home > 通信 >私たちは何も知らない:『アセンション館通信』第864号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2020/11/08(第864号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称する
ある夢の登場人物に浮上している夢の場面の報告です。

 車も人も道も建物もない、あるのはただスクリーンだけです。
 現象がどんな状態でも、それは何も得たり失ったりしません。
 そして同時に、気づきはまさにそれらすべての実質なのです。
 (『プレゼンス―第2巻』:ルパート・スパイラ)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在511名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.私たちは何も知らない

2.編集後記
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■ 1.私たちは何も知らない
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また薄曇り……。

そして気がついたら……時に雨。

デッキが濡れていたりします。

はっきりしない感じ。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”にお付き合いいただく

今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

自分が……

すべてを目撃している気づき……

であることは明らか……

であるようでもあり、

また……ただの人間……

であるようでもあり。

相変わらずの日々が流れてゆきます。

などと言いながら……

でも案外まだ努力の余地があると

思っているのかもしれませんし。

わかりません。(*^_^*)

それに……、

実際、

何ひとつ確信もありません。

何かができる自分などいないのは

自明のこととも思えるのに、

同時にまたその夢の中で

なんとかなりたいと思っている自分が

いるようでもあるわけですから。

なんとかなりたいと思っている

その“もつれ”というか

“結ぼれ”みたいなものがあるのなら、

なんともなっていないのは、

明らかなようでもあり。(*^_^*)

ときどき

何かに縋ろうとするとき、

思い出したように戻ってくるのが、

マハラジのこの言葉です。

──────────────────
 あなたがあなたを含むすべての
 証明なのだということを、
 まず悟るべきだ。
 あなたの存在を証明できるものは
 何もないのだ。
 なぜなら、
 他者の存在もあなたによって
 確認されなければならないからだ。
 あなたは完全に、
 あなた自身によって在るのだ
 ということを覚えておきなさい。
 あなたはどこからも来なかったし、
 どこへも行かない。
 あなたは時間を超えた存在、
 そして気づきなのだ。
 
 『私は在る』(p178)
──────────────────

(-||-)

たとえ問題がありそうだとしても、

その問題はすべてわたしに対して現れる。

問題があるかどうかは

明らかではないとしても、

「私は在る」ことは確かです。

なら、

何が問題なのだろう?

わたしが気にする、

わたしが問題にするだけではないのか?

そのわたしは自分の存在を

他の何ものにも依存していない。

「私は在る」は

すべての問題の根源であると同時に、

永遠で無限なる不動の気づきにまで

通底している。

そしてまた

問題の種となるすべての見かけは

その永遠で無限なる不動の気づき

「私」に対して現れる。

毎朝わたしが眠りから覚め、

最初の思考「私は在る」が起こると

その問題の種となる見かけも

同時に立ち上がる。

わたしが寝入った熟睡の中で

「私は在る」が消滅すると、

同時にすべての見かけも消滅する。

わたしが起きると、

すべての見かけも同時に立ち上がる。

わたしが寝入った熟睡の中では

すべての見かけも消滅する。

では、

その問題の種となる見かけは、

わたし以外のどこかに

客観的実体として存在しているのか?

身体に自己同化した“わたし”には、

そう見えるかもしれない。

しかし

永遠不動の無限なる気づきである

「私」が目撃しているからこそ

その問題の種となる見かけは

存在(顕現)できる。

「私」が目撃していない見かけは

そもそも存在(顕現)できない。

身体に自己同化した

日常的“わたし”もまた、

想像された虚構の概念にすぎず、

「私」が目撃する見かけの一部、

単なる対象物にすぎない。

これもまた

永遠不動の無限なる気づき

「私」の目撃の中でしか存在できない。

それとも、

永遠不動の無限なる気づきの外に

何らかの客観的実体が存在している、

などということがありえるだろうか?

