home > 通信 >何が自分の目から見ているのか?:『アセンション館通信』第866号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2020/11/22(第866号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称する
ある夢の登場人物に浮上している夢の場面の報告です。

 車も人も道も建物もない、あるのはただスクリーンだけです。
 現象がどんな状態でも、それは何も得たり失ったりしません。
 そして同時に、気づきはまさにそれらすべての実質なのです。
 (『プレゼンス―第2巻』:ルパート・スパイラ)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在511名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.何が自分の目から見ているのか?

2.編集後記
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■ 1.何が自分の目から見ているのか?
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今日は雲ひとつない快晴。

遠くから草刈機の音がしています。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”にお付き合いいただく

今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

こうして夢の中を生きていると

毎日何かかにかが起こってきます。

時々ラマナマハリシや

ニサルガダッタ・マハラジ言う

「究極的には何も起こっていない」

という言葉を思い出します。

でも自分の世界では毎日

何かかにかが起こってくる。

これはその何かが起こるほうに、

意識の焦点を合わせているからでしょう。

クリシュナムルティは、

「世界は私だ」

と言ったそうですが、

それはそんな意味、

つまり

あなたが意識の焦点を合わせているのが

あなたの世界だ、

というような意味なんでしょうか?

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 もしあなたが興味を失えば
 いかなる記憶も持続はしない。
 束縛を永続させるのは
 感情的なつながりなのだ。
 あなたはつねに快楽を求め、
 苦痛を避けている。
 いつも幸福と平和を追い続けているのだ。
 あなたの幸福への探求自体が、
 あなたを惨めに感じさせているのが
 わからないだろうか?
 ほかの方法を試してみなさい。
 苦痛と快楽に無関心でありなさい。
 求めず、拒まず、
 永遠に存在する「私は在る」のレベルに、
 あなたのすべての注意を払いなさい。
 すぐにあなたは平和と幸福が
 あなたの本性そのものであることを
 悟るだろう。
 何か特定の経路を通して
 それを探しだそうとすることが
 あなたをかき乱すのだ。
 障害を避けなさい。
 ただそれだけだ。
 探す必要はないのだ。
 すでにもっているものを探すことはない。
 
 『私は在る』(p258)
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> 永遠に存在する「私は在る」のレベルに、
> あなたのすべての注意を払いなさい。

「私は在る」のレベルは永遠に存在する。

仏陀は「存在することは苦だ」

と言ったそうです。

これは自分が何かだと思うことが

苦しみの原因だということでしょうか。

自らの存在を知っている者には

「私は在る」のレベルは

永遠に存在するのでしょう。

また自らの存在を知らない者には

いかなる問題も起こりえない。

それが何であるにせよ、

いま現在わたしが存在していることは

まったく疑いありません。

意識の海が波立って

「私は在る」が立ち上がる以前には

<それ>は在っても、

<それ>は自分が在ることを

知らないでしょう。

<それ>が在ることを知った後に

その「知」の中に生じた

一瞬の想念であるわたしなどが、

心配するようなことでもなし、

そもそも心配するわたし自体が

まだ生じてもいないでしょう。(*^_^*)

となると、いったい

誰が何を気にしているのか?

何かを気にしている誰か、

何かを気にする分離した実体が、

現れの中に存在しないこと、

存在しえないことは、

もう十分に納得されました。

何かを気にする思考が

ただ起こっているだけです。

私たちが気にする現れの中には

どんな分離した実体も存在しません。

もしこの目の後ろから

見ているのをわたしと言うなら、

そして現象を

「見る者」と「見られるもの」に

分ける立場を取るのなら、

わたしに見られた対象物の中に

見る者が存在するはずもないからです。

また“インドラの網”のように、

すべての結び目の水滴がそれぞれに

全体すべてを映し出しているのなら、

波動が干渉し合うような

個々の点が全体を織り出して

いるのかもしれません。

現れの【見かけ】、

つまり今眼前に現れている世界が、

どんなふうに構成されるのかは、

わかりません。

でも自分が誰なのかとあえて言うなら、

少なくともこれくらいは言える。

その【見かけ】を「見ている者」。

その体験が起こっている者だと。

そんなことは

日常生活のほとんどの瞬間

意識していないかもしれません。

そのときは、

まさに誰もいないわけです。

でも、

あえて問う思考が浮上するとしたら、

そんな答え(思考)が後続する

のかもしれません。

ジョーン・トリフソンの

『つかめないもの』に
http://goo.gl/G3KleK

「何が自分の目から見ているのか?」

という章があります。

今回はそこを読みたくなりました。

ちょっとご紹介します

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 覚醒や悟りという言葉を耳にすると、
 私たちはよく、
 砂の上に惹かれた魔法の線を
 「私」が未来のいつかに
 飛び越えて覚者となり、
 あらゆる種類の完璧な
 (そしてもし可能であれば
  永久に心地よい)境地に
 永遠に定着できるのではないか
 といった想像します。
 それはおとぎ話であり、幻想です。
 そうそういう考え方から
 目を覚ますことこそが、覚醒です。
 
 『つかめないもの』(p50)
 http://goo.gl/G3KleK
──────────────────

一度悟りが起こってそれっきり……、

といったお話を

信じていたこともありました。

そういうこともあるかもしれません。

でも、めったにない。(*^_^*)

それどころか、

悟りが起こるような

個人が存在していたためしもない。

悟りというのは、

いわば海の表面に一瞬現れた

波の泡が弾けるようなものですから、

弾けた「泡」という「個人」が

存在していなかったのは自明です。

自分が分離していると思っていた、

その泡の誤解が解消したただけです。

悟った個人が存在していたのでは、

そこに悟りも起こらなかった、

ということになるだけでしょう。(^_-)

だから、

悟りなど気にすることもないわけです。

誰が気にする?

