home > 通信 >対象物だけが苦しむことができる:『アセンション館通信』第872号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/01/03(第872号)
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称する
ある夢の登場人物に浮上している夢の場面の報告です。

 非現象が私たちの本質であり、現象は意識の中で私たちが
 分離した対象物として見えるものである。
 (『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。現在508名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.対象物だけが苦しむことができる

2.編集後記
──────────────────

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■ 1.対象物だけが苦しむことができる
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あけましておめでとうございます。

今年の年末年始は

わたしの夢の中では快晴続きです。

北国生まれのわたしにとって

子供のころの元旦は

戸外の雪を反映した障子の明るさとともに

不思議な厳粛さの雰囲気の中で

始まったものでした。

あのころはそれがお正月なのだと

感じていたものです。

すべてはその瞬間にだけ現れる

一瞬の風景だったのですね。

(-_-)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”にお付き合いいただく

今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

子供のころは好奇心の塊でした。

挫折を体験した若者としては

一人前に不満と疑問の塊もやりました。

そしていま、

何がわかったというのでもありませんが、

疑問とか不平というのはなくなりました。

今は何も求めていません。

にもかかわらず、

相変わらずすべて良かれと

願ったりしていて矛盾していますが、

願うこともまた夢の中の風景です。(*^_^*)

願っている誰かが

存在するわけでもありませんから。

と言いながらも、

この顕現(分離幻想の見かけ)に

意識の焦点が合っているという意味では、

間違いなく夢を観ているわけです。

夢から覚めてはいない。

これはただそう起こっているだけです。

もちろん、

いつでも観念化は可能ですから

これは興味の問題なのかもしれない、

と思うこともできます。

寝ていて見る個人的夢なら

一日という短周期の睡眠リスムに従って

強制的に

別の集合的夢(日常世界)に

押し出されます。

それは自動過程とも言えるものでしょう。

その意味では、

個人的夢から集合的夢への移動は

強制的なのでしょう。

朝方の起き抜けの夢を憶えている人は、

この夢からの目覚めが

夢に登場していた“自分”の

主体的努力の成果だったとは

まさか思わないでしょうから。(*^_^*)

その夢の登場人物とは

まさにその夢の内容物であり、

その夢から覚めること、

(つまりそれが夢だったとわかること)

とは何の関係もないことが

自明のことと理解されているはずです。

しかし、

個人的夢の次に現れた

日常世界(=集合的夢)からの

目覚めについてはどうでしょう?

同じことが当然のこととして

理解されているでしょうか?

あたかもこの自分が

この夢から目覚めるかのように

理解されていないでしょうか?

しかもその目覚めに

この自分の主体的努力が関係してでも

いるかのように。(^_-)

この集合的夢の登場人物は

あたかも自分という人間が

自由意志を行使できる実体として存在する

と信じられているようです。

そしてそう思っているかぎりは、

自由意志を行使できる実体としての

自覚をもちつづけるでしょう。

つまり、

そのような登場人物への

意識の一体化が起こりつづけるしか

ないのではないでしょうか。

個人的夢に

朝方の起き抜けの夢があるように、

集合的夢の中にも

“探求者”というタイプの夢が

あるのかもしれません。

“探求者”とは

個人的夢の終わりの前兆とも言える

“起き抜けの夢”にも当たる物語の

メジャーパターンなのかもしれません。

そしてそれらの顕現すべての

可能根拠こそが「私」です。

「私」とは純粋な主体性のことです。

「私」はどんな属性ももてません。

そして夢の中の登場人物が苦しむのも

すべてその属性の故です。

ラメッシ・バルセカールが描く

『ニサルガダッタ・マハラジが
 指し示したもの』
https://amzn.to/2J4Pbtr

の終わりのほうに

【53 経験という苦しみ】

という章があります。

今回は主要な内容全体をご紹介します。

最後の年のマハラジは

肉体的苦しみの最終段階を

観照しています。

ある女性がそのマハラジに様子に

心を動かされて質問します。

ラメッシ・バルセカールは

その様子をこんなふうに叙述しています。

──────────────────
 その日の訪問者の一人であった女性が、
 マハラジの状態と
 彼がその苦痛に平然と耐えている
 様子に非常に感動しました。
 彼女は肉体的苦痛は死より
 もっと悪い場合もあり得ると考えていました。
 彼女はマハラジに
 こう言わずにはいられませんでした。
 「先生、
  私は死を恐れてはいませんが、
  肉体的苦痛に対してひどい恐れを抱いています。
  どうやってこの恐れを克服できるのか、
  どうか私に教えてください」
 
