home > 通信 >意識の本質は意識であること(Osho):『アセンション館通信』第865号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2020/11/15(第865号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称する
ある夢の登場人物に浮上している夢の場面の報告です。

 車も人も道も建物もない、あるのはただスクリーンだけです。
 現象がどんな状態でも、それは何も得たり失ったりしません。
 そして同時に、気づきはまさにそれらすべての実質なのです。
 (『プレゼンス―第2巻』:ルパート・スパイラ)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在511名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.意識の本質は意識であること(Osho)

2.編集後記
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■ 1.意識の本質は意識であること(Osho)
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今日は暖かいです。

このところ晴天がつづきますね。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”にお付き合いいただく

今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

最近、しばらくぶりに

Oshoの文献を見る機会がでてきました。

面白い話題に触れた講話を見つけたので

ちょっとご紹介したいと思います。

『Flight of the Alone to the Alone』

という『Kaivalya Upanishad』という

古典についてのOshoの講話です。

「Kaivalya」というのは

完全な独存状態にある瞬間のことだそうで。

邦訳はなさそうです。

インド的思考の最奥みたいな感じでしょうか。

──────────────────
 意識とは意識の本質だ。
 意識にはひとつの性質しかない。
 そしてそれが意識だ。
 これは深い意味合いを持つ。
 というのは、
 もし意識が意識の本質なら、
 意識はけっして意識なしにはなれない
 ことになるからだ。
 意識はけっして無意識ではありえない。
 
 それらの思想家にとっての問題は、
 もし意識が存在の本質であるなら、
 なぜ人間が無意識なのかを
 説明できないことだった。
 それならなぜ人間は眠っているのか?
 
 もし目覚めているのが
 人間の本質だというのなら、
 ではこの眠りはどこから来るのか?
 
 だが
 ただ何かを説明できないからといって、
 それだけで反論をでっち上げる必要はない。
 その上、それは説明できる。
 問題が起き、困難が生じるのは、
 考えるからにすぎない。
 
 瞑想とともに事柄の中に入っていくと、
 そこには何の困難も存在しない。
 なぜなら
 瞑想では事柄が直接理解されるからだ。
 
 意識は常に意識している。
 鏡は常に鏡だ。
 ただ何かがそれを覆い隠すことはありうる。
 そして
 鏡のように反映する意識の本質こそが、
 この覆い隠しが起こる理由なのだ。
 
 どんなものでも意識を覆い、
 かつ意識の中に反映されることができる。
 
 意識こそが意識の本質だ。
 だがどんなものでも意識の中に
 反映されることができる。
 すると意識は自分がその反映されたものだと
 誤って信じることが起こりうる。
 だがこれはまだ意識の本質に
 何の矛盾も引き起こさない。
 
 青い宝石のサファイアが古典的な例だ。
 古代の経典には、
 青い宝石を水に入れると、
 水は青く見える例が語られている。
 実際に水が青くなるわけではない。
 だが青い宝石の青さが水に広がり、
 水が青く見えはじめる。
 この青い見かけは水の現実ではない。
 このため、
 探求者は新しいカテゴリを作った。
 彼らは、
 目には見えても必ずしも
 存在するとはかぎらないものがあり、
 また存在するものの中にも、
 必ずしも見えるとはかぎらないものがある
 と言った。
 その物はそこに存在するのに、
 それが見えないことも多くある。
 また物が見えるのに、
 存在しないこともよくあることだ。
 
 意識を無意識として見るのは
 単なる見かけにすぎない。
 意識が眠っているように見えるとき、
 それはただそう見えるにすぎない。
 そのため、
 神秘家たちは非常に面白いことを言った。
 カビールがそれを言った。
 ファリドや他の神秘家もそれを言った。
 もし人間が本当に眠っているのなら、
 彼を起こすのはごく簡単なことだ。
 だがもし
 誰かが眠っているふりをしているのなら、
 彼を起こすのは非常に難しいと。
 
 そして眠っているふりをするのは
 ありうることだ。
 面白いのは、
 眠っているふりができるということだ。
 そしてもし
 眠っているふりをしているのなら、
 目覚めさせるのは非常に難しい
 ことになる。
 
