home > 通信 >映画の登場人物の画像部分:『アセンション館通信』第882号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2021/03/14(第882号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショー生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。現在509名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.映画の登場人物の画像部分

2.編集後記
──────────────────

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■ 1.映画の登場人物の画像部分
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昨夜来の雨が降りつづけていて、

目の前のサンデッキは水に濡れ、

前方、庭からつづく冬枯れの光景も

天霧の中に滲んでいます。

相変わらず飽きもせずに

恵まれた状況を夢見つづけています。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariへの

一体化が緩みはじめている意識です。

先週の記事「pariへの一体化の礼儀」に

Kubo Y さまとおっしゃる方から

個人メールをいただきました。

『アセ通』の反応をいだだけるなど

久しぶりのことなのでとても嬉しく、

ご本人からの許可も得て、

今回の話題に使わせていただきます。

と言っても、

何かをお答えするというようなことではなく、

言葉を紡ぐためのエネルギーをいただく感じです。

件名:【pariへの一体化の礼儀】
──────────────────
 「pariへの一体化の礼儀」を読ませていただきました。
 ありがとうございました。
 この内容は先日わたしがメールしました質問に
 ある程度答えてくださっているように思われました。
 
 そもそもなぜあのような質問をしたかというと、
 そのベースにはヴェーダンダから仏教、
 そしていわゆるスピリチュアルの教えの大半で
 またpari様が毎回毎回、
 執拗におっしゃっておられる、
 一言で言ってしまえば
 「この世は夢だ。幻想に過ぎない。」という内容が
 今一つしっくりこなかったことにあります。
 
 (余談ですが、
  確か「この世には多くの不幸な現実がある。
  この状況を幻想だと言って
  悟ったふりしてただ眺めていていいのか?」
  というような質問に対し、
  マハラジが
  必要だと思ったら助けたらいいじゃないか
  というような返答をしたのを覚えています。
  この時、
  キリスト教的な思想背景のあった私は
  随分素っ気ないなという印象を持ちました。)
  
 ここでわたしはこう考えたくなりました。
 この世は確かに幻想であるに違いない。
 嘘っぱちであるといってもよい。
 ここに実体はなく、真実もない。
 それは認める。
 では真実は、実体はどこにあるのか?
 もしかすると何らかの境地に達すれば、
 つまり悟りの境地に至れば、
 この真実、実体、
 所謂「真我」が掴めるかもしれない。
 そう思ってずっと探していたわけです。
 しかし60歳を越えてもそれは見つからず、
 未だその境地に至っていません。
 ここでpari様はこうおっしゃる。
 
 「このわたしという肉体精神機構は
 「個人」という“主体的存在”と見なされている。
 しかし実際は、
 わたしという肉体精神機構は、
 この日常の現象世界の中で
 (他者という)別の「個人」の知覚対象物となる
 【見かけ】の中での現象単位にすぎない。」と。
 
 私にとっての他者が対象であるならば、
 他者にとっての私も対象であることは明らかであり、
 「知覚の対象物は主体ではありえない。」
 
 幻想にすぎないこの世のすべてが無くなれば、
 わたしという観察の主体も消えてしまうということ。
 これと同時に
 悟りの境地だとか「真我」だとかいう掴めそうな何かも
 吹っ飛んでしまうということに気が付きました。 
 
 そしてしばらくして、突然反転がおきました。
 この世のどれもこれもが幻想であり、
 そして死んでも残るこの世とは
 隔絶した「自分」という主体も
 実はこの世の観察対象である他のものと同じ
 幻想であるのならば、
 逆に私自身を含め、
 目の前にあるこのすべてのものは
 「聖なる現実(ジョーン・トリフソンの言い方)」
 なのではないかということです。
 別な言い方をすれば、
 この目の前にあるもの以外には何もないということです。
 どこかに、
 素晴らしい真実の世界(天国?境地?)が
 あるわけではないということです。
 この直感的な反転は、
 不思議にサバサバして、心地よいものでした。
──────────────────