 マハラジは笑って言いました
 ──
 残念ながら、
 私はあなたを助けることはできないが、
 肉体的苦痛を避けたり、
 それを軽減したりする方法を
 知っている人たちは
 きっとたくさんいるにちがいない。
 私にできることはただ
 苦しみそれ自身が何で、
 誰が苦しむのかを
 あなたに説明することだけだ。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p283-284)
 https://amzn.to/2J4Pbtr
──────────────────

こうしてマハラジは

「苦しみ」と

「誰」がその「苦しみ」を苦しむのか

について説明しはじめます。

──────────────────
 あなたは常に
 問題の根底に行かなければならない。
 そもそも
 いつ苦しみの経験が始まったのだろうか?
 たとえば、
 あなたは百年前
 苦しみの経験を持っていただろうか?
 これらの質問への答えが、
 あなた自身の中からどんな言葉もなく
 わき起こってくるように、
 そのことを深く考えてみなさい。
 人生──生きることそのもの──は、
 経験すること、
 つまり、経過の中を瞬間瞬間に
 水平的に拡大されながら経験すること
 に他ならないのではないだろうか?
 
 そして、
 経験することとは何だろうか?
 それは外側の刺激に対する反応であり、
 それが経験として
 感覚を通じて解釈されている
 のではないだろうか?
 ──
 楽しい、受け入れられるとか、
 不快、受け入れられないとか。
 人は苦しみを経験するわけではない。
 ──
 楽しいものであれ不快なものであれ、
 人は経験を苦しむのだ。
 
 で、
 あなたが関心を持つべき根本的質問とは
 次のことである。
 経験を苦しむのは、
 誰
 (あるいは、もっとふさわしく言えば)
 何なのか?
 率直に言わせて欲しい。
 「私」は
 楽しいとか不快の経験を苦しむことはない
 (苦しむことはできない)。
 経験に苦しむのは、
 一人の「あなた」とか
 一人の「私」だけである。
 これは非常に重要な宣言であり、
 あなたはこれについて深く考えるべきだ。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p284-285)
──────────────────

> そもそも
> いつ苦しみの経験が始まったのだろうか?
> たとえば、
> あなたは百年前
> 苦しみの経験を持っていただろうか?
> これらの質問への答えが、
> あなた自身の中からどんな言葉もなく
> わき起こってくるように、
> そのことを深く考えてみなさい。

マハラジが説く「理解の道」とは

こういう方法なんですよね。

【これらの質問への答えが、
 あなた自身の中からどんな言葉もなく
 わき起こってくるように、
 そのことを深く考えて】みる。

これはもう、

通常の観念的思考よりは、

むしろ無思考のサーダナにも近い

黙想なのかもしれません。

> 人生──生きることそのもの──は、
> 経験すること、
> つまり、経過の中を瞬間瞬間に
> 水平的に拡大されながら経験すること
> に他ならないのではないだろうか?

われわれの人生というのは、

【経過の中を瞬間瞬間に

 水平的に拡大されながら経験すること】

だとマハラジは言うわけです。

なるほど。

そういうことだったのか。(-_-;)

> そして、
> 経験することとは何だろうか?
> それは外側の刺激に対する反応であり、
> それが経験として
> 感覚を通じて解釈されている
> のではないだろうか?