 もしかしたら、
 たいへんな努力にもかかわらず
 人々が目覚めない本当の理由は、
 実際は眠っていないのに、
 眠っているふりをしているから
 かもしれない。
 だからこそ、
 人々はたいへんな努力をするのだ。
 じつに多くの仏陀たち、
 じつに多くのマハーヴィーラたち、
 じつに多くのイエスたち、
 じつに多くのツァラトゥーストラたちが
 人々を目覚めさせようとするのに、
 人間は寝返りをうち、
 毛布を引っ張って頭を隠して
 前よりさらに深い眠りに戻ってゆく。
 彼が眠っている間に、
 ベッドはめちゃくちゃになり、
 毛布が滑り落ちたり、
 足がむき出しになったり、
 頭の下から
 枕がずり落ちたりすることもある。
 だがマハヴィーラや仏陀の慈愛の結果、
 少なくとも
 人は寝返りをうって枕を直し、
 シーツを少し整え、
 毛布を引き上げるくらいは起こる。
 だがまたもや眠りに戻るのだ。
 
 この人は眠っていない。
 ほとんど眠ってはいる。
 まるで眠っているようだ。
 だからこれは
 当人自身の選択によるのだ。
 
 ……
 
 人は意識だ。
 この意識のゆえに彼には視力があり、
 光があり、気づきがある。
 人が気づくやいなや、
 彼の気づきは対象物に、
 物に、人々に降りかかる。
 ランプに火を灯すと、
 そのランプは何をするか?
 ランプは明るいので、
 もちろんただちに
 まわりの物を照らしだすだろう。
 部屋の中には
 暗闇があり何も見えなかった。
 それからランプが燈され、
 すぐに部屋全体が光で満たされる。
 さてもしランプにも意識があったら、
 そのときは
 たとえ自分という光源には
 気づかなくても、
 当然、部屋の中のものには
 必ず気づくことになるだろう。
 そこには壁やソファーや椅子、
 絵画や貯金箱がある。
 ランプは1つのこと除けば、
 あらゆるものを見ることだろう。
 そのランプは自分自身という
 光源は見ることができない。
 
 どうすればランプは
 自分という光源を見ることができるか?
 もしランプが意識を持ったら、
 もしだしぬけに魂を持ったとしたら、
 どうなるだろうか?
 ランプは部屋を見て、
 照らし出されたものが見えるだろう。
 すると見ること自体で、
 欲望が生まれるだろう。
 
 もしある部屋に十枚の絵があったら、
 そしてそのランプに意識があったら、
 最も気に入った絵が
 欲しくなることだろう。
 あるいは、
 もしその絵を持つのが無理なら、
 少なくとももっと近づきたい、
 さらに近づきたいと望むことだろう。
 ランプはいたるところに
 対象物を見るだろうし、
 それ向かって動きはじめるだろう。
 近づこうとしはじめるだろう。
 
 人間の意識のランプの光は
 宇宙全体に向かっていく。
 つまり無限の欲望が生まれる。
 達成したいという欲望、
 到達したいという欲望、
 成りたいという欲望だ。
 ただひとつだけが忘れられる。
 それは自然なことだが、
 見ている者、
 知っている者、
 照らしている者が
 忘れ去られるのだ。
 それこそが眠りの真の意味だ。
 
 この意識の炎が物事を所有すること、
 達成すること、
 蓄積することに向かって動くとき、
 自我(エゴ)が誕生する。
 「私は多くのことを達成した」と。
 行為者が誕生する。
 これが意味するのは、
 意識が欲望を誕生させ、
 欲望の実現が行為者を誕生させる
 ということだ。
 そしてあなたの眠りが成長しつづけ、
 深まりつづけながら、
 次々と層を重ねてゆくのだ。
 
 『Flight of the Alone to the Alone』の13章より
──────────────────

(-||-)

とてもおもしろいと思いました。

わたしにヒットしたのは

次のようなポイントでした。

●ヒット・ポイント1:
【意識の本質は意識である】
⇒【意識は無意識にはなれない】
⇒【無意識は存在しない】

> 意識とは意識の本質だ。
> 意識にはひとつの性質しかない。
> そしてそれが意識だ。
> これは深い意味合いを持つ。
> というのは、
> もし意識が意識の本質なら、
> 意識はけっして意識なしにはなれない
> ことになるからだ。
> 意識はけっして無意識ではありえない。

意識であるということが

意識の本質だというのです。

どんな覚者も

自分の理解を表現するときは

概念でしか伝えられません。

特に Osho は

多くの聴衆に向かってたくさんの

一見矛盾する内容を語った人です。

「意識」(ここでは「Consciousness」)

という言葉を使っても

いろいろなことを語っています。

ただここでの「Consciousness」は

Enlightenment(悟り)の

同義語としての「意識」、

つまり覚醒しているという意味での

「意識」について語っているようです。

その意味の「意識」の本質は

「意識」である(覚醒している)