いや、たとえ、

そんなことがありえたとしても、

それが「私」の目撃で

照らし出されることはありえない。

“わたし”がそれを

体験することもありえない。

それにそもそも、

永遠不動の無限なる気づきに

その「外」もありえない。

永遠不動の無限なる気づきは

ただひとつしかありえないから……。

【あなたは完全に、
 あなた自身によって在るのだ
 ということを覚えておきなさい。】

……。

ルパート・スパイラの

『プレゼンス―第2巻』の終わりの方に

「私たちは何も知らない」

という章があります。

今回はその全文をご紹介します。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
 
──────────────────
 
 私たちは何も知らない
 
 
 
 質問:体、対象物、世界とは本当は何なのか、
    心(マインド)を通さずに知ることは
    できますか?
 
 
 見かけ上の体、対象物、世界に
 ついて知られているのは、
 感じることと知覚することだけだ
 ということを、
 私たちははっきりと
 体験的に理解してきました。
 そして、
 私たちの自己、気づきは、
 すべての感じること、
 知覚することの
 実質であることも理解しました。
 思考は、
 感じることと自覚することに
 ラベルを付けますが、
 それによって、
 見かけ上の対象物、他者、世界が
 つくられるのです。  
 
 そのような対象物は
 それ自体で存在するものと
 考えられています。
 感じることと自覚することが
 それに形を与え、
 思考が名前を与えます。
 
 したがって、
 通常考えられているような物質、
 対象物、物事、体、世界は、
 私たちが体験の
 現実の上に覆いかぶせた
 概念にすぎません。
 それらが
 そういうものとして体験されることは
 決してありません。
 しかし、
 私たちは
 もっと先に行くことができます。
 私たちは、
 体や対象物、世界といったものを、
 感じることと知覚することに頼らずには
 体験したことはありませんが、
 それらはそもそも体験不可能なのです。
 
 こうして私たちは、
 単純ながら
 驚くべき結論にたどり着きます。
 心(マインド)は、
 すべての物事の究極的な現実、
 つまり現実そのものを知りませんが、
 より重要なことに、
 そもそもそれを知ることはできないのです。
 私たちは
 本当の意味では何も知りません。
 そもそも、
 知られるべき物事があるのかどうかさえ
 知りません。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p295-296)
 https://amzn.to/2EpkHU4
──────────────────

> 質問:体、対象物、世界とは本当は何なのか、
>    心(マインド)を通さずに知ることは
>    できますか?

なるほど……。

こういう質問も

確かにあるわけでしょうね。

> 見かけ上の体、対象物、世界に
> ついて知られているのは、
> 感じることと知覚することだけだ
> ということを、
> 私たちははっきりと
> 体験的に理解してきました。

