気づきという概念が最初に立ち現れ、

そして、最後に消える。

なぜなら、

概念が想像されるとき

それに先立って存在している実体、

概念化されるべき実体は、

それしか存在していないから。

> 実際のところ、
> すべての名前や言葉は
> 気づきに付けられた名前、
> 気づきを修飾する名称であると、
> 私たちは認識します。

時空間が創造されて以降、

時空間内にたち現れる形態すべてに

付与される名前や言葉は、

すべて気づきに与えられた名前、

気づきを修飾する言葉だ。

> お茶、音、道、車、空港、空……
> こうしたものはどれも、
> 気づきの名前、
> 形態なのです。
> 映画の中の人々や家々、
> 木々、野原、空は、
> 私たちがスクリーンに与えた
> 名前や形態にすぎないのと同じことです。
> それは常にスクリーンでしかありません。
> 気づきに名前はありません。
> しかし、
> 気づきはあらゆる名前で呼ばれます。

スクリーン上にどんな

光景やドラマが映し出されようとも、

その実在する実体は

スクリーンでしかない。

世界がどんな色に染まろうとも、

その実体は現存する気づき以外ではない。

気づきに名前はないが、

それはあらゆる名前で呼ばれる。

> ですから、ある意味、
> 私たちは出発点に、
> つまり純粋な体験に戻るのです。
> すべてが再びシンプルになります。
> 現実の性質を問い、
> 考えることは、
> もうその役目を終えました。
> それは終わりを迎えたのです。

気づきは見かけ上の

一巡の旅をここで終え、

元の出発点である純粋な体験に戻る。

考えることはその役割を終える。

> 私たちは、自らが再び
> 街中に戻っていることに気づきます。
> いわば、
> すべての体験の中心に深く、
> 愛として戻るのです。
> そして、
> 自由にあらゆる体験の形をとり、
> なおかつ、
> あらゆる体験から独立しています。

そのときそこで起こることが起こる。

> つまり私たちは、
> 自らが愛、自由、平安そのものであると
> 気づくのです。

永遠の気づきである私たちは、

自分が愛、自由、平安だと

気づく。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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【世界とは
 
 気づき以外の何かが存在する
 
 という信念にすぎません】

とても単純なことでしたね。

今日も暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
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