という意味なので、

覚醒していない意識というのは

悟っていない悟りと同じで、

そんなものは存在しない、

ということのようです。

というわけで、

その意味での「意識」の本質は、

「意識」である(意識している)

ということだと。

つまり、この意味では、

われわれは「意識」ではない。(*^_^*)

(ただし本当に無意識なのではなく、

 無意識のふりをしているのかもしれない。
 
 自覚的には自分は意識だと
 
 想像していますが。(^_-) )

自分は「意識」だと思うのは、

妄想であって現実ではないことになります。

このことは、

ラメッシ・バルセカールなどの表現では、

われわれは見ている主体ではなく、

見られている登場人物だ

ということになるのでしょう。

これが、一点です。


●ヒット・ポイント2:
 【無意識が生まれる構造】

その常に意識している意識が、

【(見かけ上)無意識になりうる構造】、

【夢を見る理由】です。

> 意識は常に意識している。
> 鏡は常に鏡だ。
> ただ何かがそれを覆い隠すことはありうる。
> そして
> 鏡のように反映する意識の本質こそが、
> この覆い隠しが起こる理由なのだ。
> 
> どんなものでも意識を覆って、
> そして意識の中に反映されることができる。
> 
> 意識こそが意識の本質だ。
> だがどんなものでも意識の中に
> 反映されることができる。
> すると意識は自分がその反映されたものだと
> 誤って信じることが起こりうる。
> だがこれはまだ意識の本質に
> 何の矛盾も引き起こさない。

その定義上、

意識は常に意識している。

意識はあらゆるものに気づいている。

どんな現れも拒否することなく、

自らのうちに映し出す。

なぜなら何らかの現れを

識別して拒否したら、

意識はあらゆるものに気づくこと、

あらゆるものを映し出すことが

できなくなるからだ。

この意識の鏡のような本質が、

幻影が生まれる理由でもある。

逆から言うと、

どんなものでも意識を覆い隠す

ことができるということだ。

何らかの現れ(見かけ)が生じると、

意識はその現れを映し出す。

その現れは意識の中に反映される。

すると意識はその現れを

自分だと誤解することが起こりうる。

なぜか?


●ヒット・ポイント3:
 【マーヤという概念】

Oshoは古代から言い伝えられてきた

青い宝石の比喩を紹介します。
 
> 青い宝石のサファイアはこの古代の例だ。
> 古代の経典には、
> 青い宝石を水に入れると、
> 水は青く見える例が語られている。
> 実際に水が青くなるわけではない。
> だが青い宝石の青さが水に広がり、
> 水が青く見えはじめる。
> この青い見かけは水の現実ではない。

これはセイラー・ボブさんもよく言う

「海の水の青さ」ですよね。

実際は海の水は青くない。

だから海の水が

本当は透明だと知っている者は

青い水を汲みにバケツをもって

海には行かないと。

蜃気楼を知っている者は、

熱砂の向こうに揺らぐ街に行き着こうと

砂漠の中に入っては行かないと、

> このため、
> 探求者は新しいカテゴリを作った。
> 彼らは、
> 目には見えても必ずしも
> 存在するとはかぎらないものがあり、
> また存在するものの中にも、
> 必ずしも見えるとはかぎらないものがある
> と述べた。
> その物はそこに存在するのに、
> それが見えないことも多くある。
> また物が見えるのに、
> 存在しないこともよくあることだ。

これを知っていた古代の探求者たちは

五感の錯覚としては現れるけれど

実際は存在しないものを表す、

「マーヤ」というカテゴリを作った。

それは感覚刺激の構成結果、

確かにそこに存在するように思える。

しかしそれは

感覚刺激の構成作用の結果として

生まれた錯覚であって、

その印象に対応する実体が

実際に存在するわけではない。

その逆に、

実際は存在しているのに、

見えないものも存在するのだと。


●ヒット・ポイント4:
 【無意識は見かけにすぎない】

> 意識を無意識として見るのは
> 単なる見かけにすぎない。
> 意識が眠っているように見えるとき、
> それはただそう見えるにすぎない。

実際は、

意識は常に意識している。

無意識が存在するように見えるのは

ただの見かけの問題にすぎない。

意識が眠りこけているように見えるのは

ただそう見えるにすぎない。

実際は、

意識は常に意識している。

意識は常に

あらゆるものに気づいている。

あらゆるものを映し出している。


●ヒット・ポイント5:
 【意識は実際は眠っていない】
 
> そのため、
> 神秘家たちは非常に面白いことを言った。
> カビールはそれを言った。
> ファリドや他の神秘家もそれを言った。
> もし人間が本当に眠っているのなら、
> 彼を起こすのはごく簡単なことだと。
> だがもし
> 誰かが眠っているふりをしているのなら、
> 彼を起こすのは非常に難しいと。