こういう言葉を見ると、

グレッグ・グッドの

『ダイレクトパス』を
https://amzn.to/2O7s8Un

また読みなおそう

などとも思われてきます。

> そして、
> 私たちの自己、気づきは、
> すべての感じること、
> 知覚することの
> 実質であることも理解しました。

身体をとおして体験している私たちは

身体に与えられた知覚刺激を

解読・再構成して現象世界を

想像(創造)している。

そこで想像された世界は、

すべて知覚刺激で構成されている。

> 思考は、
> 感じることと自覚することに
> ラベルを付けますが、
> それによって、
> 見かけ上の対象物、他者、世界が
> つくられるのです。  

私たちが見ている

対象物、他者、世界とは、

五感に与えられた感覚的刺激の

解読によって構成された見かけに、

親和性のある想像を引き寄せて

その見かけの形態の意味を想像している。

> そのような対象物は
> それ自体で存在するものと
> 考えられています。
> 感じることと自覚することが
> それに形を与え、
> 思考が名前を与えます。

見かけの中に現れた対象物は、

実体として客観的に存在している

と想像されているが、

実際は、身体に与えられた

感覚的刺激から再構築され、

好みの想像を引き寄せているだけ。

> したがって、
> 通常考えられているような物質、
> 対象物、物事、体、世界は、
> 私たちが体験の
> 現実の上に覆いかぶせた
> 概念にすぎません。

私たちが通常体験している

対象物や物事や肉体や世界は、

五感に与えられた感覚的刺激を

構成して作った見かけの現実に、

想像上の概念を覆いかぶせているだけ。

> それらが
> そういうものとして体験されることは
> 決してありません。

実際に、

そういうものの客観的な存在を

確認する体験をしてはいはない。

> しかし、
> 私たちは
> もっと先に行くことができます。
> 私たちは、
> 体や対象物、世界といったものを、
> 感じることと知覚することに頼らずには
> 体験したことはありませんが、
> それらはそもそも体験不可能なのです。

私たちは身体という

驚異的能力を持つ道具によって、

さまざまな見かけを体験し、

そこにさまざまな意味を想像しているが、

そこで体験されるものは

もともと感覚的刺激と

観念的想像によって構成されている。

すべては生み出され想像されたもの。

そもそも永遠で無限の気づきが

客観的に存在する独立した実体を

体験するというのは不可能なのだ。

なぜなら、

実在しているのは気づき自体だけで、

それ以外には

何ひとつ実在していないのだから。

その唯一の実在である気づきが

無限の形態を創造し、

無限の意味を想像しているだけなのだから。

> こうして私たちは、
> 単純ながら
> 驚くべき結論にたどり着きます。
> 心(マインド)は、
> すべての物事の究極的な現実、
> つまり現実そのものを知りませんが、
> より重要なことに、
> そもそもそれを知ることはできないのです。
> 私たちは
> 本当の意味では何も知りません。
> そもそも、
> 知られるべき物事があるのかどうかさえ
> 知りません。

かくて私たちは

驚くべき結論に行き着く。

認識されなければ

何ひとつ存在できない以上、

すべての存在物はその存在性を

気づきに依拠せざるをえない。

気づき自体は何ものでもありえない。

なぜなら

何ものかはそのこと自体で

すでに気づきの対象物でしかありえず、

気づき自体ではありえないから。

ということは、

唯一の実在である気づきは、

けっして客観的に存在する何ものかを

知ることはできないということだ。

何ものかとは、

すべて想像にすぎないということだ。

気づきはけっして、

現実を知ることはできない。

気づきが想像したことが

現実になるだけなのだ。

────────────────── 
 心(マインド)は、
 自らの創造物を知るだけです。
 心(マインド)自身の外側に
 何かがそれ独自で存在すると
 心(マインド)が想像したとしても、
 そのイメージ自体、
 心(マインド)の創造物のひとつに
 すぎません。
 そして、
 もし心(マインド)が振り返って
 自分自身の本質を見ようとしても、
 心(マインド)は消えてしまうのです。
 
 つまり、
 心(マインド)は
 自分の外側に何かを探しても、
 自分自身を見つけるだけです。
 もし心(マインド)が自分自身の中に
 自らの本質を見つけようとしても、
 それは炎に飛び込む蛾のように
 死んでしまいます。
 
 ひとたびこのことが
 はっきりと理解されると、
 心(マインド)は莫大な重荷
 ──知ることの重荷──
 から解放されます。
 解放された心(マインド)は
 静かで自由です。
 それは何も知らないけれど、
 すべてを表現できます。
 それは固定した立場を持っていないけれど、
 状況に応じて、
 どんな立場をとることもできます。
 心(マインド)は現実を知らないし、
 知ることもできませんが、
 それと同時に、
 現実の表れでもあるのです。
 
 ウィリアム・ブレイクが言ったように、
 「信じ得るものはすべて
  真実を映し出している」のです。
 
 あらゆる真の芸術的表現の中心にあるのは、
 この自由と創造性です。
 心(マインド)は
 現実に触れることはできませんが、
 現実に浸されています。
 
 ですから、
 ブレイクは次のようにも言ったのです。
 「永遠は時の産物に恋をする」と。
 
 このような理由で、
 芸術作品には終わりがないのです。
 もし心(マインド)の中に現実があるのなら、
 芸術にも終わりがあり、
 創造性にも終わりがあるでしょう。
 何か見出すべきもの、
 つまり到着すべきところ、
 最後の声明があるはずです。
 
