home > 通信 >pariへの一体化の礼儀:『アセンション館通信』第881号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/03/07(第881号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。現在509名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.pariへの一体化の礼儀

2.編集後記
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■ 1.pariへの一体化の礼儀
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今日は朝霧が晴れてからは薄曇り。

相対的にとても恵まれた状況を夢見ている。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpari

への一体化が綻びはじめています。

朝、眠りから目覚めると、

見ていた夢の最後の一片を思い出すことがある。

その夢から目覚めてしまうと

その夢の世界が存在しないことは明らかだ。

夢を見ていた自分は存在している。

夢を見ていた自分は、

その夢に支えられて存在していたわけではなく、

自分がその夢を見ていたこと、

自分がその夢を存在させていたことは自明だ。

夢を見ていたときも、

夢から目覚めた今も、

存在しているのは自分のほうで、

夢の世界のほうではなかった。

私が夢を見ていたとき、

その夢の世界の中にも“自分”がいた。

その夢の中の登場人物としての“自分”は、

その夢から覚めることはできない。

私が夢から目覚めたとき、

その夢と一緒に雲散霧消している。

夢の中の登場人物であるその“自分”は、

夢を見ている私の観念的創造物だった。

私がその象徴的絵画での想像をやめると、

その瞬間に登場人物の“自分”は雲散霧消する。

もともとその登場人物の“自分”は、

私が見ている夢の中にしか存在しなかった。

夢から目覚めた私は、

夢の中の登場人物の“自分”が

実際は存在していなかったことを知っている。

でも夢から目覚めたわたし、

このいつもの日常の世界に入ってきたわたしは、

もちろん実体として存在していると思っている。

そのわたしは、

この日常世界の中で種々の属性を抱えている。

わたしは

この身体の形態やその機能として知覚認識され、

様々な履歴や人間関係という属性で定義される。

つまりわたしは

感覚的知覚と観念的定義の記憶による

物語的属性の集合体だと言える。

知覚されて存在する日常の現象世界の中で、

物語的属性を抱えて動き回る

このわたしという肉体精神機構は

「個人」という“主体的存在”と見なされている。

しかし実際は、

わたしという肉体精神機構は、

この日常の現象世界の中で

(他者という)別の「個人」の知覚対象物となる

【見かけ】の中での現象単位にすぎない。

この日常の世界の中のわたしが

知覚作用と思考作用の対象物であることは明らかだ。

ということは、

わたしは自分が他者にとっての

対象物であることを受け容れながら、

同時に自分は主体だと主張していることになる。

どうやら(他者という)別の「個人」も

同じ状況であることは明らかなようだ。

知覚の対象物は主体ではありえない。

わたしという「個人」が主体ではありえないように、

他者という「個人」も主体ではありえない。

どちらも単なる【見かけ】の中の現象単位にすぎない。

この人間喜劇(悲劇)を見ているのは

わたしや他人という

この日常世界の中の「個人」たちではない。

この日常世界というドラマそのものが一つの夢なのだ。

そしてその夢を見ている者は別にいる。

この夢を見ている者こそが「私」だ。

だがその「私」はいかなる定義を負うこともできない。

「私」は感覚的知覚や観念的想像の対象にはなりえない。

「私」は現象を感覚的に知覚する側、

現象を観念的に創造する側だからだ。

「私」は感覚的知覚や観念的想像の絶対的主体だ。

とはいえ、

現象を感覚的に知覚する実体が、

その現象とは別に存在するというわけではない。

現象を観念的に想像する実体が、

その現象とは別に存在するわけではない。

それは意識が現象として表現されるときの

機能的側面であるにすぎない。

表現としての現象(知られるもの)と

その表現対象を知る者が

別に存在するわけではない。

道具としての表現を使役して搾取する

搾取者という絶対的主体が

存在するわけではない。

それは<意識>が形象として現れるときの

機能的分岐の側面であるだけだ。

そして<意識>が休むとき、

<意識>は自らの存在を知らない

純粋な「気づき」に還る。

ラメッシ・バルセカールが書いた

『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』
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の中に以前にも引用したことのある

【49 「あなた」の消滅】

という章がある。

この章の中でマハラジは

「人生の束縛から解放されたい」

と願う質問者の問に

次のように答えている。

──────────────────
  あなた方は霊性の幼稚園児ではない。
  あなたは自分がまるで
  現象的対象物であるかのように考え
  話すのを止めなければならないと、
  私は言い続けている。
  私はあなた方に、
  あなたは現象的対象物ではなく、
  意識そのもの、
  感覚ある存在に感覚を提供している
  生きた意識であると、
  語り続けている。
  さらにあなたは
  顕現の中でのみ意識であるにすぎず、
  しかし実際は、
  あなたは意識以前に存在するものである
  とも語り続けている。
  つまり、
  あなたは純粋な気づきなのだ」

 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p269)
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──────────────────

>  あなた方は霊性の幼稚園児ではない。
>  あなたは自分がまるで
>  現象的対象物であるかのように考え
>  話すのを止めなければならないと、
>  私は言い続けている。