経験するとは、

外側の刺激対する反応である。

了解です。(-_-)

経験とは

外側の刺激が

感覚を通じて解釈されている過程である。

> ──
> 楽しい、受け入れられるとか、
> 不快、受け入れられないとか。

外側からはいってくる刺激は

感覚器官をつうじて

楽しい受け入れられる経験

として解釈されたり、

不快で受け入れられない経験

として解釈されたりする。

まさに……。

こう言ってから

マハラジは驚くべき断言をします。

> 人は苦しみを経験するわけではない。
> ──
> 楽しいものであれ不快なものであれ、
> 人は経験を苦しむのだ。

(@_@) ⌒★?

【人は経験を苦しむのだ】

これは顕現宇宙のすべてがゴミだとする

マハラジ的観念化が生まれる地平の表現ですね。

> で、
> あなたが関心を持つべき根本的質問とは
> 次のことである。
> 経験を苦しむのは、
> 誰
> (あるいは、もっとふさわしく言えば)
> 何なのか?

はい。(-_-)

> 率直に言わせて欲しい。
> 「私」は
> 楽しいとか不快の経験を苦しむことはない
> (苦しむことはできない)。

「私」、つまり真我、

純粋な主体性としての気づきは

経験を苦しむことはない。

真我は経験を苦しむことはできない。

(-||-)

> 経験に苦しむのは、
> 一人の「あなた」とか
> 一人の「私」だけである。

経験を苦しむのは

顕現という変化の中に自分がいると信じた

その観念だけなのだと。

> これは非常に重要な宣言であり、
> あなたはこれについて深く考えるべきだ。

この非常に重要な宣言が

すべての顕現を照らし出している

永遠の絶対不動である「私」の表現であることを

念頭に置きなさい。

──────────────────
 本当はあなたがこの問題を
 自分自身で解決することに任せるか、
 あるいは、
 問題それ自身が自ずと解決することに
 任せるべきなのだ!
 しかし、
 先へ進もう。
 「私」はどんな経験にも
 苦しむことができない。
 なぜなら、
 「私」は
 ほんのわずかな対象性の痕跡もない
 純粋な主体性であり、
 対象物だけが
 苦しむことができるからだ。
 一人の「自分」や
 一人の「あなた」は対象物であり、
 それゆえ、
 経験を苦しむことができる。
 また他のどんな対象物ととも同様に、
 一人の「自分」や
 一人の「あなた」は、
 何の実体ももつことができず、
 それゆえ、
 意識の中の観念としてのみ
 実存することができるだけである。
 さらに、
 苦しむことができるのは
 意識だけであることも
 決して忘れないようにしなさい。
 なぜなら、
 刺激に対する反応、
 つまり、経験することは
 意識を通じてのみ起こりうるからだ。
 実際それゆえ、
 意識と苦しみは同一であり、
 決して別のものではない。
 この非常に重要な点を
 よく考えてみなさい。
 
 私が言うことは理解しがたい
 とあなたが思うのは、
 あなたが自分自身を肉体、
 それを通じて経験が苦しまれる
 肉体精神器官、
 苦しまれた経験がその中に残される
 道具と一体化しているからだ。
 
 あなたは
 あなたの本質である「純粋な主体性」、
 絶対との一体感を失い、
 自分自身を
 対象的「自分」と間違って一体化し、
 それゆえ、
 「私は苦しむ」といい、
 そのためあなたは「束縛」されている。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p285)
──────────────────

> 本当はあなたがこの問題を
> 自分自身で解決することに任せるか、
> あるいは、
> 問題それ自身が自ずと解決することに
> 任せるべきなのだ!

