home > 通信 >個人は自立性をもたない:『アセンション館通信』第880号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/02/28(第880号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。現在509名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.個人は自立性をもたない

2.編集後記
──────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.個人は自立性をもたない
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今日は比較的温かい日ですね。

夢の中でとても恵まれている。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”にお付き合いいただく

今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

ラメッシ・バルセカールが書いた

『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』
https://amzn.to/2J4Pbtr

を読んでいます。

まだこの本を【直感的に理解して】

いない!(@_@) ⌒★?

という感じが起こったのです。

そうしたら急に元気が湧いてきました。

きっとまだマインドで

できることがあるからでしょうね。(^_-)

【できることがある】

という表現はとても語弊があります。

現象の中に何かができるような

分離した実体は存在しないわけですから。

でも、その

【現象の中に何かができるような

 分離した実体は存在しない】

ということ自体の理解も

まだまだ“直感的理解”に至っていない

という感触があったのです。

ならば、

それが完全に直感的理解に至るまで、

その知的理解の筋道を

何度も何度も繰り返し繰り返し、

辿ってみてもいいじゃないですか。

以前『私は在る』を

写経したような気持ちで、

また、

『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』

の全文を余さず写経しようと思います。

これはじつに奇跡的な本ですね。

この本を隅から隅まで

ボロボロになるまで読んだとしても、

夢からの目覚め、

エゴの最終的消滅、

マイケル・ラングフォードが言う

『MANONASA』は起こらないかもしれません。

でも、

──────────────────
 普通の人は個人的利害に関心を持ち、
 危険とチャンスを計算している。
 一方、
 ジニャーニは超然として、
 すべては起こるべくして起こると確信している。
 そして何が起こるかは、
 さして重要なことではないのだ。
 なぜなら、
 最終的に均衡と調和が戻ってくることは
 不可避だからだ。
 ものごとの核心には平和があるのだ。

 『私は在る』(p547)
 https://amzn.to/3pEbJE8
──────────────────

ということがマハラジにとって

明らかであるなら、

まあ、

『MANONASA』が起こるか起こらないかも

波動世界全体の平和のために決まることです。

その微小部分を構成する“道具”、

小さな小さな波動部分が心配するような

ことでもない。(*^_^*)

> そして何が起こるかは、
> さして重要なことではないのだ。

というわけですから。(^_-)

と前置きをしておいて、

今回はラメッシ・バルセカールの

『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』

から、最後の

【付録1 教えの核心】

という部分の写経から始めます。

──────────────────

 付録1 教えの核心


 ニサルガダッタ・マハラジの教えの核心は
 人の本質についての知識です。
 まさにこの知識こそ
 あらゆるものをそのまわりで動かす
 重要なポイントです。
 それが不可欠な真理です。
 そして、
 この真理の直感的認識は、
 マハラジが言うところによれば、
 「うわさ」にすぎない宗教的経典を
 勉強することによってではなく、
 強烈な個人的経験からのみ起こることです。

 マハラジは明確な事実の基盤の上に
 自分の立場を置き、
 すべての仮定や想定を完全に捨て去り、
 新しい訪問者に次のような言葉で
 話しかけることがよくあります。

 「あなたはそこに座っていて、
  私はここに座っていて、
  そして、外側の世界がある。
  そして創造者
  ──それを神と呼んでおこう──
  があるに違いないと、
  さしあたって仮定できるかもしれない。
  これらの三つないし四つの項目は
  事実または経験であって、
  『うわさ』ではない。
  私たちの会話は
  これらの項目だけに限定しよう」
 この基本的態度は
 「うわさ」といっしょに、
 自動的に伝統的聖典も排除することになり、
 それゆえ、
 マハラジの話には新鮮さと自由の
 清々しい感覚があります。
 彼の言葉は、
 他の誰かの言葉や経験の
 支持を必要としません。
 他人の言葉や経験は結局のところ、
 伝統的聖典が言うことを
 語るだけだからです。
 こういったアプローチは、
 自分の知識を
 他の訪問者に印象づけたいと思い、
 同時に自分自身の
 高度に進化した状態を
 まわりに認めてもらいたいと
 思ってやってくる「学識ある」人々から、
 彼らの知識を完全に取り上げます。
 同時に、
 それはゼロから始めることを好む
 純粋な探求者を非常に励まします。