Kubo Y さん

メールありがとうございました。

そしてここで話題として取り上げることを

許可してくださり感謝しています。

たとえモノローグではあっても、

自己幻想の域内にある観念としては

何かの反応をいただけることはとても嬉しいです。

またつかの間の観念の喜びを

元気よく味わえそうです。(*^_^*)

> 「pariへの一体化の礼儀」を読ませていただきました。
> ありがとうございました。
> この内容は先日わたしがメールしました質問に
> ある程度答えてくださっているように思われました。

それは良かったです。(^^)/

時代物のサイトを再掲載できて、

「随想」タブのなかの
https://www.ascensionkan.com/view/

「生きなければならない」
https://www.ascensionkan.com/view/must_live.html

という文章を読んでいただいたんでしたね。

そしてその中で

「しかし、肉体の“死”によって、
 
 私たちの「世界」が消えることはないだろう。」

と書いていたことに対する違和感というか

コメントをいただいたんでしたね。

あれを書いたころ(2001.5/15)は

高木善之さんの『転生と地球』
https://www.ascensionkan.com/books/tensei.html

の印象が強く残っていて

死と臨死体験の区別もついていなかったようです。

今から20年ほど間ですが随分違うものですね。

> そもそもなぜあのような質問をしたかというと、
> そのベースにはヴェーダンダから仏教、
> そしていわゆるスピリチュアルの教えの大半で
> またpari様が毎回毎回、
> 執拗におっしゃっておられる、
> 一言で言ってしまえば
> 「この世は夢だ。幻想に過ぎない。」という内容が
> 今一つしっくりこなかったことにあります。

そうだったんですね。

> (余談ですが、
>  確か「この世には多くの不幸な現実がある。
>  この状況を幻想だと言って
>  悟ったふりしてただ眺めていていいのか?」
>  というような質問に対し、
>  マハラジが
>  必要だと思ったら助けたらいいじゃないか
>  というような返答をしたのを覚えています。

そうでしたか。

マハラジの言葉がだいぶ別のニュアンスに

色づけされているように感じますが、

さて、どんな言葉だったんでしょうね。

>  この時、
>  キリスト教的な思想背景のあった私は
>  随分素っ気ないなという印象を持ちました。)

そうですよね。

もしそのように聞こえたのなら、

そう感じることになったでしょうね。

ちょっと探してみましたが、

ここだなとはっきりわかる文脈は

見つかりませんでした。

たとえば、こんな言葉だったのでしょうか……。

【もちろん、
 もしあなたが誰かを助ける機会があるなら、
 ぜひそうしなさい。】

もしこの言葉だったのなら、

こんな文脈で現れてくるようです。

──────────────────
 質問者 どうして、インドの師たちは
     無為を唱道するのでしょうか?
 
 マハラジ
 ほとんどの人びとの行為は、
 あからさまに破壊的でないにしても、
 無価値なのだ。
 欲望と恐れに支配され、
 彼らは何も適切なことができない。
 悪を為さないことが善をはじめることに先立つ。
 それゆえ、
 すべての活動をひとまず止める必要があるのだ。
 人の衝動とその動機を調べ、
 人生のなかでそれらはみな偽りであることを見て、
 あらゆる悪のマインドを清浄にし、
 その上でようやく
 自分の明白な義務から仕事を再開するのだ。
【もちろん、
 もしあなたが誰かを助ける機会があるなら、
 ぜひそうしなさい。】
 それも敏速にしなさい。
 あなたが完全になるまで彼を待たせる必要はない。
 だが、善行を職業にしてはいけない。
 
 『私は在る』(p362-363)
──────────────────

マハラジが

どういうことを言っているのかは

こうして読めばわかる感じですよね。

あるいは素っ気ない印象を受けたのは

こんな言葉だったのでしょうか?

