home > 通信 >夢を見ている「私」:『アセンション館通信』第878号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/02/14(第878号)
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称する
ある夢の登場人物に浮上している夢の場面の報告です。

 非現象が私たちの本質であり、現象は意識の中で私たちが
 分離した対象物として見えるものである。
 (『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。現在508名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.夢を見ている「私」

2.編集後記
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■ 1.夢を見ている「私」
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今日も温かな晴天です。

今日も庭の南側に造ったフェンスの

仕上げをしています。

土日はお遊び日。

仕事はせずにただ遊んでいます。

夢の中でとても恵まれている。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”にお付き合いいただく

今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

このメルマガを書いているpariは

明らかに知覚の対象物です。

今目の前にあるのはPCモニターですが、

これはもちろん知覚の対象物です。

そのモニターの中で

画面色を青に設定した秀丸エディターの中に

いま文字が浮かび上がってきています。

その文字はもちろん知覚の対象物です。

その文字を打ち出すために

今目の前にあるキーボードのキーに

いま不器用な左右両手の指が触っている。

この指とそれにつながる両手・両腕、

これももちろん知覚の対象物。

その両手の指に打つ文字を指定している

思考が湧いているわけですが、

その湧いてくる想念は

知覚されて初めて確認されるわけなので、

言うまでもなく知覚の対象物。

その想念が湧いてくる構造自体は

pariという現象の中では確認されていません。

でも知覚の対象物として確認される現象の

その属性を決定するプロセスの

一部であることは間違いない。

知覚の対象物を生成する過程の構成要素です。

まあpariというのは

いま目の前に顕現している見かけの

指定・生成に関わる部品・道具でしょうか。

知覚の対象物に含まれる現象です。

もし二元論的な言い方を守るなら、

この知覚の対象物に含まれる現象の中には

夢を見ている当人はいないことになる。

知覚の対象物は時空間に展開されなければ

知覚のしようがないわけなので、

認識される森羅万象の生成過程に関わる

あらゆる機能的要素はすべて、

広い意味では知覚の対象物です。

知覚の対象物というのは

地上での従来の科学的イメージで言うなら

物質です……モノです……。

無生命の部品という言い方もできる。

この無生命の偶然の産物である

物質から意識が起こったという話は、

いまとなっては

あまりにも珍奇な作り話としか思えません。

この知覚の対象物であるpariという

肉体精神構造体が意識を

所有しているわけではない。

意識がこのpariという肉体精神構造体を

その一部としてもっている……。

あるいは意識の現象的側面の一部分として

pariも現れている……。

では何がこれを見ているのか?

「私」がこれを見ているわけです。

あるいは意識がこれを見ている。

そして意識がこれを演じている。

意識の現象的側面を表す意識の内容と、

意識の非現象的側面を表す観照者……。

しかし……。

何を言おうと……、

すべては単なる観念なんですね。

だんだん

現象と非現象という二元論が

無意味になってくるのが感じられます。

pariという道具(or 分身)に

同一化すれば、

それなりの風景が展開する。

それをやめれば

ただ何の意味もない【見かけ】があるだけ。

ラメッシ・バルセカールが

写し取った文章の中で

マハラジはこんな言い方をしています。

──────────────────
 全宇宙は意識の中の見かけである。
 もしあなたが意識していなければ、
 世界はあなたにとっては存在しない。
 というのは、
 あなたは何も意識できないからだ。
 この意識
 (その中で人は現象宇宙を認識する)は、
 私であるすべてである。
 私たちが現象宇宙にいるかぎり、
 このことを認識できるだけだ。
 私たちが現象の夢から目覚めるまで、
 自分の本質であることはできない。
 だから、
 夢自体を理解し、
 観念化と対象化を止めなさい。
 根本的に重要なことは次のことである
 ──
 非現象が実体であり、
 現象は単なる反映であるが、
 それらは異なっていない。

 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p169)
 https://amzn.to/2J4Pbtr
──────────────────