 しかし、
 そういうものはありません。
 「時の産物」は時を超えて、
 永遠から流れきて、
 今、絶えず現存し、
 それと同時に自らの実質を探求し、
 祝福し、分かち合います。
 それはそれ自身を祝福すること以外に
 何の目的もない、
 愛と美のダンスです。
 真の芸術はすべて、
 芸術のためにだけ存在します。
 それ以外の目的も行き先もありません。

 『プレゼンス―第2巻』(p296-297)
──────────────────

> 心(マインド)は、
> 自らの創造物を知るだけです。
> 心(マインド)自身の外側に
> 何かがそれ独自で存在すると
> 心(マインド)が想像したとしても、
> そのイメージ自体、
> 心(マインド)の創造物のひとつに
> すぎません。
> そして、
> もし心(マインド)が振り返って
> 自分自身の本質を見ようとしても、
> 心(マインド)は消えてしまうのです。

何ものかを創造し

それを認識する仕組みとも言える

心(マインド)は

実際は自らの創造物しか知ることはできない。

心(マインド)が何の対象物の

独自の存在を認識したと想像しても、

その認識自体がマインドの想像だから。

自分の想像を確認しようとしても、

そのときその対象のマインドは

すでに消えて存在しない。

> つまり、
> 心(マインド)は
> 自分の外側に何かを探しても、
> 自分自身を見つけるだけです。
> もし心(マインド)が自分自身の中に
> 自らの本質を見つけようとしても、
> それは炎に飛び込む蛾のように
> 死んでしまいます。

心(マインド)が

なにかの存在物を確認しようとすれば、

その確認意図そのものが、

その確認対象を消滅させてしまう。

> ひとたびこのことが
> はっきりと理解されると、
> 心(マインド)は莫大な重荷
> ──知ることの重荷──
> から解放されます。

このことがはっきりわかると、

心(マインド)はもう

自らの確認行為そのものに

意味を見いだせなくなる。

自らの苦しみを再生産する無意味さに

どれほど耐えられるものだろうか?

> 解放された心(マインド)は
> 静かで自由です。
> それは何も知らないけれど、
> すべてを表現できます。

かくて心(マインド)は

すべての重荷から解放される。

心(マインド)は何ひとつ

確実なことを知ることはできない。

しかし、

それにもかかわらず、

何を想像することも自由なのだ。

> それは固定した立場を持っていないけれど、
> 状況に応じて、
> どんな立場をとることもできます。
> 心(マインド)は現実を知らないし、
> 知ることもできませんが、
> それと同時に、
> 現実の表れでもあるのです。

心(マインド)は現実を知らない。

だが同時に、

心(マインド)が想像する何か

以外のものが存在するわけでもない。

心(マインド)の想像こそが、

現実の表れとも言えるのだ。

> ウィリアム・ブレイクが言ったように、
> 「信じ得るものはすべて
>  真実を映し出している」のです。

かつて、

ウィリアム・ブレイクは

「信頼できるものは、

 すべて真実を映し出している」

と語った。

それ以上に何が必要だろうか?