 こういったアプローチにもとづくと、
 訪問者たちはたいてい
 それほど多くの質問がないことに
 気づきます。
 なぜなら、
 その人が予定していた質問のすべてが、
 たいてい「うわさ」にもとづいている
 と分かるからです。
 たいていマハラジはそういった訪問者を
 次のような問いを促すことで助けます
 ──
 それがなければ、
 人が何も認識できないし、
 何もおこなうことができないものとは
 何なのか?
 それがなければ、
 あなたがどんな質問をすることも、
 私が答えることもできないものとは
 何なのか?
 もしあなたと私が意識していないとすれば、
 私たちは
 この会話をすることができるだろうか?
 「意識」とは何か?
 それは、
 存在しているという感覚、
 生きているという感覚ではないだろうか?
 意識している存在のこの感覚は、
 何らかの個人が存在していることを
 実際言っているわけではない。
 それは意識している存在の感覚
 それ自体のことだ。
 この意識がなければ、
 たとえば、
 死に際して意識が肉体を離れるとき、
 肉体はすでに捨て去られる
 ──埋葬されるか、火葬される──
 なぜなら、
 そうしなければ、
 腐敗した肉体がすぐに
 死臭を放ち始めるからだ。
 それでは、
 意識がそこにあったときには、
 天才と思われたかもしれないような
 個人はどこにいるのだろうか?
 彼は「死んだ」と言われるのだ。

 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p322-323)
 https://amzn.to/2J4Pbtr
──────────────────

> 「あなたはそこに座っていて、
>  私はここに座っていて、
>  そして、外側の世界がある。
>  そして創造者
>  ──それを神と呼んでおこう──
>  があるに違いないと、
>  さしあたって仮定できるかもしれない。
>  これらの三つないし四つの項目は
>  事実または経験であって、
>  『うわさ』ではない。
>  私たちの会話は
>  これらの項目だけに限定しよう」

文明の利器はありがたいですね。

縁があればこうしてこんなに簡単に

このような場面に同席できるのです。

そのマハラジは直ちに

私たちに問いかけてくれます。

> それがなければ、
> 人が何も認識できないし、
> 何もおこなうことができないものとは
> 何なのか?
> それがなければ、
> あなたがどんな質問をすることも、
> 私が答えることもできないものとは
> 何なのか?

これは現状からの脱出を求めるわれわれに、

いったい誰がそれを求めているのか、

その拠って立つ基盤そのものに

注目させようとする問いですよね。

> もしあなたと私が意識していないとすれば、
> 私たちは
> この会話をすることができるだろうか?

いや、

それはありえないです。

意識があるからこそ

そこからの脱出を求める状態もあるわけで。

> 「意識」とは何か?
> それは、
> 存在しているという感覚、
> 生きているという感覚ではないだろうか?

こういうことだったわけです。

「意識」とは

存在しているという感覚、

生きているという感覚のことだと。

この感覚ゆえに

いろいろな想念が起こっていた。

で、マハラジが言うには、

この【存在感】自体は

必ずしも

個々人の存在を裏づけている

わけではないというのです。

> 意識している存在のこの感覚は、
> 何らかの個人が存在していることを
> 実際言っているわけではない。
> それは意識している存在の感覚
> それ自体のことだ。