> 全宇宙は意識の中の見かけである。
> もしあなたが意識していなければ、
> 世界はあなたにとっては存在しない。

もしわたしが意識していなければ

わたしにとって世界は存在しない。

> というのは、
> あなたは何も意識できないからだ。

まったくです。

> この意識
> (その中で人は現象宇宙を認識する)は、
> 私であるすべてである。

「私」というのはこの意識のことだ。

> 私たちが現象宇宙にいるかぎり、
> このことを認識できるだけだ。

「私」とは意識だ、と。

> 私たちが現象の夢から目覚めるまで、
> 自分の本質であることはできない。

意識以前の自然な状態は、

わたしが現象という夢から

目覚めないかぎり実現しない。

> だから、
> 夢自体を理解し、
> 観念化と対象化を止めなさい。

だから

現象という夢を見ているのだということを

理解しなさい。

そしてその夢の中で

夢の登場人物として考えるのをやめなさい。

あなたは夢を見ている。

だが夢を見ているあなただけが実在なのだ。

> 根本的に重要なことは次のことである
> ──
> 非現象が実体であり、
> 現象は単なる反映であるが、
> それらは異なっていない。

そして

夢を見ているあなたしか

実在していないがゆえに、

あなたが見ている夢は

すべてあなたの創造物なのだ。

──────────────────
 次に理解するべき点はこのことである。
 現象世界の中で、
 「あなた」が「彼」を見るとき、
 両方が意識の中の見かけとして
 お互いによって見られる対象物である。
 しかし、
 他者を対象物として見る
 どんな主体もいないことを
 本当に理解しなさい。
 ただ見ることだけがあり、
 それは非現象の潜在可能性の
 ある面として機能している。
 これは他のあらゆる感覚にも
 当てはまることはことだ──
 聞くこと、触ること、味わうことなど。
 すべては本質的に「機能」なのだ。

 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p169)
──────────────────

> 次に理解するべき点はこのことである。
> 現象世界の中で、
> 「あなた」が「彼」を見るとき、
> 両方が意識の中の見かけとして
> お互いによって見られる対象物である。

現象世界という

あなたが創造している夢の中では、

“あなた”は“他者”という対象物を見る。

そしてそのとき、

“あなた”は“他者”から見られる

対象物としてその夢の中に現れている。

だが、

夢の登場人物としてのあなたは

“自分”が見る“他者”が

対象物であることは明瞭に意識できても、

その“自分”も

“他者”が見る対象物であることは

それほど明瞭に意識できない。

そして

“他者”が見る対象物である“自分”は

対象物を見る主体であるかのように、

意識されてしまう。

かくて夢を見ている「私」は、

夢の中の“自分”という仮想の実体に

一体化する。

ここからすべての苦しみが始まる。

> しかし、
> 他者を対象物として見る
> どんな主体もいないことを
> 本当に理解しなさい。

だが、

夢を見ているのは

非現象である「私」だ。

夢の登場人物としての“自分”は

あくまでも夢の中の

“他者”が見る対象物であって、

けっして主体ではない。

夢の登場人物の“自分”は

いかなる意味でも主体ではない。

夢を見ているのは「私」だ。

> ただ見ることだけがあり、
> それは非現象の潜在可能性の
> ある面として機能している。

実際はただ見ることが起こっている。

意識が夢モードに入り、

放心して現象が始まるとき、

そこに顕現と非顕現という

役割上の機能分裂が起こるだけだ。

> これは他のあらゆる感覚にも
> 当てはまることはことだ──
> 聞くこと、触ること、味わうことなど。
> すべては本質的に「機能」なのだ。

他の感覚機能すべてについて

この役割上の機能分裂が起こる。

──────────────────
 何が起こっているかと言えば、
 肉体精神形態の機能的核
 (分析のために
  私たちがそれを「個人的意識」と
  呼ぶこともできるだろうが、
  意識それ自体は分割することはできない)
 が、
 分離した実体としての偽主体を
 授与されているということだ。
 とはいえ、それ自身は
 唯一の主体としての非現象を背景にもつ
 対象物にすぎない。
 このようにして、
 生まれて、生きて、
 知ることになっている偽実体が創造されるのだ。
 この偽実体は選択し、 
 決定する独立した権威をもっていると
 また想定されている。
 そして、
 この想定された独立した権威はまた、
 現象世界の機能の中で起こる
 すべてに責任があると想定されている。
 その結果、
 この世界の苦しみ、
 予想される罪と功徳、
 その結果の「束縛」と「解放」の
 必要性が起こるのだ。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p170)
──────────────────

