home > 通信 >「生きた夢としての人生」と「意志」:『アセンション館通信』第873号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/01/10(第873号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称する
ある夢の登場人物に浮上している夢の場面の報告です。

 非現象が私たちの本質であり、現象は意識の中で私たちが
 分離した対象物として見えるものである。
 (『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。現在508名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.「生きた夢としての人生」と「意志」

2.編集後記
──────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.「生きた夢としての人生」と「意志」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今日もいい天気。

夢の中で恵まれている。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”にお付き合いいただく

今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

人間は何かにつけて

追求したり心配したりしがちなわけですが、

これが実際に起こっていることとは

かけ離れた身分不相応な妄想だった

ということなんでしょうね。

われわれが心配するのは

自分が心配すること、

その判断・選択・決断・行動などが

現象世界の自分に関係する状況を

都合の良い方向に変化させることに

影響を及ぼしうると考えるからですよね。

そう思っていなければ

心配などするわけもないですから。

心配や追求が妥当なのは、

心配する当人が実際に存在していて、

心配したり追求・努力したりすることで

状況に望ましい変化をもたらすことができる、

場合にかぎるわけです。

もし心配すること自体が、

自分の選択でもなんでもなくて、

ただ現象世界の一部として機能するための

道具としての役割にすぎないとわかったら、

なんか虚しくなって、道具の判断として

サボタージュに入るかもしれない。(*^_^*)

とはいえ、こういう理解は、

それを求めている人(観念)にしか

近づいては来ないものです。

求めていない人(意識波動)にとっては、

もともとチンプンカンプンな理解ですから。

そもそもそんな人(意識波動)が

こんな理解(意識波動)にぶつかるはずもないし。

どちらか正しいとか賢いという話でもなく、

大宇宙という一大意識波動の中の

視点の位置(あるいは俯瞰性)の相違に

すぎないわけでしょう。

そんなことと感じさせてくれる

ラメッシ・バルセカールの筆になる

マハラジの言葉を

またご紹介したいと思います。

『ニサルガダッタ・マハラジが
 指し示したもの』
https://amzn.to/2J4Pbtr

の最後に「付録」というのが付いています。

──────────────────
 付録
  1 教えの核心…………………322
  2 意識についての覚書………345
  3 全真実………………………357
──────────────────

これがまたメチャクチャすばらしい。(-||-)

今回はその「1 教えの核心」の中の

「生きた夢としての人生」

の項の全文と、それに続く

「霊的修行:意志」

の項の一部をご紹介します。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────

 生きた夢としての人生


 いったんこのことが明確に認識されたなら、
 「自分の人生を生きる」
 という私たちの考えは
 冗談であることも認識せざるをえません。
 なぜなら、
 自分の人生を生きるという考えは、
 私たちがやることはすべて
 自分の意志による行為だ、
 という間違った信念に基づいているからです。
 自分の意志を行使する
 どんな実体もいないことを、
 私たちがただ直感的に認識したとき、
 誰がこの意志を行使できる
 というのでしょうか?
 「生きること」それ自体は
 無数の肉体的形態を通じて
 意識が機能することに他ならないのですが、
 それが個人的人生と
 間違って考えられているのです。

 マハラジはまた次のように説明します
 ──
 この根本的直感的認識が、
 人生は生きた夢にすぎない
 という理解を助ける。
 この段階で明らかになるべきことは、
 人が何を見ようが、
 聞こうが、味わおうが、嗅ごうが、
 それは感覚的に認識されるということ、
 そして、実際は
 この認識は意識の中の知覚にすぎぎない、
 ということである
 ──
 実にそれを認識した
 感覚をもつその実体自身が、
 この実体を一個の対象物として認識する(!)
 他人の中の単なる見かけにすぎない、
 ということだ。
 それゆえ、
 お互いの意識の中で
 実体として間違って認識されている対象物は
 自立した実体ではなく、
 実際に起こっていることは、
 認識者それ自体がいるわけではなく、
 ただ観念的空間の中と
 観念的時間の経過の中を
 動き回る観念的対象物を、
 認識することがあるだけだ。
 これらすべては
 私たちが眠っているときに経験する 
 夢の面であることが、
 明確ではないだろうか?
 夢を見ている人が目覚めるとき、
 夢を見ることが終わり、
 目覚めた人は
 夢の中の他の「実体」について
 もう心配しない。
 同様に、
 生きた夢の中でも、
 目覚めた人
 (感覚にとって認識可能なものは、
  自分がそれであると思っている
  「実体」も含めて、
  意識の中の単なる見かけ以外の
  何者でもありえないと理解した人)
 は、生きた夢の中の
 他の登場人物のことをもはや心配しない。
 目覚めた人は、
 自分は無条件の絶対的主体性であり、
 その上に意識のざわめきが
 この生きた夢を
 自然発生的に何の意味も理由もなく
 開始することを理解している。
 そして、
 その人はその夢を
 自分に割り当てられた
 寿命の終わりまで生き抜き、
 そのとき意識は再び自然発生的に
 絶対的主体性と融合する。