【もちろん世界を救うがいい。
 たいしたことができなくとも、
 その努力はあなたを成長させるだろう。】

それならこんな文脈の中に

現れるようですね。

──────────────────
 質問者 私が完成に達するまで、
     世界を救うことは
     待ったほうがよいのでしょうか?
 
 マハラジ
【もちろん世界を救うがいい。
 たいしたことができなくとも、
 その努力はあなたを成長させるだろう。】
 世界を助けることに、
 何も間違ったことはない。
 
 質問者 確かに、普通の人で
     偉大な援助を行った人びとがいました。
 
 マハラジ
 世界が助けられるべきときが来たとき、
 偉大な変化をもたらすための
 意志と智慧と力が、
 何人かの人びとに与えられるのだ。
 
 『私は在る』(p176-177)
──────────────────

たしかに、

もしキリスト教的な背景の方が読んだとしたら

素っ気ない印象の言葉ではありますね。

しかも、

> 世界を助けることに、
> 何も間違ったことはない。

ですからね。(*^_^*)

言葉に託されたメッセージが

伝わるというのは難しいことですよね。

> ここでわたしはこう考えたくなりました。
> この世は確かに幻想であるに違いない。
> 嘘っぱちであるといってもよい。
> ここに実体はなく、真実もない。
> それは認める。
> では真実は、実体はどこにあるのか?
> もしかすると何らかの境地に達すれば、
> つまり悟りの境地に至れば、
> この真実、実体、
> 所謂「真我」が掴めるかもしれない。
> そう思ってずっと探していたわけです。

そうだったんですね。

> しかし60歳を越えてもそれは見つからず、
> 未だその境地に至っていません。

マハラジふうの表現では

知覚の対象物である夢の登場人物が

どこかに至れる可能性はないのでしょうし。

また別の言い方では、

【真実・実体】とはそれを求めている意識そのもの

ということになるのでしょうね。

> ここでpari様はこうおっしゃる。
> 
> 「このわたしという肉体精神機構は
> 「個人」という“主体的存在”と見なされている。
> しかし実際は、
> わたしという肉体精神機構は、
> この日常の現象世界の中で
> (他者という)別の「個人」の知覚対象物となる
> 【見かけ】の中での現象単位にすぎない。」と。

こういう表現はすべてpariの表現ではなく

マハラジの言葉の単なる復唱です。

ただ内容は納得するしかないですよね。

> 私にとっての他者が対象であるならば、
> 他者にとっての私も対象であることは明らかであり、
> 「知覚の対象物は主体ではありえない。」

この文脈は

マハラジの方便のなかでもとても重要な

最初の取っ掛かりだと思います。

エゴという「主体」の詐称者は、

論理と称して、ああ言えばこう言うたぐいの

“責任転嫁”と“変わり身の術”の名人です。

でも、

「主体」という架空の概念を拠り所にしているので、

【「知覚の対象物」は「主体」ではありえない】

というこの一点を突きつけられると、

自分の拠り所の概念自体には反対できません。

マハラジの方便では、

この「対象物」と「主体」の間の架空の間隙に

大バールの尖端を入れて

そこをグイグイ広げるわけです。

誰がどう考えても(エゴとしては)、

【「他者」は「自分」ではない】を

論理として否定できません。

【「他者」≠「自分」】

という分離幻想によって論理武装し

架空の束縛を想像しているわけですから。

もちろん、

こういう思考操作に反応するタイプの

探求者はという意味ですが。(^_-)

そして

【「他者」は「自分」ではない】のなら、

【「知覚の対象物」は「主体」ではありえない】を

これまた否定できません。

もちろん、

こういうものはすべて架空の概念です。

ですが言葉が展開する論理の枠組みの中で

迷子になっているある種の探求者には、

結び目を解く糸の端緒になりえます。

> 幻想にすぎないこの世のすべてが無くなれば、
> わたしという観察の主体も消えてしまうということ。
> これと同時に
> 悟りの境地だとか「真我」だとかいう掴めそうな何かも
> 吹っ飛んでしまうということに気が付きました。 