意識している存在の感覚自体は

意識している存在がある

ということを裏づけているだけだと。

ただしこの意識がなければ

形をもって現れている肉体だけでは

それは死物にすぎないと。

──────────────────

 意識──すべての顕現の基盤


 マハラジは訪問者たちに、
 自分が話をするのはこの意識、
 ないし「私はあるという性質」に
 関してだけだと言います。
 それ以外の
 どんなことに関するどんな探求も
 役に立たないことでしょう。
 なぜなら、
 他のどんなことも存在可能である以前に、
 この意識がそこに
 存在しなければならないからです。
 彼は
 「もし私が意識していなければ
  (熟睡中のように)
  世界は存在しない。
  私が意識しているときだけ、
  世界は私のために存在する」
 と言います。
 「それゆえ、
  探求者のすべての探求は
  この意識に
  関係していなければならない」
 とマハラジは主張します
 ──
 それはどうやって起こったのか?
 その源泉とは何か?
 何がそれを維持しているのか?
 その性質とは何か?
 これらの質問への答えが
 本当の知識へと導くのです。
 意識がなければ現象的実存はありえず、
 それゆえ、
 個人が自分の人生の中で
 思いつくことができる最高の神が、
 意識なのです。
 とはいえ、
 人はそれにどんな名前を
 与えることもできるでしょう──
 クリシュナ、イーシュワラ、
 シヴァ、キリストなどなど。
 意識が肉体を離れるとき、
 どんな個人もどんな世界も、
 どんな神も存在しません。

 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p324)
──────────────────

マハラジの話題の焦点は

確実に絞られてゆきます。

> 「もし私が意識していなければ
>  (熟睡中のように)
>  世界は存在しない。
>  私が意識しているときだけ、
>  世界は私のために存在する」

意識していなければ世界は存在しない。

> 「それゆえ、
>  探求者のすべての探求は
>  この意識に
>  関係していなければならない」

ここでマハラジの話題の焦点は

ピタリと「意識」に合わさりました。

> それはどうやって起こったのか?
> その源泉とは何か?
> 何がそれを維持しているのか?
> その性質とは何か?

これを確実に知ることが

本当の知識に導くのだと。

──────────────────
 「物理的肉体と意識の関係が
  非常に明確に
  認識されなければならない」
 とマハラジは言います。
 意識は、
 その現象的形態が昆虫の肉体であれ、
 うじ虫の肉体であれ、
 動物の肉体であれ、
 人間の肉体であれ、
 一つの肉体の中に
 それ自身を現象化したときだけ
 自分自身に気づくことができます。

 肉体がない非現象の状態では、
 意識は自分自身に
 気づくことができません。
 意識がなければ、
 肉体は単なる死んだ物質にすぎません。
 「それゆえ、
  肉体は意識を支える食料であり、
  意識がそれを通じて機能する道具である。
  事実、
  甘さが砂糖の味のように、
  意識は物理的肉体の『本質』『特質』、
  ないし『味』である」
 とマハラジは言います。

 私たちが肉体と意識の間にある
 この密接な関係を理解したあと、
 マハラジは私たちに
 この肉体−意識の源泉を
 発見するように求めます。
 「それはどのようにしてやってきたのか?」
 人間の体の源泉は、
 男子の精子が女性の子宮の中で
 卵子と受精したものであり、
 妊娠が起こるとき、
 意識はその中に隠れています。
 母親の子宮で育ち、
 やがて赤ん坊として出産され、
 それから幼児へと成長し、
 そして、
 そのあとずっと寿命の間、
 生き続けるのは、
 これ
 ──意識がその中に隠れている
 受精した男性の精子──です。
 何がこの自然の成長の
 背後の力でしょうか?
 それは男性の精子に隠れている
 意識に他ならず、
 男性の精子それ自身が
 両親によって消費された
 食物のエキスです。
 マハラジは
 「そのとき、
  意識は(砂糖の甘さのように)
  物理的肉体のまさに本質であり、
  その物理的肉体は
  5大元素がその本質である
  食料からでき、
  それによって維持されていることが
  明確であるべきだ」
 と言います。
 この自然発生的な自然のプロセスの中で、
 個人それ自体は
 何の重要性もも持っていないのです。
 個人的肉体は食料でできていて、
 意識は普遍的で
 すべてに行き渡っています。
 どうして個人が、
 分離した実存や束縛や
 自分自身の解放を
 主張することができるでしょうか?

 特定の両親の子孫として
 自分が「誕生」することについて、
 相談された個人がいるのでしょうか?
 「自分」とか、
 「自分のもの」は
 誕生のあと初めて生じるものです。
 明らかに誕生は
 両親にも子供にも選択がない
 自然のプロセスの結果です。
 マハラジは
 「言い換えるなら、
  肉体付き意識は現象的単位であり、
  それは5大元素
  (空間、空気、火、水、土)と
  三つの属性
  (サットヴァ、ラジャス、タマス)から
  自然に創造されたものである」
 と指摘します。
 この単位は寿命の間成長し、
 それから「死に」ます。
 つまり、
 再び五大元素に帰り、
 肉体によって制限されていた意識は
 非個人的意識の中へ解放されます。