 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p334-335)
 https://amzn.to/2J4Pbtr
──────────────────

まずここでラメッシ・バルセカールは

> 「生きること」それ自体は
> 無数の肉体的形態を通じて
> 意識が機能することに他ならない

ということ、そして。

> それが個人的人生と
> 間違って考えられている

ということを再確認してから、

その事態をマハラジ自身の言葉によって

次のように説明しています。

> 人が何を見ようが、
> 聞こうが、味わおうが、嗅ごうが、
> それは感覚的に認識されるということ、
> そして、実際は
> この認識は意識の中の知覚にすぎぎない、
> ということである

われわれが「自分」と呼んでいるのは

【感覚的に認識される】もの、

つまり

【意識の中の知覚】への反応だということ。

> 実にそれを認識した
> 感覚をもつその実体自身が、
> この実体を一個の対象物として認識する(!)
> 他人の中の単なる見かけにすぎない、
> ということだ。

そしてその

【意識の中の知覚】に反応している当人自体も

いわゆる他人と想定された対象物

(つまり【意識の中の知覚】)の観点からの

対象物(【意識の中の知覚】)にすぎない

ということです。

再び言うなら、現象はすべて

【意識の中の知覚】として起こっている。

そして知覚された対象物が

それぞれ実体として想像され、

その仮想された実体間の関係というドラマが

起こっていると想像されているにすぎない。

すべては【意識の中の知覚】パターンの乱舞、

ざわめきにすぎないわけです。。

> 実際に起こっていることは、
> 認識者それ自体がいるわけではなく、
> ただ観念的空間の中と
> 観念的時間の経過の中を
> 動き回る観念的対象物を、
> 認識することがあるだけだ。

その【意識の中の知覚】のドラマは、

それら個々の知覚の対象物の中に

それぞれ認識者がいるという想像を前提に

展開されています。

だが実際は、

その【意識の中の知覚】作用は、

けっして知覚の対象物にはなりえない

絶対の主体性の中で起こっているだけであり、

知覚の対象物の中に知覚主体がいるわけではない。

【意識の中の知覚】作用のパターン変化を

観念的空間と観念的時間の中に展開して

それらの観念的対象物の間に

ドラマを想像しているにすぎない。

> これらすべては
> 私たちが眠っているときに経験する 
> 夢の面であることが、
> 明確ではないだろうか?

これはわれわれの個人的な夢の中で

起こっていることと基本的には同じことだ。

> 夢を見ている人が目覚めるとき、
> 夢を見ることが終わり、
> 目覚めた人は
> 夢の中の他の「実体」について
> もう心配しない。

朝起きて目覚め間際の夢を憶えている人は、

その醒めた夢の中での

自分や他人の行く末を心配しない。

> 同様に、
> 生きた夢の中でも、
> 目覚めた人
> (感覚にとって認識可能なものは、
>  自分がそれであると思っている
>  「実体」も含めて、
>  意識の中の単なる見かけ以外の
>  何者でもありえないと理解した人)
> は、生きた夢の中の
> 他の登場人物のことをもはや心配しない。

それと同じく、

この生きた夢から覚めた人(絶対の主体性)も、

【意識の中の知覚】の対象物が

仮想されていた観念的ドラマの中で

どのような成り行きをたどるのかを

心配したりはしない。

(それは見るのを止めた途端に消える

 ただの夢の中の知覚の対象物、

 つかの間の観念にすぎないのだから。)

> 目覚めた人は、
> 自分は無条件の絶対的主体性であり、
> その上に意識のざわめきが
> この生きた夢を
> 自然発生的に何の意味も理由もなく
> 開始することを理解している。