> 何が起こっているかと言えば、
> 肉体精神形態の機能的核
> (分析のために
>  私たちがそれを「個人的意識」と
>  呼ぶこともできるだろうが、
>  意識それ自体は分割することはできない)
> が、
> 分離した実体としての偽主体を
> 授与されているということだ。

ミナミAアシュタール的な表現で言う

絶対無限の存在の探求を託された分身。

> とはいえ、それ自身は
> 唯一の主体としての非現象を背景にもつ
> 対象物にすぎない。

ミナミAアシュタール風に言うなら、

絶対無限の存在が見ている夢の中の登場人物。

> このようにして、
> 生まれて、生きて、
> 知ることになっている偽実体が創造されるのだ。

こうして

意識の放心状態の中で夢見が起こり、

その夢の中で

“自分”と“他者”という

偽実体が創造される。

> この偽実体は選択し、 
> 決定する独立した権威をもっていると
> また想定されている。

その夢の中で

自由意志という幻想が起こる。

> そして、
> この想定された独立した権威はまた、
> 現象世界の機能の中で起こる
> すべてに責任があると想定されている。
> その結果、
> この世界の苦しみ、
> 予想される罪と功徳、
> その結果の「束縛」と「解放」の
> 必要性が起こるのだ。

偽実体に託された

自由意志という幻想のもとに

この世界でのあらゆる苦しみ、

犯される罪と成し遂げられる功徳、

などといったあらゆる幻想が起こる。

そしてお決まりの探求が起こり、

「束縛」と「解放」の必要性が起こる。

──────────────────
 今、
 その立場が明確になっただろうか?
 私たちの本質が
 相対性の中で自分自身を自分でないもの、
 偽実体と間違って一体化しているのだ。
 「束縛」はこの一体化から起こる。
 罪悪感と束縛に苦しみ、
 それゆえ、
 解放を求めるのはこの偽実体である。
 私は絶対に苦しむことはできない。
 なぜなら、
 「私」は
 感覚が経験されるようなどんな道具も
 備えていないからだ。
 楽しいものであれそうでないものであれ、
 どんな経験も
 「自分」と呼ばれている、
 間違って一体化された
 幻影的対象物によってのみ
 経験されることが可能である。
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p170)
 https://amzn.to/2J4Pbtr
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> 私たちの本質が
> 相対性の中で自分自身を自分でないもの、
> 偽実体と間違って一体化しているのだ。

夢を見ている「私(あなた)」が、

自ら創造する夢の中の登場人物を

“自分”だと思いこむことで、

夢の中の知覚対象物が

虚構の主体性を獲得する。

> 「束縛」はこの一体化から起こる。
> 罪悪感と束縛に苦しみ、
> それゆえ、
> 解放を求めるのはこの偽実体である。

「私(あなた)」が見るこの夢の中で

捏造される虚構の主体性(偽実体)が

その虚構の立場から編みだす

罪悪感と束縛に苦しみ、

虚構の主体性(偽実体)が

解放を求めて探求を始める。

> 私は絶対に苦しむことはできない。
> なぜなら、
> 「私」は
> 感覚が経験されるようなどんな道具も
> 備えていないからだ。

「私(あなた)」自身は

絶対に苦しむことはできない。

なぜなら、

「私(あなた)」は

感覚を体験できるどんな装置にも

先立って存在しており

いかなる汚れとも無縁だからだ。

> 楽しいものであれ
> そうでないものであれ、
> どんな経験も
> 「自分」と呼ばれている、
> 間違って一体化された
> 幻影的対象物によってのみ
> 経験されることが可能である。

それがどんな経験であれ、

それは「私(あなた)」が見ている

夢の中に現れる諸々の装置を

前提とした構造の中でしか

体験することはできず、

「私(あなた)」は

その夢を可能にすることはできるが、

その夢の中で生きることは

できないからだ。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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「私」が夢を見ていることは

間違いない。

しかし、私自身は

その夢の中で生きることはできない。

言い換えれば、

その夢の中で生きているのは

夢の中の登場人物である偽実体で、

夢を見ている「私」ではない。

(-||-)

もう暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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