 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p325-326)
──────────────────

> 「物理的肉体と意識の関係が
>  非常に明確に
>  認識されなければならない」
> とマハラジは言います。

われわれが通常

自分だと思っているこの【身体】と

【意識】の関係を

非常に明確に認識する必要がある。

なるほど。

うーむ……唸るなぁ。

> 意識は、
> その現象的形態が昆虫の肉体であれ、
> うじ虫の肉体であれ、
> 動物の肉体であれ、
> 人間の肉体であれ、
> 一つの肉体の中に
> それ自身を現象化したときだけ
> 自分自身に気づくことができます。

意識は自らを

何らかの生き物の身体として

現象化したときにだけ

意識である自分に気づくことができる。

> 肉体がない非現象の状態では、
> 意識は自分自身に
> 気づくことができません。

そして生き物の身体をもたない状態、

非現象の状態では

意識は自分に気づけない。

> 「それゆえ、
>  肉体は意識を支える食料であり、
>  意識がそれを通じて機能する道具である。
>  事実、
>  甘さが砂糖の味のように、
>  意識は物理的肉体の『本質』『特質』、
>  ないし『味』である」
> とマハラジは言います。

だから、

生き物の身体は意識の食料である。

とマハラジは言うわけです。

別の言い方をすると、

生き物の身体は

意識が機能するための道具であると。

意識は物理的肉体の

『本質』『特質』『味』とも言えると。

この「生き物の身体」と

「意識」の関係を理解したら、

この「肉体−意識」が

どのように始まるのか、

> 「それはどのようにしてやってきたのか?」

を理解するようにマハラジは言うわけです。

こうしたマハラジの話には

いわゆるスピリチュアルな噂話は

いっさい出てきません。

おとぎ話を聞かされる子供ならともかく、

思春期以降の人間なら、

誰もが知っている常識しか語られません。

人間の身体は元はと言えば、

> 人間の体の源泉は、
> 男子の精子が女性の子宮の中で
> 卵子と受精したものであり、
> 妊娠が起こるとき、
> 意識はその中に隠れています。

われわれの身体の源泉が

それ以外のものだと

主張できる人はいないでしょう。

われわれが“気づいている”のなら、

「意識」はまさに、

卵子が受精した精子の中にある。

> 母親の子宮で育ち、
> やがて赤ん坊として出産され、
> それから幼児へと成長し、
> そして、
> そのあとずっと寿命の間、
> 生き続けるのは、
> これ
> ──意識がその中に隠れている
> 受精した男性の精子──です。

こうして悩みまで抱えて

生きているわれわれの身体の源泉は

女性の卵子が受精した男性の精子だと。

では何がこの自然な過程を

牛耳っているのかと言えば……。

> 何がこの自然の成長の
> 背後の力でしょうか?
> それは男性の精子に隠れている
> 意識に他ならず、

それは「精子に隠れている意識」に

他ならないと言うのです。

聞いた「うわさ」をいっさい排除すれば、

事態はここまで簡単になる。

そしてまた、

> 男性の精子それ自身が
> 両親によって消費された
> 食物のエキスです。

その意識の担い手とされた

「男性の精子」それ自体もまた、

その両親が摂取し消費した

食物のエキスに他ならないと。

> マハラジは
> 「そのとき、
>  意識は(砂糖の甘さのように)
>  物理的肉体のまさに本質であり、
>  その物理的肉体は
>  5大元素がその本質である
>  食料からでき、
>  それによって維持されていることが
>  明確であるべきだ」
> と言います。

ここで、

意識という本質を支えている

物理的肉体が食料からできており、

食糧によって維持されていることを

明確に認識しておきなさい、

とマハラジは言うわけです。

> この自然発生的な自然のプロセスの中で、
> 個人それ自体は
> 何の重要性も持っていないのです。

ここまでに描写された

意識という本質を支える

自然発生的な自然のプロセスの中には

特に個人などというものが

力を発揮した痕跡はどこにもない。

> 個人的肉体は食料でできていて、
> 意識は普遍的で
> すべてに行き渡っています。

現象すべてに行き渡っているのは

意識であって、

われわれが主張する

個人的実体というのは、

食料で構成された属性にすぎない。

> どうして個人が、
> 分離した実存や束縛や
> 自分自身の解放を
> 主張することができるでしょうか?