すべては

【意識の中の知覚】の対象物間に想像された

一場の架空のドラマだったと理解した者は

自分が絶対的主体性だと自覚し、

この生きた夢がどんな展開をしようとも、

それは自然に起こる何の意味も理由もない

ただの夢だと知っている。

> そして、
> その人はその夢を
> 自分に割り当てられた
> 寿命の終わりまで生き抜き、
> そのとき意識は再び自然発生的に
> 絶対的主体性と融合する。

今の肉体の寿命の終わるまで、

その夢を生き抜き、

その寿命が終わるとき再び自然に

絶対的主体性へと融合するだけ。

──────────────────

 霊的修行:意志


 マハラジの言うことにここまでついて来ると、
 たいていの訪問者の反応は驚くほど同じです。
 「あなたが言ったことはとても奥深いですし、
  私はそれを知的に理解したと思います。
  しかし、
  それを実際に経験するために
  人がするべきことは
  まさに何なのでしょうか?」
 マハラジはときには
 自分の落胆を隠すときもありますし、
 またこの質問に
 かっとなって怒るときもあります。
 しかしたいていは、
 その質問に対して次のような
 対抗する質問をして答えます
 ──
 自分が何かをしなければいけないと考える
 この「人」とは誰なのか?
 そして、
 何を達成するというのか?
 いったん実体は単に間違った
 観念にすぎず、
 肉体は他の現象と同様に、
 意識の中の経験にすぎず、
 意志を行使する人は
 誰もいないことが理解されたら、
 誰かが何かをする
 という問題がどこにあるのか?
 理解──直感的認識がすべてである。
 この直感的認識に
 全面的に完全に浸透されることが、
 解放にとって必要な
 すべての「行動」である。
 そして、
 自立した意志をもつ
 独立した実体という間違った観念が
 完全に消滅しなければ、
 どれほどの「行動」も
 それを達成することはできないだろう。
 「私」は
 「自分」の消滅なしに、
 現れることはできない。
 「自分」が消えるとき、
 あなたは私である。

 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p335)
──────────────────

> 「あなたが言ったことはとても奥深いですし、
>  私はそれを知的に理解したと思います。
>  しかし、
>  それを実際に経験するために
>  人がするべきことは
>  まさに何なのでしょうか?」

(こう言われたときのマハラジの感じが

 なんとなくわかるような。)

> 自分が何かをしなければいけないと考える
> この「人」とは誰なのか?
> そして、
> 何を達成するというのか?

そのような問自体が

あなたの肉体という対象物の場で起こっている

自動的反応過程だということが

わからないだろうか?

それを絶対の主体性であるあなたが

知覚しているのだということが。

その自動的反応過程が起こる場に、

何かをしなければいけない実体が

存在するのだろうか?

その想像の産物にすぎない仮想の実体が

何を達成するというのか?

> いったん実体は単に間違った
> 観念にすぎず、
> 肉体は他の現象と同様に、
> 意識の中の経験にすぎず、
> 意志を行使する人は
> 誰もいないことが理解されたら、
> 誰かが何かをする
> という問題がどこにあるのか?
> 理解──直感的認識がすべてである。

すべては【意識の中の知覚】作用であり、

知覚された対象物の中に

意志を行使する人など

誰もいないことが理解されたのなら、

それ以上に

誰かが何かをするなどという

問題がどこにあるのか?

理解が起こったかどうか、

それがすべてなのだ。

> この直感的認識に
> 全面的に完全に浸透されることが、
> 解放にとって必要な
> すべての「行動」である。

もし解放に何らかの「行動」が

必要なのだとしたら、

見かけの対象物の中に

いかなる認識主体も存在しえない

という直感的認識が起こること、

そしてその直感的認識に

全面的に完全に浸透されることだけだ。

> そして、
> 自立した意志をもつ
> 独立した実体という間違った観念が
> 完全に消滅しなければ、
> どれほどの「行動」も
> それを達成することはできないだろう。

あなたが自分を探求者だと信じ、

道を求めてどれほど熱心に「行動」しても

そのあなたに達成は起こらないだろう。

> 「私」は
> 「自分」の消滅なしに、
> 現れることはできない。

その探求者のあなたが消えないかぎり

絶対の主体性である「私」は

現れることができないのだから。

> 「自分」が消えるとき、
> あなたは私である。

探求者のあなたが溶解するとき、

あなたは「私」だ。

──────────────────
 マハラジが言うように、
 もし矢が的に当たったなら、
 もはやどんな質問も
 ありえないことでしょう。
 しかし、
 この事実の直接的直感的認識
 ──矢の飛行──は、
 知的思考による観念化の介入によって
 困難になります。
 知的理解は原因と結果にもとづき、
 それは一時的二元論の一つの面であり、
 観念化はそれにもとづいています。
 その一方、
  直感的理解──直接的理解──は
  原因と結果が一つである永遠です。
 次のような質問へと導くのは知的理解です
 ──
 「もし意志を行使する
  自立的実体が何もいないなら、
  どうやって非意志的生き方は
  達成できるのか?」
 とか、
 「どうやって人はこの世の中で生き、
  行動することになるのだろうか」
 など。