わかります。

> しかし、
> 先へ進もう。

はい、お願いします。

> 「私」はどんな経験にも
> 苦しむことができない。
> なぜなら、
> 「私」は
> ほんのわずかな対象性の痕跡もない
> 純粋な主体性であり、
> 対象物だけが
> 苦しむことができるからだ。

純粋な主体性は苦しむことができない。

なぜなら、

純粋な主体性はどんな属性も

担いえないからだ。

いかに微細な属性であっても、

それを担った瞬間、

それは純粋な主体性ではなく、

一場の対象物になってしまう。

その属性という観念に一体化したものだけが

その瞬間という一場の状況の中で

自ら担ったその属性が指示する

何らかの対象物となるという苦しみを

担うことができるのだ。

埴谷雄高氏が言うところの

「自同律の不快」という観念が、

対象物だけが苦しむことができる

というこのマハラジの断言と

遠く響き合っているようです。

> 一人の「自分」や
> 一人の「あなた」は対象物であり、
> それゆえ、
> 経験を苦しむことができる。

あなたが何らかの属性を担った瞬間、

あなたは絶対の不動から滑落して

対象物となる。

そして経験を苦しむことができる。

> また他のどんな対象物とも同様に、
> 一人の「自分」や
> 一人の「あなた」は、
> 何の実体ももつことができず、
> それゆえ、
> 意識の中の観念としてのみ
> 実存することができるだけである。

つかの間の状況の中で

何らかの属性を担ったとたんに

あなたは対象物となり、

一片の変化の相となって

つかの間の表現を担うことになる。

そしてそうすることで

同時に永遠の絶対不動の実在から

切り離されたと想像する一片の観念となる。

いかなる実体も持ちえなくなり、

永遠の絶対不動である「私」に

照らし出されずには存在できなくなるのだ。

「気づき」の光に照らされて

はじめて現象できる対象物には

それ自体の実体は存在しない。

時空間という識別装置で認識される以外に

存在のしようがなくなるのだ。

対象物とは意識的観念にほかならない。

対象物とは意識の中の調度のこと、

意識的属性以外のどんな存在ももっていない。

> さらに、
> 苦しむことができるのは
> 意識だけであることも
> 決して忘れないようにしなさい。

意識の内容物には

意識内の識別属性を担うという役割以外の

どんなどんな実体もない。

苦しみは意識の識別属性なしには起こりえない。

苦しみとは意識の識別属性を担うことだ。

苦しみとは意識的観念なのだ。

> なぜなら、
> 刺激に対する反応、
> つまり、経験することは
> 意識を通じてのみ起こりうるからだ。
> 実際それゆえ、
> 意識と苦しみは同一であり、
> 決して別のものではない。
> この非常に重要な点を
> よく考えてみなさい。

経験するとは刺激に反応することだ。

意識することなしに

刺激に反応することは起こりえない。

また刺激に反応することなしに

意識することは起こりえない。

つまり、経験することは

意識内の属性を担った対象物間の

関係性としてしか起こりえない。

意識するとは経験することであり、

経験するとは

属性を担った対象物間の関係性を

意識するということだ。

経験する、意識する、苦しむ。

これは別の観念で表現された同じ過程だ。

> 私が言うことは理解しがたい
> とあなたが思うのは、
> あなたが自分自身を肉体、
> それを通じて経験が苦しまれる
> 肉体精神器官、
> 苦しまれた経験がその中に残される
> 道具と一体化しているからだ。

このような私の断定が

あなたにとって理解しがたいことだろう。

だがそれは、

あなたがその経験が起こるための道具、

その経験が蓄積するための道具、

経験が苦しまれるための

肉体精神器官と一体化しているからなのだ。

自分自身がその道具だと

信じ込んでしまったために……。

> あなたは
> あなたの本質である「純粋な主体性」、
> 絶対との一体感を失い、
> 自分自身を
> 対象的「自分」と間違って一体化し、
> それゆえ、
> 「私は苦しむ」といい、
> そのためあなたは「束縛」されている。