われわれは何をもって

“分離した実体”を主張し、

その束縛や解放を主張しよう

というのか?(*^_^*)

> 特定の両親の子孫として
> 自分が「誕生」することについて、
> 相談された個人がいるのでしょうか?

あなたは相談されましたか?

(*-_-*)

ミナミAアシュタールには

また別の知見もあるかもしれませんが、

ただこのわたしにとっては

それは聞いた「噂話」にすぎません。

> 「自分」とか、
> 「自分のもの」は
> 誕生の後初めて生じるものです。

わたしにとっては明白です。

> 明らかに誕生は
> 両親にも子供にも選択がない
> 自然のプロセスの結果です。

わたしは反論しません。

> マハラジは
> 「言い換えるなら、
>  肉体付き意識は現象的単位であり、
>  それは5大元素
>  (空間、空気、火、水、土)と
>  三つの属性
>  (サットヴァ、ラジャス、タマス)から
>  自然に創造されたものである」
> と指摘します。

【肉体付き意識は現象的単位】。

そのような分離した実体が

存在するわけではない。

> この単位は寿命の間成長し、
> それから「死に」ます。
> つまり、
> 再び五大元素に帰り、
> 肉体によって制限されていた意識は
> 非個人的意識の中へ解放されます。

そして

その生き物の身体が崩壊したら、

その身体に制限されていた意識も

非個人的意識の中へ解放される。

疑問の余地はありません。

──────────────────
 マハラジは尋ねます。
 「では、
  現象単位の創造と破壊の
  この自然のプロセスの中で、
  一人の『あなた』という問題は
  どこにあるのだろうか?」
 「あなた」がそうであるとされている
 現象単位の創造に、
 あなたは一度も
 加担したことはなかったのです。
 自分の両親によってあなたが「生まれ」、
 そして、
 その特定の肉体が「あなた」だと、
 あなたは教えられました。
 生まれたのは
 意識によって活性化されている現象単位、
 肉体精神器官なのです。
 もし意識がそこになければ、
 肉体−器官は役に立たないだけでなく、
 できるだけ早く処分されなければなりません。 
 「それでは、
  あなたは誰なのか?
  肉体付きの意識が
  存在するようになる前の
  あなたは何だったのか?
  百年前(!)、
  あなたは何だったのか?」
 とマハラジは尋ねます。

 この段階で自然にわき起こる質問とは、
 「そのとき誰が肉体として
  この世の中で行動するのか?」
 というものです。
 その答えは、
 マハラジによれば、
 現象においては意識がすべてである、
 ということです。
 無数の肉体を通じて
 行為するのは意識であり、
 それぞれの肉体は
 その構造の生まれつきの性質に従います。
 無数の肉体精神器官がありますが、
 二つとして
 あらゆる点でまったく同じものはありません。
 なぜなら、
 それぞれの形態は
 5大元素プラス三つの属性の
 独自の組み合わせを持っているからです。
 それぞれの要素は
 それ自身の特徴を持ち、
 それぞれの属性も同様です。
 これらの八つの面のそれぞれがもちうる
 無数の微妙な違いと変化、
 そしてその結果、
 影響を受ける可能性のある
 無限の順列と組み合わせ(!)を
 想像してみてください。
 意識は物理的肉体を通じて行為し、
 それぞれの肉体は
 それ独自の気質と性格をもち、
 その一部は肉体的構成にもとづき、
 一部はそれが受け取る
 条件づけにもとづいています。
 もしこのことが明確に認識されたなら、
 どんな個人も
 独立して行為する自立性をもっていないことも
 完全に明確になるべきです。
 しかし、
 個人はその無知ゆえに
 行為しているのは自分であると信じるのです。
 マハラジは
 「起こった行為を人は受け取り、
  架空の束縛に自分自身を縛り、
  そして、
  苦痛と喜びに苦しむ。
  こうやって『束縛』が起こるのだ」
 と言います。