なるほど。

> そしてしばらくして、突然反転がおきました。
> この世のどれもこれもが幻想であり、
> そして死んでも残るこの世とは
> 隔絶した「自分」という主体も
> 実はこの世の観察対象である他のものと同じ
> 幻想であるのならば、
> 逆に私自身を含め、
> 目の前にあるこのすべてのものは
> 「聖なる現実(ジョーン・トリフソンの言い方)」
> なのではないかということです。

ジョーン・トリフソン、いいですよね。(^^)/

> 別な言い方をすれば、
> この目の前にあるもの以外には何もないということです。
> どこかに、
> 素晴らしい真実の世界(天国?境地?)が
> あるわけではないということです。
> この直感的な反転は、
> 不思議にサバサバして、心地よいものでした。

良かったです。(^^)/

そのような Kubo Y さんのプロセスに

この『アセ通』の記事も織り込まれていたのなら

ありがたいことです。(-||-)

現象はすべて

時空という概念装置の中にしかありえず、

現象はすべて観念的なものだ、

というのがマハラジのメッセージですよね。

こうしてメールを引用させていただいて、

記事を書くエネルギーにさせて

もらおうと思いました。

以前は確かに

湧いてくる思考を“自分”の考えと

思うことができたんですけどね。

そういうことが少しづつ

起こりにくくなっているのかな。

pariの表現(という幻想)は

pariという個性エネルギーの存在を

信じることで生き延びています。

その意味では、

pariというエゴの表現(探求)は

どこまで行ってもエゴの防衛戦

でしかありえないでしょうね。

たとえば、端的な話、

このモニター上に現れてくる表現に

興味をもっているのは誰でしょうか?

pariでしょうか?

pariならたしかに

pariの現存を信じ、

pariでありつづけたいでしょう。

しかし、

『アセ通』を書くというこの行為は

pariの延命を目的とした行為なのか?

それともpariの振る舞いを映し出しながら、

pariが観念としてしか存在しないことを

理解しようとしている行為なのか?

知覚の対象物であるpariという観念が、

pariの非存在を納得したい

などということが

ありうると思いますか?

しかしまた、

「私」、あるいは真我が

このモニター上に現れてくる表現に

興味をもつとことがありうるでしょうか?

いや、それはありえない。(@_@)

鏡は現れたものをただ映し出すだけです。

鏡が鏡像に興味をもったら、

鏡であることをやめなければならない。

「鏡像に興味をもつべきか
 
 もたざるべきか、
 
 それが問題だ」(-_-;)

などと悩む鏡はありえない。(*^_^*)

前から、というか

むかし埴谷雄高さんに

「興味」という言葉の重要性を教わってから、

折に触れてふと

「興味」という言葉が

気になる瞬間がありました。

言葉や論理に「興味」が向かっている間は、

それはテレビの娯楽番組を見ながら

漫然と時を過ごすのと違わないのでしょう。

マハラジはこう言います。

──────────────────
 解放への道には何も立ちはだかっていない。
 そしそしてそれは今ここで起こることができる。
 だが、
 あなたはほかのことにもっと興味がある。
 そしてあなたは
 その興味と闘うことはできないのだ。
 あなたはそれとともに行き、
 それを見抜き、
 それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
 それ自体が自ら暴くのを
 見守らなければならないのだ。
 
 『私は在る』(p475)
──────────────────

> 解放への道には何も立ちはだかっていない。
> そしそしてそれは今ここで起こることができる。
> だが、
> あなたはほかのことにもっと興味がある。

(*-_-*)

> そしてあなたは
> その興味と闘うことはできないのだ。

(-_-)

> あなたはそれとともに行き、
> それを見抜き、
> それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
> それ自体が自ら暴くのを
> 見守らなければならないのだ。

(-||-)

……。

すべてが自然現象なのでしょうね。

何かを求めるということ……。

何かが満たされていないと想像すること。

他に何かが在ると想像すること。

これが分離した自己という

分離幻想が必然的に呼び起こす

マインドの遊び、

リーラというものなのでしょう。

そしてその遊びに飽きていないうちは、

新たな観念を呼び起こしては、

その観念と戯れるしか

やりようはないのでしょうね。

では誰が、

あるいは何がそれをやっているのか?