これは面白かった。(^_-)

> そして眠っているふりをするのは
> ありえることだ。
> 面白いのは、
> 眠っているふりができるということだ。
> そしてもし
> 眠っているふりをしているのなら、
> 目覚めさせるのは非常に難しい
> ことになる。

たしかに。(*^_^*)

> もしかしたら、
> たいへんな努力にもかかわらず
> 人々のが目覚めない本当の理由は、
> 実際は眠っていないのに、
> 眠っているふりをしているから
> かもしれない。

ということは……。(^_-)

> この人は眠っていない。
> ほとんど眠ってはいる。
> まるで眠っているようだ。
> だからこれは
> 当人自身の選択によるのだ。

かくて、

Oshoの話は

ミナミAアシュタール情報と

つながることになりました。

(*^_^*)


●ヒット・ポイント6:
 【自己同一化が生まれる構造】

> さてもしランプにも意識があったら、
> そのときは
> たとえ自分という光源には
> 気づかなくても、
> 当然、部屋の中のものには
> 必ず気づくことになるだろう。
> そこには壁やソファーや椅子、
> 絵画や貯金箱がある。
> ランプは1つのこと除けば、
> あらゆるものを見ることだろう。
> そのランプは自分自身という
> 光源は見ることができない。

目を開けた途端に

いろいろなものが見えてくる。

これは赤ん坊と同じ状態ですよね。

ただその見えているものすべてが、

見ている自分によって照らし出されている

ことには気づかないわけです。

そのうち見えている身体のひとつが

自分だとまわりから教わって、

それを受け容れていく。(;_;)

何しろすべてを照らし出している

自分という光源自体は

自分には見えないわけですから。


●ヒット・ポイント7:
 【欲望の誕生】

> もしランプが意識を持ったら、
> もしだしぬけに魂を持ったとしたら、
> どうなるか?
> ランプは部屋を見て、
> 照らし出されたものが見えるだろう。
> すると見ること自体で、
> 欲望が生まれるだろう。
> 
> もしある部屋に十枚の絵があったら、
> そしてそのランプに意識があったら、
> 最も気に入った絵が
> 欲しくなることだろう。
> あるいは、
> もしその絵を持つのが無理なら、
> 少なくとももっと近づきたい、
> さらに近づきたいと望むことだろう。
> ランプはいたるところに
> 対象物を見るだろうし、
> それ向かって動きはじめるだろう。
> 近づこうとしはじめるだろう。

ここはとても大雑把な話です。

でもイメージとしてはわかります。

まあ、わかっていて

しかも忘却の条件を受け入れて

その夢に入ってきた、

ということもありうるわけです。


●ヒット・ポイント8:
 【眠りの真の意味】

> 人間の意識のランプの光は
> 宇宙全体に向かっていく。
> つまり無限の欲望が生まれる。
> 達成したいという欲望、
> 到達したいという欲望、
> 成りたいという欲望だ。
> ただひとつだけが忘れられる。
> それは自然なことだが、
> 見ている者、
> 知っている者、
> 照らしている者が
> 忘れ去られるのだ。
> それこそが眠りの真の意味だ。

すべてを映し出しているのが

自分であることだけが忘れられる。

そしてベッドの中で

長い自分探しの旅に出る。


●ヒット・ポイント9:
 【自我(エゴ)=行為者の誕生】
 【眠りの成長】

> この意識の炎が物事を所有すること、
> 達成すること、
> 蓄積することに向かって動くとき、
> 自我(エゴ)が誕生する。
> 「私は多くのことを達成した」と。
> 行為者が誕生する。
> これが意味するのは、
> 意識が欲望を誕生させ、
> 欲望の実現が行為者を誕生させる
> ということだ。
> そしてあなたの眠りが成長しつづけ、
> 深まりつづけながら、
> 次々と層を重ねてゆくのだ。

実際は、

見られた世界も

その中の行為者という実体も

それらを照らし出している

自分という意識の存在を

指し示しているだけで、

見られた見かけの中には

どんな実体も存在していない。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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セイラー・ボブさんは、

理論的にはわかる、

理論的には理解している

という相手の反応に対して、

つねに理論的にもなにもない、

要は理解しているかいないかだけだ

と言っていました。

まったくです。

自分がフォーカスすることによって

出現させている対象物に対して

欲望が発動するのなら理解していない、

欲望が発動しなければ理解している、

というだけのことなのでしょう。

今日も暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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