 そういった質問が尋ねられるとき、
 マハラジの通常の答えは
 「あなたが私の言っていることを
  本当に理解しているかぎり、
  あなたが何をするかは問題ではない。
  別の言い方をするなら、
  あなたが私の言っていることを
  理解していないとしても(!)
  同様にあなたが何をするかは問題ではない!」
 というものでした。
 明らかに、
 そのポイントとは、
 もし注意深く分析するなら、
 私たちの過去のすべての経験は、
 私たちが考えているように
 私たちによって生きられているのではなく、
 事実は
 人の夢の中にいるすべての登場人物のように、
 私たちのために生きられているということ、
 そしてそれゆえ、
 私たちの人生で意志というものは
 重要な要因ではないことを示している、
 ということです。
 少し考えれば、
 私たちの肉体的ないし有機的機能の
 ごくごくわずかな部分しか、
 自分たちの意志に依存していないことが
 明らかになることでしょう。
 マハラジは尋ねます
 ──
 あなたはどれくらいの間、
 睡眠、食べ物、水なしで
 生きることができるだろうか?
 どれくらいの間、排泄作用なく
 やっていくことができるだろうか?
 あなたは次の五分間さえ生き残るための
 絶対的意志をもっているのだろうか?
 あなたは自分が妊娠されたとき、
 自分の意志を行使したのだろうか?
 そして、
 妊娠された物質が
 母親の子宮の中で成長するときも、
 意志を行使したのだろうか?

 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p336-337)
──────────────────

> しかし、
> この事実の直接的直感的認識
> ──矢の飛行──は、
> 知的思考による観念化の介入によって
> 困難になります。

探求者としての

われわれの努力のすべては、

この事実の直接的直感的認識を

観念化の煙幕で妨害することです。

(何しろエゴの命がかかっている。(^_-) )

> 知的理解は原因と結果にもとづき、
> それは一時的二元論の一つの面であり、
> 観念化はそれにもとづいています。

エゴはなんとしても

話を水平方向に展開して、

マインドを巻き込みたい。

> その一方、
>  直感的理解──直接的理解──は
>  原因と結果が一つである永遠です。

一方、直接的理解は

どこにも盥回ししようのない

永遠のユニシティの輝きです。

> 次のような質問へと導くのは知的理解です
> ──
> 「もし意志を行使する
>  自立的実体が何もいないなら、
>  どうやって非意志的生き方は
>  達成できるのか?」
> とか、
> 「どうやって人はこの世の中で生き、
>  行動することになるのだろうか」
> など。

このような問を向けられたときの

マハラジの解答がすばらしいです。

> 「あなたが私の言っていることを
>  本当に理解しているかぎり、
>  あなたが何をするかは問題ではない。
>  別の言い方をするなら、
>  あなたが私の言っていることを
>  理解していないとしても(!)
>  同様にあなたが何をするかは問題ではない!」

(@_@) ⌒★?

夢の登場人物であるあなたが

夢の中で何をするかなど、

その夢の中(あるいは夢の外)で

問題にする者が誰かいるだろうか?

> 明らかに、
> そのポイントとは、
> もし注意深く分析するなら、
> 私たちの過去のすべての経験は、
> 私たちが考えているように
> 私たちによって生きられているのではなく、
> 事実は
> 人の夢の中にいるすべての登場人物のように、
> 私たちのために生きられているということ、
> そしてそれゆえ、
> 私たちの人生で意志というものは
> 重要な要因ではないことを示している、
> ということです。

その夢は仮想された夢の中の

登場人物たちが創造しているのではなく、

その登場人物たちのために創造されている。

夢の中の登場人物が

どのような自由意志幻想を抱えていようと、

実際はその意志は重要な要素ではない。

> 少し考えれば、
> 私たちの肉体的ないし有機的機能の
> ごくごくわずかな部分しか、
> 自分たちの意志に依存していないことが
> 明らかになることでしょう。

私たちがどれほどの自由意志をもっているか、

マハラジは見事に浮き彫りにしてくれます。

> マハラジは尋ねます
> ──
> あなたはどれくらいの間、
> 睡眠、食べ物、水なしで
> 生きることができるだろうか?

【睡眠、食べ物、水なしで】……

さて、十日間もつだろうか?(-_-;)

いや、それは難しいのでは。

> どれくらいの間、排泄作用なく
> やっていくことができるだろうか?

膀胱が一日もつだろうか?

いや、それは難しいかも。

> あなたは次の五分間さえ生き残るための
> 絶対的意志をもっているのだろうか?

五分間、自然の命令に逆らって

息をせずに生きられる意志力をもっているか?

ふ。

> あなたは自分が妊娠されたとき、
> 自分の意志を行使したのだろうか?

ミナミAアシュタールからの

うわさ話を信じる以外の

どんな根拠があるというのか?

> そして、
> 妊娠された物質が
> 母親の子宮の中で成長するときも、
> 意志を行使したのだろうか?

ははは。(*^_^*)

これ以上、

どんな意志について主張したいというのか?

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/

   ………○…………○…………○………


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http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

   ………○…………○…………○………

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■ 2.編集後記:
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自分の心配というのが

どれほどの妥当性があるものなのか、

確認するには良い話でした。(^_-)

このように尋ねてくださったマハラジと

それをこのようなリアリティで伝えてくださった

ラメッシ・バルセカールに感謝です。(-||-)

もう暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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