だがあなたはその道具ではない。

その道具を介して演じられる

意識のドラマを映し出している

「純粋な主体性」こそがあなたの本質だ。

あなたなしには

この意識の経験がありえないのは確かだ。

だがあなたがその道具なのではない。

あなたはただ自分が創造した

意識のドラマの中で

あまりにも夢中になってしまって、

自分が誰かを忘れてしまっているだけだ。

そして見かけの対象物を自分と誤解し

それに一体化して「私は苦しむ」と言い、

かくして自ら「束縛」されている。

──────────────────
 あなたは私が言い続けてきたことを
 理解しただろうか?
 私は自分の本当のアイデンティティを
 永遠、無限、主体性として気づいている
 ──
 それゆえ、
 私は苦しまないし、
 苦しむことができない。
 私は、
 感覚器官を通じて経験を見かけ上苦しむのは
 意識であることに気づいている。
 その一方あなたは
 自分がその感覚器官であると信じている。
 だから、
 あなたの苦しみと束縛は
 あなたのこの間違った一体化が原因なのだ。
 
 意識が機能していて、
 感覚器官を働かせ続けている限り、
 生きること、
 (肯定的であれ否定的であれ)経験すること、
 苦しむことも
 またあり続ける。
 しかし、
 「私」としてのあなたは 
 すべてを観照するだけだ。
 すべての機能は
 私の主体的本質の対象的表現であり、
 だから、
 感覚あるあらゆる生き物は
 次のように言うことができる。
 私の本質は
 どんな経験も苦しむことはできず、
 ただ対象的一人の「あなた」、
 一人の「自分」だけが
 経験を苦しむことができる、と。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p285-286)
──────────────────

> あなたは私が言い続けてきたことを
> 理解しただろうか?

私の言葉を理解しただろうか?

> 私は自分の本当のアイデンティティを
> 永遠、無限、主体性として気づいている
> ──
> それゆえ、
> 私は苦しまないし、
> 苦しむことができない。

私は自分が何かを知っている。

私は永遠不動の無限の気づきだ。

私は純粋な絶対の主体性だ。

意識の見かけの調度でもなければ、

対象物間の経験ドラマの道具でもない。

経験は起こる、

苦しみは起こるが、

私は苦しまない。

私は属性を担わない。

私は属性を担えないのだ。

意識のドラマを照らし出しているのが

私だからだ。

> 私は、
> 感覚器官を通じて経験を見かけ上苦しむのは
> 意識であることに気づいている。

肉体という感覚器官を使って

見かけの現象世界で苦しんでいるのが

意識の中の対象物であることを

私は知っているからだ。

> その一方あなたは
> 自分がその感覚器官であると信じている。
> だから、
> あなたの苦しみと束縛は
> あなたのこの間違った一体化が原因なのだ。

ところがあなたは、

自分自身がその感覚器官だと信じている。

あなたが苦しみ、

そして苦しみに束縛されているのは

その誤った一体化のためだ。

> 意識が機能していて、
> 感覚器官を働かせ続けている限り、
> 生きること、
> (肯定的であれ否定的であれ)経験すること、
> 苦しむことも
> またあり続ける。

意識活動を起動する道具の

感覚器官が働き続けているかぎり、

生きること、

経験すること、

苦しむことは起こりつづける。

> しかし、
> 「私」としてのあなたは 
> すべてを観照するだけだ。

だが、

それらの意識活動を

可能にしているあなた、

「純粋な主体性」であるあなたは、

すべてを照らし出しているだけだ。

> すべての機能は
> 私の主体的本質の対象的表現であり、

すべての見かけの現象世界は、

非顕現である「私」という

絶対の主体的本質の対象的表現だ。

> だから、
> 感覚あるあらゆる生き物は
> 次のように言うことができる。
> 私の本質は
> どんな経験も苦しむことはできず、
> ただ対象的一人の「あなた」、
> 一人の「自分」だけが
> 経験を苦しむことができる、と。

これはあらゆる感覚ある生き物に

通じて言えることだ。

どんな生き物もこう言ってかまわない。

私の本質はけっして

経験を苦しまない。

経験を苦しむことはできない。

なぜなら、

対象物である一人の「自分」にしか、

苦しむことはできないから、と。

ありがとうございました。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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覚者の表現は一人ひとり

とても異なります。

どんな覚者も観念以外のことを

語り得ないのも確かです。

わたしはマハラジの表現が好きですが、

誰もが好きなわけでもないことも

理解しています。(*^_^*)

もう暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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