気にする思考が

全体の一部として湧いただけです。

> 砂の上に惹かれた魔法の線を
> 「私」が未来のいつかに
> 飛び越えて覚者となり、
> あらゆる種類の完璧な
> (そしてもし可能であれば
>  永久に心地よい)境地に
> 永遠に定着できるのではないか
> といった想像します。

そういった悟りのイメージは……、

> それはおとぎ話であり、幻想です。

とジョーン・トリフソンは言う。

まったく問題ないですよね。

> そうそういう考え方から
> 目を覚ますことこそが、覚醒です。

とても、はっきりしています。

誤解の余地なし。(^_-)
 
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 もっと言えば、覚醒も悟りも、
 ここ今に関することでしかありえません。
 これこそは
 どんな値段もつけられない宝石なのです。
 この宝石のことは
 考えることも想像することもできません。
 ただし、
 それはこの宝石が
 謎と神秘に包まれて
 手の届かない遠い場所にあるからではなく、
 あまりにも近くにあって、
 あまりにもすべてを包含し、
 そしてあまりにも平凡に見えるからです。
 気づきながら今あるということは
 目には見えませんが、
 あらゆるところに見えているのです!
 それは宇宙全体であり、
 宇宙全体が消えてしまったときに
 残っているものです。
 
 『つかめないもの』(p50)
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覚醒というのは、

どうにかなりたいという思いが、

湧かなくなることなのでしょうか?

あるいは、

たとえそんな思いが湧いても、

それでよし……とか。

それが全体の

その瞬間のここでの表現なのだから。

覚醒が何であれ、

ジョーン・トリフソンは、

いまこの瞬間があって、

自分が気づいているということ自体が、

まったく値段など付けられない

途方もない宝なのだという。

架空の心配がすべて消えたとき……。

架空の分離がすべて癒やされたとき。

そのような値段のつけられない

安心が広がるのかもしれません。

──────────────────
 思考は、
 それがいったい何なのかを
 つかもうとしていますか?
 自分には分からないという思考が
 起こっているでしょうか?
 
 目覚めるとは、
 思考意識のこの動きを見抜くことです。
 そして
 今ここで車の行き交う音と
 鳥のさえずりを聞きながら、
 呼吸しながら、
 この瞬間の色と形を見ながら、
 単に目覚めているということです。
 それは労力を必要としません。
 なぜなら、
 ここにいて気づきながら
 自分が今していることをするというのは、
 しないことが不可能だからです。
 ただし思考には、
 私たちは自分の経験とは別のもので、
 見慣れない世界で迷子になった断片で、
 今にも死にそうになりながら
 海に漂う船なのだと
 思い込ませる力があります。
 宝石を見かけ上で見落とす
 最も一般的なやり方が、
 それをどこか別の場所で探す
 という方法です。 
 
 『つかめないもの』(p51)
──────────────────

> 思考は、
> それがいったい何なのかを
> つかもうとしていますか?
> 自分には分からないという思考が
> 起こっているでしょうか?
> 
> 目覚めるとは、
> 思考意識のこの動きを見抜くことです。

思考の営みが、

そのまま理解され眺められている。

【目覚めるとは、
 思考意識のこの動きを見抜くことです】

思考は“自分”という

架空の分離主体の立場から、

【見かけ】の解釈を捻出するのが役割。

思考の対象を見るのではなく、

思考そのものの振る舞いを見ている。

ただその勤勉な働きぶりを

そのようなものとして

ただ理解し、認め、眺めている。

──────────────────
 仏教で、
 道でブッダに出会ったら殺せ
 と言われているのはそのためです。
 言い換えれば、
 究極のリアリティとは
 自分の外側にある何か、
 対象化できる何か、
 見つけたり失ったり
 することができる何か
 ──人物、出来事、経験、状態、
   記憶、観念、理解、信条──
 のことだと思い込んでいるなら、
 それを殺さなくてはなりません。
 目覚めなくてはならないのです。
 目覚めたとき、
 自分の外側には何もありません。
 あなたは
 何でもないままであると同時に、
 あらゆるものです。 
 
 『つかめないもの』(p51)
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> 究極のリアリティとは
> 自分の外側にある何か、
> 対象化できる何か、
> 見つけたり失ったり
> することができる何か
> ──人物、出来事、経験、状態、
>   記憶、観念、理解、信条──
> のことだと思い込んでいるなら、
> それを殺さなくてはなりません。

気がついたら

そういうのはもう

エネルギーの入ったものはでてこない。

習慣的な反応が起こるだけで。

> 目覚めなくてはならないのです。
> 目覚めたとき、
> 自分の外側には何もありません。

見えている対象物が

個々の分離した実体として関わり合い

ドラマを展開しているのではない。

今この瞬間に展開する【見かけ】のなかに、

映画フィルムのサウンドトラックのように

解釈のフキダシがついているだけ。

> あなたは
> 何でもないままであると同時に、
> あらゆるものです。 

「私は在る」

私は見ている。

ありがとうございました。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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ジョーン・トリフソンは

とっても好きです。

今日も暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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