> あらゆる真の芸術的表現の中心にあるのは、
> この自由と創造性です。
> 心(マインド)は
> 現実に触れることはできませんが、
> 現実に浸されています。

真の芸術的表現の中心には

この真実を創造するこの自由がある。

> ですから、
> ブレイクは次のようにも言ったのです。
> 「永遠は時の産物に恋をする」と。

どうやら、

永遠は永遠の実在だけでは

物足りないのかもしれない。

> このような理由で、
> 芸術作品には終わりがないのです。

それかあらずか、

芸術が終わることはない。

> もし心(マインド)の中に現実があるのなら、
> 芸術にも終わりがあり、
> 創造性にも終わりがあるでしょう。
> 何か見出すべきもの、
> つまり到着すべきところ、
> 最後の声明があるはずです。

それは、

心(マインド)の中に

探求すべき現実が存在しえないため、

到達すべき目的地もありえないからだ。

> しかし、
> そういうものはありません。
> 「時の産物」は時を超えて、
> 永遠から流れきて、
> 今、絶えず現存し、
> それと同時に自らの実質を探求し、
> 祝福し、分かち合います。
> それはそれ自身を祝福すること以外に
> 何の目的もない、
> 愛と美のダンスです。
> 真の芸術はすべて、
> 芸術のためにだけ存在します。
> それ以外の目的も行き先もありません。

すべては

絶対の無意味の中で

創造され、探求され、祝福され、

分かち合われる。

真の芸術は

ただ芸術のためだけに存在する。

──────────────────
 では、
 現実は知られていないし、
 知ることもできないのでしょうか? 
 いいえ、そうではありません!
 もしそうなら、
 さまざまな状況において、
 知られているもの、
 体験されているものは
 すべて現実以外の何かだ
 ということになってしまいます。
 単に、
 概念化する心(マインド)が
 現実に近づくことは
 できないということです。
 しかし、
 現実はそれ自身に近づくことができます。
 現実はそれ自身を知っているのです。
 
 それはまさにそれ自身の知です。
 しかし、
 それは関係性における知ではありません。
 それは同一性における知です。
 愛とは、
 この同一性における知に
 与えられた名前にすぎません。
 
 それ自身を知る現実以外に
 何も存在しません。
 愛以外に何も存在しません。
 それは、
 「これ」、
 「私」としても知られています。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p297-298)
──────────────────

> では、
> 現実は知られていないし、
> 知ることもできないのでしょうか? 
> いいえ、そうではありません!
> もしそうなら、
> さまざまな状況において、
> 知られているもの、
> 体験されているものは
> すべて現実以外の何かだ
> ということになってしまいます。
> 単に、
> 概念化する心(マインド)が
> 現実に近づくことは
> できないということです。
> しかし、
> 現実はそれ自身に近づくことができます。
> 現実はそれ自身を知っているのです。

では、

現実は知りえないものなのか?

いや、

そうとも言えないだろう。

もしそうなら、

すべて体験されたものは

現実以外の何かということになる。

もしそういう言い方のほうが

好きならそれもいい。

唯一はっきりしているのは、

観念を想像する心(マインド)が

その想像によって客観的に

存在する現実に近づくことは

できないというだけだ。

> それはまさにそれ自身の知です。
> しかし、
> それは関係性における知ではありません。
> それは同一性における知です。
> 愛とは、
> この同一性における知に
> 与えられた名前にすぎません。

それは

観念を想像する心(マインド)が

自らを知っているということだ。

客観的に存在する

何かの基準によるのではなく、

ただ自ら創造するものを愛でる、

というにすぎない。

> それ自身を知る現実以外に
> 何も存在しません。
> 愛以外に何も存在しません。
> それは、
> 「これ」、
> 「私」としても知られています。

私は在ることを知っている。

そして私が注意を向ければ、

さまざまな観念が浮かび上がる。

その観念はどんな実在する実体も

指し示してはいない。

ただ実在する私が愛でるがゆえに、

それは実在する。

私はわたしを愛する。

私は私の創造物を愛する。

現実は何が現実かを知っている。

それ以外の現実は存在しない。

その唯一の現実が愛だ。

それが「私」だ。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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すべてここに置いてあります。
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   ………○…………○…………○………


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   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

唯一永遠の気づきしか実在しない。

絶望とは相対的比較の中で起こること。

それは森羅万象の中の

ひとつの形態にすぎない

今日も暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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