【自分がまるで

 現象的対象物であるかのように考え

 話すのを止めなければならない】

いい加減に

礼儀のようにつづけている

習慣的な個人への一体化を

やめなければならない。

>  あなたは現象的対象物ではなく、
>  意識そのもの、
>  感覚ある存在に感覚を提供している
>  生きた意識であると、
>  語り続けている。

睡眠中の夢の中の登場人物に、

その夢の中の現象的対象物を

知覚する能力がないように、

この日常の世界の中の現象的対象物にも

現象的対象物を知覚する能力はない。

現象的対象物を知覚しているのは

感覚ある存在に感覚を提供している

生きた意識、

つまりあなたなのだ。

──────────────────
 「すべての肉体である単なる対象物、
  見かけが、
  独立した実体として
  何かの行為をおこなうことは
  不可能なことを理解するのは、
  非常に単純なことではないだろうか?
  個人的意識が
  その全機能において自分自身を対象化し、
  それぞれの対象物と一体化するとき、
  初めて
  個人的『私』という観念が生まれる。
  この観念が『束縛』の源泉であり、
  純粋な主体性である『私』を
  対象的『自分』として対象化する。
  想像的束縛とはこの『自分』、
  『私』観念ないしエゴであり、
  そこから解放が求められているのだ。

 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p268-269)
──────────────────

> 「すべての肉体である単なる対象物、
>  見かけが、
>  独立した実体として
>  何かの行為をおこなうことは
>  不可能なことを理解するのは、
>  非常に単純なことではないだろうか?

映画の中の登場人物が

実際に独立した実体として

自らの意志で行為するなどありえないと

理解するのは難しいことだろうか?

>  個人的意識が
>  その全機能において自分自身を対象化し、
>  それぞれの対象物と一体化するとき、
>  初めて
>  個人的『私』という観念が生まれる。

生きた意識であるあなたが

感覚ある存在に感覚を提供して

見る者と見られる夢の舞台への

機能的分裂を演じているのだ。

>  この観念が『束縛』の源泉であり、
>  純粋な主体性である『私』を
>  対象的『自分』として対象化する。
>  想像的束縛とはこの『自分』、
>  『私』観念ないしエゴであり、
>  そこから解放が求められているのだ。

そしてその夢の舞台で

純粋な主体性である『私』を

対象的『自分』として対象化するなかで、

この『自分』という観念による

想像的束縛の自縄自縛に陥ったのだ。

──────────────────
 目覚めないし悟り、解放は、
 私たちの本質
 ──今−ここに−あるもの──は、
 想像可能な、あるいは、
 認識可能なものの絶対的不在である。
 つまりそれは、
 不可知な潜在可能性の絶対的存在と
 同じであることを
 直感的に深く理解することに他ならない」

 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p269)
──────────────────

> 目覚めないし悟り、解放は、
> 私たちの本質
> ──今−ここに−あるもの──は、
> 想像可能な、あるいは、
> 認識可能なものの絶対的不在である。

あなたが求めている解放とは、

実際に

【今−ここに−あるもの】で在ることだ。

それは、

あなたが観念化という夢の中で

想像したもの、認識したものを

すべて手放すことだ。

すなわち、

想像可能なもの、

あるいは認識可能なものの

絶対的不在である。

> つまりそれは、
> 不可知な潜在可能性の絶対的存在と
> 同じであることを
> 直感的に深く理解することに他ならない」

つまりそれは、

観念化という夢の中で

何かを掴めるという妄想の絶対不可能性を

直感的に深く理解することだ。

──────────────────
 理解されていないのは、
 転換を直接意図的に引き起こした
 実体は存在しえないことだ!
 実際まさにこの事実の
 (個人によるのでない)直感的理解が
 探求者である『あなた』の
 本質的消滅をもたらし、
 ある種の真空状態、
 マインドの『断食』を達成する。
 そして、
 その状態が本当の『あなた』
 (『自分』ではない『私』)である
 存在を招くのだ。
 こうやって変容的適応が
 起こるかやってくるが、
 それは達成されることはできない」

 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p269-270)
──────────────────

> 理解されていないのは、
> 転換を直接意図的に引き起こした
> 実体は存在しえないことだ!

夢の中の登場人物の“自分”に

できることは何もないという理解が、

夢の中の“あなた”にまで

直感的に浸透してくることなのだ。

> 実際まさにこの事実の
> (個人によるのでない)直感的理解が
> 探求者である『あなた』の
> 本質的消滅をもたらし、
> ある種の真空状態、
> マインドの『断食』を達成する。

この“あなた”の努力によるのではない

直感的理解が、

探求者である『あなた』の

本質的消滅をもたらし、

ある種の真空状態、

マインドの『断食』を達成する。

> そして、
> その状態が本当の『あなた』
> (『自分』ではない『私』)である
> 存在を招くのだ。
> こうやって変容的適応が
> 起こるかやってくるが、
> それは達成されることはできない」

このような変容的適応は

“あなた”が達成できるものではない。

──────────────────
 「だから、
  次のことをよく理解しなさい。
  対象物とそれらのグナ(属性)は
  主体ではなく、
  感覚によって認識され、
  マインドによって解釈される物であり、
  人間を含むすべての対象物は
  意識の中の単なる見かけである。
  そして最後に、
  それゆえ、
  対象物が解放されることはできないし、
  また解放される必要もない」

 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p270)
──────────────────

だから、

あなたが知ることができる

知覚の対象物とその属性は、

あなたが想像するような

主体ではありえない。

それは感覚による認識物、

マインドによる解釈以外ではありえない。

人間を含むすべての対象物は

意識の中の単なる見かけだ。

それゆえ、

“あなた”という対象物の

解放はありえない。

また解放される必要もない。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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pariはたしかに馴染んだ

同一化の対象物ですが、

いつまでもどこまでも

礼儀としてこの同一化を

続けなければならない

というものでもありません。

マハラジへの感謝を込めて

pariへの同一化は

言葉の上でもやめるべきかもしれません。

暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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