われわれはもちろん、

“自分”がそれをやっていると思います。

ではその“自分”とは何なのかを

子細に問いただすなら、

きっとこの身体が“自分”だという

常識的判断が返ってくるでしょう。

なにしろ

この肉体の誕生以来、

それだけを教わってきたわけですから。

だから、ある意味では、

この肉体が“自分”であることは

間違いないとも言えます。

しかし、一方、

われわれはマハラジに

この肉体というのは

意識が見ている見かけの中の

単なる現象単位にすぎないことを

教わっています。

──────────────────
 「言い換えるなら、
  肉体付き意識は現象的単位であり、
  それは5大元素
  (空間、空気、火、水、土)と
  三つの属性
  (サットヴァ、ラジャス、タマス)から
  自然に創造されたものである」
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p326)
 https://amzn.to/2J4Pbtr
──────────────────

映画館のスクリーンに映し出された

映画の中の

ある【登場人物の部分の画像】が、

その映画が展開するドラマの中で

独自の判断と行動を生み出しながら

その物語の展開を独自に牽引している

とは誰も思ってはいない。

映画の【登場人物の画像部分】が

分離主体だと想像する観客はいません。

それでも

観客はそこで展開される物語に

感情移入することはできるし、

その登場人物と一緒に動揺し

あるいは感動することもできます。

それこそがわれわれが求めている

娯楽というものですよね。

そして現実に起こっていることは、

まさにそのことであるらしい。

マハラジがいう

【見かけ】の中での現象単位とは、

まさに映画の中の

【ある登場人物を表す画像部分】のことです。

われわれは肉体の誕生以来、

鏡の中に映し出された

【ある登場人物を表す画像部分】を、

「これがあなたよ」と

と教わってきたわけです。

いちどそう教わって以来、

ズーッと

その“自分”という分離した主体部分を

三次元的により詳細に再確認する作業を

ヨガ行者のように続けてきたわけです。

では【誰が】、

あるいは【何が】それをやっているのか?

その三次元的肉体精神機構が、

それをやっているのか?(?_?)

もしそうなら、

それは言いも直さず、

感覚的知覚機能と概念的想像機能を備えた

【ある登場人物を表す画像部分】の

三次元バージョンである道具が

それをやっていることになる。

いや、それは道具です。

単なる知覚対象の一部です。

見かけの中の一つの現象単位、

単なる対象物です。

マハラジに教わったことは、

そういうことですよね。

ならば自由を求めているのは誰なのか?

何が解放を求めているのか?

解放を求めているのは、

もともと見かけの中の現象単位にすぎない

この肉体精神機構ではありません。

この肉体精神機構は

束縛というドラマを演出する道具ですから。

ミナミAアシュタール的表現で言うなら、

超高性能の3DVR(三次元仮想現実)

視聴ゴーグルです。

この道具は解放を求めてもいなければ

解放される必要もありません。

では、

では【誰が】、

あるいは【何が】解放を求めているのか?

もちろん、

あなたです。

絶対の主体性。

あらゆる定義を拒む「私」。

何者でもありえない「私」。

無限の潜在可能性である「私」。

顕現が起こる前から存在している、

顕現が消えた後にも存在している、

唯一の実在です。

無です。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/

   ………○…………○…………○………


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http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

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   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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だんだん、

誰が言っているのか

わからないようなことを

書いています。

断食が起こるまで。

暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
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──────────────────

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