 マハラジは、
 私たちが次の一点について
 明確になることを望みます。
 「人は自分自身を
  すべての他の創造から分離した
  特別な存在だと見なす。
  しかし、
  肉体的構成の材料に関するかぎり、
  様々な種類の感覚がある生き物の間に
  何の違いもない。
  ただ創造のプロセスが異なるだけだ」

 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p326-328)
──────────────────

> マハラジは尋ねます。
> 「では、
>  現象単位の創造と破壊の
>  この自然のプロセスの中で、
>  一人の『あなた』という問題は
>  どこにあるのだろうか?」

恥ずかし。(*-_-*)

> 「あなた」がそうであるとされている
> 現象単位の創造に、
> あなたは一度も
> 加担したことはなかったのです。

まさに。

もってもいない資格を詐称しているか、

責められてもいない

責任を勝手に抱えているか。

自惚れ屋なのか、

単なるバカなのか。(*^_^*)

> 自分の両親によってあなたが「生まれ」、
> そして、
> その特定の肉体が「あなた」だと、
> あなたは教えられました。

たしかに。

> 生まれたのは
> 意識によって活性化されている現象単位、
> 肉体精神器官なのです。

現象単位としての身体は

たしかに生まれたかもしれない。

でも「私」は生まれていない。

> 「それでは、
>  あなたは誰なのか?
>  肉体付きの意識が
>  存在するようになる前の
>  あなたは何だったのか?
>  百年前(!)、
>  あなたは何だったのか?」
> とマハラジは尋ねます。

百年前「私」は何だったのか?

> この段階で自然にわき起こる質問とは、
> 「そのとき誰が肉体として
>  この世の中で行動するのか?」
> というものです。

おお。(@_@)

たしかに。

「私とは何か?」

そして、

このやたらに心配性な方は誰?(?_?)

> その答えは、
> マハラジによれば、
> 現象においては意識がすべてである、
> ということです。

もう、一声!

> 無数の肉体を通じて
> 行為するのは意識であり、

おお……。

> それぞれの肉体は
> その構造の生まれつきの性質に従います。

わかった。

> 無数の肉体精神器官がありますが、
> 二つとしてあらゆる点で
> まったく同じものはありません。

わかります。

> なぜなら、
> それぞれの形態は
> 5大元素プラス三つの属性の
> 独自の組み合わせを持っているからです。
> それぞれの要素は
> それ自身の特徴を持ち、
> それぞれの属性も同様です。
> これらの八つの面のそれぞれがもちうる
> 無数の微妙な違いと変化、
> そしてその結果、
> 影響を受ける可能性のある
> 無限の順列と組み合わせ(!)を
> 想像してみてください。

pariの身体は

無限分の一の可能性。

> 意識は物理的肉体を通じて行為し、
> それぞれの肉体は
> それ独自の気質と性格をもち、
> その一部は肉体的構成にもとづき、
> 一部はそれが受け取る
> 条件づけにもとづいています。

氏と育ち。

> もしこのことが明確に認識されたなら、
> どんな個人も
> 独立して行為する自立性をもっていない
> ことも完全に明確になるべきです。

独立して行為する

自立性をもっていないことを

了解します。

> しかし、
> 個人はその無知ゆえに
> 行為しているのは自分であると信じるのです。

はい。

> マハラジは
> 「起こった行為を人は受け取り、
>  架空の束縛に自分自身を縛り、
>  そして、
>  苦痛と喜びに苦しむ。
>  こうやって『束縛』が起こるのだ」
> と言います。

(*-_-*)

架空の束縛に自分自身を縛り、

苦痛と喜びに苦しむ。

(-||-)

> マハラジは、
> 私たちが次の一点について
> 明確になることを望みます。
> 「人は自分自身を
>  すべての他の創造から分離した
>  特別な存在だと見なす。
>  しかし、
>  肉体的構成の材料に関するかぎり、
>  様々な種類の感覚がある生き物の間に
>  何の違いもない。
>  ただ創造のプロセスが異なるだけだ」

肉体的構成の材料に関するかぎり、

pariとニケ(我が家の猫)のあいだに

何の違いもない。

ただ創造のプロセスが異なるだけ。

了解です。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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すべてここに置いてあります。
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   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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こうして写経していると、

明らかなことは明らかになります。

もう暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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